トップ > コラム&ノート > 615の幻の日記 > 牙は磨ぎつつも牙を治めるものとして、

「牙を磨ぎつつもその牙を治めるものとして、 」
少林寺拳法技法の変革 http://sports7.2ch.net/test/read.cgi/budou/1097403809/ に下のように書いた。
830 名前:615期生 ◆1WOpAbkgRc [sage] 投稿日:05/03/11 14:50:12 ID:7HCqa8Re
世間の少林寺拳法に対する評価はあくまで武道団体でしょう。
入門する人は少なからず強くなることを望んでいるのではないでしょうか。
壮年・女性・子供、たとえ最強は目指していなくてもせめて自分の身くらいは、、、
それくらいの強さは欲しいという思いが必ずあると思います。

しかし多くの拳士は昇格を急かされ、技も形だけ、思想も知らない、
気がついてみれば黒帯になっていたけど、自分がどれくらいの強さなのか、
どれくらいの弱さなのかの実力もわからない。
自信がもてない人もいれば、疑いを持たない危険な人もいる現状。

開祖は会った事がないからわかんないけど、少林寺拳法てのは、
牙を抜くためにあるんじゃなくて、牙を磨ぎつつもその牙を治めるものとして、
作ったんでないかな、と信じてる。
抜いちゃったら治める必要もないから、本末転倒?とすら言えるのかも。

どうすりゃいいんだろ。

んで、ちょっと参照。
武士道は刀をその力と武勇の象徴とした。
(中略)
  この「武門入り」の最初の儀式がとり行われると、もはやこの身分の象徴をたずさえることなく、その子が屋敷外にの出かける姿を目にすることはありえない。だが普段は、たいていの場合、銀塗りの木刀で代用していた。ほどなくその子は、鈍刀ではあっても本物の刀を差すようになる。擬刀は捨てられ、新しく手にすることとなった刀の刃よりも鋭い喜びを手にして外へ飛びだし、あたりの木や石を相手にその切れ味を試してみる。十五歳で元服し、独りだちの行動を許されると、彼はいまやどんな時にも役にたちうる鋭利な武器を所持することに誇りを感ずる。危険な武器をもつことは、一面、彼に自尊心や責任感をいだかせる。
(後略)
新渡戸稲造『武士道』  第十三章「刀」

2005/03/12
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