|
|
あんま知られて無いことですがー(?)、と言うか私も知らなかった時期が長かったんですけどね、、、金剛禪では鎮魂行の時には本来「般若心経」を唱えます、瞑目の時ですマジです。般若心経といきなり言われても困るので、まずは貼っときます。読み飛ばしてもいいですよ。長いし。
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩、深般若波羅蜜多行ずる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう。舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即わち是れ色。受・想・行・識も亦復かくの如し。舎利子よ、是の諸法の空相は、不生にして不滅、不垢にして不浄、不増にして不減なり。是の故に空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意も無く、色・声・香・味・触・法も無く、眼界も無く、乃至、意識界も無し。無明も無く、また無明の尽くることも無く、乃至、老死も無く、また老死の尽きることも無し。苦・集・滅・道も無く、また智も無く、得も無し。無所得なるを以っての故に、菩提薩垂、般若波羅蜜多に依るが故に、心に圭礙無し、圭礙無きが故に、恐怖ある事なし。一切の顛倒夢想を遠離して、究竟涅槃す。三世の諸仏も、般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまう。故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なり、是れ大明呪なり、是れ無上呪なり、是れ無等等呪なり、能く一切の苦を除く、真実にして虚しからず。故に般若波羅蜜多の呪を説かん。
即ち呪を説いて曰く。
掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶。般若心経 |
般若心経は短い経典なんですが、短いが故に説明しだすと長くなるという不思議、、噛めば噛むほど味がでる厄介なお経です。 私はそんなに深く知らないし、やたらと詳しく勉強してらんないしー、詳しくは自習してちょ!!
まず〜
般若心経の基礎知識
- 長いし、、、と言ったが、たった300文字あまりの短い経典である。響きもなんか結構美しい♪
- だからとっても覚えやすい。読むのに時間もかからない。という私向きのお経。
- 禅宗で特によく読まれるが、禅宗以外でも様々な宗派が読んでいる。葬式でもよく聞く。
- 漢訳と訓読みがある。訓読みは本や宗派によってちょっとずつ異なる。上のは金剛禪採用の訓読み。
- 最後の一行が真言であり、その前はずーと世界をどう観てるかてことが書いてある。
ほんと、「あれも無いしこれも無い、こんなもんも無いしあんなもんも無い」ばっかり言うてるんです。短いお経のくせにクドクドと同じ「無」を繰り返しおって…と思ってしまう。いろいろ言うてますが真言は最後の一行。今回はここんに注目します。
般若心経には、「あれも無いし、これも無い。それも無いし、なーんも無い。でも般若心経だけはガチ!!」 みたいなことが書いてあります。色即是空 空即是色、心無?礙なんてのは超有名で掛け軸などに好まれるフレーズです。2ちゃんにも般若心経関連のスレッドは沢山ありますが、眺めてみると主に空の思想だとか悟りの解釈についての議論のみである。掲諦という部分にはまったくと言っていいほど関心が示されていないというところにある種の面白さを感じます。
般若心経は嫌われてる?
どうも現在の少林寺界では般若心経が嫌われているらしい? と、これまた無責任な噂ですけど。「唱えれば功徳がある」というスタンスが嫌われ気味らしい。確かにこのように解説する本は多い。「図解解説」の般若心経の本も表表紙からしてそう書いてるw |
|
>> |
|
うむ、唱えただけで、ウハウハ( ^∀^) というのは金剛禪とはいえない。でもよー本当にそういう意味なのかな〜とは私は思う。まぁいろんな宗派・学派があるのも仏教の特徴やし、そういう解釈のところもあるでしょう。でも少なくとも金剛禪はそうは取らない!!はず。
さて真言ですが、「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶 般若心経」 |
|
ぎゃーてー・ぎゃーてー・はらぎゃーてー・はらso!ぎゃーてー・ぼぢそわかぁ〜・はんにゃしんぎょー |
と読む。私は以下の解釈がしっくりきました。人によって解釈が異なるので、どんどん突っ込まれそうだが私は気にしない。一応、嘘はついて無いつもり。ホントね、掲諦てのは、仏教の一番大切なことだと思います。「これなくして仏教と言えるか!!!」「これだけは絶対忘れるな!!!」というくらい大切な大切な大切ぅぅ〜なことなのだと思います。
|
|
|
|
掲諦
掲諦
波羅掲諦
波羅僧掲諦
菩提薩婆訶 |
行こう
行こう
がっつり行こう
皆で行こう !!
あぁ、なんてステキ!! 幸あれ。 |
|
|
|
|
あんまり訳さないほうがいいのかもしれないがまったく何も触らないと本当になに言ってるか分からない。世間的にだいたいこんな訳のはず。この「行こう」てのは「往こう」と書くときもあるし「渡ろう」と解釈される時もあります。んでだ、「( ゚Д゚)ハァ? どこ行くねん!!」なわけだな。悟りの境地、涅槃・彼岸へ行こうという意味です。
ここで言う「行こう行こう」とは、「行じろ、行じろ!!!」という意味であります。だって少林寺拳法て金剛禪に伝承する「宗門の行」て教えているはずです。そして「行じろ」でもちょっと分かりづらい。もう少し平たく言うたら「行こう行こう」は「行動しろ、行動しろ!!」であり、つまり「実践しろ、実践しろ!!!」ということであります。
つまり、仏教徒にとって最も大切なこと、それは「実践すること」なんだと考えます。雨の日も風の日も暑さの日にも寒さの火にも、絶え間なく絶え間なく、今この時に、毎日毎日コツコツと実践すること、これが大切だと言われているのだと思います。こんなオチなんだな、般若心経、そして仏教。実践すること、これが仏教の教えの要諦。
あれも無いしこれも無い〜な〜んも無いけど、般若心経だけはガチ!!! いろいろな本やサイトを見ていると般若とは、最高の智慧、最高の悟り、仏教最大の悟り、仏教の最大目標だ、究極真理、無比の大真言なんて書かれてます。私は、フンフンほんとにそうだよね〜と思います。仏教で一番大切なことは「掲諦掲諦」だわな。「己こそ己の寄るべ」よ。仏教徒、、、て一まとめにしたら怒られるかな、金剛禪門徒としてもっとも大切なことも「掲諦掲諦」これだと思います。
参考 ウィキペディア「般若心経」
- マターリハニャーン心経 (2ちゃんで拾ってきた)
(・∀・)が修行によって深い智慧を完成した時、物体や精神には実体がなくヌルポであると悟り、
すべての(゜∀゜)アヒャアヒャや(゜д゜)ゴルァに(・∀・)カエレと言うができた。
とにかくみんなヌルポなにょな。
そう思えばorzも何もないにょだYO!
物体は実体のないものなにょ、実体がないのが物体なにょな感覚や意識といったことも同じなにょな(-_-)
みーんな実体がないわけだから、生まれもしない滅びもしないにょ、汚くもならない浄くもならないにょ、増えもしない減りもしないにょ、
精神や感覚もないにょ、
(-_-)目に映る世界もなければ、意識に映る世界もないYO!
(-_-)ヌルポをガッするものもなく、ヌルポを促すものもないにょ。
老いも氏もないし、老いや氏がなくなることもないにょ。
orzの原因もなければ、orzを解決する方法もないにょ。
ヌルポの完成によって、すべてにこだわりが無くなるにょ、こだわりが無いから怖いものナシだにょ。
誤った妄想からはなれて 究極キタ---ヽ(゜∀゜)ノ---!!! 静寂の境地 キタ---ヽ(゜∀゜)ノ---!!!となるにょ。
過去・現在・未来の(・∀・)も、この深いヌルポの完成によってこのうえなく優れた境地となったにょ。
この深いヌルポこそが、比類なく最上の、すべてを明らかにする真理の呪文であるにょ。
これには釣りではなく、本当にすべてのorzを除くにょ。
ここに、この深いヌルポの呪文を示そう。じゃあ唱えるぞ。
「逝ってよし、逝ってよし、もまいらみんな逝ってよし。漏れもなー」
ハニャーン心経
- ハニャーン心経 (また拾ってきた)
とにかくみんな空(クウ)なにょな。
そう思えばつらいことも何もないにょだYO!
モノが在ると思ってもその実体は無いわけだし、実体が無いようなモノも在るように見えるものだにょ。感覚知覚するのもそういうもにょなの。
とにかくモノ・感覚・知覚、みーんな実体がないわけだから、
生まれもしない滅びもしない、汚くもならない浄くもならない、増えもしない減りもしない、当たり前の話だゴルァ。
実体がなく変化も無いんだから、縁起なんて表面的なこと、実体など無いわけでして、無明がどうとか老死がどうとか、もう言うだけ無駄。
悟りとか悟りを得るってことも無かったわけだ。
こう思えば何にも考えなくてすむし、考えないから怖いものナシ。
考え違いもないからもう究極だあーヽ(゚∀゚)ノアヒャ 。
ブッダというのはみーんなこんな風な修行をしたわけで(ホントか)、それで究極の悟りを得たと(なんだ結局得たのかよ)。
まー智慧の修行ってこういうわけのワカランものだから、もまえら愚民たちは最強のマントラとしてこのお経を繰り返し唱えるぐらいが関の山ってわけだ。
じゃあ唱えるぞ。
「逝ってよし、逝ってよし、もまえらみんな逝ってよし。漏れもなー」
ハニャーン心経
- 「いく」という単語はそもそも面白い。オーガズムの時、日本語では「いく(逝く)」だが、英語では「come
on」だ。オーガズムは一種のトランス状態だから、ある意味神人合一の瞬間である。祈る時に天を見上げるキリスト教徒徒うつむく仏教徒。般若心経でも、「掲諦」を「来たよ」と約している場合がある。まぁそれほど多様な訳があるということです。
- 頭の「観自在」てのは、なんと一発変換される単語だ!! 如是我聞、観自在てのはとてーも怖い言葉です。「見る」ではなく「観る」。「自由」ではなく「自在」なんです。
- 掲諦は羯諦とも書かれるのですが、どう違うのかはしらにゃーい。どっちもよく見ます。
- 上のほうで「最高の教え」「最高」とか言ちゃったけどこれは間違いで、般若心経は無上呪てことになってるんだな。「無上呪」というのが上が無いという意味。「最高」としてしまうと、上限を作ってしまうことになる。無上呪てのは上限すらないひたすら上〜の上〜の上なのよ〜ん、て言ってるわけ。ベストは嫌よ、ベターなの♪
みたいなもんです。おまけに「無等等々」で並ぶものすら無し*2!! 真実にして虚しからず!!
もう持ち上げまくり般若心経。
- 私は般若心経の本を手にとるとまず「羯諦」をどのように書いているかを見る。ネットでも同様。たいていは、、、岩波の訳はよろしく無いとか、〜の説は正しく無いとかそういった文言からこの手の節は始まります。うんざりです。どうでもいいっす。それが言語的に正しくても私にはさほど関係が無い。
- 「ぎゃーてー」てのは、別に「がーてー」でもよいのです。パソコンとしてはこっちの方が入力楽だしな。この掲諦〜だが漢字には特に意味は無いんです。というのもこれは音訳なのれす。つまり漢字は当て字。最近で言えば、「愛羅武勇あいらぶゆう」とか「夜露死苦よろしく」が音訳の例だな。とうわけであんまり漢字は気にしなくていいです。
- かといって唱えただけでok!!とする宗派もあります。正直なところ私は昔はこういう教えを白い目で見ていました。ところがある日、深夜にテレビを見ていると、東京大空襲番組を放送しておりまして、その番組の中の証言として「防空壕の中で南無阿弥陀仏を聞いた」とありました。何度も何度も唱え続けていたというのです。空から落ちてくる焼夷弾に対して人間はあまりに無力です。そのような場におれば私も念仏を唱えたかもしれません。また重い病気に罹ってた時などはどうでしょう。また過去の歴史においても、飢饉や戦争など一個人ではもう太刀打ちできない環境というものが幾度と有り、「唱えてるだけじゃ無駄」なんてことはとても言えないのでないかと思います。実践できるなら実践すべきですが実践できない局面もあり、そういうところから念仏というものが自然に生まれたのかもなーと思い、実践できると言うだけで幸せなのだと実感します。いや、念仏も実践の一つということなんですね。
- 念のためにこれだけは書いておきましょう。空≠無ですから、そこんとこよろしく。
|
このページ名は,「般若心経」です.ご意見・ご感想・
ご要望をお寄せ下さい.下の方法でお願いします. |
|
●掲示板に投稿してみる. |
|
●管理人「615期生」にメールする. |
|
●2ちゃんに通報する. |
|
|
おそらく上に行くほど返答が確実です.
|
|
|
|