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「技は気合でかけるのじゃ 」
【釣果は】少林寺スレの某コテを釣るスレ【大量?】http://sports7.2ch.net/test/read.cgi/budou/1117802468/
に下のように書いたっす。
21 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2005/06/04(土) 23:29:01 ID:Q/J10otA
>11
技を知ってて逃げられると、余程の人でも掛けられないですよね。
本部の壊し魔先生が、逆小手でどっかの道院の拳士に逃げられて
掛けられなかったとき、思い切り足掛けて肘打ちして投げ飛ばしたことがあった・・・。
腹立つ言動だったから、よほどムカついてたんだろう。
「僕は誰のでも掛からないんですよね〜」

法形=実践じゃないんだから・・・。

29 名前:615期生 ◆1WOpAbkgRc [sage] 投稿日:2005/06/05(日) 03:40:09 ID:1SlK4qde
>>21
この話の良し悪しはよくわかんないっす。 昔の話を聞くとこういうのはざらです。
例えば開祖の話では、体のでかい学生が開祖に、「その技かかるんですか〜!?」と聞いた。
新井先生が「だれに口聞いてんだ!!」と怒鳴って入る。周りは冷や冷や。
そしたら開祖が「掴んでみ」というから掴んだら煎餅返しかけられまくり。
でかい学生は合宿中ずっと手首が腫れてて「触るな!! これは館長にかけて頂いたんだ!!」と
誰にも触らせなかった。(触らせることが出来なかった)。聞いた話だけどね。

また三崎先生の指導中、学生が同様になめた口をきいた。
(中略)
で、隣にいた本山職員に「○○君、技はね、効かなきゃ意味無いんだよ」と言った。
その学生合宿終わるまで、宿で寝てました。これはその○○先生から聞いた話。
「技は効かなきゃ意味が無い」てのは当たり前のことだけど、三崎先生が言うと大変重く感じるから不思議。

まぁ今は昔ほどガチガチする時代ではないので、よくないのかもしれません。
でもかからない時に足払うとか肘とか、それらは当然だと思います。昔の
先生方は臨機応変でひぇ〜てことガンガンやりますからね。まま壊されたらたまらんのですが。

少林寺拳法界には様々有名な先生が各地にいらっしゃいますが、やはり三崎・中野両先生は別格だったと
とある先生が仰っていたのが印象的です。二人とも妥協が無かったとしみじみ仰っていました。
またあの二人は何度も技はかけないとも仰っていました。
よく見る「あっ、失敗。もう一度ね」というのはやらなかったと聞いてます。
護身に「もう一度」はない。だから絶対に一回でかけるつもりでやってとのこと。中途半端なことはしない。
指導する側が「もう一度ね」といえない事は、とても厳しい状況ですよね。どんなねばい相手にもかけなくてはいけません。

30 名前:615期生 ◆1WOpAbkgRc [sage] 投稿日:2005/06/05(日) 03:56:33 ID:1SlK4qde
開祖が「技は気合でかけるのじゃ」とか言ったと聞いたことがあります。
初めて聞いた時は、ボスがそ技の話をそんな精神論でいいんかいなと思いましたが、
最近は開祖らしいと思うようになり、大変好きな言葉ですw

武専などでは、例えば柔法などではかからないと仕切りなおして
また最初から掛け直す拳士がかなり沢山いますが、あれは疑問です。
技の稽古には覚える段階と使う段階など様々な段階があると思いますが、
武専に来る時はもう覚える段階でないことは確かです。
かからなければかからないなりに、技を変化させるとか、足を払うとか(ex 後踵刈)
肘を入れるとか、うんたらかんたらとにかく最後まで投げれるようにならないと護身
としてはまったくの無意味、華法です。もちろん無茶をするという意味ではありません。
いつもいつもこうやれという意味でもないです。相手も選ぶべきです。でもね・・・

護身には「もう一回」はないということを考えれば、「ここで投げないとやられる!!」
「次は無い」「何が何でも投げなきゃいかん」という気概が必要なのではないかと思います。
だから開祖の言う「技は気合でかける」位の姿勢はあたりまえのことではないかと思います。
投げない拳士は、ほんとに「思考停止」してるように見えます。

>法形=実践じゃないんだから・・・。
そうでしょうか。法形でも実践性を求めるべきではありませんか。
そういう段階も必要ではないですか。ましてや本山なら。


さて連カキコ失礼。釣れるかな。
寝る( ゚Д゚)ネムヒー
34 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2005/06/05(日) 14:42:12 ID:qDft/10B
きっと必死で我慢してるのでしょう。

>30、31
臨機応変という意味合いでは、法形を基礎として使えるように変化できなきゃいけないですね。

ただ、「法形=実践」という概念を基礎にしてしまうと、様々に弊害が出ます。
何が何でも掛からないように逃げる攻者を、無理矢理掛ける技術だけ身につけても仕方ないし。

じゃあ変化技は何のためにあるのか?ということになりますよね。

とにかく掛ける稽古は柔法乱捕りで主にやるべきだと思いますよ。

掛からないというのを自慢にする人の蔓延、柔法が掛からないと悩み続ける高段者を増殖させてる。

うちの例だと道院長が自分の好みの動きでやってないと、「掛けてみろ」と掴む。
例えば、上膊捕で肘を伸ばして、掴む力を最小にして、手首を固定する。
これで当身もなしで普通に掛けられる人なんていません。

結局ベーシックな部分をわからない、その都度その都度応用だけを教わる。
基礎を押さえれば、応用も比較的容易く覚えること出来ますよね。




2005/06/05
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