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 今日は、日常を大切にしようというお話です。


●日常と非日常
 私は三度も(泣く泣く)インドに逝くはめになりました。というわけでたまに「そんなにインドかいいならインドに住むのもいいんじゃね?」などと嫌がらせを受けます。「私はインドは好きですが、インド人が苦手なのです。だから絶対に無理です!!」 と正直に答えます。しかし、インドには実際に長期滞在している日本人が結構います、旅行の延長で。時たま日本に帰ってきて高収入短期集中バイトをしてまたインド(その他物価の安い国)に戻ってのんびりと暮らすのです。彼らは「沈没組」と呼ばれます。
 私にとっては日本の生活が日常であり、インドは非日常です。インドに限らず海外旅行は大変楽しいですがそこでの生活が日常になってしまった時、それが楽しいのかどうかは疑問です。なんせ私は日本が大好き。
ヽ(´ー`)ノ
 非日常があると日常が活きてくるということもあるかと思います
(微分してゼロ)。これは様々な形で見られます。適当に左に挙げてみました。お手隙ならあなたもした三つほど考えてみてください。
日常 非日常
道場以外の生活 道場での稽古
道場での稽古 大会への出場
国内生活 海外旅行
学校の勉強 塾の勉強
学校・塾の勉強 入学試験
愛妻弁当 外食(人によっては逆か?)
平日 休日w
発泡酒w 生ビール
1
2
3
 まぁ、日常と非日常て視点があるよね、てお話です。日常と非日常てのはi認識のことで、実際の中身は対して変わらない場合もあるかと思いますけども。


●禅としての日常
 金剛禪は拳禅一如の法門です。禅宗では何よりも日常を大切にします。日常を大切にするということはつまりは「今」の累積を大切にするからです。「たった今」です。たまにいいことをするんじゃなくて毎日の生活が実践の場であり、修行の場だと考えます。こんな話があります。

 道元(=日本曹洞宗の祖)たちを乗せた船が中国の慶元府に着いた。その時、阿育王山の六十歳を越した老典座(一山の炊事係の責任者)が日本産の椎茸を買おうとして船にやってきた。この船は商船であって輸出のために椎茸を積み込んでいたのであろう。そこで道元は一服の茶をこの老典座にすすめて話をした。この老僧は生地は蜀の国であるが、故郷を出てから四十年、本年六十一歳になるまで諸方の叢林を遍歴して修行し、去年の夏、阿育王山の典座の職に任ぜられたのであった。聞けばこの港から阿育王山までは三十四、五里(中国の里数)あるという。道元は、これからその日のうちに椎茸を買って帰るのは大変だと思って、今日は不思議な御縁でお目にかかることができたから、今夜は船中に宿ってお話をしていかれたらいかがでしょう、と引きとめたのであった。しかしながら老典座は何としても今日中に山へ帰らねばならぬ、さもないと明日の供養に事欠くからといって断ったのであった。道元はけげんな顔をした。阿育王山のような大刹であれば、沢山の役僧もいるであろうし、典座が一日不在だからといってさしさわりはなかろうと思った。すると老典座の答えは、まったく道元にとって意外であった。

典座
「自分は年をとってからこの職についています。これこそ老人にとっての弁道修行なのです。どうして他の人にまかせることができましょうか。ここへ来る時一夜の外泊の許可を得ていません」
道元
「あなた様はどうして坐禅弁道して古人の悟りの因縁を看ようとはなさらぬのですか。煩わしい典座の仕事などして働いておられるのは、ずいぶんと物好きですね」
その時、老典座は呵々
かか大笑していった。
典座
「外国の人よ、お前さんはまだ本当の弁道が分からず、文字の何たるかも知っていないな」

道元は老典座のこの発言を聞いて忽然
こつねんとして漸じいり、驚天動地の思いにかられた。そこでさらに本当の弁道とは、文字とは何であるかと質問したが、道元はその時よく分からなかった。道元は修行とはただ坐禅弁道することだと思っていた。よい年をして飯炊きの世話などをしていてはどうにもならぬと思っていたのである。道元はは坐禅して古人ま悟りの因縁を考えることが修行だとその時は信じていたのである。典座の行なうことこそ真の弁道であることを知らなかったのである。
『正法眼蔵隋聞記講話』鎌田茂雄 著
なんと言いますかね。たまの日曜日にパパが気合の入った料理してくれるのも嬉しいんですが、それよりも毎日毎日欠かさずご飯を作ってくれるママンの偉大さには(料理という点については)適わないといいますか、毎日コツコツ続けるのは大変だちゅーことです。禅宗ではこういうのを重んじるのです。この日常を大切にするという視点は、護身術としても大変有効なのです。拳禅一如もまんざらではありません。


●拳としての日常、護身術との相性
 試合に出場するという行為は基本的には非日常であろうかと思います。対して護身術は日常の中に不可分に存在するものではないでしょうか。日常における格闘では武器の有無・衆敵・行き当たりばったり等も想定しなくてはならなず、とりあえず不確定要素が多い。だから絶対安全なんてことをます言えない。ですから、護身ではよく先ずは危険なものには近づかない、有名どころの「君子危うきに近寄らず〜」ね。

 孫子の兵法に『
勝兵は先ず勝ち、しかる後に戦いを求う』という言葉があります。
 通常我々は、
   【戦う】→【勝敗】
という順番で我々は考えがちですが孫子はそうではないと言います。
   【勝敗】→【戦う】
が孫子の教えだと言うのです。勝敗とは戦いの中にあるのではなく、そこに至る過程にこそあるのだと孫子は説きます。つまり日常の備えこそだというのです(日常=平時、非日常=戦時)。「当然勝つ」という状況になってから始めて戦う、勝てるから戦う。平時より軍を育てる。よく教育し整え、強い軍隊を作る。また隣国によく通じ情報も得るetcetc。

 これらは護身にも大変大切な観点です。開祖の考えもこれに沿ったものと言えます。

  道場でやってないことは、試験会場でもできないのっ!!
  道場でやってないことは、大会中もできないのっ!!
  道場でやってないことは、道端でもできないのっ!!


 こんな当たり前の認識が結構欠けとる拳士に会ったことないか、そこのキミィ
(´∀`)9!!  漫画みたいに格闘中に閃いた上、それを実行できる実力があればいいんやけどね〜楽観的な期待で護身はできんませんな。

 上の一説の続きですが、常勝の将は「勝つべくして勝つ」ため、その勝利には賞賛も歓喜もないものだと解説されます。勝利に対する賞賛や歓喜は、変則的な作戦や逆転劇にこそ付くもので、民衆はこれを成し遂げた将こそが名将と称えがちです。しかし、何故、変則的な作戦を用いなければならなかったのでしょう。何故、逆転という一時にしろ己れに不利な状況を作ってしまったのでしょう。結果として勝てたとしても、これはただの結果オーライであり国のあるべき姿ではないと孫子は言います。
 「勝つべくし勝つ」。当たり前に勝つ。これはとても大切なことなのです。
仏教には「陰徳」といって人に口外せずに徳を積むことを進められますが、これを思い出します。このような姿勢は日常における格闘、日常における修行ということを考えさせてくれます。



 昔2ちゃんにあった。「戦ってから勝った負けたていうのはスポーツ。それ武道とは言わない」これなかなかいい。
 
「兵百年を養うは、今日一日のため」と言われるように、非日常に備え日常を大切にしましょう!!


だから禅僧は言う、
 『今やらねばいつやるの!!』と。
 『今が一生を支えている』と。

河井寛次郎も言うた。
 『なんという今だ、今こそ永遠』と。

禅寺に行くと毎回見るぞ。
 『無常迅速』と。

そしてゲッターロボでも言うてた!!
 『明日のために戦うなら、今がその時だ!!』と。
 【関連・続き】引越しとは死ぬことと見つけたり




617 名前:名無しさん@一本勝ち[] 投稿日:2006/02/04(土) 12:34:17 ID:NHz1qjo30
おはよう
昨晩はおそくまでおつきあいありがとうございました^^

さっそく続きです(今、DVDを焼いているので)

私は、道場以外では、少林寺拳法を語ることは一切しません。 ましてや肩書きで職場や友人と語ったこともありません。
あくまでも普通の社会人として、そこらへんにいるおっさんですね^^

リキちゃんが言う
「箸を持つときにも少林寺拳法」なんて、想像もできません。なぜなら、そういう技術がないほうがよっぽど平和にお仕事がすすむからですね。 そういう資格を知られない方が、よっぽど多くの方々とにこやかに仕事がすすむのですね。ふつうの社会生活で、武力はいらないばかりか、逆に邪魔になるのですよ。

少し武道ができるとか格闘技ができるとかで、肩をいからして職場にいるアホたれがどれだけいましたか・・
そういう連中は、多くは力の論理でおおげさなパフォーマンスで周りを押さえつけ、人間関係を駄目にする。
本当に・・・・武道家然として中途半端に威張っている方々にはあきれるばかり・・
一方、まったく何の資格も肩書き語らない平穏な先輩もおられるのですね。

技術は、内輪でいくら語れても実生活ではいかされないのです。
生かされるのは、その技術をきっかけに出会った人間関係の蓄積と金剛禅の実践的思想性を学習しているという経験が大切なのです。

技術士か語れない。
また、もっとおたくになると「技術のなかに無理に思想を持ち込もうとする」
そういう誤魔化しは駄目ですね。無理にこじつけた論理。それは単なる屁理屈です。
古武道にも、そういう無理したこじつけがどれだけあり、普通の方々から失笑されてるか・・

少林寺拳法が開祖がつくられた物であり、開祖は少林寺拳法の技術は所詮技術の何ものでもないと言い切ってる。そうして、技術屋さんになるなと、社会にいかされる人間教育のためにがんばれと言い続けたのです。一生技術屋さんで終わるのでしょうか???私には、どうして技術だけで組織を批判したりする連中がわかりませんね。あはは^^


675 名前:[] 投稿日:2006/02/05(日) 07:22:46 ID:e2zxhL27O
>617
気が伴わない古流なんて抜け殻です。
法縁がなかったか目が曇っていて見えないのか、どちらでしょうね。

676 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2006/02/05(日) 09:54:01 ID:dzFF3vTh0
「^^」と「あはは^^」さえなければ>>617は至極真っ当な意見だと思うが
「^^」と「あはは^^」が全てをぶち壊してるな
>>617の中の人が自分の言ってる事を実行できてるようにはとても思えん
まあ、あれだな語るだけならアレな人にも出来る
結局は実践あるのみなんだな

677 名前:GSL[sage] 投稿日:2006/02/05(日) 11:58:57 ID:98LTNGXIO←伝統空手の方。スパーも強いですよ
>>676
そうでしょうか?
私には随分と極端な意見に写りましたが。

まあ、そもそも私には日常に空手を一切持って行かない事が出来ないので… 既に自分の血肉に成っているので、
どうしても出てしまいますし、それは自分の人格の一部だと思っているので、 特に気にもしていませんがね。

678 名前:ビスキュイ[sage] 投稿日:2006/02/05(日) 12:50:06 ID:UBV9uojmO
私もGSLさんと同じだな〜。何か617の人は「日常生活も武道」と言うのを勘違いしてるような…。仕事中も暇さえあれば壁を殴るとかそんなこと想像してるのかな? つーかそんなことより少林寺拳法スレでGSLさん見たのに驚いた。

679 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2006/02/05(日) 12:51:32 ID:MdAux5fN0
趙州和尚のもとに若い修行僧が質問にきました。

修行僧「どう言う修行をすれば宜しいのでしょうか?」

趙州和尚「貴方はもう食事は済みましたか?」

修行僧「はい」

趙州和尚「ならば食器を洗われると良いでしょう。」



結構有名なお話ですね。道場とか特別な場でしか修業は不可能かニャ? 違うよね。
立つ姿、歩く姿も即武道、とエライひとも言ってまつ。

「禅に雑務なし」ですョ。


680 名前:615期生 ◆1WOpAbkgRc [sage] 投稿日:2006/02/05(日) 13:15:54 ID:jEaJbPhf0
>678
いや、オリとしてはみんなちゃんと読んでることにビクーリ。 さいきん長いものは読み飛ばしてしまうオリ。。。orz

昔々、あるところにおじいさんとおばさんがいました。ついでにエロイお坊さんαもいました。 (【注】エロイ=偉い、2ちゃん用語 例)教えて、エロイ人!!)αはさらに修行を積もうと、ステキと名高い他のお寺へと逝きまスタ。お寺に着くと、一人の爺さんがお掃除をしていました。αは問いました。
「おじいさん、超エロイ住職のΩ様はいらっしゃいますか」
爺さんは答える、「そりはオリです。何か御用でふか?(・ω・)ノ」
αは驚いて問う。
「あなたほどの高僧が何故作務(掃除等)などをされるのですか。作務なんて下の者にでもやらせて、
もっと、写経や読経などマッチョな修行に時間を当てればいいんジャマイカ?」
Ωは静かに答える。
「あなたは仏法ちゅーもんがまったく理解されていないようですね(*´ω`)」
めでたしめでたし


こういう話はなかなか武道をやってる者には相性がいいのではないかと思いまふ。
日常から切り離すなんてのは愚の骨頂。


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