今日は、日常を大切にしようというお話です。 ●日常と非日常
●禅としての日常 金剛禪は拳禅一如の法門です。禅宗では何よりも日常を大切にします。日常を大切にするということはつまりは「今」の累積を大切にするからです。「たった今」です。たまにいいことをするんじゃなくて毎日の生活が実践の場であり、修行の場だと考えます。こんな話があります。 なんと言いますかね。たまの日曜日にパパが気合の入った料理してくれるのも嬉しいんですが、それよりも毎日毎日欠かさずご飯を作ってくれるママンの偉大さには(料理という点については)適わないといいますか、毎日コツコツ続けるのは大変だちゅーことです。禅宗ではこういうのを重んじるのです。この日常を大切にするという視点は、護身術としても大変有効なのです。拳禅一如もまんざらではありません。 ●拳としての日常、護身術との相性 試合に出場するという行為は基本的には非日常であろうかと思います。対して護身術は日常の中に不可分に存在するものではないでしょうか。日常における格闘では武器の有無・衆敵・行き当たりばったり等も想定しなくてはならなず、とりあえず不確定要素が多い。だから絶対安全なんてことをます言えない。ですから、護身ではよく先ずは危険なものには近づかない、有名どころの「君子危うきに近寄らず〜」ね。 孫子の兵法に『勝兵は先ず勝ち、しかる後に戦いを求う』という言葉があります。 通常我々は、 【戦う】→【勝敗】 という順番で我々は考えがちですが孫子はそうではないと言います。 【勝敗】→【戦う】 が孫子の教えだと言うのです。勝敗とは戦いの中にあるのではなく、そこに至る過程にこそあるのだと孫子は説きます。つまり日常の備えこそだというのです(日常=平時、非日常=戦時)。「当然勝つ」という状況になってから始めて戦う、勝てるから戦う。平時より軍を育てる。よく教育し整え、強い軍隊を作る。また隣国によく通じ情報も得るetcetc。 これらは護身にも大変大切な観点です。開祖の考えもこれに沿ったものと言えます。 道場でやってないことは、試験会場でもできないのっ!! 道場でやってないことは、大会中もできないのっ!! 道場でやってないことは、道端でもできないのっ!! こんな当たり前の認識が結構欠けとる拳士に会ったことないか、そこのキミィ(´∀`)9!! 漫画みたいに格闘中に閃いた上、それを実行できる実力があればいいんやけどね〜楽観的な期待で護身はできんませんな。 上の一説の続きですが、常勝の将は「勝つべくして勝つ」ため、その勝利には賞賛も歓喜もないものだと解説されます。勝利に対する賞賛や歓喜は、変則的な作戦や逆転劇にこそ付くもので、民衆はこれを成し遂げた将こそが名将と称えがちです。しかし、何故、変則的な作戦を用いなければならなかったのでしょう。何故、逆転という一時にしろ己れに不利な状況を作ってしまったのでしょう。結果として勝てたとしても、これはただの結果オーライであり国のあるべき姿ではないと孫子は言います。 「勝つべくし勝つ」。当たり前に勝つ。これはとても大切なことなのです。仏教には「陰徳」といって人に口外せずに徳を積むことを進められますが、これを思い出します。このような姿勢は日常における格闘、日常における修行ということを考えさせてくれます。 昔2ちゃんにあった。「戦ってから勝った負けたていうのはスポーツ。それ武道とは言わない」これなかなかいい。 「兵百年を養うは、今日一日のため」と言われるように、非日常に備え日常を大切にしましょう!! だから禅僧は言う、
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