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諸法無我。しょほーむが。詳しく知らんけどこんな意味やね。
因てのは原因てことやね。ネットでは直接的要因て見たわ。果てのは結果てことやね。縁てのは、、、図を見てくれ。間接的要因て見た気がする。 現代みたいに科学の知識が普及してたらこんなん当たり前やねー。いきなりぽっと現象だけが独立であるわけないし。物事には原因があって結果があるんだな。このように仏教では物事にはそれぞれに関連性があると考えているという。 日本ではよく聞く展開として、ご飯を食べるのはお百姓さんが作ってくれたからです。服を着ているのは、ある日突然服が現れたわけではありません。誰かが作ってくれたから服が有り、それを買ったくれたおかぁちゃんがいたから手元にあり、その服を買うためにお父ちゃんががんばって稼いでくれたから…というロジックを聞いたことがあるやろ? これもそうです。人は決して一人で生きているわけでも無いし、一人で生きていけるわけでも無いんやでーと仏教では言うわけです。 他力本願という言葉がありまわすな。聞いたことあると思うけど、これは仏教用語なんですって。私も最近まで知ったけどw 「人任せ」て意味ちゃうらしい。新聞とかで誤用したら仏教界から苦情がちゃんと飛ぶそうです。正しい意味は、、、、、ここでも読んで♪ 私が「他力本願」とか言う時は、「あんたは生きてるんじゃないの、生かされてるの〜」という意味で使ってます。 諸法無我という観点では、自己は単独では存在しているわけではなく他者また多くの存在と関わりを持ち合いながら存在しているということになるんやな〜。こういうことに釈尊は( ゚д゚)ハッ!と気がついたと。 仏教とは個人主義です。だから上座部仏教のようにひたすら自己の完成を目指すのが全うな気もする。でもそこに反発して大乗仏教が起こって来た。大乗仏教の発生には利他行や下化衆生といった要因もあるとは思いますが、全ては関連はしているという考えから、「自分だけよくてもあかんのちゃうんか!?」!というのもあったのだと思います。 つまり「自己の完成は、自己だけでは成し得ない」とちゅーことになるんやね。少林寺拳法では組手主体を特徴のひとつとしてあげています。開祖(?)は言いました。「僕は上手くなるから、君も上手くなれ!!」と。自分が上手くなろうと思ったら、相手も上手くなってもらわないとあかん。自分が強くなろうと思ったら、相手も強くなってもらわないとあかん。自分が成長するためには、周りも成長させていかんとあかん。開祖も気がついたんやろね。 このように考えると、他者を大切にするということは結局は自分を大切にするということでもあるということが分かります。少林寺拳法では自己確立だけではいかんのです。「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」。これは結局は自分のためなんやな〜てことかな。 【関連・参考】 陰陽調和 微分してゼロ 一句道え
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