トップ > コラム&ノート > 強さとは個人のこと



 丸廉掲示板がやや荒れていた。まったく気にして無い、放置してるがいちよ管理人だし斜め読みしてると「強い・弱い」の話がちらほら見える、ので。 

 あの流派は弱いのか、それとも強いのかという話は頻出であります。2ちゃんができて数年、そうだな丸廉始めた頃の2002年頃は今よりももっと頻繁に言われたのです。しかし次第にそれはシフトしていき、ここ3-4年くらいは何の影響かは知らないが
(丸廉の影響なんてさらさら思ってない、念のため)「強さとは各個人のこと」という考えがMixiでも高頻度で見るようになった。別に数えたわけではないが、その頻度は以前よりも増えてきているように感じる。むしろ出ないときはない、ちゃんと出てくる。 


●「強さとは個人のこと」で片付けていいのか
 「強さとは個人のこと」てのはその通りなんだけど、まるで印籠のようになってきてはいないか。最近こればっかり聞くので、その反動が出てきたのか飽きてきた。というか目につくようになってきた。やはりある程度流派の特徴というものがあることは全否定できんのでないだろうか。 

 世間で太極拳と言えばゆっくり体操のことを言うのだ。サッカーといえばかなり運動量の高い競技を連想するものだ。ゲートボールで汗だくじいさん、いるかも知れないが普通は考えない。どれも個人のことと言えば、そうなんだけどそれで片付けてしまうのは乱暴すぎる。 


●少林寺拳法はその他
  1. フルコンタクト系
  2. ポイント制
  3. その他
 打撃系の格技をここでは三つに分けてみようと思う。一つはフルコン系だ。もう一つはポイント制だ。最後の一つはその他フルコン系はキックやフルコン空手、総合などかな。ノックアウトOKのとこね。倒す気まんまん。ポイント制は伝統空手やテコンドーとかかな。当てますけどノックアウトまではあんまりしてくれるな、てとこ。その他は、まぁ主に試合をしない流派です。試合というか、検証の場がない流派といいますか。
 少林寺拳法はもちろん「その他」です。運用法があるて言われそうだけど、私の認識はその他だな。明確な線引きはつまり「強さは個人のこと」でありますからできませんが、他のスポーツ同様に傾向はあるでしょう。少林寺拳法にもフルコン系・ポイント制の人もいるだろうけど、そういう練習している人ほど、「その他」には同意してくれるんじゃないかな。 
 別に卑下してるわけぢゃないyo! 淡々と現実を直視しただけです。 


 当てるための練習をしているところそうでないところではかなり差がある。かつて少林寺拳法の月刊誌でも頻繁に、単独バランス・相対バランスという言葉が使われたように、動く標的に実際に当てることを考えると突のフォーム一つにしてもその素早さや柔らかさに顕著な違いが現れるものだ。そしてその「当てる」にしても、ノックアウトする気がある・ないではこれまたフォームからして大きく異なってくる。蹴のフォームなんてほんとに違う。 

 どこか強いのか、どこが弱いのか。それは実にデリケートな話かもしれないが、誰の意識下にでも存在しているものではないだろうか。
 少なくとも私は他流試合に行きその日の
対戦表を見たとき、相手の所属流派はかなり気になる。それはもちろん戦術的な意味もある。総合格闘技から来てれば、組まれることに注意しよう、ちょっと腰は落としておこうか、蹴は連発しない方がいいのかなぁ等、誰だってわざわざ負けたくない、考えるさ。それと同様に、私ならね、フルコンや日本拳法・キック・総合とか書いてあったら慎重度合いMAXですよ。 
 むしろ相手からしたらどうなんだろう。少林寺拳法て書いてあったらどうなんだろう。実際の話、相手はどう思うだろう。ラッキーとかって思うのかな。私にはラッキーと思う流派、正直なところありますよ。今日は自分のペースでいろいろ試せるかも、みたいな。やってみたら全然ラッキーな相手じゃなかったて場合もありますけど。

たとえばこれがフルコン系の打撃のフォームだ。
 


 もちろん各スポーツ、各流派のパラメータは「強さ」だけではないから自分にあったものを選べばいいのだが、そこに「強さ」というパラメータが無いというわけではない。格闘している以上まったく無視できるパラメーターとも思えない。少林寺拳法は強い・少林寺拳法は弱い、という話もたいがいに飽きてくるものだが、かといって「強さは各個人のもの」と言うてここで思考停止している人がいて、また
逃げ口上になっている場合があるのではないか、と感じるのは私だけか。ちゃんとやれば少林寺拳法でも強くなれますよね、ええ。でも「ちゃんと」
出来る人が10人中一人しかいない流派と五人いる流派、まぁそのような特色てありますよね。

 「へ〜アメフトやってたんですか」て見学者が言ったら、私はちょっと力んじゃいますけどね。



「各個人の要素と流派としての要素が絡み合ってる」って感じかね。しかし「少林寺拳法」だの「空手」だのっつ〜括りが大雑把過ぎんのよ。

それはいえる。くくりは大きいね。
東西で少林寺拳法も多少は色合いが違うらしいし。(ほんとか?)
最近考えるのは団体が強いかどうかは、強くなりたいと考える人のニーズに応えるノウハウやシステムがあるかどうかなのでは?
ただ求める強さも個人によって違うでしょうから、少林寺ではどんな強さが得られるかをはっきりさせれば良いと思います。
しかし現状では何とも言えない気がしますが…


>少林寺ではどんな強さが得られるかをはっきりさせれば良いと思います。
組織としては方向性を明確にすることは大切ですね。うちの組織もはっきりしてるようでいろいろ描いてあるけど、、、なぜかはっきりしている印象がない、なぜでしょうwww
まだまだこれから、少林寺拳法は未完成だからこれからですよ!!

>ニーズに応えるノウハウやシステムがあるかどうかなのでは?
之に関連して、ビスさんが昔こういうてます。結構しっくり来る。 ※下にあるバナーです

そう、少林寺拳法は手段、のはず。
> 「強さとは各個人のこと」という考えがMixiでも高頻度で見るようになった。
「世界に一つだけの花」の歌かな。

> 最近こればっかり聞くので、その反動が出てきたのか飽きてきた。
フリョーの発想だな。

流派を気にするのは、血液型や西洋占星術で性格判断や相性診断や、その日の運勢を見るようなものでしょう。つまりカテゴリー分けして「分かったつもり」になりたいわけよ。カテゴリー分けしないで個人を直接見るのは不安すぎるわけ。

履歴書に色々書くでしょ。年齢、住所、学歴、職歴、技能、特技。あんなもん見たって、さあこれから一緒にこいつと働けるかってこと、どのくらい推し量れるものだか。オーディションについては、ジャニー喜多川と北野武が同じことしてる。面接会場の正面の机についてしゃちほこばった候補者を相手にするんじゃなくて、待合室や廊下でどう振舞ってるかを覗いたりして普段の候補者に目をつけてる。

さて。強さというものが測定可能だとして、じゃあ流派というものの特性を考えるとだ。強さの初期値がa0, 流派による上達係数がb(t)としたら、ある時刻tでのそいつの強さって

f(t) = a0 + tb(t)

なわけでしょ。もとから強くてa0が大きいやつもいるし、tが短かったら流派によるb(t)の影響は小さいだろうし。

でも流派の名前の売れ方ってb(t)じゃなくてf(t)で決まるわけよね。だって一般大衆はその場の成績しか見ないから。だから高校も大学も相撲部屋も競技志向のフルコン流派もa0が大きいやつをひっぱりだこにするね。


>「世界に一つだけの花」の歌かな。
おぉウマイ!!

>フリョーの発想だな。
僕は清純派AV女優です!!


>流派を気にするのは、血液型や西洋占星術で性格判断や相性診断や、その日の運勢を見るようなものでしょう。
これもわかりよいですね。

>f(t) = a0 + tb(t)
つまり氏育ち、血統環境の話ですね。
ちなみに少林寺拳法は生まれは見ないことが暗黙の了解ですからねー
誰でもできるという前提でみんな目をつぶってませんか。

法形の多さは、環境の多様性を与えるもの、それぞれのスタイルを鮮やかなものにするためのパーツだと思うんですけど、どうやらそれは現状の少林寺拳法では生かせていない気がします。

本来はHさんのおっしゃるとおり、組織の売りはb(t)なんでしょうけどね。まま世間はf(t)しかみませんわな、なかなか。

古いバナーを思い出したので添付。




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