少林寺拳法の稽古に足りないものはヤル気だと思う。殺す気のほうヤル気。殺すというと物騒で大げさですけど、ここで言うのは、技が効くのか効かないのか、倒せるのか倒せないのかということであって、つまり有効性の有無て事であります。
武道には様々な付加価値があります。伊達に偉そうに「道」などつけておりません。それをうまく使って青少年育成や健康を養おうとするわけです。しかし青少年育成や健康は武道の独壇場ではありません。他のスポーツやそれこそお座敷で行うお稽古事でもそれを成す道はたくさんあります。武道家がおごる原因の一つに他でもできるということの認識が弱いというのがあると思います。武芸だけが唯一の道ではないのです。
されど武道で「も」それは可能です。そしてこれを成そうとすると外せない要素があります。それがヤル気です。それに乗らないなら、武道でなくてもいいのです。
武芸の稽古体系は全て先人の有効性の追求の上に構築された体系です。強い弱いとはまたちょっと違います。有効性を求める、これは力の弱い者、体格の劣る者でも関係なくできることです。倒せない突をいくら練習してもそれは武「芸の稽古体系」には乗っかってないのです。武道は本当に倒せるのか、本当に投げられるのかという自問自答、問法就学、創意工夫の中に構築されている道だからです。武道で学ぶのであれば有効性の追求は外せません。
- 自分の突は、本当に倒せるのか。
- 自分の突は、本当に動く相手にも当たるのか。
- 自分の投げは、本当に人を投げられるのか。
- 自分の投げは、本当に投げらまいとする人にも有効なのか。
- 自分は相手の攻撃を、本当にちゃんと防げるのか。
- 自分は投技に対して、本当に有効な受け身ができるのか。
- そもそも投げられないように相手の動きを潰せるだろうか?
いろいろあります。こういうのがなければ、いくら突が速くても華麗な体捌きで柔法をしても意味が無いのではないか、と私は思う。決まった相手にしかからない、拳士相手にしか投げられないのでは、ただの宴会芸と変わらないのではないかと、言葉が悪いが私はそう思う。
人を倒す、嫌がる相手を投げるというのも容易ではない。本当に難しい。だからこそ自問自答、問法就学、創意工夫がいる。少林寺拳法に限ったことではない、武術の技の善し悪しとは全て有効性の有無、これだけである。このようなものがなければ、道を歩き始めたとはいえないのではないか。
技の善し悪しを、誰々先生がしてたからこのやり方で正しいとか、昔はこうやったからこのやり方が正しいとか、どれが正しいとかましてや正統だとかそういう外的な、権威付け的なものに頼り始めるとヤヴァイ。そんなものばかり追っかけても仕方ない。仕方ないとまで言うと酷かもしれないが、それは武術ではPrimaryな要素ではない。芭蕉はこういうてます。「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」と。まぁ悩みはどこもいつでも同じようで。別に先達の技が悪い言うてるんとちゃうのよ。
ついでに言えば、逆小手とか送小手とかそういう法形の枠に収まるのも危うい。逆小手のために逆小手を練習してる、というふうに日本の形稽古陥りやすい特徴がある。これも注意がいる。よく本部が警鐘してる気がする。
■有効性を検証しているか
誰しも有効性を無視して稽古してるわけではない、とは思います。みなさんまじめに稽古していると思っています。でもその検証は怠りがちではないですか。試すのは簡単でしょ? ちょっと抵抗してみてよて隣の人に言うだけ。有効かどうかなんて直ぐチェックできる。できれば技を知らない人間にもかける。技知ってる人はコケ方も知ってるからね。
最後に少林寺拳法の稽古で典型的に「私が」感じるヤル気の無さは以下でありまする。
- 一部の競技演武。すべての打撃が外れてる。(打撃が届いてる届いてないとかでなくて)
- 一部の柔法の稽古。投げには最適な占位かもしれないけど、剛法的に危険な箇所に平気で動く。
- 一部の金剛拳。痛いかもしれないけど、ばしばし動ける。固定できてない。
ちょっと、ヤル気を出せば!! おんなじメニューでももっと強くなれるんだ少林寺拳法はっ。いいもん持ってるんだよ、もうちょっとなんだ、ただこのもうちょっとが遠いんだよ!!!
難しいよ、でもだから面白いんだ!! パンチがあたった時、「ざまぁガッハガハガハ(・∀・)ガッハガハガハ」てなる。
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