トップページ > 初めての方へ > 少林寺拳法とは? > 参考資料【教範・副読本】より



第八章 勘について 
■人間の持つ優れた感覚
  「カンのいい人」あるいは「カンのにぶい人」などが我々のまわりにはけっこういるものです。ときには自分でも「今日はカンが冴えているな」と思うことがかんあるでしょう。このように、我々はカン=「勘」の存在を否定することはできません。「勘」は現代の科学文明の時代では何か時代遅れの感覚を表す言葉のように受すぐえいちけ取られがちですが、昔は人間の最も優れた英知の一つを表した言葉であったのです。
  「勘」は、眼で視たり耳で聴いたりする五官の感覚ではなく、響きのない声を聴き、形のない心を感じるような、時間と空間を超越したある種の感覚で、人間の持つ最も優れた感覚だといえます。「勘」は我々の日常生活の上でかなり重要な位置を占める存在で、何かを決断する場合にも、頼りになるのは「勘」です。
  少林寺拳法の修行においても、「勘」を磨き養うことは、きわめて大切なことです。
  「勘」のことを「第六感」ということもあります。
 我々が事物や現象を知覚するのは、普通は「眼、耳、鼻、舌、皮膚」の五つの器官(五官)です。すなわち「視る、聴く、嗅ぐ、味わう、触れる」の五感で、「勘」もこれら五感に次ぐ一種の感覚として、第六番目の感覚つまり「第六感」と呼ばれるのです。
  この「勘」を鋭くするには、自ら多くの経験をして、体験を重ねて自分自身たいとくで体得する以外にはありません。本当の「勘」は、非論理的ではありますが、決して非科学的なものではなく、生まれつきの才能でもなく、努力によって養うことのできるものです。「勘」を養うためには、日頃から次のような点に心がけることが大事です。
@つねに問題意識を高く鋭く持つこと。
A何ごとでも他のものごとと関連させて考えること。
B考えるヒントとなるような情報を豊富に蓄えていること。
C興味と関心を広く開いて見聞を広げ、多くの情報を蓄積しておくこと。
第十三章 乱捕りについて
■法形を十分に使いこなすために
  「乱捕り」とは、法形の運用法を学ぶための、限定あるいは自由な攻防を伴なった修練方法です。少林寺拳法の中心となる修行法は「法形組演武」ですが、これはややもすれば、一定の形を覚えるだけに終わりやすい面があります。形を覚えることは大切なことですが、それにこだわり、そこにのみとどまっていては、型にはまってしまうことになり、護身術としての自由な働きを失ってしまいます。
  そのために、法形修練に際しては、一定の形を演練しながらも、身体の即応能力を養うように心がけなければなりません。法形を固定した型としてとらえず、機に臨み、変に応じて変化させ、法形を十分に使いこなすようにしなければなりません。

■「武の用」として用いる場合
  少林寺拳法を「護身練胆」の法として用いる場合、どうしても不法・無法の相手と戦うことも考えなければなりません。万一このような状況になったとき、少林寺拳法を「武の用(除悪(じょあく)、治乱(ちらん)の目的に拳技を用いるこ)」に役立たせるためにはとうしても基本となる技術や法形の修練だけでははなく、相手との間合いや技の連絡変化、虚実(きょじつ)などを会得しておく必要があります。そのためにも応用練習としての限定あるいは自由乱捕りの修練が必要なのです。

■乱捕りの注意しなければならない点
  しかし、開祖は乱捕り修練の必要性を説くとともに、防具着用の乱捕りや、相手に勝つことだけを目標にする試合形式の乱捕りの限界や欠点を明確に指摘され、乱捕りを主とする修練方法や競技性に重きを置いた大会のあり方を厳に戒められていました。このことを忘れてはなりません。
  それは、乱捕りのやり方によっては、人間の闘争本能を悪い方に助長し、いつの間にか相手を倒すことや、相手に勝つことばかりにこだわるようになって、己れに克つための修行ではなくなってしまうからです。
  開祖は「人間がただ自分の強さを誇るために人に戦いを挑み、試合に勝って世人の拍手喝采を得ようとするような根性を持っていては、協同社会を基調として共存共栄を理想とする人間社会に必要な人として受け入れられるはずはない」と断言されています。
  少林寺拳法の最も大きな特徴は、法形組演武を通じて人格を陶冶(とうや)し、相手と共に進み、相手と共に上達を楽しみ、人を立て、人を生かしながら、我も生きる「自他共楽」の道として、楽しく修行できるところにあります。乱捕りを主とするような修練や、勝つことだけを目標とするような乱捕りは、この最も大きな少林寺拳法の特徴を完全に失わせるものです。

注1 機に臨み、変に応じて=さまざまな出来事や変化に対応して。
注2 助長=たすけて成長させること。あるいは力を貸してかえって悪い方向へ向けること。
注3 世人=世の中の人。世間の人。
注4 陶冶=人間の性質を完全円満に発展させること。
『少林寺拳法 副読本 第三篇 修行の心得と各種の理法』(編集・発行:財団法人少林寺拳法連盟) より


  一、 拳の三訓、守、破、離について
  昔から中国には、道を学ぶ者のために、「守、破、離」と云う、三つの訓えがある。これも後述する、拳の三要と同様に、道を学ぶ者が是非守らなければならぬ重要なことである。
  これは、少林寺拳法のみでなく、総ての技芸に通ずる訓えであり、又上達の要素でもある大切なことである。即ち「技芸」にはすべて「格」と云うものがある。道を学ぶものは、先ず正しく師の教えに従い、師の形を学び、その形の「格」に至ることを目標にして、我流に堕することを戒めなければならない。
  この「格」に至ることを、「守」と云うのである。文字で云うならば、楷書を正しく書くことである。
 次に、楷書が立派に書けるようになったならば、初めて自分の特質を加味して、行書を書いてもよいと云うことである。即ち楷書が書けることを条件として、それを法にかなう範囲でくずしても良いと云うことである。
  それから、いよいよ上達して楷書行書共に、自由にこなせるようになったならば、はじめて、草書を書いても良いと云う訓えである。即ち、元の字とは離れてしまってはいるけれども、決してでたらめではなく、楷書から発した、法にかなう、正しい格に入った字であれば、書いても良いと云うことである。
  すべての道は、この段階に達して初めて、出藍のほまれを得るのであるから、修行者は特に心すべき大切な訓えである。
  二、 拳の三要、技、術、略について
  拳の三要と云うのは、技術を主として学ぶための要諦を云ったものである。拳法にかぎらずすべての技術や芸術を学ぶための要諦は、まずその基本となるものを智次にその組合せ方や用法を学び、最後に自分の英知を活用して千変万化する独自の境地を開発するにある。良師を選んで真諦を極めることが肝要である。

1. 技について
  技とは、身体手足を用いてなすところの、一定形の法則的動作のことである。即ち、突方、蹴方、受方、投方等の基本的動作のことであり、祖師以来の先師が演練研究の結果到達した所の最も効果的な原則である。

2. 術について
  術と云うのは、その練磨された「技」の活用法である。即ち、修得した技を何時如何なる場合に用いればより大なる効果を修めることが出来るかと云う、有効適切なる技の運用法のことである。
  この「術」は、如何にすぐれた指導者と雖も、助言は出来るが「術」そのものを、言葉や筆で伝えることは出来ないものである。所謂。以心伝心、自修自証より他に、会得の法のないものである。

3. 略について
  略と云うのは、前二項で説明した技と術を統禦する「智略」のことであり、兵略のことである。技や術のみにては百人千人の敵を制することは出来ないことである。智略あるものは良く単身衆膽を奪い、危地を脱することが出来るものであり、技と術と略を併せ備えたる者は、千万人と雖も良く手を下さずして威服せしめることが出来るとされているのである。

  以上三要について大略を述べたが、注意しなければならないことは、初心者が功をあせるのあまり、順序を無視して、基礎となる技を充分に会得せぬままに、術や略を用いようとすることである。
 基礎となる正しい技が会得されないうちに、術や略を用いようとすれば、技がくずれてしまい、迷を生じて、いつまで経っても「格」に至ることが出来ないものである。
  技を会得すれば、術が自然に理解出来るようになり、技術が会得できれば、略は自然に悟り得られるものである。
【関連・参考】技と術
『少林寺拳法教範 第四篇第四章 宗道臣著』 より

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