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優良スレ001
少林寺拳法or丸廉への批難・文句受容スレ
778 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/02/28(土) 10:48
通りすがりの休眠拳士です。
「法形は何故こんなに多いのか?」のページを読ませて頂きました。とても素晴らしい内容で、しかも書かれた方の<少林寺愛>も感じられて、休眠拳士としても嬉しくなりました。

ここに書かれてある内容について、質問があるのですがよろしいでしょうか?

ここで、法形が多い理由として2つめに挙げられているのは、
・技が細かく命名されているのは、失伝しないから(・∀・)イイ!
ということ。逆に言えば、
・技が細かく命名されていないのは、失伝しそうだから(・A・)イクナイ!
ということですよね?

では、なぜ少林寺拳法では、他武道の技に対しての防御法について、あまり命名(紹介?)されていないのでしょうか?具体的には、

 ローキックに対する防御、タックルに対する防御、足払いに対する防御、寝技に対する防御
 絞め技に対する防御、関節技に対する防御・・・etc  (細かく言えばもっとあるのでしょうが、代表的なモノを挙げてみました)

これらに対する防御法が、少林寺の一般的な法形としては存在しないのはなぜでしょうか?これは、ここでの言葉を借りれば、技の形式化が進んでいないということになりませんでしょうか?言い方を換えれば、技術が失伝してしまうのでイクナイ!のではないのでしょうか?

779 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/02/28(土) 11:09
もう1つ

逆小手を例にとって、変化技1、変化技2…と、それぞれに命名されているからこそ失伝せず、形式化が進んでてイイ!とあります。

しかし、では先のページで紹介されている、内受突の変化としての、肘打ち、膝蹴り、体当たり等の技に命名がされていないのはなぜでしょうか?これらには、例えば内受肘、内受膝、内受押倒などのような(まんまですが)名前が付けられるべきなのではないでしょうか?

780 名前: アップル 投稿日: 2004/02/28(土) 13:15
通りすがりの休眠拳士さんいらっしゃーい!!
名前についてはよくわかんないけど
逆小手の変化の話は攻者の変化に伴う技の応用ですよね?内受突の場合は守者側のタイミングや攻撃の選択によるものなのでちょっと話がちがうのかなーっと。思いましたがいかが?

781 名前: 138B 投稿日: 2004/02/28(土) 14:26
>>778
> ローキックに対する防御、タックルに対する防御
> 足払いに対する防御、寝技に対する防御
> 絞め技に対する防御、関節技に対する防御・・・etc
> (細かく言えばもっとあるのでしょうが、代表的なモノを挙げてみました)

そんなんで大丈夫か?っていう議論はおいておいてありませんか?習いませんでしたか?
ローキックとか足払いは鶴立拳の応用だそうだし、タックルも、寝技も、対処法は教わったけど???
何とか攻ってやつですよ。例えば錣攻とか・・・

ん?そういう意味では無い質問なのか?

782 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/02/29(日) 01:05
アップルさん、レスありがとうございます。

>逆小手の変化の話は攻者の変化に伴う技の応用ですよね?
>内受突の場合は守者側のタイミングや攻撃の選択によるものなので
>ちょっと話がちがうのかなーっと。思いましたがいかが?

つまり、アップルさんのご意見は、
 ・攻者の変化に伴う技の応用ならば、形式化を進めて命名すべき。
 ・守者側のタイミングや攻撃の選択による変化ならば、その限りではない。
ということでしょうか?

そのどちらのご意見にも疑問点・矛盾があると思います。

まず、上記の点について反論です。
例えば、逆小手を力任せに踏ん張られた場合、足を払えば倒すことができるかも知れません。実際、柔道を経験した私の意見では、この場合は重心操作により、かなり上手く倒すことができると考えています。では、この技に逆小手足払などの技名を命名すべきでしょうか?私は必ずしもそうは思いません。なぜならば、これは法形の応用・変化の範疇として括れるからです。法形を、時と場合によって多彩に応用・変化させて良いというのが、少林寺拳法の良さなのではないでしょうか?

続いて、下記の点について反論です。
内受突の際には、攻者との間合や守者の体勢によって法形を変化させるのは技を分化しなくてもよいと仰っていますが、それでは、屈伸突と屈伸蹴はどうでしょうか? これは守者側の体勢や攻撃の選択によるものですよね?また、輪抜と諸手巻抜はどうでしょう?同様に、諸手送小手投、振捨表投、送突倒、腰挫はどうでしょうか? どれも、攻者との関係や守者の体勢によって変化した法形であり、しかしながら、命名されていますよね?

いかがでしょうか?

783 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/02/29(日) 01:19
138Bさん、レスありがとうございます。

>そんなんで大丈夫か?っていう議論はおいておいて
本来は、おいておいてはいけないんでしょうけれど…。
ただ、敢えて、技術レベルに関する議論はおいておきましょう。

>ローキックとか足払いは鶴立拳の応用だそうだし、
「○○の応用」とかいう言い方では、失伝してしまってイクナイ!のですよね?
言い換えれば、この技術については形式化が進んでいないということですよね?

>タックルも、寝技も、対処法は教わったけど???
>何とか攻ってやつですよ。
>例えば錣攻とか・・・

それはもしかして六段技とかでしょうか?私は残念ながら教わっておりません。

もしそうならば、他の武道では一年目から教えられている技に対する防御法が、少林寺拳法では五段以上にならなければ習得できないというのでは遅すぎではないでしょうか?

784 名前: Syami 投稿日: 2004/02/29(日) 01:30
こんばんは、「通りすがりの休眠拳士」さん。

>>例えば錣攻とか・・・
>それはもしかして六段技とかでしょうか?

そうです。「錣攻」は六段科目の羅漢圧法の中の一手です。寝技やタックル等に対抗する「法形」の多くはこの「羅漢圧法」に集中していますね。ま、ゆっくりお話ししていってください。

785 名前: アップル 投稿日: 2004/02/29(日) 12:18
>つまり、アップルさんのご意見は、
> ・攻者の変化に伴う技の応用ならば、形式化を進めて命名すべき。
> ・守者側のタイミングや攻撃の選択による変化ならば、その限りではない。
>ということでしょうか?

>そのどちらのご意見にも疑問点・矛盾があると思います。
どうもアップルです。

えっと、違います。私がいいたかったのは通りすがりの休眠拳士さんのはじめの例えがおかしくない?ってことです。比較するものが間違ってるからわかりにくいなーと。
私個人意見をしては既存の法形だけで十分です。それからそれだけでも応用の練習はできるからです。新しく法形として確立するよりも既存の法形しっかりやるほうが大切だと思うからです。やることは多いっす。昔がどうだったとか、あたらしい技がほしいとかそんなん現状に用意された法形修行をしっかりやらんと意味ないです。もちろん基本から応用まで。

名前についてはそんなに考えてない(スマンす)でーす。だって名前がつくかどうかは私にとって、試験科目になるかならないかくらいの大差ないものだからです。

786 名前: 138B 投稿日: 2004/02/29(日) 22:25
>>783
>少林寺拳法では五段以上にならなければ習得できないというのでは遅すぎでは
>ないでしょうか?

遅いかどうかは何を求めているかで決まると思いますが、私は決して遅いとは考えていません。最初はすっごく不思議、神秘的な体験に思いましたが、ある程度理解することができるようになってから教わるのがbetterと考えます。休眠など速いとこ止めて、教わってみたらどうですか?

787 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/01(月) 02:16
>>786 138Bさん

>遅いかどうかは何を求めているかで決まると思いますが、
>私は決して遅いとは考えていません。
しかし、少林寺拳法を学ぶほとんどの拳士が、その秘伝を学ぶ事もなく現役を去っていかれているのが現状ですが、それについてはどうお考えですか?それでも、現在の少林寺拳法の技術体系(法形の配列順等)には問題無しとお考えですか?

>休眠など速いとこ止めて、教わってみたらどうですか?
私はまだ三段ですので、すぐに教えて頂くというわけにはいきません。最短でもあと5〜6年は掛かってしまいます。(言い訳ではありませんが、私の元いた支部は、法形の配列順と科目表の指導内容を割りと忠実に守っていましたので、そう簡単には教えて頂けませんでした。)

あと、「ローキックとか足払い…」についてのレスにもお答え頂ければ幸いです。

788 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/01(月) 02:50
>>785 アップルさん

>えっと、違います。私がいいたかったのは通りすがりの休眠拳士さんのはじめの
>例えがおかしくない?ってことです。比較するものが間違ってるから
>わかりにくいなーと。
逆小手と内受突の例を挙げたのは、ちょうどHPで紹介されていたので、それに倣わせて頂いたまでです。そこで、改めて>>782 のような例も挙げてみたのですが、こちらも合わせてご覧下さい。どちらにしても、私の言いたい事というのは同じです。すなわち、

 少林寺拳法の法形においては、技の分化の判断基準(理由付け)が曖昧である。
ということです。

つづく

789 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/01(月) 02:51
法形の命名についてはアップルさんは専門外(?)のようですので、改めて問わせていただきます。

例えどのような武道・流派であっても、1つの技には、その類似系や変化形、応用形は存在するものです。その変化技に、別個の名前をつけるのか、あるいは元の技の応用ということで括るのかについては、何らかの納得のいく理由があって判断がなされるべきではないでしょうか?

しかしながら少林寺拳法では、同様の術理にほんのわずかな違いから複数の名前が命名されていることが非常に多いと思います。勿論同じ技を別の角度から検証する事によって得られるものもあるかと思います。しかしながら、それが法形の数を無駄に増やし、それゆえ少林寺拳法を新たに学ぶ拳士にとっての大きな障害となってしまっていることも考えるべきだと思うのです。

敢えて繰り返させて頂きますと、

  法形を、時と場合によって多彩に応用・変化させて良いというのが、
  少林寺拳法の良さなのではないでしょうか?


もしこの投稿をご覧の方の中で、(アップルさん以外でも)
   「否。少林寺拳法の法形の分化には、明確な理由付けが存在している」
   「判断基準が曖昧なのは、逆にメリットもあるのだ」
等のご反論をお持ちの方がいれば、是非ご教授願いたいと思います。

790 名前: rusher@seoul 投稿日: 2004/03/01(月) 07:46
私見です。

1.
法形は第一に拳士教育用の例題だと考えます。つまり「そこからどういう原理を学習するか」を重要視します。例えば握返はなんのために作られたものでしょう?

第二に法形は拳士向けの共通言語の役割を持ちます。つまり拳士が相互交流する上で持っているべき素養です。

2.
法形は開祖存命中に確定されたものでありますが、殊更に新規開発を禁じられたものではないと考えます。

また、事実としてその応用変化を容易に自己開発できるものとできないものがありますが、もともと法形という共通言語があるからには、個別のノウハウが拳士間に流通してなんら差しつかえないと考えます。

791 名前: アップル 投稿日: 2004/03/01(月) 09:18
>法形の命名についてはアップルさんは専門外(?)のようですので、
>改めて問わせていただきます。

あははは、恐縮です。あんまり考えたことなかったんですよねー。面白い題材だと思います。いろんな意見がでるかもしれませんね。

>それゆえ少林寺拳法を新たに学ぶ拳士に
>とっての大きな障害となってしまっていることも考えるべきだと思うのです。

さて、どんな障害でしょう??通りすがりの休眠拳士さんの言うとおり、命名に詳しくはないので(詳しい人いるの?)ここでいろいろみんなの意見聞いていこうかしら。法形ってどんどん増えていってるもんでもないし、なにに対して障害といってるんでしょう?まさか試験??んなばかなー

・法形が級別、段別にいっぱいあることで飽きずに長くやれる

以上のようなお話はよく聞きますが、多くて困るよいう人は余り見ないなぁ。ん?話がずれたなぁ。スマソ。
少林寺拳法は私達なんぞが簡単に「難しい」っていえるほど簡単なもんじゃないと誰かいってました〜幅広く奥が深いから楽しいのですねー。
というか、一つの法形にしても先生によってだいぶ違うわけで同じ技でも同じ掛け方ってないよねー。

極端に大げさにいうと
「同じ名前の法形でも先生によって違う技に見えてしまう。」(もしくは違う技術を使ってる。)

こっちのほうが見習いさんとかパニックになります。

792 名前: 138B 投稿日: 2004/03/01(月) 11:23
>>787
>私の元いた支部は、法形の配列順と科目表の指導内容を割りと忠実に守って
>いましたので、そう簡単には教えて頂けませんでした。)

それが当たり前と思いますが?速く五段になっちゃいなさいよって言う意味もあったんだけど・・・

ローキックなんかはここにいる皆の方が長けているでしょうからお任せするとして、足払いね。三段とのことなので袖巻返ってやりませんでしたか?羅漢拳だけど、攻者はただ袖を持ってくるのかな?もしかして、袖だけつかんで「掛けてみい」って言ってた???

793 名前: とっしぃ 投稿日: 2004/03/01(月) 11:38
全ての動きについて技の名前がついていたら・・・
  1. 数が膨大な量になる
  2. 技を全て覚えようとして大変なことになる
  3. 新しい(法形に無い)動きに対して対応し切れなくなる
  4. それぞれの技をバラで覚えて関連付けが上手くいかない(現状でもよくありますが・・・)
  5. 研究の余地が狭まり(無くなり)楽しみが減る
となるのではないでしょうか?
私は技の数は少ないと感じたことはありませんが、逆に多すぎるとも思いません。

名付けのルールとして、らさんの仰る通り拳士に対する例題であり、共通言語であると思います。ピンポイントで申し訳ありませんが、例えば内受突の変化で肘打ち、膝蹴り等は間合いが違うだけで動きはほぼ逆突きと同じなので内受突を例題として色々試してみろ事ではないかと思います。柔法ならばそれぞれの極め方(逆、S字、閂等)や体捌きが違うはずです。先の例でいうなら、諸手送小手投、振捨表投、送突倒、腰挫ならば守者の体制もありますが送小手の極め方→体勢を崩す→S字→腰への当身(?)となって守者の行うことは違ってきます。
よって、それぞれに名前がついていると思われます。ちなみに輪抜と諸手巻抜は攻者が肘を張っているか閉じているかによって使い分けます。(他にも使い分けの要因はあるとは思いますが・・・)こちらも紛らわしいものはあるにしても、曖昧とは感じていません。

794 名前: 138B 投稿日: 2004/03/01(月) 12:35
>>787
>しかし、少林寺拳法を学ぶほとんどの拳士が、その秘伝を学ぶ事もなく現役を
>去っていかれているのが現状ですが、それについてはどうお考えですか?
>それでも、現在の少林寺拳法の技術体系(法形の配列順等)には問題無しと
>お考えですか?
この問いかけに触れるのを忘れていました。秘伝はみんなに教えたら秘伝じゃないしな〜っていうのが最初に読んでみた後の印象。現役を去るにしても、個々人が納得して(役に立たないと思ったり、極めたと思って)やめていくのなら仕方がないこと。例えば級拳士の技の寄抜にしてもやってみろと言われて自信もってやれますか?私なんぞ人のことは言えません、よっく怒られます。
  「それじゃ二段、三段の寄抜じゃ、ゴォラァ!」
ちと気を取り直してやり直すと
  「せいぜい四段の寄抜じゃ、ゴォラァ!」
てな感じ。やることいっぱいあるし、おもしろいし。道楽なんですよ道楽!だから現在の技術体系に大きな問題は無いと思ってますよ。(だからって無理矢理まとめようとしている・・・)

795 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/02(火) 01:03
>>790 rusherさん こんばんは。
>法形は第一に拳士教育用の例題だと考えます。
「例題」ですか。なるほど。法形を「公式」と考えるか「例題」と考えるかで、話は随分違ってくるような気がします。両者は似ているようでも、意味するものは大きく違いますから。確かにあくまで「例題」と考えるならば、相互に若干の類似や重複があったとしても、問題はありませんね。逆に、似たような例題を多く解くことによって、応用への基礎力を身につけることができるのかも知れません。

>第二に法形は拳士向けの共通言語の役割を持ちます。
>つまり拳士が相互交流する上で持っているべき素養です。
これについては、特に反論なしです。というかむしろ同意致します。(これって、私のどの点についてのご意見なのでしょうか…?)

>法形は開祖存命中に確定されたものでありますが、殊更に新規開発を禁じられたものではないと考えます。
そうなのですか。むしろそうであって欲しいと願います。いつまでも何十年も前の技術体系を守り続けているだけでは、進歩は危ういでしょう。

>また、事実としてその応用変化を容易に自己開発できるものとできないものがありますが、
>もともと法形という共通言語があるからには、個別のノウハウが拳士間に流通してなんら差しつかえないと考えます。
このご意見についても、全く同意です。私の好きな武道界の言葉に、「一人一流派」というものがあります。武道(どんな武道であれ)を突き詰めていくと、そのようになっていくものなのかも知れません。

796 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/02(火) 01:37
>>790 rusherさん
つづきデス。

>つまり「そこからどういう原理を学習するか」を重要視します。
>例えば握返はなんのために作られたものでしょう?
この点については、ある部分は同意なのですが、ある部分では逆にご質問があります。

まず握返は、(人によって解釈の仕方はあるのでしょうが)私は、
   「握手の体勢からでも逆小手に入れるという発想・考え方を拳士に伝えるため」
に存在しているのだと考えています。

これでいかがでしょうか?
もしこの解釈に同意して頂けるのであれば、次に私の以下のご質問にお答え頂けますでしょうか?

「別の入り方がある」ということを拳士に理解してもらうために、
他の方法(つまり法形以外の方法)は考えられませんでしょうか?

797 名前: rusher@seoul 投稿日: 2004/03/02(火) 01:43
>>790
(これって、私のどの点についてのご意見なのでしょうか…?)

貴殿特定と考えていませんので、気になさらないで下さい。
「こういう視点もあるんじゃないの?」という提案です。

せっかく議論するなら建設的にやってほしい/やりたいですからね。

798 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/02(火) 01:49
>>793 とっしぃさん こんばんは。

>全ての動きについて技の名前がついていたら・・・
>   (中略)
>となるのではないでしょうか?
激しく同意です。(上記は、私のどこかの意見についてのご反論なのでしょうか…?)

>私は技の数は少ないと感じたことはありませんが、逆に多すぎるとも思いません。
私も、数の単なる多さ少なさだけを論じているわけではありません。
どう感じるかは、主観の問題もあるので多くは言及致しません。

>ピンポイントで申し訳ありませんが、
いえ、むしろピンポイント大歓迎です。

>例えば内受突の変化で肘打ち、膝蹴り等は間合いが違うだけで動きはほぼ逆突きと同じなので
>内受突を例題として色々試してみろ事ではないかと思います。
では、先にも例を出しましたが、屈伸突と屈伸蹴はなぜ敢えて分化させているのでしょうか? また、外受突と外受蹴はいかがでしょうか?内受突と水月返はどうなのでしょうか? また、>>782 で挙げさせて頂いた、逆小手と逆小手足払(仮)はどうして分化していないのでしょうか?それぞれに、こちらは●●の理由で分化しており、こちらは●●の理由で分化していないといった、普遍的な判断基準は存在するのでしょうか?

ただ、お答えを伺う前にこう言ってしまうのも恐縮なのですが、所謂「後付け」の解釈はご遠慮頂けると嬉しいです。後から、納得の行く解釈の仕方を見つけようとすれば、おそらく何らかの理由は見つかるかと思います。しかしそのようなものではなく、普遍的で、明確な、納得のいく基準があればご教授願います。

>先の例でいうなら、諸手送小手投、振捨表投、送突倒、腰挫ならば守者の体制もありますが
>送小手の極め方→体勢を崩す→S字→腰への当身(?)となって守者の行うことは違ってきます。

これは、とっしぃさんの仰る通りだと思います。確かに、それぞれ技の術理が異っているのがよく分かります。

>ちなみに輪抜と諸手巻抜は攻者が肘を張っているか閉じているかによって使い分けます。
なるほど確かに、輪抜と巻抜の違いは分かります。では、諸手巻抜は巻抜の応用ということではダメなのでしょうか?つまり「巻抜は、攻者が一本背投げに来た時にも応用できる」ではいけませんか?

この応用を認めなければ、柔道やレスリング等の技の数だけ法形を用意しなければならなくなってしまいます。それとも、法形という形できちんと示してあげなければ、われわれ拳士はその応用の仕方に気づかないのでしょうか?

799 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/02(火) 01:53
アップルさん、138Bさん、レスありがとうございます。
夜も更けてまいりましたので(?)、レスはまた後日付けさせていただきます。

>>797 rusherさん
はい、了解しました。ご丁寧にありがとうございます。

800 名前: rusher@seoul 投稿日: 2004/03/02(火) 01:54
>>797 あ、番号を間違えてる。本当は>>795でした。

>>796
>まず握返は、(人によって解釈の仕方はあるのでしょうが)私は、
>「握手の体勢からでも逆小手に入れるという発想・考え方を拳士に伝えるため」
>に存在しているのだと考えています。
自分がある本部にいた先生から伺ったのは、
「どうやら開祖は、相手に握られた状態から自分の指を逃す守法を教えたくてこれを作ったらしい」
とのことでした。

実は、自分はこの真偽にはさしたる興味はありません。芥川龍之介の『藪の中』みたいな話になるだろうと思いますので。興味を持ったのは「開祖が▲▲を教えたくてこの法形を作った」という発想に対してです。ということは「この法形からは▲▲を学びとる」ということが重要になるわけです。このように拳士の発想をたくましくさせ、視点を広くとらせることを、自分は尊びます。

>まず握返は、(人によって解釈の仕方はあるのでしょうが)私は、
>「握手の体勢からでも逆小手に入れるという発想・考え方を拳士に伝えるため」
>に存在しているのだと考えています。
自分はその解釈を間違っているとは言いません。自分は思想上は教条主義者ではありませんので。(ただし修練上は「やってみなければわからない」ことがあるから執着することもあります)自己の学習上、あるいは後輩の指導上で有益であれば両論併記で済ませます。

801 名前: rusher@seoul 投稿日: 2004/03/02(火) 02:06
>>796

>「別の入り方がある」ということを拳士に理解してもらうために、
>他の方法(つまり法形以外の方法)は考えられませんでしょうか?
共通言語としての特長を失わせるほどに他の手法を大量に持ち込むと益が減ると考えます。しかし、そこまでやるわけでないのであれば、仰っている内容は、まったくもって当然です。

例えば、自分はその「他の方法」のカテゴリーの中に乱捕が入るとみなしていますよ。「ちょっと変った限定乱捕やってみるぞー」と言って、珍しい初期条件を設定して、それで後輩の身体動作や反応を矯正しようと試みることもあります。(これ、138Bさんが時々乱捕の時にやってるね)あるいは諸兄に教わった六尺棒を道具として用いることもあります。法形以前の基本動作や準備運動まで視野に入れるならば、それこそ手法を多種多様なところから調達してます。

こういった全般を「研究」と自分は呼称します。「研究」を排斥する者は、自分の敵です。

802 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/02(火) 20:48
>通りすがりの休眠拳士さん
ビスキュイと申します。興味深い話題を出していただいてありがとうございます♪技の体系について考えるいい機会になりました。話題はだいぶ進んでしまっていますが,私の考えを少しずつ書いていきたいと思います。

  さて…通りすがりの休眠拳士さんのご意見を読んで私なりに纏めてみると,
「なんでAという動きは法形として定められているのに同じような理屈のA’という動きは単にAの応用と言うだけで名前が付いていないんだ?法形の定め方の基準が曖昧だし615期生の言うところの「名前が付けられることによって形式化が進み失伝が防がれる」に矛盾するじゃないか!」
と言うことと理解したのですがよろしいでしょうか?(違ってたら言ってくださいね〜)それでですね…実は私も学生時代に同じようなことを考えたんですわ。「技の使い分け」っていう観点で。
  「相手がこう来た時はこの技,こう来たらこっちの技だよな?」
  「うんうん,そうだろな」
  「あれ?でもこの攻撃の時はAとA'とBのどの技を使えばいいんだ?」
  「それは間合やタイミングで…」
  「でもこれとこれはどちらも逆突に対する蹴反撃で間合は同じじゃないか?」
  「相手との位置関係で…」
  「いやどっちも外に避けて蹴りだし…」
  「うーん…」
というような状況でしたが。んでそれから色々考えてきたわけですが…現在の私の意見としては「法形の意味(役割)は一つじゃない」と「法形には直列の関係を持つものと並列の関係を持つものがある」です。

  これはどういうことかと申しますと,まず「法形の意味(役割)は一つじゃない」については,「法形の役割は「公式」「例題」「学習意欲の持続のための課題」と言ったそれぞれの役割だけで割り切れるものではなく,それぞれでありその全てでもある」ということです。ですから「公式である」という観点から見ると「何で?」という技も「例題」という観点で見ると説明がつく場合があったりするかと思います。このあたりについて「そんなあやふやな体系付けでは分かりにくい!」と感じる方がおられるかもしれませんが,この「幅の広い」ところが魅力だと感じているんですよね。
長くなったのでまたあとで…

803 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/03(水) 00:27
>>791 アップルさん

>さて、どんな障害でしょう??
技が多すぎるとどんな障害が起きるかは、私が言うまでもなく、とっしぃさんのお言葉を借りれば、下記のような事だと思います。

>>793
>2.技を全て覚えようとして大変なことになる
>3.新しい(法形に無い)動きに対して対応し切れなくなる
>4.それぞれの技をバラで覚えて関連付けが上手くいかない(現状でもよくありますが・・・)
>5.研究の余地が狭まり(無くなり)楽しみが減る

とっしぃさん、拝借大変失礼致しました。
※とっしぃさんは、「全ての動きについて技の名前がついていたら」と前置きをされて上記を挙げられたため、厳密に言えば意味合いが異なるかも知れません。しかし、「法形が多すぎると起こりうる弊害」と広く捉えた場合は、ほぼ同義となるかと思い使わせて頂きました。失礼をお詫び致します。

また、私なりの意見としてまとめさせて頂くならば、

 ・多くの技を覚えようとすると、多くの時間が取られるため、
   → 1つの技あたりの修練時間が減る。(技をきちんと覚えられない)
   → 技の変化・応用を研究する時間が減る。
   → 乱捕の場で実践してみる時間が減る。

 ・技を覚えることが、修行時間の大半を占めてしまうため、
   → 覚えるということ自体に主眼が置かれてしまう。
   → 実践することの重要性が薄れてしまう。

以上のようなことを考えていますが、いかがでしょうか?上と下の違いは微妙なのですが、前者は単に時間が取られてしまうことを障害と考え、後者は修行時間内での割合が大きくなってしまうことを障害と考えおり、厳密には異なります。

>「同じ名前の法形でも先生によって違う技に見えてしまう。」
>(もしくは違う技術を使ってる。)
>こっちのほうが見習いさんとかパニックになります。
これは武道に限らず、あらゆるスポーツ、芸能、学問等々にも起こりうることですので、仕方ないかと思います。ただ、そのパニックをできるだけ軽減するためには、誰にとっても正しいと思われる、最大公約数的な、「基本」や「法形」が必要になるかと思います。それが守破離の「守」だと考えます。

804 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/03(水) 00:40
>>792>>794 138Bさん

>ローキックなんかはここにいる皆の方が長けているでしょうから
>お任せするとして、
改めて申しますと、私はローキックの防御法を尋ねている訳ではありません。「○○の応用」とかいう言い方では、失伝してしまって問題アリではないか?と問うているのです。

>足払いね。
>三段とのことなので袖巻返ってやりませんでしたか?
>羅漢拳だけど、攻者はただ袖を持ってくるのかな?
>もしかして、袖だけつかんで「掛けてみい」って言ってた???

袖巻返での攻者は、袖をつかんで、殴ったり、蹴ったり、引いてきたり、振り回してきたり、足を掛けてきたり、投げてきたり・・・ナドナドといったようなことをすると思います。

ローキックと同様になりますが、言いたいことは、足払いに対する防御技が法形として明記されていないのは、技術が失伝してしまって問題ではなかろうか?ということです。これについては、138Bさんはどうお考えなのでしょうか?

>秘伝はみんなに教えたら秘伝じゃないしな〜っていうのが最初に読んでみた後の印象。
それでは、五段までは取得していない少林寺拳士が、街で、柔道、柔術、サンボ、アマレス、相撲、総合、ラグビー、アメフトのどれかでも経験したことのあるDQNと相対することになった場合、どうするのでしょうか? 圧法を教わってなかったためにタックルを決められてしまったら、「負けない事」も達成できなくありませんか?

初段〜二段くらい段階で、「タックル切り」くらい普通に教えられてもよいのではないでしょうか? どうでしょう?

>例えば級拳士の技の寄抜にしてもやってみろと言われて自信もってやれますか?
どんな技でも完璧に行うのは難しいのでしょう。

>やることいっぱいあるし、おもしろいし。
>道楽なんですよ道楽!
>だから現在の技術体系に大きな問題は無いと思ってますよ。

このご意見には、はっきり申しまして、言葉を失いました。何のための丸廉なのでしょうか?

805 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/03(水) 00:43
>>802 ビスキュイさん こんばんは。

むむ、続きが非常に気になりますね。
では、この先のお話を楽しみにしつつ、今日はこの辺で。

806 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/03(水) 00:58
>通りすがりの休眠拳士さん
順番にレスするつもりだったのですが皆さんのテンポが速いので(私が遅い?)まずは今回のご意見について私の考えを…

>・多くの技を覚えようとすると、多くの時間が取られるため、
>→ 1つの技あたりの修練時間が減る。(技をきちんと覚えられない)
>→ 技の変化・応用を研究する時間が減る。
>→ 乱捕の場で実践してみる時間が減る。

>・技を覚えることが、修行時間の大半を占めてしまうため、
>→ 覚えるということ自体に主眼が置かれてしまう。
>→ 実践することの重要性が薄れてしまう。
とのご意見ですが,正直こういう傾向はありえます。しかし私はこれは指導の問題であり技の体系の問題ではないと考えております。さらに言えばこれは少林寺拳法体系の特色(利点?)と考えます。中国武術の言葉だったと思いますが,「千招を知る者よりも一招を得たものを恐れよ(だったかな?)」という言葉があります。「千の技を知ってる者よりも一つの技に熟達した者の方が恐ろしい」という意味だそうです。含蓄のある言葉です。
  しかしながら少林寺拳法は「千招を知ることにより一招を見つけ出せ」という教授法をとっているのだと考えます。多数の技を練習することによりその中に潜む共通原理を掴み取る。最終的にはある技を修練することが同時に(同じ原理の)他の技を修練しているのという状況になることを目指すのだと思います。しかも技の種類が多いから興味が持続し飽きない。これを利点と考えます。
   ただ教える側が技の関連や体系を理解してないと通りすがりの休眠拳士さんのおっしゃる「技が多い弊害」が出てしまいますが…

807 名前: アップル 投稿日: 2004/03/03(水) 10:25
>・多くの技を覚えようとすると、多くの時間が取られるため、
>→ 1つの技あたりの修練時間が減る。(技をきちんと覚えられない)
>→ 技の変化・応用を研究する時間が減る。
>→ 乱捕の場で実践してみる時間が減る。

>・技を覚えることが、修行時間の大半を占めてしまうため、
>→ 覚えるということ自体に主眼が置かれてしまう。
>→ 実践することの重要性が薄れてしまう。


結局、法形=試験科目という痛い考えが最近蔓延してるんじゃないかと・・。
あたらしい法形が増える=試験範囲が広がるっていう痛い考えになってるような悪寒。

試験にばっかりとらわれてる気がしてならんです。ちなみにこれは通りすがりの休眠拳士さんに言ってるわけではなく最近特に私が感じていることですので。私は現状の法形の数でも十分楽しめてるし、これからどんな技を習うんだろうとワクワクするし、習った技についてもっとおもろい使い方がないかと後輩に指導しながら考えてみたり、飽きることなく楽しいですねぇ。

808 名前: 138B 投稿日: 2004/03/03(水) 11:12
>>804 通りすがりの休眠拳士さん
>失伝してしまって問題アリではないか?
法形にあるから失伝しない=法形にないと失伝しちゃうとお考えのようですが、必ずしもそうではないと考えてます。本当にそうなのなら法形として残せば良いわけです。そもそも法形はそうやって増えていったと聞いてますけど?

>初段〜二段くらい段階で、「タックル切り」くらい普通に教えられてもよいのでは
>ないでしょうか? どうでしょう?

法形としてでなく、ちょろちょろとは出てきませんか?天宗なんかも使った対処方法なんかも茶帯のころやりましたよ。でもそれが羅漢圧法だったと知ったのはだいぶ後ですけどね。

>このご意見には、はっきり申しまして、言葉を失いました。
>何のための丸廉なのでしょうか?

お気に召さなかったみたいですね。通りすがりの休眠拳士さんと同じ価値観でないとだめか・・・現在の技術体系に全てをおっかぶせて、枝葉末節までレールを敷いてくれないと気が済まないというのは、少なくとも私の好みでは無いのです。

809 名前: 名無しさん@いらっしゃい 投稿日: 2004/03/03(水) 12:54
>2.技を全て覚えようとして大変なことになる
これのどこがもんだいなの?そんなに簡単な技術じゃないのに。大変だからおもろいのでは?
>3.新しい(法形に無い)動きに対して対応し切れなくなる
これは本人の練習不足でしょ?

>4.それぞれの技をバラで覚えて関連付けが上手くいかない(現状でもよくありますが・・・)
バラで覚えるからわるいのでしょ?関連付けてれんしゅうすればよろし

>5.研究の余地が狭まり(無くなり)楽しみが減る
減らしてるのは個人志向の問題。

810 名前: 40前拳士 投稿日: 2004/03/03(水) 13:08
 興味深い話題ですね。
 私も参加させて戴いて宜しいでしょうか?

<法形の数の多さについて>
 私も、ビスキュイさんとほぼ同じ考えです。数少ない技を徹底的に鍛える流派が「演繹法」だとすれば、少林寺拳法の修行体系は「帰納法」になっている、ということです。
 私も最初は、「こんなに技が多くては、一つ一つが十分に練習出来ないのではないか」と思っていたのですが、実は幾つかの数少ない技に収斂しますよね。例えば「S字」という一つの技を数多くのS字法形を一つ一つこなして行くことで徹底的に練習しているのではないか、ということです。
 最終的には、相手がどういう掴み方をしてきてもそのときの自分との関係によって、自然にS字・コの字・閂… などなどが出てくるようにする境地を目指す、という方法論ではないでしょうか。

811 名前: 名無しさん@いらっしゃい 投稿日: 2004/03/03(水) 13:08
私的で勝手な意見を書きます

>・多くの技を覚えようとすると、多くの時間が取られるため、
それで構わないと思います。何か問題でも?一つずつ時間掛けてやればいいと思います。
>→ 1つの技あたりの修練時間が減る。(技をきちんと覚えられない)
それは自分の稽古目的の違いだと思います。きちんとやりたい人は一つずつ時間掛けて練習します。
減らしてるのは自分では??
>→ 技の変化・応用を研究する時間が減る。
なにか時間に追われてる感じですね〜。短期間でずべてを体得しようなんてムーリなわけで。じっくり楽しんだほうがいいと思います。そしたら時間が減るとかそんなん関係ないかなーと。より長く楽しむなら「技の変化・応用を研究する時間」大事ですね。
>→ 乱捕の場で実践してみる時間が減る。
これも同様、減る理由がわからん。やること多いならなお楽しい。
>・技を覚えることが、修行時間の大半を占めてしまうため、
>→ 覚えるということ自体に主眼が置かれてしまう。
>→ 実践することの重要性が薄れてしまう。
覚えたあとに実践することって練習すればいいだけじゃん。と思います。何が問題点なのかわからんなぁ。

それともかなり時間が限られてる理由なんかあるのでしょうか?んな死ぬまで少林寺で楽しんでいけるのに。そんなに時間がないってあるのかな?限りがある人は少ないと思われ。

812 名前: Syami@Office 投稿日: 2004/03/03(水) 13:22
>>804 通りすがりの休眠拳士さん
>何のための丸廉なのでしょうか?

これは興味深い。あなたはこの丸廉が何のための集まりだと理解なさっておいでですか?

813 名前: 40前拳士 投稿日: 2004/03/03(水) 13:33
<対他流の技術>
 これは確かに、ちゃんと考えなければならない問題ですね。

 対柔道については、開祖や開祖の初期の門弟たちはそもそも拳法を学ぶ以前にさんざん柔道をやってきた先生方が多かったと聞いています。ですから、対柔道技は非常によく出来ているはずなのです。なのですが、少林寺プロパーの拳士が増えてくると、攻者として柔道の攻め方がきちんと出来ずその結果、それに対抗する少林寺の技もきちんと練習できない、そういう現象が起こっても不思議ではありません。

 私が所属していた大学拳法部はかなりの大所帯でしたので高校までに柔道をやって、2段を持っている人間も数名いました。そういう仲間と練習すると、「こんな足払いがあるか」とか「一本背負いを二の腕で巻き込んでも立てるのか」とか「投げられたときの受け身は本当にこんなので良いのか」とか、言い合いしながら色々試すことが出来ました。
 監督も警察に指導に行ったりしていましたから「柔道にがっちり組まれたらもう駄目だよ」「すばやく当身を入れないと逆小手かからないよ、機動隊員の手首はキミらの足首くらいあるんだから」とことあるごとにおっしゃっていました。

 攻者がちゃんと出来ないと、技の練習にならない。
 ここはちゃんと考えるべきポイントです。

 「キックボクサーのミドルキックを十字受なんて出来るのか」なんてのも、結局はこの問題ですね。
 対タックルに対する練習にしたって鋭いタックルを出来る人間を相手にしないと練習のしようがありません。

 そういう意味では、出来るだけ視野を広げて虚心坦懐に他流の研究をすべきでしょうね。そしてその中には、ブラジリアン柔術など比較的最近の技術(正確に言うと、昔からあったが最近表に出てきた技術、でしょうか…)に対する研究・対応する法形の開発も必要になってくるのではないでしょうか。

814 名前: 40前拳士 投稿日: 2004/03/03(水) 13:51
<失伝について>
 これもまた難しい問題ですね。実は、私は幾つかの技術、特に危険な(それ故実は非常に有効な)技術のいくつかは既に失伝しつつあるのではないかと疑っています。

 例えば、開祖のそばにずっとついていらっしゃった先生に開祖直伝の送小手、というのをちょっとだけ教えてもらったことがあります。送小手は、肩を引っ掛けて倒す技ではなく本来は肘を壊す技なんだそうです。少林寺拳法を普及させる上で、危険な技を丸めているケースは他にも色々あるようです。私なんかは下っ端ですので知り得べくもないのですが、こういうのは高段者の方々にちゃんと受け継がれているのでしょうか?

 圧法については、かの坂東先生の道院では、初段・弐段からバンバン教えていたようですね。「これくらい有効な技はないんだから、どうして教えない?1000人入門して、いったい何人が5段になるんだ?」というのが先生のお考えだったようです。

 私は今海外にいてかないませんがいつか日本に帰る日がきたら、
 是非武専に通って修行したいと思っています。

815 名前: アップル 投稿日: 2004/03/03(水) 14:15
http://randorisiyou615.hp.infoseek.co.jp/manjikiso2.html
守主攻従の技術体系を支えるもの
「練習相手としての攻者」

ここに到達しますたか。他武道経験のある拳士が身近にいないのよね。とくに柔道に関しての技が多い感じがするので柔道経験者がほしいところ。というか自分がもう少し柔道の勉強もしなさい!ということになってくる。「攻者」という役割を果たすためにはある程度の他武道の研究や経験も必要になってくるんだねぇ。うまいことできてますね、少林寺って。

816 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/03(水) 19:14
通りすがりの休眠拳士さんへのレスが飛び飛びになってしまいましたが昨日の続きを…
さて,昨夜は「法形の意味(役割)は一つじゃない」について書きましたが,続いて「法形の直列と並列の関係」について説明してみたいと思います。あっ,ちなみにこの用語は私が勝手に考えたもので少林寺拳法の正式な用語ではありませんのでお間違えないようお願いいたします〜。
で,直列と並列ですが…,これは特に柔法技において顕著だと思うのですが,ある一つの技を起点として多面的に変化が展開していく技がありますよね?
例えば

逆小手→逆手投or龍投or逆引天秤or合掌逆小手or…

これらの技は逆小手を基本の動きとして相手の体勢等に応じて変化の枝分かれが描けます(トーナメント表みたいに)。こういう関係にある技を私は「直列の関係」と整理しています。続いて並列ですが,例をあげるとすれば…ん〜…流水蹴と上受蹴なんかかな?相手の突き(手刀)に対しどちらを選択しても反撃できます。こういう関係にある技を並列と呼んでます。この話は通りすがりの休眠拳士さんの疑問からはちょいとズレてしまいますが,「技の使い分け」という観点から考えた場合,直列の関係にある技は「相手の変化に応じて行う技が決まってくる」が,並列の関係にある技は「使いやすい技を好きに選んで使えや」ということになると思うのです。このように考えてからは「技の使い分け」ということで悩むことはあまりなくなりました。
さて,こうした視点を持って少林寺拳法の科目表等を見直したりみると…少なくとも私自身は「非常に良く整理されていてなんてまあ解りやすく作ってあるのだろうか!」と思ったりします。ですから「それが法形の数を無駄に増やし、それゆえ少林寺拳法を新たに学ぶ拳士にとっての大きな障害となってしまっていることも考えるべきだと思うのです。」という休眠拳士さんのご意見については「それは体系の問題じゃなくて指導の仕方の問題ではないか?」と思うわけです。

817 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/03(水) 19:17
なんか文章にしてみると「直列」と「並列」という「文字の語感」から考えると逆の方が雰囲気出るのかな〜?まあ「縦に連なっていく関係の技」と「横並びの関係の技」というイメージなんですが…

818 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/03(水) 19:54
さてさて,話が少々(かなり?)ズレてしまいましたが…では休眠拳士さんがおっしゃってる「という動きは法形として名前がつけられておりその変化にもA'という名前が付けられている。しかし同じような変化であるのにという動きはの応用と言うだけで法形にはなっていない。何故だ?」についてですが…何故でしょうね〜?正直分かりません。ただ私見ですが,開祖が技術体系を作り上げていくときに法形を定めていく時の判断基準は統一的な一つの判断基準だけではなかったのではないか?と考えてます。例えば今回通りすがりの休眠拳士さんがおしゃっている

「例えどのような武道・流派であっても、1つの技には、その類似系や変化形、応用形は存在するものです。その変化技に、別個の名前をつけるのか、あるいは元の技の応用ということで括るのかについては、何らかの納得のいく理由があって判断がなされるべきではないでしょうか?」

は「技の用法」に基づいた基準だと思うのです。これはもちろんあると思います。しかしそれ以外にも(ここからは完全に推測ですが)「体育的な判断に基づいた分化(「一方向への動きだけでは体に悪いから反対の動きも作ろうかな〜」)」とか「学習課題としての分化(「技が少ないと興味が持続しないかもしれんな〜。もう少し増やすか」)」などもあったのではないか?と思うのです。ここで昨日の私の書き込みとつながります。すなわち「法形の意味(役割)は一つじゃない」と。「そんな体系わかりにくいわ!」とお思いでしょうか?しかし私はこの多面性こそが非常に少林寺拳法らしくかつ利点でもある点だと思うのですよね〜。武術でもあり宗教でもあり健康法でもある,一粒で二度も三度を美味しい,ああ素晴らしき少林寺拳法♪…思いっきり後付けかな?

819 名前: 138B 投稿日: 2004/03/03(水) 20:19
通りすがりの休眠拳士さん

目の前にぶら下がった物だけに反応していたら全体が良く分からなくなった。
いかんいかん。

>ローキックと同様になりますが、言いたいことは、足払いに対する防御技が
>法形として明記されていないのは、技術が失伝してしまって問題ではなかろうか?
>ということです。これについては、138Bさんはどうお考えなのでしょうか?

他武道の技に対しての防御法が少ないと言っているのかとも取れるのですが

>法形を、時と場合によって多彩に応用・変化させて良いというのが、
>少林寺拳法の良さなのではないでしょうか?

とも仰ってましたね。

「法形となっていて欲しいところが法形となっていないのに、応用ですむようなところが法形になっている。法形の命名の仕方が曖昧と感じる、技が多すぎる。」

と言うことでしょうか?もしそう感じるのなら、指導方法が悪かったのだと思います。技術体系に関することや、早い遅いの話しは以前の書き込みと変わりありません。

820 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 01:24
>>800>>801 rusher@seoulさん

>「どうやら開祖は、相手に握られた状態から自分の指を逃す守法を教えたくてこれを作ったらしい」
なるほど。面白い捕らえ方ですね。

>興味を持ったのは「開祖が▲▲を教えたくてこの法形を作った」という発想に対してです。
>ということは「この法形からは▲▲を学びとる」ということが重要になるわけです。
なるほど。ここで仰っている事は、ビスキュイさんが後に>>802>>818で仰られている「法形の意味(役割)は一つじゃない」ということにも繋がりますね。このような考え方・捉え方は、非常に興味深く、また納得できます。

>例えば、自分はその「他の方法」のカテゴリーの中に乱捕が入るとみなしていますよ。
先に白状致しますと、このようなご意見を頂けるのを待っておりました。私の真の主張は、実はここにあります。すなわち、「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」

ということです。私は最終的には、法形の不完全さを説きたいわけではなく、それを踏まえて、この「乱捕」論に議論を発展させていきたいと考えていたのです。しかしその議論に向かう前には、法形について十分な議論を踏んでおくべきだと思い、まずは先制のジャブのような気持ちで>>778の書き込みをさせて頂きました。

乱捕につきましては、また後ほど話題に上げさせて頂ければと思います。
まずは、トコトン(?)法形についての議論にお付き合い頂ければ幸いです。

821 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 01:30
>>807 アップルさん

>結局、法形=試験科目という痛い考えが最近蔓延してるんじゃないかと・・。
>あたらしい法形が増える=試験範囲が広がる
>っていう痛い考えになってるような悪寒。
昇級・昇段試験のあり方については、改めて議論の必要があるかも知れませんね。

>私は現状の法形の数でも十分楽しめてるし、これからどんな技を習うんだろうと
>ワクワクするし、習った技についてもっとおもろい使い方がないかと
>後輩に指導しながら考えてみたり、飽きることなく楽しいですねぇ。
なるほど。そのような考えや感じ方も、正直分かります。この辺りの話になると、本当に人それぞれの求めるモノによって違ってくるのでしょうね。

822 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 01:47
>>808>>819 138Bさん

>法形にあるから失伝しない=法形にないと失伝しちゃう
>とお考えのようですが、必ずしもそうではないと考えてます。

いえ。上記は私の考えではありません。丸廉のHPの「法形は何故こんなに多いのか?」のページで、そのように紹介されてあったのを引用したものです。私が言いたいのは、そういった引用を引き合いに出しながら、「でもそれだけじゃ説明がつかないよね?」とか、「矛盾してるよね?」といったように、指摘したかったまでです。(事実、138Bさんのここでのご発言は既に615期生さんのご意見と相反しておりますし)

要するに、ある法形の存在を正当化しようとすると、別のある応用技が法形として存在しないことの理由が説明できなくなる、ということを申し上げたいまでです。

>法形としてでなく、ちょろちょろとは出てきませんか?
(繰り返しになってしまいますので、これで最後にしたいと思うのですが)
法形としてちきんと命名しないと、次世代に伝える時に大変不利になってしまうのではないのでしょうか?まずは私の意見にご反論される前に、丸廉の以下のページについてどうお考えかをまとめて頂けると、議論が堂々巡りせずにすむのですが・・・。
  http://randorisiyou615.hp.infoseek.co.jp/page356.html

>もしそう感じるのなら、指導方法が悪かったのだと思います。
ビスキュイさんのご意見>>816を始めとして、「少林寺拳法の技術は問題ないけど、指導の仕方が悪い」といった発言はよく見られますね。(某2chでも・・・)では、なぜそのような悪い指導方法が蔓延してしまったのでしょうか?この問題をしっかりと見据えなければ、「他の道院はダメだけど、ウチは良いから無問題!」的な考え方で終わってしまう気が致します。

>お気に召さなかったみたいですね。
>通りすがりの休眠拳士さんと同じ価値観でないとだめか・・・
先の発言は、確かに言い過ぎだったかも知れません。申し訳ありませんでした。

823 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 01:58
>>812 Syamiさん こんばんは。

>これは興味深い。
>あなたはこの丸廉が何のための集まりだと理解なさっておいでですか?
外部からこの丸廉を見た者の感想としては、

丸廉は、
  少林寺拳法という素晴らしい武道を、
    もっと深く理解しよう
    もっと深く広く研究しよう
    もっと教え合い、学び合おう
    もっと堪能しよう、楽しもう
  といった志を持った、意欲ある方達の集まり
だと解釈致しました。

そしてその修練の過程の中でこそ、お互いを指摘し合ったり、少林寺拳法のイクナイところについて議論したり、より良くなっていくようみんなの力で少しずつでも変えていこう!といった活力が生まれてくるのだと解釈しております。

またそのような期待を持って丸廉を訪れたからこそ、138Bさんの794のような発言が、どうしても気になってしまったのかも知れません。

824 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 02:07
>>815 アップルさん

http://randorisiyou615.hp.infoseek.co.jp/manjikiso2.html
>守主攻従の技術体系を支えるもの
私も、このビスキュイさんの考え方には激しく激しく同意致します。

そして、こと柔法に関しては、特に攻撃する側がお粗末を言わざるを得ないのが現状だと思います。他武道の全ての技に習熟するのは到底無理にしても、例えば少林寺が三段であれば柔道の初段レベル、少林寺が四段であれば、柔道の二段レベルくらいの技は、身に付けておくべきなのかも知れません。

私の意見でも、他武道研究については非常に重要だと考えてはいるのですが、同時に反対意見も持ち合わせております。例えば、パンチの技術に高レベルで精通したボクサーであれば、キック、タックル、寝技などの技術は覚えずとも、パンチだけでも対応できるようになるのではないかと思います。

既にビスキュイさんの>>806のレスで、
>「千招を知る者よりも一招を得たものを恐れよ」
とありますが、私もこの言葉に同意です。

825 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 02:23
>>811さん こんばんは

>それは自分の稽古目的の違いだと思います。きちんとやりたい人は一つずつ時間掛けて練習します。
多くの支部・道院では、稽古時間や稽古のメニューが決まっているため、そうもいかないと思います。学校の体育館などを借りている道院では、居残りなどもできないため、尚更です。

>なにか時間に追われてる感じですね〜。短期間でずべてを体得しようなんてムーリなわけで。
>これも同様、減る理由がわからん。やること多いならなお楽しい。
>それともかなり時間が限られてる理由なんかあるのでしょうか?
単純計算ですが、10の時間で10の技を覚えようとすると、1つあたりに掛けられる時間は1ですよね?10の時間で2つの技を覚えようとすると、1つあたりに5の時間を掛けられるようになると思います。

811さんは、時間が無限にあるとお思いですか?

って別に、哲学的にムツカシイことを述べたいわけではなく、w
まず、上述したように、道院の稽古時間や場所などの環境によって制限されます。また、学生時代に部活で学ぶのであれば、3年もしくは4年というように期間が限られています。
社会人になっても続ければよいかも知れませんが、仕事の都合や、結婚後は家庭の事情もあって、2〜3週間に1回稽古に行ければいい方だったりして、ここでも学ぶ時間は有限です。

限りある時間を有効に使うべきだというのが、そんなに訳の分からない事ですか?

826 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 02:47
>>810>>813>>814 40前拳士さん こんばんは。

> <法形の数の多さについて>
>  以下略

ビスキュイさんのご意見と合わせて読ませて頂きました。

40前拳士さんのご意見を私なりに咀嚼して言い換えさせて頂くと、「少林寺拳法の法形は確かに技も多い、重複している技や、分化の意図が曖昧な技もある。だがそれは技法の習得の方法論の違いから生じる誤解であって、法形は帰納法的に技術を習得する為のものという観点から考えれば、決して矛盾した技術体系ではなく、むしろ非常に理に適ったものである」という考えになりますでしょうか?

つまり、私の意見の半分くらい(法形の技術の重複等)には同意して頂いているものの、その解釈の仕方に、違いを見い出されているということで宜しいでしょうか?

そうであれば、私も次の段階の意見を述べさせて頂きたいのですが、その前にビスキュイさんのご意見にもお答えしてからと致します。

> <対他流の技術>
>  以下略


私も40前拳士さんのご意見に同意致します。(先のアップルさんへのご返答にも書きましたように、私自身の中に反対意見も同居している考えでありますが・・・)

私は柔道を、小学校2年間と高校2年間、浪人時代の半年(これは余計か?w)と、計4年半かけて学んできまして、初段を取得しております。その経験から言わせて頂きますと、少林寺拳法の現在の柔道対策は、残念ながら極めて不十分であると断言できます。少林寺拳法の経験者には、是非柔道家との柔法乱捕を行ってみるのをお勧めしたいと思うほどです。

これには、今テーマに上がっている法形の問題もさることながら、他にも原因があると考えています。ただ今は脱線を避けるため多くは語るのを控えます。

> <失伝について>
>少林寺拳法を普及させる上で、
>危険な技を丸めているケースは他にも色々あるようです。

それは存じませんでした。柔術から柔道に変わった時の技の編成と同様ですね。一般に広く伝えるためには必要だったのかも知れませんね。

>「これくらい有効な技はないんだから、どうして教えない?
> 1000人入門して、いったい何人が5段になるんだ?」
坂東先生はそのように仰っていたのですか。これも初耳でした。坂東先生が今でもこのようにして、圧法で人をバンバン失神させていっていたら、誰も少林寺拳法は弱いなどと言わなくなるかも知れませんね。

827 名前: アップル 投稿日: 2004/03/04(木) 09:15
ん〜、私だけ話の論点がずれている模様。スマソ。

>そして、こと柔法に関しては、特に攻撃する側がお粗末を言わざるを
>得ないのが現状だと思います。他武道の全ての技に習熟するのは到底
>無理にしても、例えば少林寺が三段であれば柔道の初段レベル、
>少林寺が四段であれば、柔道の二段レベルくらいの技は、身に付けて
>おくべきなのかも知れません。
禿同です。柔道の段位はまぁ関係ないとして、少林寺4段の技を身につけているならば当然にその護身を身に付ける際に必要だった攻撃技も身につけていなけりゃおかしいですよね。と思うのです。

また、話がずれてしまうのですが、通りすがりの休眠拳士さんがおっしゃる通り柔法においては攻者の役割(攻撃)が明確になってない場合が多いですね。だから前にビスさんにやってもらった柔法における攻者の攻撃の確認っていうのが非常におもしろかった!!ハンマー投げ楽しい!!

あ、またズレタ??

828 名前: アップル 投稿日: 2004/03/04(木) 09:35
少林寺拳法の整法   
http://sports6.2ch.net/test/read.cgi/budou/1078317714/

整法スレがあがってるみたいですねー。元ネタがどうとかどうでもいいけど、それ自体がすばらしいものであるなら良し!

829 名前: Syami@Office 投稿日: 2004/03/04(木) 09:46
>>823

Correct! Very well.

830 名前: Syami@Office 投稿日: 2004/03/04(木) 09:52
>>828
アプール君。興味があるならばここを覗いてごらん。

http://home.kinsei.net/kinsei/syourinnji.html

831 名前: 138B 投稿日: 2004/03/04(木) 11:40
>>822

>丸廉の以下のページについてどうお考えかをまとめて頂けると、議論が
>堂々巡りせずにすむのですが・・・。
>  http://randorisiyou615.hp.infoseek.co.jp/page356.html


おや、できてたんですね。なんで私の所は読めなかったのか?強制リロードしたら現れるようになった、クッキーのせいか?なんで書きかけの題目について、煽ってくるのかと考えてたので・・・こりゃすみませんでした。

通りすがりの休眠拳士の論調は大元があって、だったらこうだよね、っていう書き方。その大元が見られなかったのでこうだよね、と言ってるように逆の意図に取ってました。

論点が完全にずれてたようです。

832 名前: 138B 投稿日: 2004/03/04(木) 11:42
おっと、訂正

>通りすがりの休眠拳士の論調は大元があって、だったらこうだよね、
通りすがりの休眠拳士さんの論調は大元があって、だったらこうだよね、

833 名前: アップル 投稿日: 2004/03/04(木) 12:22
>アプール君。興味があるならばここを覗いてごらん。
覗いてみました〜。初めて目にしたエピソード!おもしろいですねぇ。

もとは開祖が創案した少林寺拳法ですがそこで終わりじゃないし、元々中拳だったものを開祖が時代にあわせて少林寺拳法にしたように、拳士がもってきたイイ技術はどんどん取り込まれていくんじゃないかな。
義務はないんだろうけど、権利はあるんじゃないかな。どのような修行しても本人の勝手なわけだ。総合の研究がしたい。対柔道の練習を。空手の技を取り入れたい。なんでもできると思うのよね。

道から外れていなければ。




頭悪いので皆さんみたいに論ずることはできませんが、おれは楽しいから良し!で大体OKな感じ。。

836 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 14:43
>>826 通りすがりの休眠拳士さん

 こんばんは、RES有難うございます。すいません、40過ぎてました、わはは。最近は2ちゃんねるを覗くことも少なくなりましてや書き込みなんてめったにしないもので、自分でハンドルを変えたのをうっかり忘れてしまっていました。

 私の基本的な考え方は、貴方とあまり違いが無いと思います。ただ、私の方が志が低いというか、利己的と言うか、流派の教程は、それはそういうものとしてそのまま受け入れて頭の整理は個人的にやろうというのが基本的態度なので…本当はこういう受け身な姿勢は駄目なんでしょうけどね。

837 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 18:39
>>802>>806>>816>>817>>818 ビスキュイさん こんばんは。
(書き溜めていたレスを一気に投稿します)

>さて…通りすがりの休眠拳士さんのご意見を読んで私なりに纏めてみると,
> (中略)
>と理解したのですがよろしいでしょうか?(違ってたら言ってくださいね〜)
全く仰る通りです。

>まず「法形の意味(役割)は一つじゃない」
>については,「法形の役割は「公式」「例題」「学習意欲の持続のための課題」と
>言ったそれぞれの役割だけで割り切れるものではなく,それぞれでありその全てで
>もある」ということです。
なるほど。確かにそのように解釈すると法形が矛盾しているとは思えなくなりますね。

>「技の使い分け」という観点から考えた場合,直列の関係にある技は「相手
>の変化に応じて行う技が決まってくる」が,並列の関係にある技は「使いやすい技を好き
>に選んで使えや」ということになると思うのです。
この部分も分かります。私も何となくこういう分け方なら理解しやすいなぁとぼんやり思ってはいましたが、改めて言語化されたものを見ると、さらに理解が深まります。

>私はこの多面性こそが
>非常に少林寺拳法らしくかつ利点でもある点だと思うのですよね〜。武術でもあり宗教
>でもあり健康法でもある,一粒で二度も三度を美味しい,ああ素晴らしき少林寺拳法♪
>…思いっきり後付けかな?


いえ、全く後付けとは思いません。素晴らしいご理解・考え方だと思います。
なるほど、もっとも!と思わず唸るようなご意見を拝聴できて、嬉しく思います。
では、今度は、私の次の意見を書かせて頂きたいと思います。

838 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 18:40
つづき

私は>>778 以来、法形の不完全さについて繰り返し説いてまいりました。しかし、私が本当に主張したい事は、法形についてではなく、乱捕や法形の実践性についての問題なのです。

少林寺拳法を修める方達の間でよく言われているのが、「法形を乱捕で実践できない」「法形と乱捕が上手く繋がらない」「乱捕ではどうしても軍鶏の喧嘩になってしまう」そして、「少林寺が弱いと言われるのは仕方ない」と言うような批評です。これらの否定的な捉え方について、一般的に見れば、異を唱える方はあまりいらっしゃらないのではないかと思います。(ウチの道院は大丈夫、とかは抜きにして)

一体このように言われるのは何故なのだろうかと、ひたすら考え続け、その結果として、私は少林寺拳法に根ざす、根本的な問題に行き当たったのです。

結論から先に申しますと、

「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」

平たい言葉にすると、何とも捻りの効かない、有りふれた文句になってしまいますが、これが、私の主張の根源になります。この主張について論じる前に、まずビスキュイさんの、以下の部分を引用させて頂きます。

>少林寺拳法は「千招を知ることにより一招を見つけ出せ」という教授
>法をとっているのだと考えます。

教授法の違い。ここは40前拳士さんの>>810の方法論の違い(演繹法・帰納法)という考え方と重なりますね。仰っていることは非常によく理解できます。つまり、私が、少林寺拳法の法形が多いとか、重複しているとか、分化の意図が曖昧だとか言う主張に対し、これは技術の教授法の違いや、学ぶ側の方法論の違いからくる誤解である、ということですね?
私は逆に、少林寺拳法の技法の「教授法」や「方法論」こそ、最大の問題ではないかと考えているのです。

つづく

839 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 18:42
つづき

私は、よく少林寺拳法の教授法を、日本の学校英語教育の教授法と比較して、
以下のように考えます。
英語学習 少林寺拳法
英単語 基本(突き・蹴り)
連語・熟語 連攻
文法 法形
英会話 実線・乱捕
英作文 演武

いかがでしょうか?この例にご同意頂けるかは別にしても、少なくともご理解はして頂けるかと思います。

日本の英語教育というものは、ご存知の通り、中学校から大学まで一生懸命勉強しているのに、ほとんどの人はロクに英語を喋れるようになりません。英熟語や英文法についてどれだけ熟達していても、一たびそれを使って喋ってみるという段になると、「英文法を会話で使えない」「英文法と会話が上手く繋がらない」そして、「日本の学校英語教育では英語を喋れるようにならない」と言われるようになるのです。

英語の文法博士になることよりも、英語をコミュニケーションのツールとして使いこなせるようになることの方が、遥かに重要であるはずなのに、一向に文法偏重の英語教育は直りません。
現在の少林寺拳法は、英語教育と同様の轍を踏んでいるのではないかと思えてなりません。

つまり、法形をあれだけ練習してるのに実践できない。いざ乱捕となると、思ったように動けない。法形が乱捕で使えない。…少林寺の技は使えない。

このように書くと、「法形はそのまんまの形で使おうと思うな!法形は、乱捕では多様に変化・応用させて使うもんや!ゴルァ!!」という反論を受けそうですが、私の言っているのはその先の話です。つまり、たとえ法形を変化・応用させたとしても、思ったように使えていないということです。逆に、乱捕において、法形を多様に変化・応用させながら、自由自在に使いこなせていると思う人は果たしてどれくらいいらっしゃるのでしょう?

剛法だけではなく、柔法でも同様です。咄嗟にあらゆる形に対応できる人はどのくらいいるでしょう?自分より体の大きい人、力の強い人を小手投げで投げる(飛んでもらうのではなくて)ことができる人はどのくらいいるでしょう?柔道であれば、4月に入部して、秋に初段を取った高校生であれば、未経験者の白帯程度であれば普通に投げれる技術を身に付けています。

では、技を実践できないのは、少林寺拳法の技自体が使えないものだからなのでしょうか?(英語に喩えると、英会話ができないのは英文法自体が使えないものだからなのでしょうか?)

私の答えは否。少林寺拳法技術自体は素晴らしいものであるが、その技術習得の方法論、教授法に問題ありと考えるのです。

つづく

840 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 18:43
つづき

英語を例に取って考えてみます。
第五文型の1つ、SVOの第三文型を学ぶ場面を想像してみて下さい。

<少林寺の法形的教授法>
まずはSVO自体について教授します。さしずめ、Vは他動詞、Oは名詞や名詞句であること、Oの前に前置詞はつかないこと等でしょうか。次に、このSVOの変化形や応用形を教授します。たとえば、文頭に副詞句がついた場合、Oの前に形容詞がついた場合、文の前や後に接続詞節がついた場合・・・等々。例文をたくさん掲げて色々な角度から検証します。また周辺知識として、前置詞とは何か、自動詞と他動詞の区別についての説明がなされるかも知れません。そして最後に例文を声に出して発声するなどの練習で、結びになります。

仮に1時間の授業だったとしたら、これまでで60分全てを費やしてしまいます。(もし、会話を重視する先生であれば、文法の内容を少し削ってでも、最後の10分位は隣の席の人と、今日習った事を使って会話の練習をするなどの工夫をするかも知れません。)このような授業をミッチリ行う事で、生徒は文法に強くなり、語学としての幅広い豊富な知識が身に付きます。自動詞と他動詞の区別についてなど、先生顔負けの薀蓄を語れる生徒も育つかもしれません。

<乱捕・実践重視の教授法>
まずはSVO自体について教授します。内容は上とほぼ同じ内容になるでしょう。最初の20分くらいこのように基礎をしっかり学んだ後は、次に早速会話の練習に入ります。2人で、もしくは3〜4人のグループを組んで、今日習った事を使いながら、話す・聞くの練習をします。会話のテーマが出にくければ、先生が先導してあげてもいいでしょう。その自由な会話の中では、副詞や形容詞、接続詞節なども当然出てくるでしょう。また会話ですから、疑問文やその受け答え、否定文の形も登場します。先日習ったばかりの、関係代名詞を試しに使ってみる生徒も出てくるかも知れません。その生徒にとっても、それを聞いたの生徒にとっても、これは良い復習になることでしょう。

こんな会話の時間を残りの40分に費やすのです。そうして、生徒達の中でSVOの文型が血となり肉となって身についていくのです。


日本の学校英語教育は、明らかに前者の方法論をもって英語を教えています。そしてその結果として、英文法には詳しいが、全然英語を喋れない日本人が数多く育成される事になってしまったのは、改めて述べるまでもないでしょう。
それでは、現在の少林寺拳法はどうでしょうか?

つづく

841 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 18:45
つづき

今の少林寺拳法も、先述の英語教育と全く同様の道を歩んでいると言えます。たとえば、五花拳の1つ、片手投を例にとって考えてみましょう。

<少林寺の法形的教授法>
まずは片手投自体の形や術理を学びます。そして、右手の使い方や足の捌き方、体の入れ方、投げ方などを詳しく教えます。さらに、形としては、攻者の構えが何構えで守者の構えが何構えでといったことも教えます。この技は攻者が何をしようとして守者がどのように動こうとした時の技であるかを説明します。次にその変化形として、相手に掴まれた場合、握手してからの場合などをそれぞれ教えて、更にそれらの形の名前を覚えてもらいます。それが終わると、ようやく送片手投の説明に入ります。これは片手投とは術理が若干異なるため、また詳しく説明をします。その後、両手で掴まれた場合、諸手で掴まれた場合について説明し、やはり技の名前を覚えます。

その日の片手投の練習時間が仮に60分あったとしたら、しっかりやれば、以上までで時間がきてしまいます。ほとんどの場合、左右をする間もない内に終わってしまうでしょう。(もし実践を重視する道院長がいたら、最後の10分くらいは、乱捕の時間を設けて、相手と技を掛け合ってみるといった工夫をするかも知れません。)このような法形演練をミッチリ行う事で、拳士は法形に強くなり、少林寺拳法の他の技法との関係などの幅広い見識が身に付きます。「こうきた場合はこう返す」といった対処法については、道院長顔負けの薀蓄を語れる拳士が育つかもしれません。

<乱捕・実践重視の教授法>
まずは片手投と送片手投自体の形や術利を学びます。(両者は若干異なる術理を持つため別個で教授します)手の使い方や足の捌き方、体の入れ方、投げ方などを詳しく教えます。次は、早速投げてみます。投げ込んでみます。柔道で言えば、打ち込みや投げ込みといった学習ノウハウなのですが、これを何度も繰り返します。もちろん左右(左手を捕られた場合も)行います。この練習を30分もやったあとは、乱捕に入ります。相手は簡単には手首を取らせてくれませんし、掛けようとした際も投げられまいとしてきます。鉤手を使って防ごうとしたり、後ろから抱きついてきたりするかも知れません。更に抱きつかれた後に絞め技をしてくるかも知れません。掴んできた後、技に入る前に殴ってくるかも知れません。また、その乱捕の最中に、先日習ったばかりの引天秤系の技を試してみる拳士もいるかも知れません。使い慣れた逆小手や送小手で応戦してくることもあるでしょう。

このような実践練習を残りの30分間費やすのです。拳士達は、引天秤や逆小手、送小手その他の技との関連や、相手に防がれた場合や掛からなかった場合について体で経験しながら、片手投が血となり肉となって身についていくのです。

 ※ちなみに、攻者の構えが何構えでとか、相手がどんな逃げ方をした時の技でとかは教えません。これらは乱捕の中で、体で会得することができるからです。
 ※この例で挙げた技や、時間(30分とか)はあくまでも一例としてです。

両者を比べてみて、いかがでしょうか?(論点を分かり易くする為に、敢えて煽りっぽい文面にしてしまったことは お詫びいたします。)

つづく

842 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 18:47
つづき

かなり長々と書かせて頂きましたが、要するに私の言いたいことは、法形は乱捕で使えないとか、少林寺拳法の技は使えない、と言われる理由は、その技法自体に問題があるのではなく、教授法にあるということです。1つの術理を色々な角度から検証してみるのもいいですが、それはあくまでも技をより深く理解しようという行為でしかありません。それではいつまで経っても、実際に技を使えるようにはならないと考えるのです。

実際に技を使えるようにするための方法は、乱捕しかありません。(ここで言う乱捕とは、双方攻防自由乱捕のみを指すものではありません。攻防分かれていても、攻撃部位が限定であっても決して構いません。)

そして、乱捕を行うことによって法形を身に付けることを技術体系の主とするのであれば、今の教授論、技術習得の方法論も改めなければいけないでしょう。さらにそれを踏まえて、>>778から繰り返し述べてきたように、法形の分化の判断基準を明確にし、取捨選択を行います。おそらく開祖が纏め上げた理法を、現状の3分の1程度の法形の数で、後世に残す事が出来るはずです。その上で、現在の法形にない技術、ローキックや柔道対策についても法形として新たに開発し、取り入れていけばよいのだと考えています。

以上が、私の少林寺拳法への問題提起と、改善提案です。

さいごにつづく

843 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/04(木) 18:48
さいご

しかしながら、これまで138Bさん、アップルさん、ビスキュイさんが仰られているように、少林寺拳法に何を求めるかによって違ってくることなのかもしれません。少林寺をやる目的が、体育のため、健康のため、娯楽のためということであれば、私の考えは全く受け入れられないものなのでしょう。
しかし、護身術として、危急の時に「使える」ための格闘技術として少林寺拳法を考えた場合は、果たしてこのままでよいのでしょうか?
少林寺拳法に何を求めるかによって違うと言われれば、議論はここで打ち止めです。

最後に英語を例に持ち出すならば、英語をコミュニケーションのためのツールとして使いこなすことを目指すのか、それとも、英語をしゃべれない文法博士を目指すのか。皆様はどちらを目指すのでしょうか?

おわり

844 名前: Syami@Office 投稿日: 2004/03/04(木) 19:01
Fascinating and interesting!

845 名前: アップル 投稿日: 2004/03/04(木) 20:41
私の意見は使えても使わなくていい人間になりたい。希望としてはこの拳を振るうことなく一生を過ごせたらいいなと思っております。誰でもそうでしょ?やっている内容は自分でもわかっている。偽者ではないと。拳法修行自体が私のコミュニケーションツールになってしまてるのでw。ただ、少林寺拳法の本来の目的が護身格闘術の伝授であることでないのはしっていますよね?その技術は護身と言われているだけです。拳法のみのお話だったのでなんか私的には残念だなぁ。

結局乱捕りへのお話になりましたね!いい題材になったんじゃないかなー。丸廉のサイトを見てここまで考えている人もいるのはとてもうれしい。ぜひ通りすがりの休眠拳士さんには復帰していただきたいなぁ。いろいろ考えさせられました。みんなどっかでぶつかる疑問や問題だと思います。

>英語をコミュニケーションのためのツールとして使いこなすことを目指すのか
拳法をコミュニケーションツールとして使います!うふ!

846 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/04(木) 20:44
>通りすがりの休眠拳士さん

素晴らしい書きこみありがとうございます!いやホントに凄いと思います。ここまで考えてる方が休眠拳士とは実にもったいない!是非復帰をお願いしたいところです。さて…それでですね…今回の書きこみを読ませていただいて思ったのですが…,通りすがりの休眠拳士さんのご意見と私(や多分138Bさんやアップルさんも)の意見は同じにことを言ってるとしか思えないんですわ。通りすがりの休眠拳士さんの

「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」
を私風に言い替えれば
「技の応用や変化の考え方を法形から学び、乱捕で身に付けるべきではないか?」

となります。以下はちょうど今書き掛けていた文章なのですが,今回の話に合ってると思いますので載せたいと思います。(続く)

847 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/04(木) 20:46
(続き)
今回の話題はメチャクチャ盛り上がっており通りすがりの休眠拳士さんに感謝すね〜。さてさて,それで法形の変化・応用についてなんですが,私は

>法形を、時と場合によって多彩に応用・変化させて良いというのが、
>少林寺拳法の良さなのではないでしょうか

という通りすがりの休眠拳士さんの御意見には全面的に賛成なんです。むしろこの「変化の多彩さ」,そして「変化の早さ(速さ)」が少林寺拳法の技術の肝だと思ってます。ですがこのことは「法形の数が多い」ということは別に矛盾しませんよね?それと

>「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」
このことも法形の数が多いということと矛盾しませんよね?少林寺拳法を身につけるということは,個々の技の動きを習得することではなく個々の技の練習を通して「少林寺拳法的意識(思考)」を身につけることだと思うのです。いわゆる「原理・原則」というやつですね。個々の動きを身につけただけでは法形に存在しない動きには対応できませんが,「少林寺的意識(思考)」を身につければ初めての動きであっても「あ〜,少林寺拳法の視点から考えるとこの場合はこう動くのが合理的だな〜」と判断できるようになるかと思います。これのわかりやすい例としては「スレ建てるまでもない…マターリ版」でのCernyさんの書き込み(>>2845>>2848)が上げられると思います(Cernyさんがスリに狙われた時のお話)。ちょっと長いですが引用させていただきます。
(さらに続く)

848 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/04(木) 20:48
(さらに続き)
>ここで男Aは、より確実に私を足止めしたいと思ったのか、いきなり左手で私の
>左脚(膝の裏辺り)を掴んできました。状況がよく飲み込めていなくとも、掴ま
>れれば抜いてしまうのがショウリンジャーたる・・・・あ、私は現役では無かった
>(w ・・・・もとい、元ショウリンジャーたるもの。咄嗟に“抜かねば!しかし、掴
>まれた脚を振っても離しはすまい”と判断した私は、左脚を軸にして左回りに一回
>転し、男Aの左後方に位置する形となりました。そのせいで、私の背後から迫るはず
>だった男Bとは、少し距離を置いて正対する形となり、もはや背後から何かをスリ取
>ることは不可能。私としては、もし男Aがなおも手を離さないようなら、右脚を彼の肘
>辺りに裏から押し当てて、両脚で挟み込むようにして左腕を逆に決めてやろうかなどと
>も思っていましたが、目論見が破綻したことを悟った男Aはすぐに手を離し、何やら言
>い訳のようなことを言いつつ男Bとともに立ち去りました。

ということで難を逃れていらしゃいます。
この中の

>“抜かねば!しかし、掴まれた脚を振っても離しはすまい”
>と判断した私は、左脚を軸にして左回りに一回転し、男Aの左後方に位置する形
>となりました



>私としては、もし男Aがなおも手を離さないようなら、右脚を彼の肘辺りに裏から
>押し当てて、両脚で挟み込むようにして左腕を逆に決めてやろうかなどとも思って
>いましたが、

の部分。こういった判断が咄嗟に出るような考え方(とそれに伴う体のコントロール)を養うのが少林寺拳法の技術練習の目的だと思うのです。もちろんこれは法形の練習だけでは身につきませんよ。どうしたって乱捕り稽古が必要です。が…法形はこの「少林寺的考え方」の手がかりなのですよ。
(またまた続く)

849 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/04(木) 20:50
(またまた続き)
極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せるのです。原理・原則さえ把握していれば。技は「結果」なのです。しかしこの「原理・原則」は目に見えません。現れてくるのは「原理・原則」に基づいて行った「動きの結果」だけです。ここで技術の習得方法は二つに分かれます。
・ 「原理・原則」を代表するいくつかの技を徹底的に練習させて「原理・原則」を身につけさせ,その後に千の技へと展開させる。(一の理から千の変化へ)
・ 「原理・原則」ごとにカテゴライズされた多くの技を体験させることによりそれぞれの技に共通する「原理・原則」を体得させる(千の変化から一の理へ)

入り口が逆なだけでやってることは同じだと思うのですよ。んで今回の英語の話で言えば,法形は「文法の説明」であると同時に「豊富な短文用法例による会話練習」ではないかと思うのです。
しかし私は英語は苦手なので趣味のお菓子作りで説明せていただきたいのですが,本屋さんで売ってるレシピ集がありますよね?あれが法形です。そしてレシピの数はとても多いのですが,基礎となるケーキの種類はそんなに多くはないんです。スポンジ,タルト,パイ,シュー,まあこれぐらい憶えておけばあとは材料を変えることにより色々なケーキを作れます。けど…基礎のレシピをしか本に載っていなかったらそれ以外の材料を使ってみようとするのは結構勇気が要るんですよ。例えば普通のスポンジケーキは焼けるようになったけど「抹茶を入れたら?」「ココアを入れたら?」「ナッツを入れたら?」…。
この時に何も見ずに自分で色々試すのも一つの手ですが,レシピに幾つかの事例が載っていればより推測がしやすいですよね?「ココアを入れるときは…」と書いてあれば「あ〜,ココアでこれなら抹茶でもこれぐらいかな〜」という具合に。これが法形の役割の一つかと。つまり「変化のやり方(考え方)の手がかり」を与えてくれるのが法形なのだと思うのです。
(はたまた続き)

850 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/04(木) 20:53
(はたまた続き)
書けば書くほど通りすがりの休眠拳士さんと私の意見は同じに思えて仕方ないのですが,
通りすがりの休眠拳士さんのご意見は

        法形の数が多い
          ↓
     個々の法形を身につけるのに時間がとられる。
          ↓
それぞれの技の練りこみが足りなくなるし応用変化の練習にも入れない。
          ↓
だったら技を減らして基礎的な原理を身につけさせ,余った時間は練りこみや
応用・変化を各自にやらせるのに充てろや!

私の意見は
       法形の数が多い
          ↓
別々の技と考えたら時間が足りないのは当たり前!多くの技から共通する原理
を見つけ出して自分の中で組織化しろ!(この技はA-1,この技はA-2,A-3…)
          ↓
共通する原理を見つけ出せばある技の練習は同時にそれと同系統の技の練習をして
るのと同じ(A-1の練習はAという共通の要素を含むA-2,A-3の練習でもある)
だから時間が節約できるし,色々なやり方も教えてもらえてウマーッ!
          ↓
余った時間で練りこみや応用変化をやれや!

やっぱり結果は同じっぽいですね。
少林寺拳法の教授法は

>だったら技を減らして基礎的な原理を身につけさせ,

この部分を自分でやれと(別々の技と考えたら時間が足りないのは当たり前!多くの技から共通する原理を見つけ出して自分の中で組織化しろ!)。で,その作業をするなかで「少林寺的思考」を身につけろと。こういうやり方だと思うのですよ。だから私は「法形の数が多すぎる」とは思っていないのです。ただ繰り返しになりますが,やり方を間違えると通りすがりの休眠拳士さんの危惧する通りの事態に陥ってしまうと思いますよ。

以上

851 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/04(木) 20:54
私の意見はこのようになりますがいかがでしょう?

ちなみに138Bさんはどちらかというと通りすがりの休眠拳士さんの提案するやり方に近いやり方してると思いますよ。技の時間を削ってでも乱捕りの時間は絶対とるって言ってたような気がするし〜♪でも法形が多すぎるとは思っていない。面白いですね

852 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/04(木) 21:00
アップルさん。

>私の意見は
>使えても使わなくていい人間になりたい。
>希望としてはこの拳を振るうことなく一生を過ごせたらいいなと思っております。
>誰でもそうでしょ?
>やっている内容は自分でもわかっている。偽者ではないと。
>拳法修行自体が私のコミュニケーションツールになってしまてるのでw。
>ただ、少林寺拳法の本来の目的が護身格闘術の伝授であることでないのは
>しっていますよね?その技術は護身と言われているだけです。
>拳法のみのお話だったのでなんか私的には残念だなぁ

この意見はわかるし私も同意なのですが,ここでその言い方をしてしまうと些かマズイかと。
特にこの部分↓

>拳法のみのお話だったのでなんか私的には残念だなぁ

そう考えたならそれを理論的に説明しなきゃ〜。これも修行よん♪

853 名前: アップル 投稿日: 2004/03/04(木) 21:27
>そう考えたならそれを理論的に説明しなきゃ〜。
>これも修行よん♪

つっこまれると思いマスタ、何も考えずにだら〜と書いてしまいましたよー。修行か、書いてみたものの通りすがりの休眠拳士さんのお話につながらないなぁ。使えるようになりたい→その技を使いたいのようによくとってしまうんです。かなり論点がずれてます。スマソ。

今日ある方に少林寺拳法においては主役は指導者ではなく教えられるほうだ。といわれました。

>>だったら技を減らして基礎的な原理を身につけさせ,
>この部分を自分でやれと(別々の技と考えたら時間が足りないのは当たり前!多くの技から
>共通する原理を見つけ出して自分の中で組織化しろ!)。で,その作業をするなかで「少林
>寺的思考」を身につけろと。こういうやり方だと思うのですよ。だから私は「法形の数が多
>すぎる」とは思っていないのです。
この意見に禿同です。だからこそその人なりも面白い少林寺拳法ができるのかと。ただ、前に書き込みにも書いたように。昇級、昇段がものすごい早い支部(うちもです)では、拳士が受験生化(合格すればいい)、指導者が塾の先生(試験が通ることに重点をおいた指導)支部事態の予備校化が。。言いすぎでしょうか?
試験に通るためだけのキレイ目ななんとなくできてるように見えるくらいのレベルでその技が終わり次に進むといったことや。試験に出ないからと技を飛ばされたり、なかなかその「試験準備」と言われる期間は深く数を掛けて法形演練をすることができない。乱捕りもできない。ましてや演武なんてやらせてもらえない。鬱死。

以上の現象って皆さんの支部ではまったくありませんですか?年末ぐらいからつい先日まで試験オンパレードだったのでちょっとストレスたまってます。私だけでなくほかの受験拳士も。

その受験対策として法形が多いんじゃないの?といわれたのかと思ってましたのであとあとのカキコを読むまではわかりませんでした。今は納得。。主役であるはずの拳士が高速試験インターバルに振り回されているようで、なんとかできないものかと支部長に相談中です。

854 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/04(木) 21:39
アップルさん

>昇級、昇段がものすごい早い支部(うちもです)では、拳士が受験生化(合格すればいい)、指導者が塾の先生(試験が通ることに重点をおいた指導)
>支部事態の予備校化が。。言いすぎでしょうか?

>以上の現象って皆さんの支部ではまったくありませんですか?
>年末ぐらいからつい先日まで試験オンパレードだったのでちょっとストレスたまってます。
>私だけでなくほかの受験拳士も。


痛いほどよくわかりますよ〜。私も偉そうな内容を書いてますが自分で言ってることが完璧に出来てるわけじゃないし〜,試験が近い拳士には取り敢えず形だけでも教えてしまうことはあるし〜。でもせめて私が指導する時には「ほら,この技は前にやったあの技と同じでしょ?だからこの技の練習をする時は同時にあの技の練習にもなってなくちゃいかんのだよ〜」とか「どう?この技のこの部分は何かに似てない?そう、振子突の動きだよね。だから基本の振子突はこの技の練習でもあるんだよ〜」というような指導をするよう心掛けてまふ〜。

855 名前: アップル 投稿日: 2004/03/04(木) 22:42
>というような指導をするよう心掛けてまふ〜。
いいですね!カコイイ!

すでに受験生化してしまった拳士が何人もいるのですが、それぞれがとても練習が楽しくなさそうで、逆に私のほうが苦しい。けど受験生拳士は、1〜10まで本気でやらなくても3〜5くらいをなんとなくできればやり過ごせると思っている模様。

逆に必死に取り組んで試験をうけようとがんばっている拳士は、この試験期間に不満がある模様。
練習メニューが思う通りにはならない先輩拳士がこの後輩拳士たちが楽しく練習できるには何ができるんだろうかと助士になってからずっと考えてます。だから丸廉は私には必須なんですよね〜。少しずつ支部長と相談していろんなネタおろししていったり。

皆さんは楽しく練習するためにどんなことに取り組んだりしてますか?

856 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 02:01
 通りすがりの休眠拳士さん、
 素晴らしい問題提起、どうも有難うございます。英語学習との比較、非常に刺激になりました。その上で、貴方との考え方の共通点と相違点が少しだけ見えてきたような気がします。

 実は、私は米国在住です。最初の2年は大学院の学生で、英語では散々苦労しました。そのときにやはり、「日本の英語教育は…」ということを考えましたが、日本で指摘されている、日本の英語教育の問題点は殆どが的外れだということです。

(続きます)

857 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 02:47
 よく言われることが、「日本人は読む・書くは出来ても、聞く・話すが出来ない」ですが、これは完全に誤りで、本当は、日本人は読む・書くも出来ないんです。

 「読む・書くが出来る」というのは、 散髪屋で順番を待っている間に、置いてある雑誌2〜3冊に目を通し 「へー、きょうびの若い子はこういうことを考えているのか」と思う、そういうことです。私たちも、日本語では当たり前のようにやっていますが、英語で出来る人は少ないんじゃないでしょうか?

 読みがこのくらい出来れば書けるし、別に「英語耳」とかじゃなくても聞き取りは出来るし、発音は「サンキュー・ベリーマッチ」式でも通じます。

(続きます)

858 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 03:16
 では、日本の英語教授法の何が問題かと言うと、「練習量」が圧倒的に足りないことだと、確信を持つに至りました。

 一つは読む文章の量です。お聞きになったことがあるかもしれませんが、アメリカの大学院の宿題というのは半端な量ではなく入って最初の半年で読まされた量は、日本で中学校以来読んだ英文の量の合計よりも多かったと思います。

 次に、単語の量です。これが圧倒的に足りない。大学入試用の単語集なんか、全部完璧に覚えてようやく初歩です。日本語でも「字眼」といいますが、キーワードを知っていれば一言一句全部が聞き取れなくてもポンと分かるし、皆まで言わずともポンと伝わるんです。

 もし私が、真剣に英語を勉強したいという人に教えるとすれば、出来るだけ大量の英文を読ませて、出来るだけ沢山の単語を暗記させます。ザッツ・オール、難しいメソッドは要りません。

(続きます)

859 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 03:28
 もう一つ大事なポイントは、動機というか、どれだけ必要に迫られているかの切迫感です。

 大学院で勉強していると、とにかく読み・書き・聞き・話し、全部やらないといけない。出来るか出来ないかではなくて、やらなければいけない。やらなければ落ちこぼれて退学、ですから。

 更に、卒業して仕事を始めてからは、もっと真剣です。交渉して相手をうんと言わせなければなりませんから。出来なければ、生き残れません。大学院の2年間に英語力はかなり上達しましたが、仕事を始めてから、更にぐっと伸びた実感があります。

(続きます)

860 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 03:45
 で、武道・武術の話に戻りますが…

 要するに、上達のカギはメソッドそのものにあるのではなく練習量と切迫感にある、そう私は考えています。勿論、メソッドは大切ですが、練習量と切迫感があればメソッドも真剣に追求するようになるのが自然な成り行きだと思います。

(続きます)

861 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 04:05
 以下は、極論ですが…

 本当の意味で護身術を身につけようとしたら「場数」も踏む必要があります。第3種お神楽(笑)というのは、実は本当は非常に有効な訓練です。どんなに道場で強くても、イザという時には足がすくむのが普通ですが、ある程度場数を踏むと、或る程度冷静になれます。

 これは「自信」というのともちょっと違うような気がします。ヤク中の男に、拳銃を後頭部に突きつけられて、カチッと撃鉄起こされたりするとこりゃ「自信」の余地なんて無いですから。要するに「ま、死ぬときゃ死ぬんだし」と思えるかどうかです。

 幸い生きてますから、良い経験になったと思いますし、こんな減らず口も叩ける訳ですが…でも、最後まで冷静であることが生存の確率を極大化する方法だというのは間違いの無いことでしょう。

(続きます)

862 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 04:17
 私は、武道にせよ、護身術にせよ、もっとも大切なのは「錬胆」だと思っています。「あらゆる攻撃に対応出来る技術体系」なんてあり得ません。それよりも、非常時の冷静さを身につけることの方がよっぽど重要だと思います。

 でも、そういうものって、和気藹々とした練習で身につくわけがありません。私が乱捕試合復活論者なのは、「身の危険を感じる機会を、出来るだけ安全に提供する」(笑)という趣旨です。命まではとられないが、気を抜くと大怪我をする、そういう修行は「錬胆」のために不可欠だと思うのです。

(続きます)

863 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 04:36
 「あらゆる攻撃に対応出来る技術体系はあり得ない」について、もう少し。

 「タックルされたら?」「マウントポジションをとられたら?」そういう問題提起もよく見かけます。私が拳銃を突きつけられたときに思ったことは「そういえば、少林寺では対拳銃というのは習わなかったな…」ということでした。

 相手が拳銃だったらどうしようもない、出来るだけ騒がず、相手を刺激させないように従う、これが確かに大原則です。でも、実際にそういう目に遭ってみて分かったことはその大原則もちょっと違うかなぁ、ということです。

 相手が金だけとっておとなしく退散してくれればいいですが、ヤク中で理性を失っている場合は危険が大きいし理性があっても、証人隠滅のために殺害されることも多いのです。だから、もし雲行きがさっと変わったときにはダメ元で反撃しなければ殺されます。で、どうやるのが一番良いか頭をめぐらしていたときに、私は拳銃について何も知らないということに気がつきました。相手の正面に回った方がいいのか、裏に回った方がいいのか、捕り方は逆小手がいいのかS字がいいのか…
 
 今は日本にも拳銃があふれていますから、決してあり得ないシチュエーションではないですよ。そして、マウントポジションだとタコ殴りにされるだけですみますが、脳みそスイカみたいに飛ばされるのはちょっといやでしょ?

(続きます)

864 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/05(金) 04:52
 もう一度、最初の論点(教授法)に戻ると、一般コース、競技コース、護身術コース… のように生徒をコース分けするのも一案かな、と私は考えています。

 競技についても、あくまで研究の一環として、という考え方は成り立ちうるのではないでしょうか?
 研究の一環として、他流の大会に挑戦する人を応援するだってあっていい。

 護身術コースについては、或る程度修行を積んだ人に対して拳銃も含めた対武器術も含めて教える。対武器術である以上、武器そのものの講義も含める、とか。私は拳銃について全然知りませんでしたが、レボルバーはどういうものでオートマチックはどういうものかどのくらいの力が入れば引き金が引けるのか、などなど色々勉強しました。)

 長文になり、また議論が必ずしも噛み合っていませんが、こんなことを考えている拳士もいるということで御勘弁下さい。

865 名前: 138B 投稿日: 2004/03/05(金) 16:47
通りすがりの休眠拳士さんの言わんとすることはよ〜く分かります。あ、いや、分かってないのかな?1回流して読んだだけなんで、また逆説的にお話しされていたりすると誤解しているところがあるかもしれません。

ご提案する教授方法は普通やってると思いますが、そうじゃ無いのかな?Syamiさん所なんかもそうなんじゃないのかと、いやもっと恐ろしいかも?ただ、限られた時間なんでってところが問題ですね。まさに40過ぎ拳士さんの言っている通りなのです。

法形をさーとやって、それを使って乱捕りをする。始めは1つ、そのうち手駒が増えて色々使えるようになりますよね。そうすると、今度は「これで受けてやろうか」と考えるようになる。でも相手は思うように攻撃してくれないわけで、色々工夫する。だんだん使い方がこなれてくる。そのうち一見上手く行くようになると、今度は攻者が意地悪をしだす。という感じで進める現在の少林寺の教授方法の何処に不満があるのか?

色々ためす手駒の中の法形は決して多いとは思いません。そうやって考えた場合に、ローキックに対する法形ってどんな風にするのか実は私には思いつかないのです。ローキックに対する対処方法という意味ならいいけど、流れの中で使うのにはどうなのかな?と、

またずれてるかも知れないので、そしたら聞き流してやってください。

866 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 01:38
>>845>>853 アップルさん こんばんは

>使えても使わなくていい人間になりたい。
>希望としてはこの拳を振るうことなく一生を過ごせたらいいなと思っております。

勿論私もそのように思っています。おそらくアップルさんは「使える」という言葉の意味を、私とは違って使用されていると思います。私の言う「使える」とは「実践できる」「運用できる」という意味です。技を運用できないよりも、運用できる方がいいですよね?

>拳法のみのお話だったのでなんか私的には残念だなぁ。
ここもちょっと私の言いたい事が誤解されているような気が致します。私が何だか徒に「強い/弱い」の技術論ばかりを論じているように、アップルさんには受け取られているのでしょうか。(´・ω・`)ショボーン

867 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 02:40
>>846->>851 ビスキュイさん こんばんは

こちらこそ素晴らしいご意見を伺えて、光栄に思います。復帰は…そうですね。今やっている武道で三段くらいを頂けてから…。でもってまずは柔道に復帰して同じく三段取得を目指す。そんでもってその後に少林寺にも復帰ッスかね?(12%くらい本気w)

>通りすがりの休眠拳士さんのご意見と私(や多分138Bさんやアップルさんも)の意見
>は同じにことを言ってるとしか思えないんですわ。

確かに、ほとんどの部分は共通の意見になるかと思います。技術を身に付けるための手段として乱捕すべきだ(法形だけじゃダメ)という部分も、全く同意見かと思います。私とビスキュイさんとで異なる(と思われる)部分は、ほんのわずかな箇所にまで煮詰まってきたと思われます。以下に、私が述べたいポイントをまとめておきます。

 〜ビスキュイさんと私の意見の相違点〜〜
   1、法形の多さについての認識
   2、少林寺習得のための方法論
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以下のレスで、1と2それぞれについて意見を述べさせて頂きたいと思います。

つづく

868 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 02:43
つづき

まず「1、法形の多さについての認識」について。

>この「変化の多彩さ」,そして「変化の早さ(速さ)」が少林寺拳法の技
>術の肝だと思ってます。
>ですがこのことは「法形の数が多い」ということは別に矛盾しませんよね?
>>「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」
>このことも法形の数が多いということと矛盾しませんよね?
ここは矛盾とは言わないまでも、一致はしないのではないかなと思います。

なぜならば、法形の多い理由の1つは何であったかを考えてみて下さい。拳士に「技の変化・応用(のための手掛かり)を与える」ということですよね。私の意見では、「技の変化や応用は、法形から教えてもらう必要はない」と考えています。理由は、これまで何度も申し上げてきた、乱捕による習得の法を重視するからです。
従いまして、法形が多いというのは、術理とその変化・応用を身につけるためにはどうしても「過多な」要素なのです。そしてその過多な要素は、無限ではない稽古時間の中では、ある意味では「障害」となっているのと考えます。

つづく

869 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 02:44
つづき

法形が多いことの障害は、もう1つあると考えています。より正確に言うならば、法形が多いことよりも、むしろ法形で変化例・応用例を例示してしまっていることによる障害です

つまり、法形で技の変化の仕方や応用の仕方を細かく例示してしまっていることにより、「この動き以外のものは間違っている」といった認識を招く危険性が高いということです。(あくまで危険性が高いという言い方をしたことにご注意下さい)

具体的に言えば、法形は「攻者がaという攻撃を仕掛けてきた場合のAという技は、攻者がbという逃げ方をしてきた場合はA−1という技に変化させよ。攻者がcという逃げ方をしてきた場合はA−2という技に変化させよ。攻者と守者の間合いがdとなった場合はA−3という応用技を行え。守者の体勢がeとなった場合はA−4という応用技を行え。もし攻者が、最初にa'という攻撃できたならば、Bという技に変化させよ。その際、攻者がb'という逃げ方をしてきた場合はB−1という技に変化させよ・・・・・・エトセトラエトセトラ」という例を示してしまっています。

それ故、まず拳士はそれを覚えることに尽力しなければなりません。その変化技を何度も練習し、技名を覚え、「こう来たらこう返す」という「意図・理由」や、「その裏に潜む意味」を考えます。そして、守者の体勢がeとなった場合は、A−1でもA−3でもなく、A−4を用いなければならない理由を考え、その理由に納得し、いずれは、少林寺拳法の法形の合理性に感激すら覚えることになります。そして、このような傾向は、高い段位を持ち、少林寺拳法を深く研究している方に特に見られるように思えます。

しかし、その行為が、法形の変化の可能性を狭めてしまっているのではないかと思うのです。つまり、法形を研究すればするほど、「これがコレコレなのは、こういう理由からなのだ」→「こういう理由で、これはコレコレする必然性があったのだ」という考えに陥りやすくなっていると思います。それが転じて、「こう来たらこう返すべきだ」との固まった理屈となり、最終的には「それは少林寺ではない」などのことを仰る高段の先生方が増えてしまうことにも繋がってしまうと思います。

ビスキュイさんには大変失礼な事を申し上げますが、ビスキュイさんですら、上記のような傾向が全くないと断言できますでしょうか?(もし完全に断言できるのであれば、ご遠慮なく仰って下さい。私の無礼を謝ります。)

この投稿をご覧の方の中でも、「俺はそんなことはない」「ウチの道院は大丈夫だ」という方はいるかも知れませんが、少なくとも少林寺拳法に内在する特徴として、上記のような「危険性」が挙げられるのではないかと思います。もともと、丸廉のHP上で、「法形は応用・変化させてもよい!むしろさせるべきだ!!」などという主張が声高に叫ばれていること自体が、他武道の人間から見れば、甚だオカシナことなのです。
 「なんでこんな当然のことが、敢えて提言されているのだろう…」
その理由は、一般的な少林寺拳法家が、よほど法形の応用・変化に不寛容だからなのではないでしょうか?


考えを整理しますと、法形が(重複がある故に)多いことは、
 ・過多な要素であり、それゆえ有限な時間の中では、習得・実践・応用が阻害される。
  (もし時間が無限であれば、上記は問題ではありません)
 ・具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れる。
  (実際、非常に多くの拳士・先生方が陥っております)
というような弊害があるというのが、私の考えです。

ビスキュイさん&皆様、いかがでしょうか?

つづく

870 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 02:45
つづき

続いて、「2、少林寺習得のための方法論」について。

ビスキュイさんが、>>847>>850で仰られているご意見を私なりに整理させて頂きますと、以下のようになりますでしょうか?

 主張:咄嗟の判断力や体のコントロール能力を養うために、「少林寺的思考」を身に付けよ。
     - 法形は、これに気づくための手掛かり
     - 乱捕は、これを身に付け、練り込み、応用させるもの

では、以下に私の方の意見をまとめさせて頂きます。

 主張:咄嗟の判断力や体のコントロール能力を養うために、「少林寺的な身のこなしや思考法」を身に付けよ。
     - 法形は、これに気づくための手掛かり
     - 乱捕は、これを身に付け、練り込み、応用させるもの

以上です。
早い話、この時点では私とビスキュイさんは全くの同意見だと思います。私は「少林寺的思考」という言葉を使わなかっただけで、その意味するところは、ハッキリ言って、これでもかっっ!っていうくらい、同意見です。

では私は、どこが違うと考えているのか。

この点についての意見を述べさせて頂く前に、少しだけ前提条件の確認をしたいと思います。咄嗟の判断力や体のコントロール能力を養うために、「少林寺的思考」を身に付けよとありますが、そのためには、少林寺拳法の技法自体をよく習得し、自分のものとし、そして運用できる必要がありますよね?少林寺の技もロクにできていないのに、少林寺的思考が身に付くはずもありませんよね? この点、ご確認頂けますでしょうか?もし違ったら仰って下さい。

上記にご同意頂けるのであれば、私とビスキュイさんのご意見の相違は、次の点に絞られるかと思います。すなわち、

  「少林寺拳法の技法を身につけるための方法論の違い」

となるかと思います。平たい言葉で言い換えますと、「法形と乱捕の比重の違い」とも言えるかもしれません。

つづく

871 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 02:45
つづき

技術を身に付けるためには、ビスキュイさんは「法形たくさん、残りは乱捕」とお考えで、私は「法形少し、残りは乱捕」と考えております。明らかに私の方が乱捕重視です。ではなぜ、私は乱捕重視なのでしょうか?

私なりに考えを突き詰めますと、以下のようになります。

 1、技の変化や応用は、乱捕でも身に付くと思うから。(むしろ乱捕の方が多く身に付く)
 2、実践、運用できる技は、乱捕でしか身に付かないと思うから。

1だと私が思う理由は、>>841での「片手投」の例を思い出して頂ければと思います。自分から捕った場合と相手に捕られた場合など、わざわざ別の技名で教えなくとも乱捕で十分に気づくことができます。これは剛法の場合にも顕著です。たとえば、内受蹴を実践する練習の中に、振天二も内押受蹴も、さらにその他の諸々の攻撃に対する足刀反撃の要素も含まれているのです。

逆に法形の役割は、乱捕だけではできないことを教えることです。すなわち、片手投という技自体の術理や、片手投と送片手投の違いなのです。

2については、私の体験からなのですが、法形だけでは運用できる技は決して身に付かないと言うことを、痛切に感じております。

私は大学時代に少林寺拳法を修めており、私の大学はワリと乱捕を重視して練習しておりました。その大学での練習のことですが、少林寺歴6年で三段を持つ一年生と、少林寺歴8ヶ月(途中入部)で2級の二年生が乱捕をして、一年生が二年生に何も出来ずにやられていた風景を目の当たりにしてきました。また別の時には、少林寺歴11年で三段の三年生が、少林寺歴1年半で初段の二年生にボコボコにされているのも見て参りました。

自分よりも経験の遥かに浅い拳士に、手も足も出なかった三段の彼らは、一たび法形や演武をやらせると、それはもう、もの凄く上手なのです。しかしながら、残念ながら彼らの通っていた道院・高校では、乱捕をほとんどしてこなかったのです。これでは、いくら法形・演武が上手に出来ても、乱捕を数ヶ月でもちゃんと行なった人と渡り合えるはずもありません。

しかし上記のような体験は、決して珍しいものではないでしょう。某巨大掲示板でも、この類の経験談は、あとを経ちません。一般の少林寺拳士は、技を身に付けるための練習量が圧倒的に足りな過ぎると、私はハッキリ申し上げたいと思います。

つづく

872 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 02:46
つづき

補足です。

方法論ということで言うと、演繹法と帰納法がよく論じられていますが、少林寺拳法の技法習得という件に関しては、これはあまりよい区別の仕方ではないかと思います。

なぜなら、私の主張する乱捕論では、まずは演繹的に、ルールを法形で学びます。続いてそれを乱捕で実践しまくります。運用しまくります。応用しまくり、変化しまくります。そうして、演繹的なルールを乱捕の場で数多く実践することによって、今度は帰納的に、1つの原理・原則に戻っていくと考えるからです。

以上です。

873 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/06(土) 09:03
わかってきた,段々わかってきましたよ〜相違点が!これからちょっと出かけるんでレスは後ほどになりますが,多分ですね,私と通りすがりの休眠拳士さんがそれぞれ練習メニューを組んだら,結局のところ内容も時間配分非常に近いものになるんじゃないかな〜と思いますよ♪で,一つだけレスをしておきますと,

>それが転じて、「こう来たらこう返すべきだ」との固まった理屈となり、最終的には
>「それは少林寺ではない」などのことを仰る高段の先生方が増えてしまうことにも
>繋がってしまうと思います。
>ビスキュイさんには大変失礼な事を申し上げますが、ビスキュイさんですら、
>上記のような傾向が全くないと断言できますでしょうか?(もし完全に断言できる
>のであれば、ご遠慮なく仰って下さい。私の無礼を謝ります。)

あははは〜。謝っていただくことはないですよ〜。よくありますもんね〜この傾向。まあこの傾向は自分にあるかどうかは自分ではよくわかりませんが,私の根本的な意見はこれね↓

極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せるのです。原理・原則さえ把握していれば。…やっぱり通りすがりの休眠拳士さんと同じやん…

874 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/06(土) 23:27
私のところでは、乱捕りは時間外の自主トレです。ゆえに結構自由にやれます。まず、自由乱捕りをします。その後、それを踏まえ、弱点補強のため受け返しを練習します。で、その時、私が整理した受け返しを練習し、それはこの法形の応用だよといい、最後にそれでしめます。乱捕りをしない日は、まず今日の法形を復習し、そのあと、応用を研究します。

875 名前: 名無しさん@いらっしゃい 投稿日: 2004/03/06(土) 23:29
昔は、乱捕りと法形がつながっていませんでしたが、いろいろ考えてつなぎました。
頭を固くしてはダメですね。体動の真理を見つけないと。

876 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 23:34
>>856>>864 40過ぎ拳士さん こんばんは。
素晴らしいご意見を有難うございました。英語の習得についての話なども
大変興味深かったです。

> 「練習量」が圧倒的に足りないことだと、確信を持つに至りました。
全く仰るとおりだと思います。
少林寺拳法の話に戻しますと、法形・演武の練習量までも少ないかどうかは分かりませんが、少なくとも乱捕の練習量の少なさは目を覆うばかりです。私が、これまでしきりに、「時間の少なさ」を問題視してきた理由も、そこにあるのです。つまり、一般的な少林寺拳士が、「これくらいで十分だろう」と思っている練習量は、私にとっては「全然足りない」量なのです。


> 要するに、上達のカギはメソッドそのものにあるのではなく
> 練習量と切迫感にある、そう私は考えています。


この点について、逆に40前拳士さんにお尋ねしたいのですが、少林寺拳法にはこの練習量と切迫感がないとお考えなのでしょうか? つまり、少林寺拳法では「法形が乱捕で使えない」とか「少林寺の技は使えない」とか「少林寺は弱い」とかといった批判がよくされておりますが、その原因は、ここではないか、とお考えなのでしょうか?

877 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/06(土) 23:35
つづき

> 私は、武道にせよ、護身術にせよ、
> もっとも大切なのは「錬胆」だと思っています。
> 「あらゆる攻撃に対応出来る技術体系」なんてあり得ません。
> それよりも、非常時の冷静さを身につけることの方が
> よっぽど重要だと思います。


激しく同意です。この点については、おそらくビスキュイさんを始め、ほとんどの
方が同意されるのではないでしょうか?

> 私が乱捕試合復活論者なのは、
> 「身の危険を感じる機会を、出来るだけ安全に提供する」(笑)
> という趣旨です。

おわ、ついにこの論にまで来てしまいましたね。「乱捕試合は果たして必要か」との論争(?)ですね。私もこの点については、正直語りたい部分が多々あるのですが、脱線しないためにも自粛致します。(後ほどお話できたらいいですね)ただし、2行目のご意見に関しては、ほぼ全面的に同意です。

> 私が拳銃を突きつけられたときに思ったことは
これは大変な目に遭われたのですね。((((((; ゚д゚)))))ガクガクブルブル

確かに、対武器については考えたことはあっても、対拳銃というのはほとんど考えたこともありませんでした。対拳銃の訓練を多くの時間を掛けてまで、つまり他の練習時間を削ってまで、行う必要があるのかというのは現在の日本では分かりません。しかし、拳銃についての予備知識・基礎知識くらいは教えられてもいいかも知れません。

878 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/06(土) 23:43
基本にしても、昇段用普通基本と、自分用基本に分けています。さすがに、自分用基本は自主トレでしかしませんが、乱捕りでは使います。そして昇段用基本を練習しても自分用基本に反映するように組み立てました。
道場では基本を多くしていると「空手で無いから」と陰口を言う人がいるので、見せません。ただ、体験上基本を多くすると、体が自由に動きます。そして、ウエートをしすぎると、筋肉が邪魔をする部分で動きが悪くなることもあります。ベンチで言うなら体重の150%、スクワットは体重なみ。デッドリフトは体重の2倍ぐらいで抑えておくといいと思います。スクワットはやりすぎると、(私個人は)蹴りや土台のバランスが崩れました。少林寺ではトーナメントを戦い抜くことがないので、腕立てを回数するより、週に3回ウエートするほうがいいように思います。拳たて、馬歩も少しでいいからするといいと思います。私の個人的考えなので無理にはお勧めしませんが。

879 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/06(土) 23:51
>「あらゆる攻撃に対応出来る技術体系」なんてあり得ません。

私はそれを目指しています。少ない技をあらゆる局面に対応できるようにリファイン中です。現実に可能か不可能化は別にして(最後は運)ナイフを首につけられたとか、ロープを首に巻かれたとか、拳銃を突きつけられたらどうするか、そういう技に会わないためにはどう拳銃をかまえるか、常に状況を想定するからこそ、ここ一番で冷静に慣れるのだと思います。「このパターンは練習ではこうやった」という風に。ただ、対武器は死ぬ可能性はある思います。ほかに道が無ければやるしかないでしょう。後は運。私は、シュートが出来た頃から対タックル、対寝技を考えていました。

880 名前: アップル 投稿日: 2004/03/07(日) 00:06
あら?2004って付いてないなぁ。
>自分用基本は自主トレでしかしませんが
赤影さんは自主トレはどこで??

>腕立てを回数するより、
>週に3回ウエートするほうがいいように思います。拳たて、
>馬歩も少しでいいからするといいと思います。
>私の個人的考えなので無理にはお勧めしませんが。
いや、なんか妙に納得してしまいましたw

881 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/07(日) 12:52
>>876 通りすがりの休眠拳士さん

 RES、どうも有難うございました。 貴方が大変精緻な論考を展開されているところに私の返信はちょっとズレたものだったかもしれません。どうぞ御容赦くださいませ。

>少林寺拳法にはこの練習量と切迫感がないとお考えなのでしょうか? 
>つまり、少林寺拳法では「法形が乱捕で使えない」とか「少林寺の技は使えない」
>とか「少林寺は弱い」とかといった批判がよくされておりますが、その原因は、
>ここではないか、とお考えなのでしょうか?
 これは、道院ないし拳法部による(つまり、指導者の方針による)と思います。私が卒業した拳法部では今でもバンバンやってるようですし、道院でも毎回しっかりやっているところはあるようです。(最近の事情をこの目で見ているわけではありませんので 「ようです」としか言えないのですが…)

(つづく)

882 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/07(日) 12:53
 練習量については、少なくとも私の知っている範囲では、乱捕(組手・スパーリング)って
 練習量の多いところ(道院・道場・流派)の方がかえって安全です。
 練習量の多いところは、まさに練習量を増やすためにみんな力の抜き方を教えられているからです。
 そういうところでは、黒帯の指導員とスパーリングするよりも帯に色がついて組手を始めたばかりの人とする方がイヤなものだったりします。

 切迫感については、これはもう100%指導者によるんじゃないでしょうか?先生が口を酸っぱくして「そんな突で倒せるか!」「そんな受で防げるか!」と厳しくやっているところは、基本の練習ですら全く違うでしょう?そういう練習をしているところなら、法形の練習でも攻者に思い切り踏み込ませて打たせますから間合が遠くて突が届いてない、なんてことはありません。そういう環境で練習していれば「こんな練習していて強くなるんだろうか?」などと言う疑問が湧く訳がありません。逆に言えば、そういう疑問が出てくるようなら、切迫感が無いということですね。これは、技術体系の問題には全く関係ありません。

(つづく)

883 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/07(日) 12:54
>確かに、対武器については考えたことはあっても、対拳銃というのはほとんど
>考えたこともありませんでした。対拳銃の訓練を多くの時間を掛けてまで、
>つまり他の練習時間を削ってまで、行う必要があるのかというのは現在の
>日本では分かりません。
 まあ、拳銃は極端な例かもしれませんが、どういう技術を練習するかは修行の目的に大きく関わる気がするのです。

 例えば、街でチンピラに絡まれて殴られてもあいたたた、で、翌日歯医者に行けばいいくらいの話です。或る意味、まだまだ牧歌的(?)なものでしょう?でも、対武器は命がかかっています。「護身術」を目的の一つとして掲げる以上、 対武器の技術(合わせて戦略も)は欠かせない気がします。そして残念なことに、今では日本でもその気になれば、拳銃を簡単に手に入れられる時代になってしまいました。

884 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/07(日) 12:55
>>879 赤影さん

 2ちゃんねるでの御発言、毎回楽しみに読ませて戴いております。

>私はそれを目指しています。少ない技をあらゆる局面に対応できるように
>リファイン中です。現実に可能か不可能化は別にして(最後は運)
>ナイフを首につけられたとか、ロープを首に巻かれたとか、拳銃を
>突きつけられたらどうするか、そういう技に会わないためにはどう拳銃を
>かまえるか、常に状況を想定するからこそ、ここ一番で冷静に
>慣れるのだと思います。「このパターンは練習ではこうやった」という風に。
>ただ、対武器は死ぬ可能性はある思います。ほかに道が無ければ
>やるしかないでしょう。後は運。

 全く同意です。

 昔、短刀捕を習ったときに、 短刀の長さの分だけ間合が違いそれゆえ技の起こりを早くしなければならない…
 一通り法形演練をした後、新聞紙を丸めたもので「乱捕」をやったら全然出来ない…技の起こりが早くなくてはならない分、フェイントに弱いんです。その上で先生が、稼業の方々の良く使うフェイントを何手か教えて下さって「要するに、刃物には素手では勝てんよ」ということがありました。

 そのときは、そんなもんかなぁ、と思いましたが、>>863で書いたように、成算はあまりなくてもやるしかないでしょう、後は運、そういう局面は厳然と存在するわけです。いくら不利でも、少しでも生存の可能性が高くなる技術そういうものを研究し練習することは、必要なことだと思うようになりました。

885 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/07(日) 16:28
>切迫感
40過ぎ拳士さんのお話で思い出したのですが…私が時々お世話になる道院のとある拳士の方の言葉「剛法で一番大事なことは何かわかるかい?この打撃で何がなんでも相手を打ち倒す!っていう気迫なんだよ!!それがなきゃダメなんだ!!!」名言だと思いますた。実際にその方は常にKOを狙ってくださる熱い魂を持ったナイスなお方です。
でもホントにこれが大事なんですよね〜

890 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/08(月) 01:08
>>アップルさん
>あら?2004って付いてないなぁ。

今のブラウザがいちいち憶えてくれないので、毎回書かないといけないので、sageもやめ、名前も数を減らしました。
>赤影さんは自主トレはどこで??
ある広い場所があり、10分ぐらい走り込んで、その後サーキットを10分、足さばき、基本等をやっています。広いところでやると自分が小さくなるので拳足も道場よりスローに感じます。また、靴を履いているので、道場で足が軽い軽い。実戦のとき、靴の重さで蹴りが出しにくかったので、蹴りの基本は靴になれることだと感じました。靴を履いてが原則なら、技術体系も変わってきます。高さは中段以下。足底を生かす蹴り方等。ただ、道場では逆にハイとかトリッキーな蹴りが有効です。で飯食って、道場か納屋でウエートです。これは秘伝ですが、ベンチで効かせた後拳立て。そして、肩胛骨の運動、背中を壁に付けて腕だけで突き、体を縦にしならせての突き、手刀うち等下への基本、アッパー等上への基本、フック等、バックハンド等、そして最後に普通の振り子突きをすると、いいと思います。ウエート→自力本願稽古→体を順番に使っていく基本という風にすると体が使えてきます。ウエートの後は神経が重量挙げ用にチューンされるのでその日にこれを一回リセットする必要があります。

>>40過ぎ拳士さん
ありがとうございます。
貴方のスレは、古き良き少林寺ですね。

891 名前: アップル 投稿日: 2004/03/08(月) 09:17
>赤影さん
>ウエート→自力本願稽古→体を順番に使っていく基本という風にすると
>体が使えてきます。
「練習をしていると次第に自分の身体が我がものであって、実は我がものでないのだと気がつく、そして我がものとするまでには、かなりの時間がかかるものである。我が手足、我が四肢五体でありながら修練工夫を積まなければ我が思いのままに動かぬと同様に、我が心も亦容易に我が思いのままにはならないものである。」(風格のある演武より)
練習中に思うようにいかないといつもコレを思い出します。身体を使えるようにするって難しいですね〜。面白い自主トレをされているようで実に興味深いなぁ。
>実戦のとき、靴の重さで蹴りが出しにくかったので、蹴りの
>基本は靴になれることだと感じました。
>靴を履いてが原則なら、技術体系も変わってきます。
ぬ、面白いお話!!ぜひ簡単でもいいのでお聞かせください。

892 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/08(月) 12:08
土日は風邪で寝こんだり治ってからは練習行っちゃったりで書き込み出来なかったのでちょっとカキコ。

>技術を身に付けるためには、ビスキュイさんは「法形たくさん、残りは乱捕」と
>お考えで、私は「法形少し、残りは乱捕」と考えております。明らかに私の方が
>乱捕重視です。ではなぜ、私は乱捕重視なのでしょうか?
ここ少し違うのですよ。見た目はそう見えるかもしれませんがやっぱり違うのですよ。私は「法形たくさん、残りは乱捕」ではなくて「たくさんの法形を自分の中で整理して少数のグループに纏め上げろ,そして乱捕りをたくさんして練り上げろ」です。んでこの「たくさんの法形を自分の中で整理して少数のグループに纏め上げろ」は実際に法形の数を減らすことは意味しません。数は多いですけど認識としては少数なんです。柔法で言えば大体5個(種類)かな?このことに関しては私も学生時代からもやもやと考えてはいたのですが,卒業後とある先生の御教示により劇的に(まさに劇的に!)思考転換がなされてようやく明確に意識された考え方なのですが。この「数多い技を自分の意識の中で少数の技法として認識する」この作業が現在私の考える練習体系においてまさに最重要とでも言うべき部分です。んで,この作業は法形演練だけでやるものではないです。って言うか法形も基本も筋トレも乱捕りも…およそ全ての技術練習はこの作業を成すためにあると考えます。んで再度繰り返しますが…

「極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せるのです。原理・原則さえ把握していれば。」

これ。全ての技術練習はこの境地に至るための手段だと思うのです。無形に至るために有形を追求するのです。形に追求した結果「あ〜,結局は形じゃないじゃん」って状態になるんだと思うのです。んでこれも繰り返しになるのですが…

「技は「結果」なのです。しかしこの「原理・原則」は目に見えません。現れてくるのは「原理・原則」に基づいて行った「動きの結果」だけです。」

この部分。今考えると当たり前の内容なのですが,理解する前にはなかなか分かり難い内容でした。学生の頃に武専にて
  • ビス「先生,この技を教えてください!」
  • 先生「(実際に掛けながら)こうこうこうですよ」
  • ビス「えっ?先生,さっきと掛け方と違いませんか?」
  • 先生「いや,同じですよ」
  • ビス「いえ,手の捌き方とか足の位置が…」
  • 先生「ああ,そういうことね。それは違うよ。でも同じ掛け方ですよ」
  • ビス「はあ…?(違うんじゃーん!同じって何よ!!)」
って思ってたりしたものですが。今なら当時先生の言わんとしてたことが少しは理解できるような気がします。「見た目の形は相手の体勢によって変わりますが,同じ原理を使って掛けてますよ」ってことっだったのだと思うのです。だから「極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せるのです。原理・原則さえ把握していれば。」

なんですけど,そのために
「数多い技を自分の意識の中で少数の技法として認識する」作業
が必要で,法形も基本も筋トレも乱捕りも…およそ全ての技術練習はこの作業を成すためにあるというのが私の現在の考えです。

893 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/08(月) 16:39
>>885 ビスキュイさん

 実は、私が最初に習った武道は 亡父から習った剣道でした。今生きていたら80過ぎの戦争に行った世代でとにかく「精神力」を強調する、星一徹みたいなジジイでありました。

 私はどちらかと言うと合理主義者を自認していたのですが、最近は私も「精神力」を意識するようになりました。合理的に分析して組み立てることも必要ですが、同時に、理屈ではなく身体の声に耳を傾けることも大事なのではないかと思うようになってきたのです。

 精神主義は東洋の専売特許と思われがちですが、実際はそんなことはありません。人間、どこでもそんなに変わらないものです。縁があって、ジャズダンスの巨匠とお近づきになる機会があったのですがその先生のレッスンは「空間を支えに使え」とか「止まっていても動いているのだ」とか非常に精神主義的なんですね。

 意志があって身体が動く。倒すためにはどう突けばいいのか?ベンチプレスも一つの方法かもしれませんが「倒す」と意識して繰り返し身体を動かすうちに最も合理的な動き方に少しずつ近づいていく、そんな気もするんです。

894 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/08(月) 17:03
思うに…「精神力“だけ”ではダメだけど精神力“なし”では何もできない」のではないかと…

895 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/08(月) 22:57
>>874>>878>>879 赤影さん こんばんは。

>私のところでは、乱捕りは時間外の自主トレです。
>ゆえに結構自由にやれます。
これはとても羨ましい&素晴らしいですね。

>ベンチで言うなら体重の150%、スクワットは
>体重なみ。デッドリフトは体重の2倍ぐらいで抑えておくといいと思います。
私はこんなには出来ませんが、柔道時代の仲間達はだいたいこれくらいを目標にトレーニングしていました。

>道場では基本を多くしていると「空手で無いから」と陰口を言う人がいるので、
筋トレやサンドバッグをやっていると非難されるというのはよく聞きますが、基本をされるだけでもそのように仰る方がいるのですか…。

お話を伺っていると、赤影さんのような問題意識を持った方が、他流に流れず、少林寺を選ばれている理由にも興味が出てまいります。もし差し支えなければ、少林寺拳法のどの辺りに魅力を感じられているのかをお聞かせ願えませんでしょうか?

896 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/08(月) 23:31
>あっぷる さん
前から思っていたのですが、マック使いですか?私の友達にも筋金入りの人がいます。

>ぜひ簡単でもいいのでお聞かせください。
どう言っていいのか分かりませんが、まず足の指の怪我を気にしないで前足底の蹴りが使えると言うことです。そして、靴の重さの分初動が遅れ、上段が蹴りにくくなります。ここまでは常識です。で、前足底で蹴ると言うことは、「靴が武器になる」「靴が盾になる」と言うことです。最近の安全靴はスポーツシューズタイプがあり、またオールスターのスニーカーより軽いです。下手にナイフを持つより武器になります。これで蹴ればどこでも痛いし、急所なら相当のダメージが出ます。またガードも隙間から蹴りを入れることもできます。肘で受けられても、靴部分なら大丈夫。ナイフマンがきても、外廻しや内回して受けても靴部分ならOK。またすねの前部も筋が緊張するのですねの怪我も減ると思います。靴着用でより少林寺の攻撃が楽になり、受けも、より少林寺の受けが必要となると思います。

897 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/08(月) 23:41
>40過ぎ拳士 さん
>ベンチプレスも一つの方法かもしれませんが

私は、武道のためにウエートが直接役立つとは思いません。ではなぜウエートなのか?それは「人間としての生の肉体を強化する必要がある」からです。現代人はほとんど運動しません。昔の人は生活=鍛錬でした。だから、体は小さいけれど手が大きく骨太で丈夫です。しかし、今の人は、
    朝起きて車で通勤 → パソコンピコピコ → ジャンクや麺類を食べる → 又ピコピコ → 車で帰る
なひとが多いと思います。武道以前に人類失格だと思います。親より肉体が退化してはなりません。人類の種族としての種が弱くなります。現に歯の少ない人、転んで骨折する人等今の人は虚弱です。鍛えなくてはなりません。しかし、今は鍛える時間が取りにくいのです。だから効果的に筋肉を強化し、骨密度を上げる必要があり、それにはウエートトレーニングが適しているのです。またこれは、進歩が具体的客観的数字として現れ、練習の励みになります。・・・続く

898 名前: 赤影2 投稿日: 2004/03/08(月) 23:53
しかし、ウエートだけだと運動として偏っているし、フォーム自体武道そのものと大きく違います。また、神経制御も「持ち上げるソフトウエアー」が起動しています。また、全身の「しなやかな」連動も壊れやすいです。故に、肉体の生の力を強化したあと、武道の練体をする必要があります。これが自立本願とか黒崎式とか古武道式とか言われる鍛錬です。虚弱な人がこのようなことをいきなりやってもおもしろくないし、根気がいるし、進歩が見えにくいので続きにくいのです。
ウエートでチョットマッチョになり鏡の前でポーズ取ったりしているうちに、運動のおもしろさをしり、生の肉体が強化され、アドレナリンもでて、厳しい武道の練体を続けやすくなるのです。で、重量に制限を付けたのは、やっぱし、目的は武道であり筋トレでは無いし、何よりつけすぎるとじゃまな筋肉まで鍛えていく用になるからです。
で、生の力→武道の力に昇華するのです。力一杯体を使い込むから、今度は、無駄な力を抜くときに必要な力を残しておけるのです。最初から脱力だと、一見見た目カコイイですが、必要な力も抜いてしまうのです。そういう人は体力無い人には勝てても自分より相当マッチョな人には吹き飛ばされます。赤卍の技が切れる先輩が、黒卍に技以前に吹き飛ばされた現場を見たこともあります。武道はきれい事だけでは済みません。  つづく

899 名前: 赤影3 投稿日: 2004/03/09(火) 00:01
私の最終目標は合気的な崩しであり、発勁のような打撃です。鉄の砂が鋼の日本刀になるためには、始めどんどん熱しとかし、玉鋼にし、これをどんどん叩き鋼を作り、最後に刀に成形し、研いでできあがります。玉鋼や軟鉄をいくら研いでも切れる日本刀にはなりません。
最終目的がノーパワーでも、脱力で力の芯を残すためには、きっちりと鍛え上げないといけないと、私は思っています。合気系でも、実戦名人は必ず鍛えることを重視しているし、中国武術の有名人も、鍛錬の逸話が多いと思います。で、肉体系の仕事をしている人は、普段使わず、武道に必要なトレーニングだけすればいいと思っています。鍛錬も各人の状況次第だと思います。

900 名前: 赤影4 投稿日: 2004/03/09(火) 00:13
そして、私の理想とする武道力を、私は「格力」と名付けています。
それには
3つの要素(軸力、固定力、連動力)
3つの速さ(スピード、加速、動きとして無駄がない速さ)
あらゆるバランスの集中(物理的、肉体的、精神的、環境的)
重心のコントロール
無駄な所の脱力
によって達成されます。これを達成するため色々な鍛錬、技の動きの研究をしています。相手を「調力」で崩し、自分が「格力」で安定し、反撃するのが私の少林寺です。

901 名前: 赤影5 投稿日: 2004/03/09(火) 00:17
私のではなく、「私が目指す」です。
そのためには、空間的、時間的に詰め将棋の様に展開する技術体系、相手に自然に反応するココロ、万象の心理を洞察し考察しつかみ取ること、常に練体することが必要だと思います。

902 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/09(火) 00:23
>>私のところでは、乱捕りは時間外の自主トレです。
>>ゆえに結構自由にやれます。
>これはとても羨ましい&素晴らしいですね。
まあ、練習後も残って練習し、当てる練習→法形→法形の応用→攻防を分けた乱捕りといふうに練習していると、そのうち動きに慣れてきます。その時点で第3者をたて安全にかるーく自由乱捕りをするといいとおもいます。

>少林寺拳法のどの辺りに魅力を
今はだいぶ固まって伝統芸能みたくなりつつありますが、「自由度が高く」「組織として健全で(最強武道があっても、幹部が2ちゃんの噂のひとたちの様ではいけません)」精神と技術、古武道性と格闘技性のバランスが取れていると思うからです。

903 名前: 訂正 投稿日: 2004/03/09(火) 00:24
万象の心理を洞察し

万象の真理を洞察し

904 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/09(火) 00:39
>>881〜 40過ぎ拳士さん こんばんは。

> 私の返信はちょっとズレたものだったかもしれません。
> どうぞ御容赦くださいませ。
いえ、とんでもないです。素晴らしいご意見と体験談を伺えて光栄です。

> 乱捕(組手・スパーリング)って
> 練習量の多いところ(道院・道場・流派)の方がかえって安全です。
これには同意です。乱捕に慣れている人ほど、キチッと寸止めできたり(素面時)、熱くなりすぎないよう自分をコントロールできるものですからね。

> そういうところでは、黒帯の指導員とスパーリングするよりも
> 帯に色がついて組手を始めたばかりの人とする方がイヤなものだったりします。
これも分かります!激しく同意です。

> 「そんな突で倒せるか!」「そんな受で防げるか!」と
> 厳しくやっているところは、基本の練習ですら全く違うでしょう?
その通りですね。同じような事をビスキュイさんも仰っていましたが、この辺りについては、私も全く同意見です。 

> 指導者によるんじゃないでしょうか?
この部分については、やや同意しかねます。なぜなら、(これまでの投稿の中でも、言外に含めたつもりですが)この言い方ですと、少林寺拳法に内在する問題点に目を背けてしまっているような気がするからです。例えば学校教育の例でいえば、一昔前の「学級崩壊」も現在の「学力低下」も、「教師による」「学校による」と言って片付けてしまっていい問題ではないと思います。日本の教育全体の問題として、その原因を追究したり、解決策を講じなければ無責任だと言えるでしょう。

> 「護身術」を目的の一つとして掲げる以上、
> 対武器の技術(合わせて戦略も)は欠かせない気がします。
対武器についてのご意見にも、基本的にほとんど同意です。若干の相違があったとしても、それは

> どういう技術を練習するかは
> 修行の目的に大きく関わる気がするのです。
この言葉でちょうどいい落とし所になるかと思います。

905 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/09(火) 00:42
>>892 ビスキュイさん こんばんは。お体の具合は大丈夫ですか?

>>892で仰られたご意見、なるほどですね。仰りたい事がよく理解できました。ここでビスキュイさんが仰られている「原理・原則」というのが、すなわち「少林寺的思考」にも繋がるということですね? うーん、素晴らしい!

ただ、いくつかの部分においてはまだ若干のズレを感じております。
以下の3点について、ご意見を拝聴してもよろしいでしょうか?

1、具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れるのではないか?

上記は、私が>>869で述べました意見です。ビスキュイさんのご意見では、法形が多いことにメリットしか見出されておりませんが、上記の私の主張についてはいかがお考えでしょうか?つまりビスキュイさんにとっては良しとされるものでも、多くの一般の拳士・先生方にとってはマイナスになっているのではないかと思います。

2、ビスキュイさんの仰る原理・原則は、法形の重複をなくして整理をしては、身につかないのだろうか?

質問の仕方をガラッと変えてみました。 つまり、私の言う、

>私の主張する乱捕論では、まずは演繹的に、ルールを法形で学びます。
>続いてそれを乱捕で実践しまくります。運用しまくります。応用しまくり、変化し
>まくります。そうして、演繹的なルールを乱捕の場で数多く実践することによって、
>今度は帰納的に、1つの原理・原則に戻っていくと考える

このようなやり方では身につかないのでしょうか?(特に最後のセンテンスにご注目下さい。)


3、実際問題として、拳士達・先生達は少林寺の技法を実践、運用できているのか?
  もしできていないとしたら、それはなぜか?

ビスキュイさんの仰る教授法、修練法が正しいとしたら、少林寺の拳士達はみな少林寺の技法を実践、運用できているはずですよね? しかしながら、残念ながらそうでない場合が非常に多いと言わざるを得ません。これはなぜだとお考えですか?

906 名前: アップル 投稿日: 2004/03/09(火) 09:15
>赤影さん
>前から思っていたのですが、マック使いですか?
>私の友達にも筋金入りの人がいます。

いちおうマックも使いです。丸廉にもいますよマックを愛する偉大な拳士がwマックでも拳法でもお世話になっています。


>>ぜひ簡単でもいいのでお聞かせください。
>どう言っていいのか分かりませんが、まず足の指の怪我を気にしないで
>前足底の蹴りが使えると言うことです。そして、靴の重さの分初動が
>遅れ、上段が蹴りにくくなります。ここまでは常識です。

ん〜、ここまではなんとなく想像とおり。

>で、前足底で蹴ると言うことは、「靴が武器になる」「靴が盾になる」
>と言うことです。最近の安全靴はスポーツシューズタイプがあり、また
>オールスターのスニーカーより軽いです。下手にナイフを持つより
>武器になります。これで蹴ればどこでも痛いし、急所なら相当のダメージ
>が出ます。またガードも隙間から蹴りを入れることもできます。
>肘で受けられても、靴部分なら大丈夫。ナイフマンがきても、外廻しや
>内回して受けても靴部分ならOK。またすねの前部も筋が緊張するので
>すねの怪我も減ると思います。靴着用でより少林寺の攻撃が楽になり、
>受けも、より少林寺の受けが必要となると思います。

ヘー!!!!安全靴ってすごく重たいイメージがあったのに・・。足でも受けですかー。それはちょっと練習がひつようですな。

>外廻しや内回して受けても靴部分ならOK。
この動きはおそらく中国武術オフの人間は体験済みですね。靴を履いての・・というところでやはり必要な動作だったんですねー。おもしろい。

赤影さんもしっかり楽しんで修練してますねー。

910 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/09(火) 17:55
さてさて,では話の続きを…

>通りすがりの休眠拳士さん
ありがとうございます〜,体調はなんとか平常に復帰いたしました。しかし通りすがりの休眠拳士さんの問題提起のおかげで大変有意義な議論が展開できており大変感謝しております。引き続きガンガンと意見を述べていただければ幸いに存じます。
さて…では今回のご質問の件ですが,まず

1、具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れるのではないか?

ですが…
まあこの危険性はないとは言えません。法形の見た目のみに目を奪われてしまっていれば。ただこれは「具体的且つ詳細な例を示してしまっている」ことが原因でしょうかね?正直私にはそうは思えないんですよ。ここの部分こそが「指導のあり方の問題」だと思うのです。実際に私がお世話になったことのある先生方を例に考えると…例えば拳暦40年を超えるある先生「技は全部同じですから〜」と言いながらも見た目の動きは変幻自在,でも確かに芯の部分は同じ動きで投げている。例えば40代で7段を取得しているある先生「あっ,僕はいま動きを変化させたよね?あれはビスさんの動きがこっちに変わったからそれに合わせてああいう風に変化させたんだよ。でも掛け方同じね(ちなみにこの時の技は外巻天秤でした)」。
例えば丸廉にも参座してくれているある先輩拳士「攻者の攻めが変われば守者の動きが変化するのは当たり前なのであって〜。その変化の早さが少林寺拳法の特色なのである!」。現在のカリキュラムでも正しく行えば多くのこうした「寛容な」拳士が生まれているのです。って言うか例にあげた拳暦40年以上の先生なんてバリバリの「伝統派少林寺拳法」の使い手なわけですが,初めてお会いして逆小手を教えていただいた時などニコニコしながら「こんなやり方もあるし,こういうやり方もあるし…」と言いながら足は払うわ耳は掴むわ髪の毛は掴むわ鼻を擦り上げて来るわ肘打ちをブチ込んで来るわ指は捻るわ耳孔は抉って来るわ…およそ思いつく限りの(プラス思いもしないような)ありとあらゆる変化技をブチかまして下さいました。で,ニコニコしたまま一言「少林寺拳法っていうのは本来こういうものですから〜」…。これですよ。「伝統的な練習法」をずっ〜としてきている先生がこれです。こういう実例を何件も(少なくとも両手両足の指では足りないくらいには)味わってきているので(聞いただけならもっと多い),「不寛容」の原因が技術体系にあるとは思えないのですよ。
「じゃあなんで不寛容な拳士や先生が存在するんだ?」
…なんででしょうね〜?ホントに不思議です。同じやり方をしているのに全く相反するような考え方の拳士が生まれてしまう。ちなみに通りすがりの休眠拳士さんとは反対に「法形多くても問題ないやん」派の138Bさんやアップルさんも「変化技?やって当たり前じゃ〜!」派なんですよね。当然に私も。やっぱり法形の多い少ないは「変化に不寛容」の直接的な原因ではないんじゃないですかね〜。そういえばご逝去された森道基先生も月刊「秘伝」の記事で同じような趣旨のお話(「私は形はともかく技が効けばいいじゃないかという考えでやっていたから…」みたいな話)をされていたような気が…ですから私の意見としては

「法形の数が多いことは不寛容の直接的な原因ではない。ただ法形を「絶対的な型」「それぞれ全然別の技」として指導してしまえばそのデメリットは極めて大きい」

となります。
(続く)

911 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/09(火) 17:57
(続き)
続いて

2、ビスキュイさんの仰る原理・原則は、法形の重複をなくして整理をしては、身につかないのだろうか?

のご質問ですが…
身に付くと思いますよ〜,問題なく。やり方さえ間違えなければ。こちらの指導法をとる武術も沢山あるようですし。これはまさにやり方の違いであって優劣ではないです。ただ少林寺拳法は「数多い技を自分の意識の中で少数の技法として認識する」という作業を行うことによる教育効果(プラス「技が多い」ことによる興味の持続など諸々の要素)の方を採用しているというだけのことですから。だから通りすがりの休眠拳士さんのおっしゃっているやり方(少数の法形を学ばせ,乱捕りで多彩に変化させる練習を積ませる)をとったとしてもぜーんぜん問題はないとは思います。この辺はホント好みの問題。しかし通りすがりの休眠拳士さんのやり方を採用したとしても(現在の少林寺拳法と同じように)様々な問題が生じる可能性は多いにあるので,そのフォローを充分に行わなければやっぱり元の木阿弥という可能性はありえます。やっぱり指導の仕方の問題だと思うのですよ〜。
(さらに続く)

912 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/09(火) 17:59
(さらに続き)
んで最後の

3、実際問題として、拳士達・先生達は少林寺の技法を実践、運用できているのか?
  もしできていないとしたら、それはなぜか?

ですが…これはですね,「人によります」としか答えようがないです。原因は様々,出来てるか出来てないかも人それぞれ。ホント十人十色。

>ビスキュイさんの仰る教授法、修練法が正しいとしたら、少林寺の拳士達はみな
>少林寺の技法を実践、運用できているはずですよね?


とのことですが,んなこたぁございません。理論が正しくても出来ない場合はいくらでもあります(「私の理論が正しい!」と言う意味ではないですよ)。例えばですね…
  • 理論を間違って理解して運用している
  • 理論は理解しているが運用の仕方が間違っている,
  • そもそもその理論を認めない
などなど…であれば理論が正しくてもしょうがないですよね?当然
  • 理論自体が間違っている
という選択肢もあるわけですが。
逆に「通りすがりの休眠拳士さんの教授法,修練法ならば少林寺の拳士達はみな少林寺の技法を実践,運用できるようになりますか?」と質問されたら…どうされますか?

>しかしながら、残念ながらそうでない場合が非常に多いと言わざるを得ません。これは
>なぜだとお考えですか?

これはですね…もう「練習不足です」と。40過ぎ拳士さんのおっしゃるとおりですと。出来てる人はみんな練習一杯してますよと。結局最後はこれですよ。開祖も言ってます「人十度我百度」。理論が分かったらあとはもう練習あるのみ。どんな理論も練習少なきゃダメダメ。そういう意味では最近の私もダメダメ(練習行けてなーい)。ただ「間違った練習」はすればするほど下手になるわけで,正しいやり方で練習することが大事なわけですが…。当然「法形演練だけ」でもダメダメ。「乱捕りだけ」でもダメダメ。「筋トレだけ」でもダメダメ。「じゃあどうすりゃいいんだ!」。全部やるのです。法形も乱捕りも筋トレも学科も…全部!全部!全部!「だって時間は有限だろうが!」。そうです。そのために「数多い技を自分の意識の中で少数の技法として認識する」という作業を行うのです。このことにより実質的な練習時間が増える(と言うか「密度が上がる」)し,この作業自体が練習でもあるんです。ただ重ねて言いますが,

「通りすがりの休眠拳士さんのやり方もあり!」
だと思うのです。

以上です。

913 名前: Syami@Office 投稿日: 2004/03/09(火) 18:11
あ〜、まぁ、我々の場合「修行」だからねぇ。

914 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/09(火) 18:15
>あ〜、まぁ、我々の場合「修行」だからねぇ。

これは絶対に切り離せない要素なんですよね。まあただ今回はあえて「技術」のみに焦点をあてて話を進めてみようかと…

915 名前: アップル 投稿日: 2004/03/09(火) 18:18
ビスさんからでたキーワードから
>ただ法形を「絶対的な型」「それぞれ全然別の技」として指導してしまえばそのデメリットは極めて大きい」
副読本でも教範にも書いてあるかも知れませんがなぜ「法型」ではなく「法形」なのかって感じでしょうか?

916 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/09(火) 18:19
>アプールさん
そのとおりなり〜!

917 名前: アップル 投稿日: 2004/03/09(火) 18:38
関係あるかはわかりませんが、助士になって後輩の技をよく見るようになったのですが。
柔法技が掛からない人の特徴(アップル超私見)。

@技の途中で止まる人(鈎手、掛け手で基準線を作るとき)
A途中からやり直しちゃう人。
B手を握られたとこからはじめちゃう人
C攻者の攻撃がでたらめ(にぎるだけ、さわるだけ)
D習った掛け方だけにこだわる人

@〜B
途中で止めた時点で攻者は状態が少し変わってしまう(動いちゃう)ことに気づかないで続きをやろうとすると技が掛からないのは当たり前だなぁと。

C攻者が攻撃してないんだもん。技を掛ける必要がない状態で掛けようとしてるのだから難しいのは当たり前かと。

D習ったときの攻者を今相手にしている攻者が同じ攻撃とは限らない。手がねばい人もいるし固い人もいるし。掴んできた角度がちがうときもあるし。ケース バイ ケースであることは大事ですね。

教えながらいろんなヒントが転がっていて楽しいですね。

事実、技が掛からず悩む後輩に
「止めずに一気にやってごらん、こうやって鈎手から一気に。」

攻者は自分が引っ張った反動でうまくパタリ。このときはこれで私も十分だと思いました。後輩もわりと簡単にできてキョトンとしてました。

918 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/09(火) 18:48
>アプールさん
それ全部超大事なポイントなり

919 名前: アップル 投稿日: 2004/03/09(火) 18:54
付け加え
E指導している先生の手しかみてない。
攻者と守者のポジション、運歩のタイミング、鈎手のタイミング、視線。重要なとこ見失ってる。だから技を掛けるときに足も止まってる。ソコができれば技が完成すると勘違いしてるのかと。サビだけでは曲は完成しないのだ。とラさんが言いそうw。

>それ全部超大事なポイントなり
以上すべてが「型」にとらわれるの典型的なケースでデメリットは皆さんもうおわかりかと。

少しは話がつながったかなー。コレくらいしか私には言えませんが。
結構こんな拳士多いはず。

921 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/09(火) 21:36
>赤影さんもしっかり楽しんで修練してますねー。
色々工夫するのは楽しいです。同じ事を延々と繰り返し「精錬する」も楽しいですが。

安全靴のような一見武器に見えない護身具はいろいろ考えました。この他にも。先を尖らせた2Hの鉛筆にキャップをかぶせて胸に挿す、なるべくでかいオイルライター、試供品の小さいスプレー、500円玉やスロットのコイン、パチンコだま、スチールのドキュメントケース、家電のアース線、ヘアーリキッドの小瓶、ドライバー(これはさすがに2ちゃんでは書けませんでした。グリップがあるので握りが・・。相当強力な武器になります)、工作用各種協力手袋、等です。

>ビスキュイ さん、レスお疲れさんでした。

925 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/09(火) 23:57
>>910>>912 ビスキュイさん  大変お詳しいレス、有難うございます。
残念ながら、どうやら私とビスキュイさんの間には、少林寺拳法の問題に対する「温度差」があるようですね。これまでも薄々は感じていたのですが、ここに来て、その違いがハッキリと顕在化して見えてまいりました。どういうことかと申しますと、

>ここの部分こそが「指導のあり方の問題」だと思うので
>す。実際に私がお世話になったことのある先生方を例に考えると…

>「じゃあなんで不寛容な拳士や先生が存在するんだ?」
>…なんででしょうね〜?ホントに不思議です。


>これはですね,「人によります」としか答えようがないです。原因は様々,出来てるか出来
>てないかも人それぞれ。ホント十人十色。
ビスキュイさんの上記のようなご返答に、どうしても温度差、というよりも、問題意識の違いを感じてしまうのです。私が、>>904にて、40過ぎ拳士さんの「指導者による」とのご意見について述べさせて頂いた思いが、またも頭をよぎります。それは違うのではないか・・・と。

仮に、失業率が非常に高い国についての議論だと考えてみて下さい。

私が「この国の失業率が高い原因はコレコレで、その解決案としてコレコレのようなことを考えています。いかがでしょうか?」と提言します。すると、ビスキュイさんのお答えは、「いえ、私はそうは思いません。なぜならば、この国でも就職できている人は何人も(少なくとも両手両足の指では足りないくらいに)いるからです。じゃあ何で失業者が存在するのかは、何ででしょう。分かりません。人によるんじゃないでしょうか?原因は様々、就職できるかどうかも人それぞれ。」

このように仰られては、私もどのようにお答えすればよいのか・・・。


そのような議論では、堂々巡りになってしまうかと思います。
そうではなく、例えば以下の箇所についてですが、

>これはですね…もう「練習不足です」と。40過ぎ拳士さんのおっしゃるとおりですと。
ここであれば、「では、なぜ練習不足が起こるのだろうか?」と更につっこんで考える必要があるのではないでしょうか?そして「単に練習時間が短いだけなのだろうか? それとも別の理由があるのだろうか?また、それを解決するためにはどうすればいいのだろうか?」と、このように考えてこそ、改善に向かっていくのではないかと思います。

少林寺拳法をなさっている方の中には、アップルさんやSyamiさんを始めとして、ビスキュイさんのような捉え方をされる方が非常に多いかと思います。少林寺に対する批判に対しては、「それは人による」「指導者側に問題がある」「ウチの道院はちゃんとやってる」「強い人も中にはいるよ」…ナドナド、このようなご意見ばかりが返ってくるような気が致します。しかし、これでは本当の問題解決にはなっていないはずです。

ただこれも、いつだったか138Bさんが仰られていたように、私と同じような問題意識を他人に押し付けているだけなのかも知れませんね・・・。

926 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/10(水) 00:00
ご質問についてお答え致します。

>逆に「通りすがりの休眠拳士さんの教授法,修練法ならば少林寺の拳士達はみな少林寺の
>技法を実践,運用できるようになりますか?」と質問されたら…どうされますか?

全員100%とは言いませんが、非常に多くの拳士が、技を身に付けることができると考えております。その根拠は、私は大学支部で後輩達に私の理論を指導してまいりましたが、そこでの指導方針はあくまで「乱捕重視」であり、「法形を乱捕に実際に役立てる法」でありました。そして、その指導を行った結果として、演武の大会で非常に良い成績を残せるようになってきたことです。もちろん演武ができたら技術を習得しているとは決して言えませんが、「乱捕重視の姿勢を貫く事が、演武の上達に繋がった。」ということは、技法の習得の結果と言えますし、また法形と乱捕が繋がったと言えると思います。

927 名前: アップル 投稿日: 2004/03/10(水) 00:19
>通りすがりの休眠拳士さん
>これでは本当の問題解決にはなっていないはずです。

そうですね、その問題に面している人にはなんの問題の解決策のアドバイスにはならないかもしれません。ですが、私からするとそんなもの問題でも何でもないわけでー。

んで、通りすがりの休眠拳士さんはどんな解決策でどのような行動をされましたか?休眠拳士ということで今は練習はできないのかもしれませんが、なにかお考えなのではないでしょうか。その辺が興味があるところですねぇ。

私が選んだ解決策はココ「丸廉」でした。うまくいきつつありますよん。

928 名前: アップル 投稿日: 2004/03/10(水) 00:22
おふ、失礼。
>私は大学支部で後輩達に私の理論を指導してまいりましたが、
>そこでの指導方針はあくまで「乱捕重視」であり、「法形を乱捕に実際に役立てる法」で
>ありました。そして、その指導を行った結果として、演武の大会で非常に良い成績を残せる
>ようになってきたことです。
実行されていたのですね。すんばらしい!私は演武がうまい=乱捕りがうまいだとずっと思ってます。ですが決して大会で表彰されるものが私にとってのうまいではありませんがね。演武はとっても楽しいです。

929 名前: 40前拳士 投稿日: 2004/03/10(水) 00:50
>>897 赤影さん
これまた、全く仰る通りです。ウエートトレーニングは、筋力アップのためには最も有効だと思います。武道・武術と同じく、沢山の人が懸命に研究してきた積み重ねですしどんどん新しい科学的発見もありますから。

「自分より相当マッチョな人には吹き飛ばされる」というのも私自身、骨身に染みて分かっているつもりです。ただ、40になって、これからどういう練習をしていくべきか考えたときに語弊がある言い方かもしれませんが、「力も技のうち」という考え方は一旦捨ててみようと考えました。

一方で、まだ40代ですから、今まで知らなかったものを色々吸収したいとも思っています。それで、今は所謂伝統派空手の道場で修行させて戴いています。全く違う基本を、少林寺の基本と比較しながら、楽しんで練習しています。

930 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/10(水) 00:51
 あらら、また「40前」って書いてしまった。
 皆さん、乱捕は結構ですが、パンドラには気をつけましょう。(笑)

>>904 通りすがりの休眠拳士さん

>この部分については、やや同意しかねます。なぜなら、(これまでの投稿の
>中でも、言外に含めたつもりですが)この言い方ですと、少林寺拳法に
>内在する問題点に目を背けてしまっているような気がするからです。


 仰ることは良く分かります。 私個人は、もっと単純に考えています。 「一拳必殺ではなく一拳多生」「一人のチャンピオンを作るのではない」というような開祖の言葉は、終戦直後の混乱期や、学生運動が激しかった時代や、「血の汗流せ涙を拭くな」という歌に皆が感動した時代や、そうした時代が背景にあってこそのものだと思うのです。
開祖は禅坊主です。もし「運動会ではお手手つないで仲良く一緒にゴール」という今の時代に御存命なら、全く別の言葉を発せられると思います。

931 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/10(水) 01:32
>通りすがりの休眠拳士さん
温度差ですか!?いや〜確かに「全てを投げ捨てても少林寺拳法に邁進するぜ!」というほどではないのであまり高温ではないですね〜。でもあまり低くもないつもりですよ♪さてさて…それでですね…うーん,なんて言ったらいいかな…当たってるかどうかは分かりませんが,なんかこんな感じがしてきました。

通りすがりの休眠拳士さん
・出来ていない原因を分析してその対策を考える。


・出来ている人達を分析してその共通の傾向を考える。

んでこんな感じ↓
  • 「出来てない人達がこんなにいる!きっとこの体系がまずいんだ。変えよう」
  • 「いやこの体系でも出来てる人達がいるじゃん。で,どうもこの体系を●▲■のやり方でやれば出来るようになれそうだぞ」
  • 「いやその●▲■のやり方が出来ないから現在の状況があるんだろ」
  • 「いやその●▲■のやり方が出来ないんじゃなくてしてないんだって」
  • 「いや出来ないんだよ。出来てれば現在の状況になるわけないだろ」
  • 「いや実際に出来てる人はいるんだし。出来てない人達は●▲■のやり方をしてないんだって」
  • 「いやしてないんじゃなくて出来ないの。実際俺が考えてるやり方で効果が上がっている」
  • 「●▲■のやり方をしてる人達だって効果は上がってるだろ。そのやり方をしてる人達は出来てるんだぜ?」
  • 「いや実際に出来てない人達がこんなにたくさん…」
以下繰り返し

932 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/10(水) 01:47
それとですね…先ほど>>925の中で引用された

>ここの部分こそが「指導のあり方の問題」だと思うので
>す。実際に私がお世話になったことのある先生方を例に考えると…

>「じゃあなんで不寛容な拳士や先生が存在するんだ?」
>…なんででしょうね〜?ホントに不思議です。
この部分は通りすがりの休眠拳士さんの
「1、具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れるのではないか?」
と言うご質問に対する私の回答からのものですよね?あそこで私が言いたかったことはですね…

「具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れるのだとするならば,なんで何十年もその体系に従って練習してる先生に変化に寛容な人達がいるのですか?それっておかしくない?」
ってことなんですよ。全て例外ですか?でもそれも何だか…

933 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/10(水) 02:20
あとですね…

>これはですね,「人によります」としか答えようがないです。原因は様々,出来てるか出来
>てないかも人それぞれ。ホント十人十色。

これ。これは通りすがりの休眠拳士さんの
「3、実際問題として、拳士達・先生達は少林寺の技法を実践、運用できているのか?
 もしできていないとしたら、それはなぜか?」

に対する回答ですが…この回答は真剣も真剣,大真面目な回答ですよ。

まず最初の部分「少林寺の技法を実践、運用できているのか?」についてですが…実際出来てる人もいるし出来てない人もいますよね?仮に「出来てない」って答えが正解だとしたら,出来てる人達の存在はどーなってしまうのですか?逆に「出来てる」と答えたとしたら出来てない人達の存在は??「人によります」以外に答えようがないと思うのですが…
次に「もしできていないとしたら、それはなぜか?」この部分。これに対する「原因は様々」この回答。これも曲がりなりにも指導の任に携わるものとしてこれ以上ないくらいに真面目な回答です。
通りすがりの休眠拳士さんも後輩の皆さんを指導されているならお分かりでしょう?技が掛かる時の条件は大体同じですが,掛からない原因はホントに人それぞれです。同様に少林寺拳法の技術を使いこなせない原因も人それぞれです。基本が出来てないからかもしれない,筋力が足りないからかも,バランスが悪いからかも,技を知らないからかも,乱捕り練習が足りないからかも,故障があるからかも,少林寺拳法が合ってないのかも,飽きてきたからかも,眠いからかも,疲れたからかも,お腹が空いたからかも,心配事があるからかも…。「原因は様々。人それぞれ」としか言い様がありません。言葉遊びでも誤魔化しでもなく,真剣な私の回答です。

934 名前: 求道s00@遅い昼飯中 投稿日: 2004/03/10(水) 17:04
皆様ご無沙汰しております。と言うほど書き込んでいないので恐縮なのですが。。
通りすがりの休眠拳士さんをはじめ皆様のご意見いずれもごもっとも、且つ精巧緻密で大変勉強になります。
僭越ですが、直前までの議論は、指導の場というか、対象とする少林寺修行者の像に認識のずれがあるように思います。
おそらくビスキュイさんの仰るように現在の少林寺拳士の構成はとっても多様性に富んでいて、こちらにあわせればこちらがあわず、と言うような状況があるんではないかと思います。
そうした中で、皆が強くなって行くにはどういう形が適切であるか、と考えるのは難しいですね。。。こうなってくると技術論と言うより、少林寺はどうあるべきか論になってしまいますです。指導者の質、と言うお話ともからんできますが、乱捕、応用変化完璧のそれこそ師匠と呼ぶにふさわしい人間が指導者ならば法形なしでも指導できるでしょう。また、学ぶ方もある程度運動が人並みにできるような青年ならば乱捕の中での習得も、殺伐とした雰囲気での平常心鍛錬もできるでしょう。しかし、運動神経しょぼしょぼの人間が、そこそこ技ができるという程度の先生に教わる局面を考えると、現法形のような構成がメリットとなるのではないでしょうか?もちろん、そのようなしょぼい状況じゃそもそもだめだよ、そこがいかんのだと言われてしまえばそうなんですけどね。これは大変レベルの低ーい話です。でも、全く武道やったことがない運動神経なしのしょぼしょぼデブにぶ君が、少なくとも素人の攻撃からちょっとでも身を守れた、と言うだけのことでも、その人にとってはものすごいメリットでしょう(自分のこと言ってるみたいだが)。だめだこりゃレベルの指導者も現法形という指導書があることでそこそこレベルの指導者になると言うこともあるのではないでしょうかね(幸い私の御師様は御神楽じみたこともすすんで経験している猛者ですが)。だとすれば技の数は多い方がいいはずですね。
誤解のないよう念を押しますが法形にはそう言う場合のその程度の効用しかないと言ってるのでは決してありません。しかし、法形というものの構成が単に理想的な教授環境においての技術の効率的な習得と言う視点にのみによってできているわけではないのではと言うことなのです。
私的には、確かにある的確な条件(練習時間が沢山とれる、修行者がある程度肉体・思考力的に優秀、指導者が優秀など)のもとでは、現行法形よりも効率的なメソドロジーがあり得るだろうと考えます。。ビスキュイさん、この点に関しては如何でしょう?この点に関して私は通りすがりの休眠拳士さんに近い意見かもしれません。
しかし、様々な状況で、様々な相手に教授するものだと言うことを考えたとき、現行法形はなかなかイイ線を行ってるのではないかなぁと漠然と思います。
例えば、金的蹴膝受波返と逆蹴膝受波返の差なんかは実際乱捕りの中で覚えた方が(怖いけど)しっくりくると思える部分なんですけど、がんがん金的ありの乱捕りができないような環境にいる人にとってはあえて明示的に教わることで得るものもあるのかなと。
金的乱捕りしろよ、と言われればそれまでですが。私もそうなんですが、乱捕りなんてとても。。。みたいな入門者が「多少殺伐としても強くなりたい!」と言う風に意識が変わっていくこともあります。そんな僕のようなヘタレの入門者には今の法形は大変とっかかりやすかったと思います。このたくさんある階段を少しづつ昇っていけば強くなれるのではないか、と言う錯覚というか、信仰が私のような弱虫には有効だったのです。その信仰の対象は壮大で技数が多くて神秘的である方が心理効果が高いのは言うまでもなく。。。で、少しだけステップアップして先輩にがつーんと喰らうと、そうか、これだけではだめなんだなと目が覚めるのです。そのころにはもうちょっとだけ強くなろうとを考えられる位には成長しているというわけでした。
また、これは論点がずれますが法形をより効率的なものに換え、乱捕り修練の時間をどかん、と増やすと少林寺修行者の人種構成ががらりと変わるでしょう(ついていけない、と言う人続出??)。ここを換えずに、修行を続けるうちに修行者の意識が自発的に変わって、もっと乱捕りしたいぞ、もっと練習時間とりたい、と言う風に変わっていくならばそこが少林寺の目指すところでは、と言う気がします。弱い人間を強くする、と言う意味では、はじめはしょぼしょぼのヘタレの、「あのぅ。。僕にも。。。使えるようになりますか?」言うようなしょぼい奴が、こう来たときにはこうだ、と教えられて何となく強くなったような錯覚をして、しかるのちにいや、これだけではだめだ、と言う。。そうなったときに、ビスキュイさんをはじめ皆さんが試みられている工夫が活きてくるのではないかという気がするのですが。。。レベルの低い話で失礼致しました。


937 名前: アップル 投稿日: 2004/03/10(水) 19:19
>ビスキュイさん
>「原因は様々。人それぞれ」としか言い様がありません。

ほんとにそうだと思います。各人の修行ですからね。指導者が同じだからって修行者が皆おなじ修行をしているとは思えない。主役は常に私達修行する拳士ですからね、指導者ももちろん修行者。自ら動いた人間がやっぱりなにかいいものを得るんじゃないかと思ったりします。

>求道s00@遅い昼飯中さん
>少しだけステップアップして先輩にがつーんと喰らうと、そうか、
>これだけではだめなんだなと目が覚めるのです。
>そのころにはもうちょっとだけ強くなろうとを考えられる位には成長しているというわけでした。
すごーくわかります。ちょっとした心構えや気持ちの変化。すごく大事なことですよね。以前、すりぃぱぁさんが意を決してTs577さんに乱捕りで向かっていったエピソードを思い出しました。

法形の話から離れてるけど、こういうのいいなぁ。ニヤニヤ。

938 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/11(木) 00:28
>ただ、40になって、これからどういう練習をしていくべきか考えたときに
>語弊がある言い方かもしれませんが、
>「力も技のうち」という考え方は一旦捨ててみようと考えました。
私も「力で投げてやろう」なんては思っていませんよ。現代人は昔の人に比べて動いていない。体力がない、でも鍛える時間が取りにくい、から、効率よく「筋肉を」鍛えましょう、と言う趣旨です。まず人間として、頭でっかちの「火星人(昔のイメージ)」になってはいけませんという趣旨です。また、ウエートの姿勢はあくまで「筋肉を鍛える」姿勢なので、当日に基本等で、武道の姿勢(神経制御)に戻す必要があります。私も同じような世代ですが、今でも体力は上がっています。(元が低いからかな?)で、年を取れば退化とのとの戦いです。時間をかければ活性酸素が増えるので、より短時間により効果的に、あるいはより脳内ホルモンが出やすい状態に、練習すべきでしょう。

で、練習は同じ原則から無限の変化を導き出せれば、効果的な練習となるでしょう。そのための、原則の確認であり、動きの座標が法形だと思います。だから、乱捕り中は攻防を研究し、その後の反省で、乱捕りの動きを法形の原則で復習すると言う方法論を推奨します。

先に述べました、「無駄のない速さ」が年齢を超えた強さを維持できる秘密だと思います。直突き一つでも。「本当にまっすぐ」打てる人は、私もそうですが、あんまりいないように思います。最良の攻撃、防御、これを攻防の瞬間に体で出せるようにならないといけません。そのためには、同じ原則の動きを、鋳型にすることなく、徹底的に精錬することが必要だと思います。

939 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/11(木) 01:36
>>938 赤影さん

 話の方向が変わりますが、 前にちょっとだけ書いた、ジャズダンスの巨匠との出会いが 今までの自分の練習法を見直す一つのきっかけになりました。
 先生は今月79歳になるのですが、
 今でもまだ、1日4時間・週6回、クラスで教えています。

 良く形だけの武道を批判して「ダンス」と言われたりしますがそれはとんでもない話で、ブロードウエーのプロダンサーの世界は肉体的に非常に過酷な世界です。1回2時間のステージを、週6回こなさなければなりません。そのために、肩・腰・膝の故障も多く、才能がありながら、若くしてダンサー生命を絶たれる人も少なくないのです。この先生の下には、その過酷さに耐えるトレーニングを求めてダンサーたちが集まってきます。(トラボルタもマドンナも、この先生に習っています。)

 この先生の経歴はまたちょっと特殊で、21歳のときに交通事故で半身不随になり医者からは「一生歩けない」と宣告されたにもかかわらず、自分でリハビリ法を編み出し、見事にカムバックして40本以上のハリウッド映画に出演した、というものです。彼のダンス・メソッドは、そのリハビリ法が基になっています。

 先生が教室で語る言葉の中で、いくつも引っかかったものがありました。
  1. 私は「ワーク・アウト」という言葉が嫌いだ。正しい動きをすれば、「ワーク・アウト」(=消耗)なんてしないのだ。踊る前よりも踊った後の方が、身体の調子が良いはずだ。2時間のステージが終わった後に、もう1ステージ踊りたくなるというのが正しい。だからこんなジジイでも、今でも1日4時間踊れる。
  2. 特定の部位を取り出して鍛えるべきではない。身体というのは、全体で一つの動きをするものだ。
  3. ステップに気を取られてはいけない。それよりも肩の動きに注意する。肩がスムーズに動けば、ステップはついてくる。
  4. 練習と日常生活の間に切れ目は無い。「最近、運動不足だからジムに行こう」というのは変だ。椅子に座っているとき、首・肩・肘などそれぞれが正しいポジションにあるか?バスを待っているとき、正しい立ち方をしているか?そういうものが全て良いトレーニングになる。
  5. ダンスのクラスを「初級」「中級」「上級」と分けるべきではない。プロだって、始めたときは初心者だ。初心者は、プロのようなつもりで練習すべきだし、プロは、初心者のようなつもりで練習すべきだ。練習するときは、過去に自分が今までしてきたこと、未来に自分が目指すこと、どちらも忘れて今この瞬間に集中しなければならない。
  6. ケガをしたときも休まない。自分が動ける範囲で動き続けること。その限界は、君の身体が一番良く知っている。

940 名前: Syami 投稿日: 2004/03/11(木) 02:16
おぉ!すばらしい!!
流石一流の方の仰ることは違いますねぇ。

私の太極拳の師父も同じような事を仰っていました。特に

>正しい動きをすれば、「ワーク・アウト」(=消耗)なんてしないのだ。
>踊る前よりも踊った後の方が、身体の調子が良いはずだ。
の部分と内容は同じだと思いますが

「太極拳の訓練は休憩しているのと同じだ。特に打ち合っている時は私は休息している。だから打ち合った後は私は休んだ後と同じなので元気になっている。」

と、仰っていました。

941 名前: Syami 投稿日: 2004/03/11(木) 02:27
>良く形だけの武道を批判して「ダンス」と言われたりしますがそれはとんでもない話で、
これには激しく同意です。大学の授業でソシアルダンスを一年間やりましたが足腰には大変なストレスがかかったモノです。常に正しい姿勢を維持する、かつそれを崩さぬようにステップを使って動き回る。おまけにパートナーもリードしなければならない。これは大変な運動強度でした。

942 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/11(木) 18:21
>先生は今月79歳になるのですが、
>今でもまだ、1日4時間・週6回、クラスで教えています。
超人ですね。武道に限らず、こういう人は励みになりますね。

>流石一流の方の仰ることは違いますねぇ。
禿道。

943 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/12(金) 00:34
>>931>>933 ビスキュイさん こんばんは。

レスありがとうございます。私は決して、ビスキュイさんがテキトーに考えていらっしゃるとか、真剣でないとか、そういうことを申し上げている訳ではありません。ただ、少林寺拳法に何らかの問題があった場合に、「確かにそういう問題もあるます。でも ※※それに当てはまらない人も中にはいるから※※ 別にイイでしょう。」という考え方に、異義を申し立てたかったまでです。

そのようにして問題を片付けてしまうのではなく、「なぜ、そのような問題が起こったのか?なぜ、そのような傾向が強いのか?その問題は、どうすれば解決するのだろうか?」と、一段掘り下げて考えると、もっと別の問題が見えてくるんじゃないかなぁと、ちょっと(´・ω・`)ショボーンとしてしまったのです。。。

この点について少しだけ補足致しますと、例えばビスキュイさんが

>「具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れ
>るのだとするならば,なんで何十年もその体系に従って練習してる先生に変化に寛容な
>人達がいるのですか?それっておかしくない?」

この様に仰られているところも、>>925 の失業率の問題に置き換えてみますと、

 「○○の理由でこの国の失業率が高いとするならば、なんで何十年もこの国に住んでいて、ずっと定職に就けている人達がいるのですか?それっておかしくない?」

のように繰り返し仰られているのです。「失業していない人もいる」というのは、「失業率が高い」という問題を反証できる理由には成り得ないと思います。すなわち、「中には寛容な人達もいる」や「中には技を使える人達もいる」は、「現行の技術体系には弊害が大きい」という問題を、決して反証できてはいないのです。

お分かり頂けますでしょうか・・・?

つづく

944 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/12(金) 00:35
つづき

逆に、私がこれまでの論理を展開する上で、非常に気を遣ったのが、コレコレの「危険性がある」とか、コレコレの「傾向が強い」とか、「一般的には」とか、そのような言い回しをしようと心掛けてきた点です。一例として下記をご覧下さい。

>より、「この動き以外のものは間違っている」といった認識を招く危険性が高いと
>いうことです。(あくまで危険性が高いという言い方をしたことにご注意下さい)

>上記のような「危険性」が挙げられるのではないかと思います。もともと、丸廉の

>そして、このような傾向は、高い段位を持ち、少林寺拳法を深く研究している方に

>その理由は、一般的な少林寺拳法家が、よほど法形の応用・変化に不寛容だから

>しかし上記のような体験は、決して珍しいものではないでしょう。某巨大掲示板でも、
このように、私は少林寺拳法が「本質的」「内在的」「一般的」に持つ問題について、論考を展開してきたつもりです。その上で、一体少林寺拳法には何が足りないのだろうか、より良くなっていくためには何が必要なのだろうか、と考え続けてきたわけです。

しかしながら、勿論私のそんな考え方をビスキュイさんに押し付けるつもりはございませんが…。
堂々巡りを避けるためと、若干脱線気味とも感じますので、この辺で。

945 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/12(金) 00:38

「法形と乱捕にまつわる技術論」については、そろそろ議論が煮詰まってきたところでしょうか。ただ、この先の「少林寺に何を求めるか」に拠る部分になりますと、それこそ人それぞれだと思いますので、「論」として話をするべきではないかと思います。

ココから先は、私の個人的な希望と申しますか、「少林寺拳法がこうだったらいいのになぁ」というヒジョーに自分勝手な理想、妄想(w)を書かせて頂きます。勿論、反発・反論の類がビシバシ飛んできそうですが、そこは、丸廉にフラッと立ち寄った一休眠拳士の独り言だと思って、聞き流してやって下さい。(一応、私なりの少林寺愛から生まれた妄想のつもりですw)

つづく

946 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/12(金) 00:40
つづき

少林寺拳法では、「法形が使えない」「少林寺は弱い」などの批判も多々ありますが、その他に、「他武道と比べて特出した技法」がない(もしくは少ない)という問題もあるように思えます。
もちろん、宗教的な教えの部分や、丸廉HPの「なぜ最初は払うのか」の部分などは、少林寺拳法の非常に素晴らしい特徴の1つではあると思います。

しかし、教えや精神性については、他の武道(柔道、剣道、合気道、空手道…)でも教えられている(むしろ非常に強調されている)部分ですし、「最初は払う理由」も、単独では素晴らしいのですが、それを以ってして少林寺の最大の特徴であると言うには弱いかなという気がします。また、技法でと言う事なら「圧法」がありますが、>>814で40過ぎ拳士さんが仰られているように、 1000人入門者がいて「圧法」にまで辿り着ける人はホンの一握りしかいないでしょう。従って、「圧法」がある故に少林寺は素晴らしいと言ってしまっては、それを習えなかった大部分の拳士達が浮かばれません。

特に、<他武道との対戦>を想定した場合、少林寺の「特出性の無さ」は顕著に表れると思います。例えば、

 <剛法では>
  空手(フルコン・伝統)、ボクシング、キック等々の、打撃系格闘技の経験者には、今の少林寺拳士ではほとんど歯が立たないと思います。私の習っている伝統空手で言えば、乱捕をそこそこやっている程度の少林寺三段〜四段レベルでは、おそらく彼らに触ることもできないでしょう。私も、かつてそうでした(マジ)。

 <柔法では>
  柔道、柔術、レスリング、サンボ等の経験者にも、今の少林寺では通用しないことでしょう。私は柔道初段&少林寺三段ですが、その私でも、柔道三段の現役の人にまともに組まれたら、おそらく5秒と立っていられないと思います(これも本気)。

 <総合では>
  では打撃&組技の両方を想定した総合ルールではどうでしょうか。これもやはり、修斗や大道塾や、いわゆる総合格闘技をやっている人には、少林寺では勝てないのではないかと思います。(上記は憶測ですが、当たらずとも遠からずでしょう)

 <街の喧嘩では>
  この辺りの話になりますと、対武器や対複数、その他諸々の条件も関わってきますし、また「なぜ最初は払うのか」で論じられているように、法廷で有利に立つための戦略のような部分も絡んできますので、一概には言えません。ただし、(私の超個人的な意見で言わせて頂ければ)この場では柔道が非常に有利なように思います。柔道の投げ技では、相手をほとんど傷付けることなく、相手を制することができます。それに、狭い場所でも使える技はありますし、立ち状態での絞め技等は非常に有効かと思います。

まあ長々と書き連ねてしまいましたが、私なりの、少林寺の対 他武道論です。おそらく、細かい部分については多少の反論は出うると思います。しかし、大筋の流れとして、少林寺拳法は「剛法」も「柔法」もあって、一見何でもできそうでいて、実は何にもできない。これじゃ、某有名RPGでいう「サマルトリアのお(自主規制」状態なんじゃないのか!? っていう流れには、少なからずご納得頂ける部分が多いのではないかと思います。

つづく

947 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/12(金) 00:41
つづき (ようやく主張の部分です)

それでは、ボクシングはパンチの技術で随一、テコンドーは蹴りの技術で随一、柔道は投げ技の技術で随一、伝統空手は突きの速さで随一、総合格闘技は総合ルールで随一、プロレスは打たれ強さで随一・・・エトセトラ。 他の格闘技では上記のようなそれぞれの特長がありますが、少林寺拳法には何にもないのでしょうか?

もう1つ。 少林寺拳法には、確かに素晴らしい教えや道徳観・精神論などはあるのに、やはり格闘技術的な部分で言えば、他に勝るものというのはないのでしょうか?少林寺は所詮、宗教的教えの部分が「主」で、武道・武術は「従」に過ぎないのでしょうか?開祖が、「力愛不二」という言葉はなぜ「力」の方が先に来て「愛」が後なのかを考えてみよと仰られていましたが、現在の少林寺では、まず「力」を教える事はできないのでしょうか? 


私の答えは、否です。

私は、少林寺拳法には他武道には決して真似のできない、素晴らしい「格闘技術」があると考えております。それは、
 「全格闘技の中でも、<防御の技術>では随一」
ということです。

ここから先は、本当に私の理想論だけになってしまいますが、例えばどんな打撃格闘家でも、少林寺の拳士からクリーンヒットを取ることは難しい。あるいは、どんな柔道家やレスラーでも、少林寺の拳士からはそうそうテイクダウンを取れない。もしそんな技術を、少林寺拳法の中で身に付けることができるとしたら、それは素晴らしい事ではないでしょうか?

つづく

948 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/12(金) 00:41
つづき

私は、そんなような理想(半ば妄想?)を少林寺拳法に期待しているのです。そして、少林寺拳法の教え的にも、技術的にも、これは十分実現しうることだと思っております。

それゆえ、「そのためにどうすればよいか」「現状では何が問題なのか」「もっと理想に近づけるためにはどうしたらいいか」を、深く追求し、日々研究研鑚し、試行錯誤を繰り返して参りました。私が >>778 以来、ずっと首尾一貫して述べて参りました主張は、ある意味では、このような理想を見据えての論考の結果だったとも言えます。

つづく

949 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/12(金) 00:42
つづき

現在私は、某流派の伝統空手を学んでおります。そこで、突きの鋭さでは格闘技界でも屈指の技術を持つ空手家達と、拳を交えております。しかしながら、私の打撃技術は、あくまでも少林寺拳法ベースです。その私の技術と理論を、空手の世界で試し、さらなる高みに登ろうと研鑚を積んでおります。そこではいつも新しい発見があり、素晴らしい実践の場だと思っています。さしづめ、いつぞやの英語の習得の例(>>840>>841)で言えば、文法過多の修行場を離れて、海外へ行って現地で英語に揉まれているといったところでしょうか。

実際、入門当初こそ伝統空手家のもの凄い突き技にほとんど反応すらできませんでしたが、既に1年半の経験を積み、黒帯(初段)を頂いた今では、少林寺の技法を運用する事でかなりのレベルで彼らの技を防げるようになってきました。まだまだ自分から攻めに回ってポイントを取れるほどにはなっていませんが、こと防御技術という点においては、私より二段階くらい強い人でもなければ、そう簡単に私からクリーンヒットは取れないでしょう。(勿論、私より二段階どころか三段階も四段階も強い人がゴロゴロいるのがこの世界ですが)

このように、私は空手において少林寺拳法の技法を運用し、また私なりにカスタマイズすることによって、私なりの防御技術をホンの微かながらではありますが、体得しつつあります。

しかしこれは、現行の少林寺拳法の技術体系とカリキュラムのままでは、到底無理だと思っております。私がもし少林寺拳法だけをやっていたのでは、今の私程度のレベルになるのにさえ、一体あと何年掛かるのか分かりません。何年やってもできないかも知れません。なぜかと言えば、繰り返し言うようですが、乱捕の練習量が圧倒的に足りないからです。法形と演武に時間を取られすぎているからです。従いまして、>>873でビスキュイさんが仰られた、

>私と通りすがりの休眠拳士さんがそれぞれ練習メニューを組んだら,結
>局のところ内容も時間配分非常に近いものになるんじゃないかな〜と思

これはおそらく、随分違うものになるのではないかな〜と思います。もちろん一日だけの練習メニューという目で見たら、一緒の内容になる日もあるかも知れません。しかし、トータルのカリキュラム構成という視点で考えた場合は、私の必要と考える乱捕練習時間は、ビスキュイさんが考えているより遥かに大きいものではないかと思います。


ラストにつづく

950 名前: 通りすがりの休眠拳士 投稿日: 2004/03/12(金) 00:45
ラスト

またまた思いも掛けず長文になってしまいました。まあ、この辺りは私の妄想だと思って、どうぞご容赦下さいませ。

要するに、少林寺拳法には(・∀・)イイ!ものがたくさんあるのだから、それを上手く使えるように練習しなきゃ勿体(・A・)ナイ!ということが言いたかった訳です。

なんだか、「通りすがりの」って言ってる割にはカナーリ長居してしまっているので、この辺で失礼します。

951 名前: rusher 投稿日: 2004/03/12(金) 01:30
読んでいて、つくづく自分には少林寺拳法に対する愛着(執着)も幻想もないなと自覚しました。

自分は、定量的評価もせず、定性的仮設をぶつけあうだけの《議論》にはお付合いしたくありませんでした。どうせ水掛け論になるわけだし、滅多に情緒的納得もえられません。誰かさんの実証より自分の実証のほうが大事です。そして自分の時間は、稽古/勉強/休養、自分にとってより有意義なことに使いたいです。だからお付合いしませんでした。今後もお付合いしません。

以上、不躾ながら、傍観者が感想として不共鳴を表明しました。

952 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/03/12(金) 06:09
>ラさん
私の場合は…執着は結構持っちゃってるかもしれませんね〜。あまり自覚はないのですが(;^_^A
ちなみに今回の議論は自分の中の方法論を言語化して再認識出来たという点で私にとっては有意義でした(^O^)

953 名前: rusher 投稿日: 2004/03/12(金) 13:15
>>952
>ちなみに今回の議論は自分の中の方法論を言語化して再認識出来たという点で私にとっては有意義でした(^O^)
そうでしょうね。他者から摂動を受けないと自分の言葉は出てこないものです。これでめでたく以下の状態を脱出できることでしょう。

>2573 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/01/14(水) 17:56
>
>>そういえばビス氏、武専の卒業はどうなった?
>
>私は高等科が大好きなので高等科3年をもう1年経験しますが何か?
>これで4度目,いや,5度目の高等科3年かな…?
>
>
>2574 名前: アップル 投稿日: 2004/01/14(水) 18:06
>
>>5度目の高等科3年かな…
>結構多いのかな〜、卒業に興味がない人。
>
>
>2575 名前: rusher 投稿日: 2004/01/14(水) 18:09
>
>>>2573
>よほど論文が苦手なのですね。
>交流会に出稽古に、書くネタが大量にあるでしょうに。
>拳士たるもの文武両道で行ったほうがよくありませんか?
>
>とはいえ自分も武専は休学しようかなと先月から悩んでる。
>オヤジのサロンよばわりされたから、惰性で続けるのイヤになった。
>
>
>2576 名前: ビスキュイ 投稿日: 2004/01/14(水) 18:12
>
>>よほど論文が苦手なのですね。
>>交流会に出稽古に、書くネタが大量にあるでしょうに。
>>拳士たるもの文武両道で行ったほうがよくありませんか?
>
>うっ…それを言われると耳が痛いです…
>確かに書くネタは大量にあるのですが,いまいち脳内での煮詰まりが悪いのですよね。
>煮詰まると一気に書き上げてしまうのですが…ってそんなこと言ってるようじゃまだダメか
>


954 名前: アップル 投稿日: 2004/03/12(金) 13:57
>ちなみに今回の議論は自分の中の方法論を言語化して再認識出来た
>という点で私にとっては有意義でした(^O^)
おしい!あと数ヶ月はやかったら進級できたのに!!ということかな?

955 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/12(金) 20:26
>私は、少林寺拳法には他武道には決して真似のできない、素晴らしい「格闘技術」が
>あると考えております。それは、
>「全格闘技の中でも、<防御の技術>では随一」

私は、少林寺は、「あらゆる条件から生還する」ことを「目標としている」ことがすばらしいと思います。
しかし、現実は

>しかしこれは、現行の少林寺拳法の技術体系とカリキュラムのままでは、到底無理だと思って
>おります。
これに近いものがあると思います。これは「システム」ではなく取り組み人の「質」だと思います。「時間がきたら昇段だ。5段だから俺は名人」みたいな人が増えています。昔は「自分はまだまだ」みたいに「強いのに昇段が遅い」人は少なくなりました。某空手が競技志向になったように、「昇段志向」が増えています。
ただ、道場で、5段より強いのに、なかなか昇段しない初二段みたいな人がいる考え物ですが。

カタチにこだわらす、いろんな武道を研究し、体力も増強し、しかし体力に頼らない、地道な道を歩むことが大事だと思います。

956 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/13(土) 08:08
>>940 Syami さん

 もう一つ面白いな、と思ったのがその先生が強調する正しい姿勢と言うのは 「含胸抜背」なんですね。腕を長く使うためというのが一つ、もう一つは、肩を後ろに引いて胸を張ると肩を痛めてしまうからだそうです。

957 名前: 赤影 投稿日: 2004/03/13(土) 10:32
>その先生が強調する正しい姿勢と言うのは
>「含胸抜背」なんですね。
逆に、ベンチの基本は、胸を張り肩胛骨を後ろに寄せます。スクワットも、腰を反らします。ショウヨウやエントウではありません。私がウエートの後、数分でいいから、拳立て等武道トレーニングと基本をやれと言うのは、こういうことです。あくまで、筋肉をふやしたり、重いものを持ち上げるフォームと、武道のフォームは違うからです。

958 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2004/03/13(土) 17:42
>>957 赤影さん

 なるほど、その通りですね。
 今私は、新しい流派に入門したばかりでこれまでとちょっと違った動きを練習するのに手一杯なのですが、もう少しして時間的に余裕が出来てきたらウエイトトレーニングを再開したいと思っています。今が、もう一度しっかり身体をつくる最後のチャンスかな、という気もしますので…

960 名前: Syami@Office 投稿日: 2004/03/13(土) 18:58
>腕を長く使うためというのが一つ、
>もう一つは、肩を後ろに引いて胸を張ると肩を痛めてしまうからだそうです。

私の陳式の師父も見事に同じ事を言っていました。

967 名前: 615期生 投稿日: 2004/03/25(木) 01:16
下を読まずに書いてます.

>>778
>では、なぜ少林寺拳法では、他武道の技に対しての防御法について、
>あまり命名(紹介?)されていないのでしょうか?具体的には、
>ローキックに対する防御、タックルに対する防御
>足払いに対する防御、寝技に対する防御
>絞め技に対する防御、関節技に対する防御・・・etc
>これらに対する防御法が、少林寺の一般的な法形としては存在しないのは

>>779
>しかし、では先のページで紹介されている、内受突の変化としての、
>肘打ち、膝蹴り、体当たり等の技に命名がされていないのはなぜでしょうか?
ごもっともですね.私の答えは「知らん」です.ザクッ
まず法形の文章は私の私感であり,開祖やら大先生が実はこんな極秘文章残してました,言ってましたというものではないので,完結してないのはご容赦を.

逆小手と内受突のコトは,まずすべてを形式知とすることは出来ないという自明がありますので,今のところで「落ち着いた」と解釈するしかないかと思います.それでも相対的には形式化が進んでいる方だと考えます.

>>788まで読みました.

968 名前: 615期生 投稿日: 2004/03/25(木) 01:28
法形の数について.
結局いくつあるのかは知りませんが,600くらいなら多いと思いません.これはもちろんもろに私感です.

>>793 とっしぃさん.
>全ての動きについて技の名前がついていたら・・・
>1.数が膨大な量になる
>2.技を全て覚えようとして大変なことになる
>3.新しい(法形に無い)動きに対して対応し切れなくなる
>4.それぞれの技をバラで覚えて関連付けが上手くいかない(>現状でもよくありますが・・・)
>5.研究の余地が狭まり(無くなり)楽しみが減る
>となるのではないでしょうか?
>私は技の数は少ないと感じたことはありませんが、逆に多すぎるとも思いません。
私もとっしぃさんに同じ.多いとも少ないとも.すべての知を「形式知」にすることはでくないので,「>全ての動きについて技の名前がついていたら・・・」ということをすれば,1.2.がもりもり増えてしまいますね.

>>795
>>法形は開祖存命中に確定されたものでありますが、殊更に新規開発を禁じられたものではないと考えます。
>そうなのですか。むしろそうであって欲しいと願います。
>いつまでも何十年も前の技術体系を守り続けているだけでは、進歩は危ういでしょう。
危ういですね.躰道では大会なとで日々新しい動きが生まれているそうです.見習わねば.

>>798まで読みました.

970 名前: 615 投稿日: 2004/03/25(木) 01:42
>>806
>中国武術の言葉だったと思いますが,「千招を知る者よりも一招を得たものを恐
>れよ(だったかな?)」という言葉があります。「千の技を知ってる者よりも一つ
>の技に熟達した者の方が恐ろしい」という意味だそうです。含蓄のある言葉です。
そういえば日本にも「多芸は無芸」という言葉がありましたな.私がこの言葉をはじめて聴いたときドラクエ3の勇者を連想しました.私はこの言葉がとても好きです.

>>809
>>4.それぞれの技をバラで覚えて関連付けが上手くいかない(現状で>もよくありますが・・・)
>バラで覚えるからわるいのでしょ?関連付けてれんしゅうすればよろし
これについては,現在の少林寺拳法の中では関連付けがまったく出来ていない黒帯が多いので,教育者もしくは教育課程に問題があると言わざるとえない現状があると思います.指導者の「指」「導」法に問題があるのかも.

809まで読みました.

971 名前: 615期生 投稿日: 2004/03/25(木) 02:01

>>814
>特に危険な(それ故実は非常に有効な)技術のいくつかは
> 既に失伝しつつあるのではないかと疑っています。
同意です.まず失伝自体はいくらがんばっても必ずあります.諄ようですが,完璧な形式知化自体がムリだからです.
40前拳士さん,興味深いお話ありがとうございます.ネットが形式知化を強力に補佐するものであると信じています...

>>833
>総合の研究がしたい。対柔道の練習を。空手の技を取り入れたい。なんでもできると思うのよね。
>道から外れていなければ。
私は少林寺拳法は技術的には極めて肝要で,やっちゃいけないことは無いと考えています.だから「それは少林寺ではない」という言葉は,技術論ではなく精神論でのみ論じられるものだと考えていることは,今までも欠いたことがありました.だからビス氏の「少林寺は弱い強いというよりも便利な技術」というのがとてもしっくりきます.


972 名前: 615期生 投稿日: 2004/03/25(木) 02:27
>>833
>少林寺拳法を修める方達の間でよく言われているのが、「法形を乱捕で実践できない」
>「法形と乱捕が上手く繋がらない」「乱捕ではどうしても軍鶏の喧嘩になってしまう」
>そして、「少林寺が弱いと言われるのは仕方ない」と言うような批評です。これらの
>否定的な捉え方について、一般的に見れば、異を唱える方はあまりいらっしゃらない
>のではないかと思います。(ウチの道院は大丈夫、とかは抜きにして)

「よく言われている」ということに同意です.かなり多いと思います.

>「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」
>私は逆に、少林寺拳法の技法の「教授法」や「方法論」こそ、最大の問題ではないかと考えているのです。

>>844
英語の例えとてもすきです.また拳法の例えは料理に例えるのも相性がいいようです.と思ったら,ビス氏がやってるではないか.出国前に,Z会のパンフレットを本屋で見て少林寺拳法のことをいわれているような気がして持って帰ってきました.皆さんもぜひ本屋で読んでみてください.

>843
>少林寺をやる目的が、体育のため、健康のため、娯楽のためということであれば、
>私の考えは全く受け入れられないものなのでしょう。
>しかし、護身術として、危急の時に「使える」ための格闘技術として少林寺拳法を
>考えた場合は、果たしてこのままでよいのでしょうか?
ここらの文章書きたいなーまた怒られそうだが....むふふ.

ビス氏曰く,うんうん,皆さん同じコトを言っているという気がしますね.

>>860 40過ぎ拳士さん
> 練習量と切迫感があれば
> メソッドも真剣に追求するようになるのが
> 自然な成り行きだと思います。
これを聞くとほんとアップルさんの「予備校化」が思い出されますね.

ぶっちゃけ,拳士の中には強くなる気なんて無いだろなと感じるヒトは結構いますが,そんなヒトでも,習うたびに支部長が「この技は実践では使えませんから」を連呼していれば,ヤル気を失うと信じています.
強くなる気がないって言ったってまったくの虚構を学ぶ事に情熱を傾けれる人間なんてそうはいないと考えています.やっぱり拳法は必然的に実践性を求めることが自明だし,そうなれば強くなることも程度の差はあれ拳士の望みであると思います.
・・・何を言いたくなったのか分からなくなったので,途中だけど止め.

973 名前: 615期生 投稿日: 2004/03/25(木) 02:49
>>868
>従いまして、法形が多いというのは、術理とその変化・応用を身につけるためには
>どうしても「過多な」要素なのです。そしてその過多な要素は、無限ではない
>稽古時間の中では、ある意味では「障害」となっているのと考えます。

>>869
>法形が多いことの障害は、もう1つあると考えています。より正確に言うならば、
>法形が多いことよりも、むしろ法形で変化例・応用例を例示してしまっていること
>による障害です。

>HP上で、「法形は応用・変化させてもよい!むしろさせるべきだ!!」などという
>主張が声高に叫ばれていること自体が、他武道の人間から見れば、甚だオカシナこと
>なのです。

まったく同意.だからあの手のページ上げるときはとくに「私の私感〜」というのを強調しまくりたい気持ちに陥ります....

>よほど法形の応用・変化に不寛容だからなのではないでしょうか?
ズバリでしょう.W

905くらいまで読みました.ううう

974 名前: 615期生 投稿日: 2004/03/25(木) 12:14
ようやく全部読みました.とてもボリュームのある内容でした.
一気に読むとかなり頭がこんがらがってしまいました.

みなさん,熱い議論ありがとうございました.とても勉強になりました.やはり丸廉の本体は掲示板だなぁと改めて再確認できました.通りすがりの休眠拳士さん,40過ぎ拳士さん,赤影さん,ビスキュイさん,その他大勢の皆様,本当にありがとうございました.有効に保存させていただきます.

合掌

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