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サムライになった英国人を描く
「ドイツニュース ダイジェスト Nr.426 SPECIAL INTERVIEW」より(2002.8)


「SamuraiWilliam」を著したジャイルズ・ミルトンさん
戦乱期の日本に漂着し,徳川家康の加護の下,日本人「三浦按針」として旗本にまでなった英国人,ウィリアム・アダムズ.日本上陸から
400年あまり経った今でも数多くの日本人に慕われ,ジェームズ・クラベルのベストセラー小説「ショーグン」のモデルともなった「按針さま」
だが,本国での知名度はほとんどないに等しい.そのアダムズに興味を抱き,先ごろ「SamuraiWilliam」と題する著書を出版したのが,ベス
トセラー作家として知られるジャイルズ・ミルトンさんだ.アダムズの物語のどこにひかれたのだろうか.

アダムズを知ったのはいつごろですか?
 小説「ショーグン」,おぼろげながらも知ることになりましたが,これが実話に基づいていると知ったのは後のことです.
前著,「スパイス戦争-大航海時代の冒険看たち」を執筆しているとき,東インド会社の資料の中からアダムズに関す
るものを見つけ,とても興味をもち,もっと調べたいと思いました.資料の中には,アダムズだけでなく,リチャード・コッ
クスなどアダムズに続いて日本を訪れた英国人のものもあり,すばらしい素材となりました.
 ミクロ的に見れば英国と日本の話ですが,大局的に見れば欧州と日本との交流に関する話です.おもしろいのは,当
時欧州で起こっていた対立が日本の地に移植されている点です.カトリック対プロテスタントという宗教的な対立が,日
本にまで及んでいたのです.いわば,欧州の「代理紛争」といえます.侍には,日本の承事力が利用されることもありまし
た.

アダムズの話でいちばんおもしろいと思ったのはどういう点ですか?
 彼が日本ヘの文化に適応し,それを採り人れたところだと思います.日本式の家に住み,着物を着て,そして日本人
の妻もめとりました.彼の日記を見ますと,自分のことを「三浦按針」と書いています.ある時期までは本国に戻してくれ
と請願していますが,最終的には日本に骨をうずめる覚悟を決めています.家康からたくさんのお金や領地をもらい,
本国での生活よりも日本での生活の方がずっといいと思ったに違いありません.
 この本の中で,示したかったのは,なぜ家康がアダムズに興味を持ったかという点です.アダムズは思っているところ
を率直に語り,船乗りに対するのとまったく同じように家康にも接したといわれています.この率直さが家康に強い印
象を与えたようです.家康はイエズス会士の度重なるウソやつくり話に辞易していたらしく,そこにアダムスが現れ,実
際何が起こっているかを家康に伝えたのでした.それが家康に気に入られたひとつの大きな理由だと思います.
 おもしろいのは,彼のあとにやってきた英国人が一アダムズの行動を一まったく理解できず,仰天したことです.その
うちの一人が書いています.「彼は,日本人に帰化してしまった」と.この点があるから,日本人はアダムズを敬愛する
のかもしれません.他の欧州人と違って,日本の文化に興味を抱いてくれたからです.当時,これは非常にめずらしい
ことです.

ポルトガルなど他の欧州から来た宣教師や商人はどうだったのでしょう?
 日本を訪れた当初は「自分たちの文化のほうがずっとレベルが高い一と思っていました.しかし,そうした見方をすぐに
変えざるをえませんでした.
 おもしろい書簡があります,これは当時,傲慢な欧州人のなかでもきわだっていたカトリックのイエズス会士によって書
かれたものですが,日本の文化が洗練されていて,少なくとも彼らのレベルに匹敵するものだと記しています.そして,
「今後,日本を決して『野蛮』と呼んではならない」と書いています.
 当時の英国では,アダムズの書簡やイエズス会士からのうわさによって,限られた階層ではありますが,人々が日本
に夢中になると同時に畏れを抱いていました.資料の中に,初の日本使節団派遣に関する興味深い品述があります.
「日本は非常に洗練されたところであるがゆえに,わが国最良のものしか持っていってはならない」というのですあたり
を見渡して,英国最高の地図,本,衣類,貨幣…すべて最高のものを持っていこうとしました.すごいことですつまり,
英国文化が日本文化に匹敵するものであることを証明しようとしたのです.それまでの英国人にはなかった考えです.

日本の何が「洗練されている」と映ったのでしょうか?
 初めに驚いたのは,非常に高いレベルの礼儀作法です.次に,食事については非常に好きか嫌いかのどちらかでし
たが,日本に渡った連中のだれ一人として病気にかからず,衛生面や清潔さの面においても,英国よりはるかに高い
水準にあると書かれています.当時の英国人には人浴の習慣がなく,日本に行った連中は日本のお風呂のとりこにな
っています.毎日入れる上うに,自分たちでお風呂をつくったくらいです.あと,日本の女性も気に入っています.さらに,
着物やその素材にも敬服しています.というわけで,とにかく見るものすべてが初めてのものばかりで,まったく新しい
世界だったのだと思います.
 彼らの目に映った日本へはこのように洗練されている.一方で,非常に残酬な面も持ち合わせていました.非常にささ
いなことで首をはねられる――.この点について,他の連中は恐怖心を抱いています.しかし,アタムズはこうとた日本
の非常に厳しい規律というものに,異なった印象を受けています.アダムズが止まれ育ったケントは非常に荒れた地
域で,犯罪が大きな問題としてあったからです.彼にとって日本の厳しい規律というものは好ましいものだったのです.
 また,関が原を含めて,日本の戦闘スケールの大きさにも驚いています.何十万という部隊が戦いに臨む―そのよう
な巨大な戦闘を見たことがなかったのです.この洗練された部分と残酷な部分の共存については,書簡の中でもいろ
いろ書かれていますが,彼らには理解できなかった点です.

ミルトンさんから見て,日本人がアダムズを敬愛する理由は何だと思われますか?
 やはり,彼が日本の文化を採り入れたことだと思います.今日でも欧州人が日本に行き,言葉を覚え,複雑な礼儀作
法をマスターするのはまれなことだと思います.それも裕福でない生まれのアダムズですからね.家康に気に人られるく
らい,文化を吸収したわけです.ただ,もともと言語には長けていたのだと思っています.英語とオランダ語を話し,スペ
イン語もできたはずです.当時は,英国人より先に日本へに来ていたイエズス会士が彼を殺害しようとしました.プロテ
スタントが日本にやって来るのを非常に恐れたからです.そうした状況を乗り切るためにも,アダムズは現地の文化に
溶け込む必要があったのでしょう.

アダムズのおかげで英国人の日本理解は深まったのでしょうか.
 いえ,彼の影響は商人の中のエリート階層に限られていたと思います.彼が日本に渡ってから数十年の間は日本に
使節団を送りこもうとして,実際に出航したものもありますが,日本が鎖国町代に人つた後,上陸はかないませんでし
た.その結果,アダムズや他の英国人の書簡は長い間,倉庫で眠ることになりました.
 19世紀の中ごろになって,米国人に続いて英国人が日本を訪れたとき,アダムズは再発見されます.日本人から彼
の話を聞いたのです.墓も見つかっています.それから間もなくして,アダムズをはじめとする日本に渡った英国人の書
簡が英国で出版されるようになりました.アカデミックなものであって,一般大衆向けのものではありませんでしたが,い
ずれにせよ彼の物語は再び知られるようになりました.さらに,当時の英国は日本との関係構築に関心があり,その
意味からアダムズの話は役に立ったと思います.「ニ国間の歴史においてこのような人物がいたといって,当時の英
国大便はそれを政治的に利用したと思います.

その当時の英国人の日本理解に比べて,現在はよくなっているのでしょうか.
 残念ながら,進んでいないと思います.英国人にとって,先進諸国の中で日本はもっとも理解されていない国です.日
本への文化に入り込むのは難しく,いまでも神秘の国だと思います.

今回のミルトンさんの本は,「ショーグン」を別として,アダムズについて一般向けに書かれた初めての本という
ことになるのでしょうか.
 確かにアダムズは中心的な人物ですが,これは彼に続いて日本に渡った他の7人の英国人の物語でもあります.彼
らはアダムズの助けを借りて,日本に通商拠点を築くために渡った連中です.非常に多くの日記や書簡を残していま
す.日本での生活についていろいろなことが書かれており,今回出版した本は,こうしたアダムズ以外の英国人に光を
当てた初めての本だと思います.彼らの書簡はアダムズのものとは対照的で,多くがひどいホームシックにかかってい
ます.

英国では先ごろ開催されたワールドカップで日本への関心が高まったと思いますが,今回の出版のタイミング
は計ったものなのでしょうか,それとも単なる偶然ですか?
 単なる偶然です.しかも,非常にラッキーなものです.執筆が終わりかけたころ,突然気がついたのです.出版社もこ
の好機を活かそうと,出版を1,2ヵ月早めました.日本でも本書が出版され,アダムズについて改めて関心が高まるこ
とを願っています.



ウィリアム・アダムズの物語とは
1564年英国ケント生まれ.1598年,オランダの東洋探偵町の航海長として「リーフデ号」に乗り込む.ロッテルダム港から出航した船は1600年,
試練統きの航海の後,豊後(大分県)に漂着,アダムズは日本を訪れた最初の英国人となる.最終的には徳川家康の信任を得て旗本となり,外
交顧問として貿易,測量,造船,兵の装備強化等の指導にあたる.オランダ商館の平戸設置にも貢献.平戸イギリス商館長コックスの下で東奔
西走する一方,自らも通商のためシャム(タイ)に出向く.「按針さま」として多くの日本人に慕われながら,1620年5月,病気のため平戸にて死去.


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