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『少林寺拳法 副読本 第二編 少林寺拳法の特徴』(編集・発行:財団法人少林寺拳法連盟) より

第一章 拳禅一如けんぜんいちにょ  体と心を同時に修養する
■心を修め、身を養う
  少林寺拳法のまず第一の特徴は「拳禅一如」ということです。
  「拳」は肉体を意味し、「禅」は精神を意味しています。
  人間は本来、心身一如のものであって、精神と肉体は切り離すことのできないものです。ですから、精神のみの修養によって、真実の救いや、人生における真の大安慰(だいあんに)が得れるものではなく、また肉体のみの修練によって、真の人格が完成したり、真の悟りが得られるものでもありません。精神と肉体、この二つのものは別々には存在価値のないものです。
  したがって、正しい修養の道は、まず精神(霊・心)の住家(すみか)である肉体を養いながら、精神(霊・心)を修めるものでなければなりません。修養という言葉の意味は、「心を修め、身を養う」というところから来ているのです。

■精神と肉体は別々のものではない
  人間の精神と肉体、心と体は二つのもののように見えて実は一つです。心が主でもなければ、肉体が主でもありません。肉体があっての、心なのであり、精神(霊・心)があってはじめて肉体に意義があるのです。
 唯心論者がいかに強弁(きょうべん)しても、いくら死にたい死にたいと精神を統一してみたところで、頭で思っただけでは絶対に死ぬことはできませんし、心臓を止めたり休ませたりすることもできません。また絶食していれば、いくら御馳走(ごちそう)を食べていると想像してみても、全身から力が抜け、気力がなくなるのはどうしようもありません。
  逆に、どんなに死にたくないと思っても、首を締められたり、病気に肉体が蝕まれると死ななければなりません。
  このように、心と肉体は、別々に区別して考えられない存在なのです。

■理想的な霊肉一如の修行法
  心と肉体とが別々に切り離すことができないものだとするなら、その修養法はあくまでも心身一如、霊肉一如でなければならないはずです。
  しかし、現在世間で行われている各種の修養法と称するものは、そのほとんどが精神偏重であり、極端なものは「足がくさるまで座禅せよ」と教えたり、絶食をさせたり、寒中滝に打たれるなどの苦行をさせ、肉体を苦しめることによって、精神の安らぎや悟りが得られるの――などと説いています。しかし、長期の座禅や断食、その他の苦行は、肉体を弱め、枯木のような人間をつくっているのが実態です。逆に、各種の武道やスポーツなどは、勝敗が第一であり、精神修養とは名ばかりで、実質は技術第一、記録第一で、特殊な肉体を練成することに専念しています。
  少林寺拳法はこの点、まったく理想的な霊肉一如の修行法であり、完全な心身一如の練成法です。苦行ではなく養行であり、技術を楽しむ心身一如の修養法なのです。

■「禅」に勝る「拳」
  中国の北禅では、昔から 「拳」と「禅」とは切り離すことのできない修行とされています。しかし、その修行の効果は等しいものではなく、「拳=動」のほうが、「禅=静」の修行の百倍も千倍もの効果があると説かれています。
  拳と禅の二道はともに禅門の主行なのですが、拳法は修行中、死生の間に身を挺して、心身ともに鍛錬陶冶(たんれんとうや)する真剣な行ですから、その効果は座禅よりもはるかに勝っているとされているのです。


注1 一如=「如」とは「実態、本体、真相、真実、真如」などの意味を持つ仏教の言葉。「一如」の「一」は「不二」、「如」は「不異」、いずれも「異らない」を意味する。つまり「一如」とは、「真如は二ではなく一であり、異るものではない」ことを表わしている。
注2 大安慰=安心感や真の悟り
注3 唯心論者=精神・意識・理念など精神的なものだけに重きをおく考えの人。プラトンやライプニッツ、ヘーゲルなどが代表者とされる。
注4 強弁=無理に理屈をつけて言いはること。言いわけをすること。
注5 蝕む=虫が物を食って形をそこなうことから、体や心が病気や悪習でそこなわれることをいう。
注6 偏重=一方ばかりを重んじること。
注7 専念=心を一つのことに集中させること。
注8 陶冶=人間本来の性質を円満完全に発達させること。

第二章 力愛不二りきあいふに  力と愛が調和して一つになる
■平和で幸福な理想境を実現するためには
  少林寺拳法の第二の特徴は、「力愛不二」ということです。これは、人間が「霊止(ひと)」として生きてゆくためには、そしてまた正義正法(しょうぼう)を守り、平和で幸福な理想郷を実現するためには、愛と慈悲ばかりでなく、理知と力も必要であるということです。
  いざというとき、役に立つのは力であり勇気です。不正や悪を倒し、社会の平和と幸福を守るのも力であり行動力です。確かに愛や慈悲のない理知や力は暴力になりますが、同時に、理知や力のない愛や慈悲は、まったくの飾り物であり、無力です。
  どんなに慈悲や愛が深いといっても、勇気と力と実行力が存在していなければ、それは現実に現(あら)わされることなく終ってしまい、はじめから慈悲も愛も持っていなかったのと同じ結果になってしまいます。ですから我々は、言葉で言っても聞かなければ、力にうったえてもやめさせるだけの行動力と、同時に、改心すれば許すという寛容力が必要です。

■力と愛、理知と慈悲とが一体になるとき
  ところで、「許す」ということは、「許す」ことのできる立場と力のある者だけにできることです。強盗に入られて手足を縛られた者が、目の前で家族に暴力をふるわれるのを見ながら、どうすることもできないときに、その強盗を「許す」などといえば、それは滑稽なだけです。それは「許す」のではなく、「あきらめる」ことであり、卑怯者の論弁にすぎません。
  力も愛も、共に同等の価値と重要性を持っています。どちらも欠くことはできません。この力と愛、理知と慈悲とが一体になったとき、はじめて大宇宙の真理・法則(ダーマ)に合致した思想や行動が可能になるのです。
  我々は、理知と力、慈悲と愛との二つをもって、自己の人生を安心で幸福なものとするとともに、社会の平和と福利の増大のために積極的に貢献してゆかねばならないのです。


注1 霊止=「宇宙の大生命ダーマより魂をうけた分霊としての人間」を意味する言葉。人間は人間のみがもつ知性や特性を発現すべき存在であるという考え方を示す言葉である。
注2 理知=理性と知性と。仏教では真如と、
これを悟る知恵をいう。物の道理を分別理解する知恵。
注3 寛容力=寛大に人を許すことができる力。
注4 詭弁=道理にあわない弁論。こじつけの議論。相手をだますために用いられる外見上はもっともらしい虚偽の論。

第三章 守主攻従しゅしゅこうじゅう  まず守りそれから反撃する
「先手なし」の方針
  少林寺拳法の第三の特徴として「守主攻従」の原則があります。
  少林寺拳法では、このことは「心構え」として言葉が訓えられているだけではなく、すべての「技」の組み立ても、「まず受けから始まり、完全な防御を行ったあと、反撃に転ずる」という形で構成されています。
  少林寺拳法窪が「先手なし」という方針を貫いていることは、一般的にいわれるような「防御のほうが攻撃よりもすぐれているという」意味からではなく、「拳法を修める者の平常の心構えはかくあらねばならない」という大原則にもとづくものです。

■心身の練磨と正法護持の力の獲得
  この大原則には、はっきりとした理由があります。
  その第一の理由は、少林寺拳法が金剛禅の「宗門の行」の一つとして「心身の練磨」と「正法護持(しょうぼうごじ)の力の獲得」とを目標においているということです。
  我々の拳は、いたずらに「先」を求めて、奇襲をもいとわず、敵を倒すことのみを目的とする性質のものではありません。少林寺拳法は、正義正法を守るため、あるいは無法者の暴力から隣人や自己の安全を確保するためにのみ、行使する「破邪の拳」であるべきなのですから、どんな理由があっても、決して自分から先に人を打つべきではないという論理にもとづくものなのです。
 
■守主攻従は技術的にも有利
  もちろん、技術的な点からいっても「守主攻従」は有利な面をもっています。少林寺拳法が「守主攻従」を唱える第二の理由はここにあります。まず「不敗の態勢」を確立することが「後先必勝の機」をとらえるのに有利だから、このように訓えられているのです。第一の理由が精神的なものであるのに対して、第二の理由は主として技術的な面からの教訓です。
  勝たなくてもよい、絶対に負けないこと。これが大事なのです。そのためには、「先に手を出さないで待つこと」ができなくてはなりません。「一時間でも二時間でも待てる」だけの胆力があれば、それは「必ず勝つ」につながります。このことを、よくよく心にかみしめて味わってください。拳を修める者は、あくまでも「武の本義」に従い、「暴(正義なき力)を抑止する」ためにのみ行動すべきなのです。


注1 正法護持=金剛禅の正しい教えを守ること。
注2 奇襲=敵のすききをねらって不意に襲撃すること。不意打ち。
注3 胆力=ものに恐れず臆せぬ心
注4 抑止=おさえとどめること。ここでの「暴を抑止する」とは、自分の信念に従って行動することで、相手の攻撃の気持をおさえることをいう。

第四章 不殺活人ふさつかつじん  拳を正しく活かす道
武の目的は争いを止めること
  少林寺拳法の第四番目の特徴は「不殺活人」です。
  これは、少林寺拳法の技が人を傷つけたり殺したりするためのものではなく、自己の身を守り、他人を助けるため、そして社会と人類の平和と幸福に貢献するためのものであるということです。
  少林寺拳法の武力(暴を抑止する力)としての効果は、きわめて強烈なものですが、たとえ相手が無法者であっても、我々はそれを傷つけたり殺してしまったりはしません。武の目的は、あくまでも「争いを止めること」であり、いたずらに「人を殺傷すること」ではないのです。

■相手の戦闘力を喪失させる

  少林寺拳法の技は相手の皮膚を破ったり、骨を折るといったことは一切なく、まったく傷はつきませんが、強烈な痛みのために数分間は身動きもできず、完全に戦闘力を喪失した状態にするという理想的な法術です。
  これは他の武道には見られない大きな特徴で、ここには「宗門の行」としての少林寺拳法の特性がいかんなくあらわれています。あくまでも「活人拳」を目標として、人を殺さず傷つけず、しかも正法を妨げる不法者を制圧することのできる効果的な技法が少林寺拳法なのです。

■最小の力で最大の効果を発揮し得る技

  その秘密は、数千年の伝統を有する東洋医学の精髄(せいずい)『経脈医法(けいみゃくいほう)』が教えている人体の急所を完全にコントロールするところにあります。相手は急所を攻められるのですから、ひつくりかえらざるを得ません。押えられたら身動きもできません。
  もちろん、十分な効果を発揮するには、急所を知っているだけでは駄目で、合理的な技や力の使い方を知るとともに、それが反射的に出てくるところまで演練しておかなければなりません。このように、少林寺拳法には少ない力で大きな効果を発揮し得る「技」がたくさんあります。

■「殺人拳」と「活人拳」の相違
  少林寺拳法では、「一拳必殺」という言葉は使いません。あくまでも「一拳多生(たしょう)」であり、「不殺活人」です。拳士たるものは、同じ拳にも「殺人拳」と「活人拳」の相違のあることを知らなければなりません。
  「殺人拳」とは単に己れの強さを誇示するために、理由もなく相手を殺傷したり、また自我を通すため自己の名声を得るために、戦いを求め、人を殺傷したりする邪拳です。
  「活人拳」とは、己れの心身練磨の行法となるものであり、自己を防御し、多数の善良な人々を守り、正法を護持する正拳をいいます。まさに「一拳多生」なのです。


注1 喪失=なくすこと。失うこと。
注2 精髄=物事の最もすぐれた大切なところ。
注3 誇示=誇り自慢して示すこと。

第五章 剛柔一体ごうじゅういったい 技の中に剛法、柔法の二つが一体となって生かされている
■剛法と柔法
 少林寺拳法の第五番目の大きな特徴は「剛柔一体」です。
  「剛法」とは、「我」(戦おうとする自己)と「彼」(戦う相手)とが激突して「彼」を倒そうとする技をいいます。攻撃技としては、「突き」「蹴り」「打ち」「切り」が主体となり、防御技としては、「かわし」「流し」「はじき」「受け」が主体となっています。
  「柔法」とは、「我」と「彼」(戦う相手)とが接触した状態で変化をおこし「彼」を制しようとする技をいいます。「守法」「抜き」「逆」「投げ」「固め」が主体となる技です。

■少林寺拳法は完全な「剛柔二法」
  これらの武道を学んだことのある人は、おそらく「どうもこれだけでは完全ではない。両方をやって、足りないところを補い合えば、はじめて満足できるのではないか?」という感じを持たれた経験があると思います。
  少林寺拳法では、「技の剛柔一体」を特徴とし、はじめから完全な「剛柔二法」を備えています。しかも、その二法が実に巧妙に、効果的に組み合わされています。少林寺拳法の各種の技をよく吟味してみると、「剛法」と類別されているものの中に柔的なものがあり、またその逆に、「柔法」の中に剛的なもののあることに気づきます。
  このように少林寺拳法の技は、「剛柔」の名称の分類にとらわれず、一つの技の中にも「剛柔」を使い分けて、自由自在です。このことは、他の武道には類を見ない大きな特徴です。

■「剛柔」は一体不二の存在
  「柔術」や「柔道」の名は、「柔よく剛を制す」という言葉から出たものですが、柔が剛に粉砕されることはしばしばあり、オリンピックなどの国際試合でも十二分に見せつけられています。我々は、「柔よく剛を制す」の言葉のすぐあとに、対句として「剛よく柔を断つ」という言葉のあったことを知らなければなりません。
  もちろんこれは、「剛」のほうが「柔」よりも優れているということではありません。「剛柔」は本来不二の存在なのです。天地陰陽と同じく、その本質ははまったく別個のものではあるものの、別々に存在したのでは、その意味がなくなるものなのです。
  「剛柔二法」は、歯と唇との関係にたとえることができます。唇は柔らかくて、歯のように物を噛み切ったり噛み砕いたりする力はありません。しかし、歯だけでは食べ物が口からボロボロこぼれてしまい、物を食べることはできません。唇の助けがあって、はじめて歯はその役目を果たすことができるのです。
  以上のように、「剛柔」ともに相互の優劣はなく、その用い方についても、「どちらが先、どちらがあと」という順番のないものです。少林寺拳法では、この二つを完全に効果的に利用しているのです。


注1 吟味=ものごとをよく調べること。
注2 類別=種類によって区別すること。分類。
注3 粉砕=粉みじんに細かくくだくこと。相手を徹底的に打ち破ること。
注4 対句=意味の相対した二つの語句を並べて表現すること。
注5 陰陽=中国の易学でいう、相反する性質をもつ陰と陽の二種の気。万物はこの二気の消長(しょうちょう)から成るとする。例えば、日・春・南・昼・男などは陽で、月・秋・北・夜・女などは陰であるとする。
注6 優劣=まさることとおとること。

第六章 組手主体くみてしゅたい  二人が組となって演練すること
■必ず二人ずつ組んで行うのが原則
  少林寺拳法の第六の特徴は「組手主体」ということです。これは、「どんな技を演練するときも、必ず二人ずつ組んで行うのを原則とする」ということです。
  もちろん基本動作の一部として、あるいは忘れないために組み立てられた基本形として単独で演練することもありますが、それはあくまでも「従」であって、日常の練習のときも、法形の演練のときも「組手(くみて)」すなわち相対(そうたい)演練を「主」とすることを原則としています。

「武」としての拳
  これまでの歴史が示すように、少林寺拳法は単なる健康法としての体操ではなく、ましてや舞踊でもなく、「護身練胆(ごしんれんたん)」と「正法護持(しょうぼうごじ)」のための力の獲得を目的とした「武道」ですから、「組手主体」は当然のことといえます。
  なぜなら、「武」として拳を用いる場合には必ず相手がいるもので、相手と格闘するときには、攻防の間合とか、虚実とか、動くものに対する種々の条件が必要となり、それらの技術は単独では絶対に会得できないからです。
  こうした理由によって、少林寺拳法の修行は、初心から相手と組み、技法と演練を行うのが主体となっているのです。

相手を立て自分も上手になる
  組手主体ですから、自分が上手になるためには相手にも上手になってもらわなければなりません。そこで、知らず知らずのうちに相手を立てる習慣ができて、協調性のある人柄が養われます。こうしたことから、少林寺拳法の修練場はいつも和気(わき)あいあいとしており、「同志相したしみ、相たすけ、相ゆずり」の信条が文字通り実践されているのです。


注1 「護身練胆」と「正法護持」=第二編第三章を参照のこと。
注2 虚実=うそとまこと。防備のあるのとないのと。あるいは種々の策略を用いること。

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