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82 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/01/31(月) 15:11:59

 大変ご無沙汰しています。 興味深い話題なので、私もお邪魔させて下さい。

 私は、少林寺拳法→フルコン空手→伝統派空手なのですが、 少林寺とフルコンの間にはあまり差を感じませんでした。
 ところが、伝統派との間には大きなギャップを感じましたし、今でも感じています。

 もっとも、少林寺とかフルコンとか伝統派とかいう区別とは別に、誰に習ったか(先生はどうだったか、道場はどうだったか)の差もまた大きいので、
 一概に流派の差ではないかもしれません。
 ただ、その差が流派に基づくものにせよ、先生に基づくものにせよ、土台となる
考え方の差が、体系の差になって現れてくるように思います。

 追伸:遅まきながら、作山先生の本を取り寄せて読みました。
    大変感動しました。


83 名前: 力愛ぷに 投稿日: 2005/01/31(月) 17:13:50

>40過ぎ拳士さん
初めまして。私も同じような年代ですが、今小学生に混じって伝統派をやってます。よろしくお願い致します。

>ところが、伝統派との間には大きなギャップを感じましたし、今でも感じています。
とありますが、どういった点に「ギャップ」を感じてらっしゃるのでしょうか?
また「土台となる考え方の差」とはどのようなものなのでしょうか?
非常に興味をそそられましたので差し支えなければ教えていただけませんでしょうか?


88 名前: 40前拳士 投稿日: 2005/02/01(火) 04:53:55

>>83 力愛ぷにさん

 こちらこそどうぞ宜しくお願いします。
 以下、上手く説明する言葉がまだ見つかっていないのですが…

 ギャップの最大のものは、やはり動きそのものの差です。
 (一口に伝統派と言っても、例えば剛柔流と松濤館では大きく違いますから「伝統派空手」と一括りに出来ないでしょうが…)
 突きを例に挙げると、突の
原理そのものが全く違うので、そこから逆算した身体の各パートの動きも更に逆算したそれを身に着けるための練習も全く違ってくる訳です。
 例えば、今私が練習している道場では、基本の突(少林寺で言えば振子突、フルコン(≒剛柔流)で言えば三戦立からの突)では腰は全く切りません。
 というのは、練習の目的が「丹田の力を拳に伝える」だからなんですね。


89 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/02/01(火) 04:59:52

 「土台となる考え方の差」というのは、これまた自分の中でちゃんと整理できていないのですが、今のところの仮説としては
 「近代的な武道か、前近代的な武道か」或いは
 「動きを打ち合いの中でつくっていくのか、逆に動きをつくってから打ち合いするのか」
 ということです。
 (ここで、「近代的」「前近代的」というのは近代的なものが前近代的なものより優れている、或いはその逆、という価値判断は全くありません。)


90 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/02/01(火) 05:29:45

 
「近代的」というのは、「動きが何故そうなるのか、平易な言葉で説明出来る」ということです。
 少林寺拳法はそうですし、フルコンもそうです。
 多分日本拳法、ボクシング、キックボクシングもそうでしょう。

 このことは同時に、
 「動きを打ち合いの中でつくっていく」にほぼ重なっているような気がします。
 つまり、「どちらが合理的か?」が分からなくなったときは、意見の違う者同士、実際に打ち合いをしてみれば結論が出る、ということです。

 このメソッドを繰り返していくと、流派が違っていても、動きは或る方向に
収束していって基本的なところはあまり違いがなくなってくるのではないでしょうか。
 例えば、日本拳法の試合は、絡み合ってからの投げを除けばかつての少林寺拳法の乱捕と殆ど同じです。
 また、皆さんもよくご存知のように、少林寺の先輩方には、キックボクサーも少林寺を離れた後「フルコン」として道場を開いている方も多数いらっしゃいます。
 私の場合は、そういった緒先輩方とは比べ物にならない低いレベルですが、フルコン道場に通っていたときは、少林寺拳法の延長線上でした。
 「自由組手」の時間にやっていたのは、少林寺時代の「空乱」そのものでした。

武道界には、「分け上る  麓の道は  多々あれど  同じ高嶺の  月を見るかな」という古歌があります。これのことですね。


91 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/02/01(火) 05:42:23

 で、今練習している道場ですが、土台と基本の動きに時間の殆ど全てを使っています。
 そしてそのことに対して「平易な説明」がありません。先生にとっては「平易な説明」なのかもしれませんが、とにかく初心者にとっては理解不能です。
 
動きの一つ一つが、非常に不自然・不合理に思えます。

 ところが、人間というのは不思議なもので(笑) そういう練習をしていると、次第にそういう動きが出来る身体になっていくんですね。
 一見不自然な動きが出来る筋肉と、一見不合理な動きが出来る神経が出来てくるようです。
 そして
或る日、かつては不自然・不合理だと思った動きをしたときにぐっと力が入る感覚が来るんですね。
 そこでやっと、先生が教えてくれる注意点が少し分かるようになる。そういうようにして、一つ一つ積み上げていくメソッドなんですね。


92 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/02/01(火) 05:52:22

 ただ、先日作山先生の本を拝読して先生も何度も「モデルチェンジ」をされていることを知りました。
 「打ち合い」から始める少林寺拳法を修行していても段階が上がってくると
「動き」を見直す時期が何度も来る、ということなのだ、順序の後先はあっても、最終的に向かう方向は同じなのかもしれない、今はそう思っています。


93 名前: 615期生 投稿日: 2005/02/01(火) 08:42:33

ものすごくためになります。40過ぎ拳士さんありがとうございます。
モデルチェンジを繰り返しても拳士でいられるというとこに少林寺拳法の魅力を感じずに入られません(w?)


94 名前: 力愛ぷに 投稿日: 2005/02/01(火) 19:00:44

>40過ぎ拳士さん
非常に丁寧なご説明、有難うございます。おっしゃることに私も頷けることが多いです。
「突きの原理」の件に関しても、有名な武道家、空手家の方々がおっしゃっているように武術的な身体操作を、近代スポーツ理論(西洋スポーツ理論)に当てはめて解釈してしまったが故に、いわゆる古流といわれる武術の動きが、我々にとって不合理なものに感じられるのかもしれませんね。
今は様々な方たちがこういった身体操作を研究され、その成果の恩恵に与ることが出来ます。20年くらい昔には考えられなかったことで、私も参考にさせていただいてます。空手をやってよかったなと思うのは、とりあえず空手家(?)というだけでそういう先生方のセミナーに参加できることです。(まあ、中には卍つけたまま参加した猛者もいますが)

でも、参加して思うのは皆どこかで聞いたことばかりなんですよね。
つまり自分が出来てないだけっていう・・・orz


95 名前: 力愛ぷに 投稿日: 2005/02/01(火) 19:17:22

40過ぎ拳士さんがおっしゃる
「近代的」「前近代的」武道と言うのは「乱稽古中心」か、「型稽古中心」かと言う事もできますよね。
言葉を変えれば
「帰納法的」か、「演繹法的」か・・・

講道館柔道が乱稽古中心の練習法を採用してあれだけ発展したのと草創期の少林寺拳法が(当時の空手と違って)乱稽古中心の練習法を採用してこれだけ発展したのが重なって見えるのは私だけではないはずです。

ただ、今や煽られる立場になってしまったのはなんとも皮肉なことでありますが・・・orz


96 名前: 力愛ぷに 投稿日: 2005/02/01(火) 19:28:46

空手雑誌なんか見てますと面白い記述に出くわしますね。
世界チャンピオンを輩出してる道場は、さぞ、組手ばかりやってるのかと思えば、意外や組手練習をしてないのです。

これは一考の価値があることだと思います。

>40過ぎ拳士さん
>順序の後先はあっても、最終的に向かう方向は同じなのかもしれない、

私もそう思います。今後は歳も歳ですし、出来るだけ力に頼らないやり方を追求してみたいと思います。また、ためになるお話をお聞かせください。
お願いいたします。


97 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/02/02(水) 01:41:51

>>93 615期生さん

 いいえ、私の方こそ、頭の整理をするいい機会になりました。
 モデルチェンジというか、常に自分の動きを見つめなおす姿勢はどの武道・どの流派でも大事なんでしょうね。

 私のいま通っている道場でも、高段者の大先輩が前後の体捌き、という基本的な動きについて
 「私も30年やっていますが、ようやくつい最近分かってきた気がします」と仰ったりしています。
 練習終了後に、そのコツを教えていただいたりすると、自分では消化しきれない半面、いい道場に巡り合ったなと幸せを感じます。


98 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/02/02(水) 04:30:45

>>力愛ぷにさん

 私の場合は、「また道場通いを始めようかな」と思った当初は当然のようにフルコンが念頭にあったのですが、
 「これまでやっていたのは単に空乱の延長であって自分は『空手』を全然知らない」ということに気が付いて、
 伝統派を一度練習してみようかな、と思いました。

 仰るように、いま様々な方が「身体操作」について、様々な説明を試みていらっしゃいますね。
 それぞれに、「平易な説明」にはなりようがないものを何とか表現しようと苦心されているのだとおもいます。
 でもやはり、その説明を理解するためには、説明を
受け取る側にかなり下地が必要なのではないでしょうか。


99 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/02/02(水) 04:47:36

 と同時に、やはり「打ち合い」の稽古は必要不可欠だと改めて確信するようにもなりました。

 今の道場では、動きを細かく注意されることからテレビでプロの試合を見ても、動きに注意するようになったのですが、
 そういう目で見てみると、パンチそのものは体勢が崩れていたり肘が浮いていたり、理想的とは言えないものの方が多いように思います。

 でも、タイミングが合えば、相手は一撃でひっくり返る。この辺は、やはり実際に打ち合いして体得するしかないですね。


100 名前: 40過ぎ拳士 投稿日: 2005/02/02(水) 05:15:47

 で、ようやく「平行」についてですが…
【平行】 ここでは、他流派と少林寺拳法の修行を平行して行うこと。(615期生)

 「近代的」な武道or流派同士の平行は可能、
 「前近代的」な武道or流派同士の平行は困難、
 「近代的」と「前近代的」の平行はケースバイケース、
 ではないでしょうか?

 少林寺拳法との両立はどうか、でいうといま通っている道院or先生が「近代的」か「前近代的」かで結論が変わってくると思います。

きのう‐ほう【帰納法】‥
帰納を用いる科学的研究法。特に因果関係を確定するのに用いる。ソクラテスが発見しアリストテレスが方法的に整えたエパゴーゲー(還元法)に始まり、スコラ哲学、F.ベーコンを介し、J.S.ミルが大成した。狭義ではミルの定式化した因果関係確定の五つの方法(一致法・差異法・一致差異併用法・剰余法・共変法)を指す。

えん‐えき【演繹】
(1)[朱熹、中庸章句序] 意義を推し拡げて説明すること。
(2)(deduction) 前提された命題から、経験にたよらず、論理の規則に従って必然的な結論を導きだす思考の手続。三段論法はその典型。演繹法。



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