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先日、たっぷり大先生と話をした。 その中で「何故に、こんなにも技法が変わってきたのか?」についても論議した。 何故に、こんなに技法が変わってきたのか?(技術のレベル低下について) それは、 @表現方法や読みが変わったため、イメージが変わった。 A意味を理解しないまま、伝わった。 というのが、考えられるだろう。 @「表現方法や読みが変わったため、イメージが変わった。」についての例 ●例1:「直突」を「すぐつき」から「ちょくづき」と言うようになった。 これは、突きのイメージがガラリと変わる。「すぐつく」とは起こりのない速い突きが想像できるだろう。「ちょくづき」は、単なる直線的な突きを想像してしまうのではないか?言葉の持つ意味は、読みの音でカンチGUYを起こしやすい。 ●例2:「当てる」を「打つ」と言う者が増えた。 当身の五要素に「当身の速度」があり、速ければ速いほど効くということだが、それだけではなく、引きの鋭さ(冴え)も含まれる。指導中、柔法で鉤手をして当身を行う時に、「ここで打っておいて・・・」というと、引きが感じられない。が、「ここで当てて・・・」というと、冴えを感じることができるだろう。その他に「打つ」ということで、限定しているようにも感じる。当身には「突き」「打ち」「切り」・・・といろいろあるが、「打つ」ということで限定されてしまうのではないだろうか?内受突を例にあげれば、間合が近いときは肘打だってできるし体当たりもできる。すり抜けた場合は、振突や鉤突の方が効くのである。これを、内受突は拳で返すものだと勘違いしている高段者が増えている。そのため、間合によって攻撃用器を自在に変える技術を知らない拳士が増えた。 ●例3:技に名前を付け過ぎて、技に拘る傾向にある。 逆小手からの変化技に逆手投、龍投、外巻天秤etc.と技に名前を付けたがために、技の名前から入り、用法を分けて覚えるようになった。逆小手変化のままの方が良かったと思われる。技の名前に拘りすぎて、変化できない拳士が多い。(呪に掛かっておるのだな!)押されたら、こう。引かれたら、こう。で良いじゃないか!名前まで付けなくても・・・と思う。中には「逆小手掛けて下さい。」と言いつつ、押したり捻ったりしていき「掛からんやろ!」と自慢げに喜ぶアフォがいる。逆に、「こんな時はどうやったら掛かるんですか?」と聞いてくるアフォもいる。押されたら、天秤捕れよ!逆小手に拘るな!!オマイラは技を覚えたいのか?身を護りたいのか? A「意味を理解しないまま、伝わった。」についての例 ●例1:連反攻は「連なって反撃し合う」から「連撃でかえす」とカンチGUY 級拳士以上は、法形の後に連反攻を行うように稽古しているはずだが、これも誤解が・・・。連反攻とは「連なって反撃し合う」ものであって、一人が一方的に反撃することではない。そんなものは、移動稽古だけで十分である。隙があったら即反撃を心がけていれば、構えや体勢が悪くなることはなくなるはずだ!少林寺拳法は護身の技術とか言いながら、相手の攻撃がないと安心しきった攻防が多すぎる。守主攻従とは、守即攻である。受けたら、すぐさまに反す。逆に、受けられたら、すぐに反される。ということを念頭に置かなければいけない。 ●例2:「投げは三本指が掛かったら、人は投げられる」の真意 開祖の言葉で「投げはこの三本(親指、中指、薬指)が掛かったら、人は飛ぶんじゃ」とあった。この意味が、単なる掛け手の作り方として伝わり始めている。これは、「腕に力が入っているにも関らず、腕の張りがなくなる作り」ということを、理解できていない。つまり、「腕力に頼らない投げ」ができる手の形なのだ!女子供でもできるのが売りの少林寺拳法が、腕力に頼るのはオカシイではないか!五指を張ったり、握拳にすると、どこか腕が張る。しかし、三指を曲げると張りがなくなる。これで、腕力ではなく体全体を使えるようになるのである。 このような点が、レベル低下している原因だと考える。 その言葉でしか伝わらないものがある。それは、変えてはならない。教え方は、時代にあった教え方に変わってよいが、中身が変わってはいけない。指導者は「温故知新」と「万古不易」を守り、正しい技法を伝えていく義務がある。 |
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