老荘思想の本を読んでビビビとキタ━━(゚∀゚)━━ !!!!! のだが、たぶん大体こんな感じだ!!
拳禅一如 「の」の世界 拳の禅、禅の拳
拳禅一如は少林寺拳法の修養法
拳と禅、それぞれが明確なエリアに忘れず全体に絡み合ったという状態。
教範に由れば、『拳は動功であり禅は静功という。また拳は肉体、禅は精神を表す…一本の根、一元の本より出た、完全なる身心一如の練成法である。』とある。拳と禅は修養法という点から見て、どこからが動の修養なのか、どこからが静の修養なのか、どこからが肉体の修養なのか、どこからが精神の修養なのか、その区別は大変難しく、また分ける必要などもなく絡み合っているのが私のイメージ。
共に「体得する・体解する」という領域が多いためほっといても被る。そもそも分けられない。
力愛不二 「と」の世界 力と愛
少林寺拳法でもおなじみの言葉、「力無き愛は無力なり、愛無き力は暴力なり」とパスカルが書いたとおり力と愛は別個にあってはその意味を成さないと少林寺拳法は考える。力愛不二は行念一致と書かれることもありますが、行いと念(おもひ)が別個であってはならないと少林寺拳法は考える。
そんなわけで、力と愛、行と念は別に別個でも存在はできるんだけどこのままじゃいかーーんということでセットで考えるべし備えるべし!! つまり不二、二ならず一つであるべきなのyo! ということだと思われる。というわけで二をグルグル巻きにしときました。
- 「正しいものに従うのは正しく、最も強いものに従うのは必然である。力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力である・・・だから正義と力を同時に働かせなかればならない。そしてそのためには、正しい者が力を持つか、力ある者が正しいのでなければならない。人は、正しい者が力を持つとすることができないので、力のある者が正しいとしたのである。」 『パンセ』
パスカル 17c 仏 科学者・思想家
剛柔一体
「剛柔は唇歯輔車の関係にあり、互いに対立しつつも補足し合うべきものである。」一如よりは明確に別れてそう。でも別個じゃないのよ、片割れしかないと困るのよ、というかんじー
というのが私のイメージ。
まぁはっきり言えば、世間では不二とか一如とかそんなに明確に使い分けずに同じような意味で用いることもけっこうあるようなので、そんなに深刻になる必要も無いのかもしれません。少林寺拳法の教典には「霊肉一如」という言葉がありますが、カッパブックスの拳禅一如の項目には「霊肉不二」という言葉が記されています。こんなもんです。私の理解もまだ途中なので、皆様の感想・ご意見をお待ちしています。
【関連・参考】少林寺拳法の特徴 天方と地位
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