トップ > コラム&ノート > 一如・不二・一体


4865 名前: 名無しさん◆いらっしゃい 投稿日: 2006/09/21(木) 23:39:19
拳禅一如、力愛不二の一如と不二はどう違うんですか?

4866 名前: アップル 投稿日: 2006/09/22(金) 00:08:34
いち‐にょ【一如】
1 仏語。唯一絶対の真理。真如が異なる現れ方をしながら一つのものであること。
2 異ならないこと。一体であること。「物心?」

不二
1 二つとないこと。無二。ふに。

byヤフー辞書

で、わかりますかね。

また、先生によっては拳禅一如について、「一つの如き」ものであり、、という表現をされることもありました。
力愛不二ではよく、片方だけではダメなんでー。。という説明を聞きますね。

4867 名前: 名無しさん◆いらっしゃい 投稿日: 2006/09/22(金) 00:14:30
一如は「一つの如し」だから二つのものがある。
不二は「二つに不らず」だから一つのものである。
「拳」と「禅」は別のもの、「力」と「愛」は同じものの裏表。
と私は解釈してますが。

4868 名前: 名無しさん◆いらっしゃい 投稿日: 2006/09/22(金) 00:14:41
一如は同じものの表現の違いだから切ろうとしても切れないもの。
不二は切ろうと思えば切れるものって解釈でいいでしょうか。
そうなると、一体ってのと一如の違いはどうなんでしょうか。

4869 名前: アップル 投稿日: 2006/09/22(金) 00:33:54
名無しさん同士だと誰と誰がレスしてるのかわからないんでなにかハンドルネームつけたらいかがですか?

>不二は切ろうと思えば切れるものって解釈でいいでしょうか。

切ったらいけないものという解釈でいいのではないでしょうか。

言葉はむずかしいですね。

4870 名前: 615期生 投稿日: 2006/09/22(金) 11:07:35
私は>>4867のような感じでしょうか・・・

一如と一体の違いもまたむずいですね。さっぱりわからん

4871 名前: nosada 投稿日: 2006/09/22(金) 16:21:20
「如」って「如し」として「~~の様なものだ」と言う意味で使いますよね?
例えば「春の夜の夢の如し」、とか。

そこから類推して、
一如とは「一つのモノの様なものだ」
というのはどうでしょう?

4872 名前: 615期生 投稿日: 2006/09/22(金) 17:24:58
なるほろ

なんとなく、
一如は後天的に一つだぜー(これらを一緒にしてこーぜ)
一体は先天的に一つだぜー(これらは実は元々ひとつだぜ)
という印象。

て、こうすると今度はなんとなく、不二と一体がかぶってる希ガス(;´∀`)・・・いたいなぁ・・・

4873 名前: nosada 投稿日: 2006/09/22(金) 19:09:37
「不二」の「二」が「二つのモノが一つずつ単独で存在する状態」だと定義してはどうですか?

この仮定が正しいとすると、
「それぞれ単独では成り立たない」
的なニュアンスを薫し出せるのではないかと。

4874 名前: アップル 投稿日: 2006/09/22(金) 20:47:23
一体は、「ひとつのものである」で。
不二は、「ふたつじゃない」でいいじゃない。いかんのかな?

4875 名前: おなかすいた 投稿日: 2006/09/22(金) 22:34:38
「一如」は
「全く違うように見えても同質同等である」
という意味。
沢庵のいう剣禅一如の言い換え。

ホントは「不二」も同じだけど、
教範などを読む限りでは
4869に近い
「切り離しては意味がなくなってしまうもの」
の様な意味でつかっている様子

なお
はやりの食事療法マクロビオテックの基本思想として
身土不二というのがあります。
人間の体は故郷の風土を離れては生きていけず、
出身地の食材を食べるのが一番適しているということ。
風土の違うところの食材やスパイスを食べると体に悪いそうな。
あんま関係ないか。
おなかすいた・・


4881 名前: 名無しさん◆いらっしゃい 投稿日: 2006/09/25(月) 07:35:25
結局、一如、不二、一体の明確な区別をつけられてる人っていないんだね。

4882 名前: h38 投稿日: 2006/09/27(水) 18:09:28
一如:一見違うように見えるが、根本は同じようなものである。
不二:違うものではあるが、合体しなければ意味がないというか、合体すべき
一体:違うものではあるが、融合している状態

と言う感じでは?


 老荘思想の本を読んでビビビとキタ━━(゚∀゚)━━ !!!!! のだが、たぶん大体こんな感じだ!!

一如 不二 一体


 拳禅一如 「の」の世界 拳の禅、禅の拳
拳禅一如は少林寺拳法の修養法
 拳と禅、それぞれが明確なエリアに忘れず全体に絡み合ったという状態。
 教範に由れば、『拳は動功であり禅は静功という。また拳は肉体、禅は精神を表す…一本の根、一元の本より出た、完全なる身心一如の練成法である。』とある。拳と禅は修養法という点から見て、どこからが動の修養なのか、どこからが静の修養なのか、どこからが肉体の修養なのか、どこからが精神の修養なのか、その区別は大変難しく、また分ける必要などもなく絡み合っているのが私のイメージ。
 共に「体得する・体解する」という領域が多いためほっといても被る。そもそも分けられない。


 
力愛不二 「と」の世界 力と愛
 少林寺拳法でもおなじみの言葉、「力無き愛は無力なり、愛無き力は暴力なり」とパスカルが書いたとおり力と愛は別個にあってはその意味を成さないと少林寺拳法は考える。力愛不二は行念一致と書かれることもありますが、行いと念(おもひ)が別個であってはならないと少林寺拳法は考える。
そんなわけで、力と愛、行と念は別に別個でも存在はできるんだけどこのままじゃいかーーんということでセットで考えるべし備えるべし!! つまり不二、二ならず一つであるべきなのyo! ということだと思われる。というわけで二をグルグル巻きにしときました。

  • 「正しいものに従うのは正しく、最も強いものに従うのは必然である。力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力である・・・だから正義と力を同時に働かせなかればならない。そしてそのためには、正しい者が力を持つか、力ある者が正しいのでなければならない。人は、正しい者が力を持つとすることができないので、力のある者が正しいとしたのである。」 『パンセ』 パスカル 17c 仏 科学者・思想家


 
剛柔一体
 「剛柔は唇歯輔車の関係にあり、互いに対立しつつも補足し合うべきものである。」一如よりは明確に別れてそう。でも別個じゃないのよ、片割れしかないと困るのよ、というかんじー


 というのが私のイメージ。
 まぁはっきり言えば、世間では不二とか一如とかそんなに明確に使い分けずに同じような意味で用いることもけっこうあるようなので、そんなに深刻になる必要も無いのかもしれません。少林寺拳法の教典には「霊肉一如」という言葉がありますが、カッパブックスの拳禅一如の項目には「霊肉不二」という言葉が記されています。こんなもんです。私の理解もまだ途中なので、皆様の感想・ご意見をお待ちしています。

【関連・参考】少林寺拳法の特徴 天方と地位



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