トップ > コラム&ノート > 仏教と金剛禪の接点 > 引越しとは死ぬことと見つけたり


 つい先日まで、私615期生は引越しをするはずでした。しませんでしたが。
 東京都心部からは実質あまり変わらない距離なので都心に出る等には不都合はありません。しかし現住所から三時間弱の地域なので、引越しが決まった時に考えたことは新しい道院を探さねばならないこといこと、そして現在の道院を離れるということでした。

 まぁ、仕方ないんですが〜思い浮かぶのはガキンチョです。非常に寂しい気持ちになります。一般の人は…どうでもいいです。どうせ関東にいればいつでも会える距離ですし大人ならw まぁなんとかなんとか。でもガキンチョどもはなかなかそうもいきません。また現在の道院は入門時からお世話になった道院です。思い入れも強くなんだか凹みます。


 引越しが決まると、不思議なことになにやら変化が…。生活中における視点が違ってきたのです。例えば「この道を通るのも後〜日か…」などと滲みったれてきたのです。ありがちですな。道院でも「あとこいつらと走るのも…」などとこれまた湿っぽくなってきたのです。
うをぁ、キメェ  (;´Д`)

 こうなってくるとこれが面白く、今まで毎日通った道の中でいろいろなことに気がつくようになりました。「あんなところに花が咲いている」などです。どうして私は今まで花が咲いていることに気が付かなかったのでしょう。道院でも、今までちょっとさぼっていたようなこともやるようになります。
 「今日が最後かも」という思いがこうさせたのだと思います。まぁ実際の最後はまだ数ヵ月後だったわけですがw 「限りがある」ということをようやく実感した時に私の姿勢に少し変化がついたのだと思います。



 禅寺に行くと、「生死事大 無常迅速」と書かれたあります。生死は人生の一大事である。時は速やかに遷る。といった意味です。明日死ぬかも知れない、今日が最後、いや今が最後かもしれないと認識することで人は行き方が変わると教えてくれます。

 拳法でもよく「知ってる・わかってる・できる」はそれぞれ違うと言います。私もまだ20代の若年健康体ということもあり、「死ぬ」ということは知っていますがこれに対する実感がありません。必ず死ぬというのは何の疑いもなく知っているのです、当然。でもその実感がない。まだ明日があると毎日思っています。あるじーさんが言うとります。「年をとるとな…死が向こうから寄ってくるんじゃw」と。

 仏教は「今」を大切にします。人は過去を行きているわけでもなく、また未来を行きているわけでもなく、たった今この瞬間を生きる。今回のことでちょっとだけ「今を生きる」という感覚が身近に感じられました、
一瞬だけw
 
  • そんなわけで、引越しのことを考えるとやや「今大事に」てーのがわかりやすいかなぁと思ったわけです。
  • 少年部にも、「あと一週間しか友達に会えないとしたら、何かしたくなるだろう」ということを話ます。子供には転校は今生の別れみたいなノリになってるみたいだし。


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