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「副読本から」
 先日武専の学科の時間に「副読本の開祖法話」が引用されていました。しかし現在の読本には開祖法話の項はなく、新しい読本を用いた新しい拳士は副読本の開祖法話すら知らないのかもしれないと思い、誰でも読めるようにしておくことにしました。副読本にわざわざ挙げられていたものですから最低これくらいは「読んどくべし!!」という内容なのかも。
 本来、開祖の法話はあまり一部を切り出すべきではありませんが、「長いから読まねっ」という人もやっぱりいるのでいくらか切り出されているのでしょう。興味が出た方は、ぜひ専門サイト(心外無法)で没読して下さい。
 開祖法話に目を通す時は、「いつ」「どんな時」「誰に対して」(指導者講習会・少年部指導講習・学生合宿)などは確り確認してから読みましょう。また改めて読むとこれまた昔読んだ時とは違った発見・想いがありますね。。 [少林寺拳法副読本1987年6月10日 発行]


第一章 人、人、人 すべては人の質

■すぐれた一人の人間に、まず自らをおく。
 一人のいい息子が生まれたということによって、家庭がころっと変わります。一人ぐれた前科者が出ると、その家庭がみんな迷惑する。こういうことは諸君の周辺にごろごろしてるでしょう。すぐれたもの一人が、いかに重要かということである。
 我々は、まずそのすぐれた人間にまず自(みずか)らをおこうではないか、そして周辺にも
いい影響を与えようではないか、こういう教えなのだ。
六六年八月 第一次指導者講習会「あらはん」八二年十一月掲載

■すべては人間の質の問題だ。
 この世の中のこと、すべて人間が行い、人間が支配し、管理し、計画しておる。人間の質の問題ですよ、これはね。よくなるのも、よくならんのも、要するに人ひとり、そのポストに立っておる人の心の持ち方にある。こういうことで心の改造をやろうとしているのが宗教、特に金剛禅の大特徴である
六六年八月 第一次指導者講習会(「あらはん」八二年十一月号掲載)

■考え方を変えることによって理想境ができる。
 人間の考え方を変えることによって理想境ができるという私の考えは、決して誤りではない。これは、つくらなければならんものです。半ばは相手の幸せを考える者がふえたら、世の中、本当によくなる。これは間違いありません。
六九年十月第三次指導者講習会(「あらはん」八一年九月号掲載)

第二章 出会いを大切に

■縁の働きと人との出会い
 日本に一億人おります。武道と称するものは何十派もある。宗教だって何百もある。その中で少林寺拳法を選び、少林寺拳法に生き甲斐を見つけている諸君。これは何か縁の働きと、人との出会いと、それから心にしみる何かがあったから、今日まで続いたんではなかろうか。一番大切なのは心の通じ合い、すなわち心が一つである。目的が一つでなければならない。
七三年七月第一次指導者講習会(「あらはん」八三年七月号掲載)

■人との出会いで変わったことがあるか。
 君たち、今日までいろんな人に会ってるね。その中で今でもはっきりと覚えていて、その人から聞いたこと、得たこと、あるいは受けつけたことから、自分が変わったという強烈な印象を持っている人、手をあげてみい。少ないなあ。あとの連中は、たとえば少林寺拳法をやろうということについて、何も感じんで、何となくやってんのか。
 自分の人生の中で、人との出会いから生じる変わり方、あの人に会わなんだら今日の私はなかったというような経験あるいは実感、たとえ、私に会った、少林寺拳法をやったということで、自分の人生が変わった、全然そういうことのない人は精神的に不幸な人である。
七四年本部武専 (「あらはん」八三年八月号掲載)

■求める心、与える心があって出会いがある。
 行きずりの旅先で、ふと言葉をかわしたことから深いつきあいが生まれることは、何も男と女のアバンチュールだけではないと思う。男の世界でも、そういう人生はあるはずである。なぜだろう。
 それは、両方がそういうものを求める心、与える心があって、別の言葉でいえば波長が合ったのだ。
 この部屋にも、世界中の電波が入っている。日本の放送だって何十局、FMもあれば短波もある。でも機械がよくなければ、それを分離できない。しかも聞こうとする意志で、聞こうとする波長に合わせれば、それがすばらしい迫力で自分に伝わる。人間と人間の出会いというのは、そういうものだと思うんです。
七四年本部武専 (「あらはん」八三年八月号掲載)

■人から影響を受けないのは、自分に受ける気がないからだ。
 私はいろんな人に会います。会うとその人から、いろんなものを感じ取ろうと、自分で努力しています。その中で、普段は言うたことのない言葉が自分から出ることもある。向こうがフッともらす言葉の中に、すばらしい真理があったりね。向こうは気がつかんけれども、こっちがこれだと思うものをつかまえることもある。
 それをキャッチできる条件にこっちがなっていないといけない。こうした一日の勉強でも、一時間の出会いでも、諸君を大変な方向に持ってゆ<可能性があるんだよ。
 縁があった。要は縁を生かす方法である。いろんな人に会ったけれども、全然影響を受けなかったというのは、自分に受ける気がなかった、半分はそう考えていいんじゃなかろうかね。どうかね。
七四年本部武専 (「あらはん」八三年八月号掲載)

策三章 拳士の生き方

■自分で生きてると思うな。生かされてると思え。
 生きてることを自分で生きてると思うな。生かされてると思え。わしはそう言われて目がさめたんだ。お前は生まれるとき、生まれたくて生まれたんかいうたら、そんなことはないよな。
 親は死んだって子は育ってるよ。死にたいと思ってもなかなか死ねない。わしみたいに、自殺したって死なない奴もおる。汽車や自動車にはねられたって、死なずに済む奴だっておる。自分が勝手に生きたい、勝手に死にたいというのは、やっぱり誤りだ。だから再び自殺する気はなかったね。天が殺すのを待って、危険な仕事ばかり買うて出たけど、タマのほうがよけてくれたりして助かっとる。だから自分の命ではないということ、本当に確信を持っとるんだよ。
 首くくったら、枝が折れたなんていうのがあるね、汽車に飛び込んだら、はねられて腕だけ折れて済んだというのもある。生きてることは、自分の意志に関係ない。そういう風に理解して、人生を変えるんだ。なんとかなる人生だと思え。それで頑張れ。
六九年二月本部武専 (「あらはん」八二年八月号掲載)

■学校の勉強だけじゃ社会に出たって駄目だ。
 学校の勉強だけじゃ、社会に出たって駄目だぞ。最初にあるポストについたけれども、次の仕事ができるかできんかということで、やっぱり駄目になる。拾い上げてくれても、あとがつづかない場合がある。うちの中にでもそれがあるけれどね。ある地位を与えてやっても、その地位に従った仕事ができなければ駄目なのだ。これ、絶対条件なんだよ。
 大学出た連中の場合、下っ端ということはないはずだ。工員をすれば、少なくとも工員の中で理論的指導ができるとか、新しいことを考えてくれるであろうということを恐らく要求されるであろう。それができなんだら駄目。人生を創造するというのは、そういうことなのだ。
六九年二月本部武専(「あちはん」八二年八月号掲載)

■昨日は昨日、今日は今日、明日は明日だ。
 それでね君たち、こういう精神生活に入ろうではないか、今日から。たとえば身体の切り傷、古傷はもう忘れてしもうとる。どうもないな。忘れてしまえ。肉体の傷と同じように、心の傷も今日から忘れようではないか。
 今までの生活の中で、挫折感に陥るようなことがある。ところがこれは、なんぼ考えたって昨日のことは取り返せるか。別れた彼女のこと、就職しそこねたことを悩んでみたって仕様がないじゃないか。昨日は昨日、今日は今日、明日は明日だ。これが精神生活を改造する根本になるんだよ。過去は一切、今日から忘れろ。
 いいことは忘れんでいい。いやなことは忘れてしまえ。忘れようと努力しろ。とにかく気分転換することを勉強せい。
六九年八月整法講習(「あらはん」八三年三月号掲載)

■結果として名前が残るような価値ある仕事をする。
 我々はね、いま一つの思想運動をやってる。国家百年の計を考えている。日本民族の将来、あるいは全人類の幸福のためにどうあるべきか。生意気なようだけれど、そういうことを考えなんだら、人生大したことないよ。正力松太郎、昨日死んだけれども、偉い男だよな。彼は死んだって、仕事は残っているぞ。昔からいうように、人間は名前ぐらい残したい。残したいからやるんじゃなくて、やった結果として残るということは、やっぱり価値があると思う。
六九年十月第三次指導者講習会(「あらはん」八二年八月号掲載)

第四章 信頼を受けるためには

■何かあったら頼りになる男。
 私が今ね、かなり信頼を得ている。上からも、下からも、好かれている。何が魅力かというたら、男らしい、男の魅力じゃないか。先生はこわいけど、何かあったら頼りになる、そういうものが人間的魅力である。
六六年八月第一次指導者講習会(「あらはん」八二年十月号掲載)

■一番大事なのは信頼されるかどうかということだ。
 男の中で一番大事なのは、信頼されるかどうかということなのだぞ。これは政治の世界でも同じです。経済界も同じです。どんな会社の重役だって、自分の部下に頼りになる奴がほしいのです。
 男同士の中で好かれるというのは、頼れる男、まかせて安心できる男、要するに信頼できる人間になるということです。
六六年八月第一次指導者講習会 (「あらはん」八二年十月号掲載)

■信頼し、信頼されることの幸せ。
 わしみたいに、これだけものを自由に使って、幸せに、好かれて暮らしてる。このほうがよっぽど豊かだと思わんか。
 要するに、信頼する人間が大勢おるということ、自分が信頼されているということ、この二つがすべてだと思う。
六六年八月第一次指導者講習会(「あらはん」八二年十月号掲載)

■何かあったらかばってやる。
 人間関係の中で蕃大切なのはね、何かあったときにしてくれる、してもらえる、あるいはしてやりたい、こういうことじゃないか。俺がやられたら助けてくれ、お前がやられる時は知らん顔をしてるじゃ、友だち一人だってできやせんぞ。何かあったらかばってやる。それをできない人が多いから日本は駄目なのだ。私が行動せいというのは、そういうことを言いよるわけです。
六九年十月第三次指導者講習会(「あもはん」八二年五月号掲載)

第五章 行としての少林寺拳法

■何のためにやるかをもう一ぺん考え直してみる。
 チャンバラをやることが少林寺拳法だと思ってくれては、困るぞ。これは坐禅とか、滝に打たれるという行の代りにやっている一つの手段である。心身を鍛錬する間にお説教も聞かせる、精神統一もやちせるということで、これは値打ちがある。
 この間から、これを始めた動機や目的を説明したが、君たちはどうであるか。何のために習おうとしたか、現在それを習ってどうなりつつあるか、将来どうしょうか、そういうことがわからなんだら意義がない。何のためにやるか、それをもう一ぺん考え直してみようじゃないか。
六六年八月第一次指導者講習会(「あらはん」八二年十月号掲載)

■人に生き甲斐や喜びを与え、自分もそれを享受できる道。
 原爆の時代、大量殺戮時代にね、無手の格闘技に価値があるなんて思うのがおかしい。人を殺すなら、もっとよい方法がいっぱいある。人を生かし、人に生き甲斐や喜びを与え、自分もそれを享受できる道は、金剛禅運動においてしかないことは、みんなが知っていることである。金で得られないもの、勲章よりも尊いもの、誇りとか自信とか、最後の寄り所を自分に持てるような、人間をつくる道としての少林寺拳法なのです。
七五年八月大学合宿(「あらはん」八三年十月号掲載)

■後輩を育て、先輩を立て、自分の存在を認める。これが行だ。
 人間が行う最低のモラルの基準である。年寄りか子供を背負って、立っている人間の姿を向かい合わせ、ひとりでは生きていけない人間の形を示したのが行なのです。
 行というものはね、最低限度人間として生きてゆくために必要なことである。それをやるには敵をやっつけたり、後輩をやっつける必要はない。後輩を育てる、先輩も立てる。そして自分の存在を認める。これが行なのである。これさえ行えないような学校なら、少林寺拳法部なんてのはいらないと思う。
七九年八月夏季大学合宿(「あらはん」八四年十月号掲載)

■日常生活や人民の幸せにはつながるか。
 私が主張しておるように、武道とかスポーツというものには限界がある。それは、強くなるということには価値がある。記録を更新することには価値がある。
 しかしね、かりに百メートルを何秒かで泳いだって、イルカにはかなわないんだよ。いいかね。船がひっくり返ったとき、荒海の中でみんなが助かるということには全然つながらない。わかるね。
 何が目的で練習するのか。選手をつくったって、バタフライをなんぼやったって、山登りをなんぼやったってだ、ウルトラBかCか知らんけどトンボ返りを何遍やってみたって、そんなことは日常生活や人民の幸せには全然つながらない。
 だから、そういうものとは違うものを私たちはつくってきた。
七九年八月夏季大学合宿(「あらはん」八四年十一月号掲載)

第六章 真の強さについて

■精神が参ったといわなければ、そいつのほうが強い。
 人生は勝たなきゃいけない。それはチャンバラで勝つことじゃない。私もずいぶんケンカの話を書いてるし、実際やってるぞ。でも負けたことがないんであって、相手をやっつけて、ざまあみろってことはない。向こうが悪いことをしたときに、それを止めたり防いだりするだけで、そういうものさえ持つとればいいのだ。
 かりにブタ箱に入れられてもね、脅迫されても拷問されても転向しない精神力のほうが重要なのと違うかな。拷問されて気絶しても、精神が参ったといわなければ、そいつのほうが強いのです。技が少々うまいとか、瓦が三枚よけいに削れるなんて、くだらんこというなよ。
六九年十月第三次指導者講習会(「あらはん」八一年十二月号掲載)

●他と比較して、うぬぼれでない自信を持つことだ。
 自信を持つということは、現状をしっかりととらえ、他と比較することから始まる。いま諸君が着てる稽古着見てみい。一人一人、白さが違いやせんか。白さを他と比較することによって、おれのほうが洗濯がいいというようなことになる。合気道その他との比較も、そういう意味で許してくれ。少林寺拳法がここまできて、他の悪口をいう必要はない。しかし、比較はしてもよい。その中で自己の存在を確認してゆく、そして、うぬぼれでない自信を持つことである。
七六年八月第一次指導者講習会(「あらはん」八三年十一月号掲載)

■強くなかったらケンカの仲裁もできない。
 それから他人の迷惑にならんように、ケンカはするけれども売られたケンカしか買わない。自分が正しいと思うときは、からだを張ってでもやる。
 先生もオッチョコチョイだから、すぐカッっとしたり、すぐ仲裁を買うてでる。ケンカしよっても、「オイ、やめとけ」いうとね、「オッサンは引っ込んどけ」なんて、どうかすると突き飛ばされる。こっちがひっくり返ったらいかんから、それを払ってポンとぶん投げる。強くなかったらケンカの仲裁もできないんだよ。
 弱かったら駄目。これはケンカを奨励するのとは違うんだよ。そういうことができる人間になりたいということだな。
七九年七月合同帰山(「あらはん」八四年五月号掲載)

■生きてる間は負けたんじゃない。
 どんな困難にぶち当たっても、「七転び八起き」じゃなくて、中国では、「九転び十起き」といってる。数字に意味を持たしてる。
 「九」というのは、最終、数字の終わりなんだ。次がない。またゼロに返る。「七転び八起き」なんていうのは、これはチョロこい。絶対に死ぬまでは負けたんではないというのが、わたしの信念である。生きてる間は大丈夫。生きてる問は負けたんじゃない。命さえあれば、どんなことがあったって、いつかは立ち直れるんだ。
八十年三月大学指導者講習会(「あらはん」八六年二月号掲載)

■自信を持て。自殺なんかするな。
 意識と関係なくったって、生き返ることも、死ぬことだってある。死にたい、死にたいと言うて、思ったって死ねない。首をくくるとか、チョン切ってもらうとかせなんだら死ねない。体を殺さなんだら死なないので、細胞が死ぬまでは生きてる。
 ぼくはそういう経験の上でこんなことを言ってる。生きてる間は負けたんじゃない。死んだんでもない、と。いや、わかっているようで、本当はわかってないんだよ。自信を持てよ。自殺なんかするなよ。
八十年三月大学指導者講習会一「あらはん」八六年二月号掲載)

第七章 単なる武道やスポーツではない

■スポーツマンや武道家の落ち込む盲点。
 これは悪口として聞くなよ。スポーツマンの、あるいは武道家の落ち込む一番の盲点なのだ。拍手かっさい、やいのやいの言うてるのをね、自分が偉くなったような気がするんだよ。世間はそう甘くないよ。勝っている間はわいわい言うが、負けた途端に英雄ではなくなってしまう。選手の寿命なんてのは、勝った途端に追われる立場になるだけで、しかも他で通用するかいうたら、通用せん。
六六年八月第一次指導者講習会(「あらはん」八二年十月号掲載)

■時代が違うことに気づかない奴がいる。
 時代が違うんだぞ。武道家の中にはつまらん奴がおるんだよ。いろいろ庇理屈を言う。古いから値打ちがあるんだてなことをいう。「あなたは今、ここへ何で来ましたか」て聞いたら、「自動車で来ました」と言うから、「なぜカゴに乗って来ませんか」言うてやった。
 時代だよ、これは。それをわからん奴が武道家の中にようけおるいうこっちゃ。今ごろね、少林寺拳法と空手とどっちが強いかなんて、顔洗うて来い言うんだ、ばかばかしい。
六六年八月第一次指導者講習会(「あらはん」八二年十月号掲載)

■自分以外の存在を認めないスポーツの世界。
 特に勝負に生きると、自分以外を認めちゃいけないのです。先輩も敵です。もちろん、後輩も敵ですね。自分の座を取られりゃせんかと、後輩も敵にする。先輩を引きずり降ろさなんだら、自分も出られない。友だちは一人もできない。
 だからスポーツ選手は、チームワークを大切にする野球の世界だって、バレーの世界だって、全部が敵の世界なのです。自分以外はみな、敵なのです。ある有名なバレーボール・チームを見てごらんなさい。同じチームの中で、自分が有利になりたいというので、試合前、仲間に睡眠薬入りジュースを飲ませたりするような選手が育つのです。
六九年十月第三次指導者講習会(「あらはん」八二年二月号掲載)



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