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つい数日前のことになりますが、mixi支部で理想「境」建設の「境」の話がでていた。
少林寺拳法で「理想境」と書くときは「卿」ではなく「境」の字を用います。金剛禅では、通常の用法とは一字違いの単語がたくさんありますが、これもそのひとつでしょう。一字違うのは、果たして深い意味があるのかそれとも単なる厨二病なのかはわかりませんが、とりあえず好意的に解釈し、深い意味があるとして話を進めます。
「境」という字が心境の「境」という。これは、前鈴木代表がこのように話したということも聞いたことがある。これで当たりでしょう。仏門の本を読むと、「境を得た」とか「境涯」とかという言葉がよく出てくる。主に「悟りの境地」といった意味合いがある。
こんなわけで金剛禅でも「境」という字を用いたと私は信じている。
実に「境」という字が使われていることにはさらに大切なことが含まれる、と思う。それは私が好きな構造の話だ。 自己確立・自他共楽・理想境建設は三つセットだと私は信じるのです。理想境建設は社会的な意味、外的な意味も含まれているとは思いますが、「同時に」内面的な意味が含まれているということは、「境」とい字が示しています。自己確立とはもちろん自分のことです。自他共楽は最低でも彼我という二人、複数の対象を指し、また理想境建設で自己に回帰するという構造があると考えます。
実に仏門は、このように一度離れて戻る。膨らんで縮む。増えて減る。このような構造を好むのです。これらは別個に起こる時もありますが、同時にも起こります。行って返ってくる行って返ってくる行って返ってくる、、、これを図を書けば単に円になります。
禅宗はいいます。
「仏門を学ぶ前、山は山であり川は川であった。しかし仏門を学ぶと、もはや山は山ではなく川は川ではない。そして悟ってしまえば、山は山であり川は川であった。」
道元が目鼻のことを言うたのも同様です。般若心経では、色即是空空即是色、といちいち繰り返す。十牛図は平凡な過程をクルリと回って入水纏手に至ります。実にこのように行って返ってくるというのが大切だと私は思います。初めから入水纏手を求めるのはここら辺がまだ掴めていないのです。拳法の修行にも当然言えることですし、無視できないところです。
「この法形は〜というための技だ」と教えられます。それは本当なのか。私は移動稽古が楽しい。乱捕りが楽しい。少林寺拳法の法形が随所に見られるから。その平凡な稽古の中に、数年前に習った胡散臭い法形の香りがするのですから。自分で掴むということが楽しい。何よりも楽しい。例えそれが教えられたモノと同じであっても、自分で得たものが尊いと私は信じる。
そのためには一度行かねばならない。離れなければならない。
海外に行くと日本に対する理解が少し進みませんか?
他流派を知れば、少林寺拳法のことがより見えませんか? 良くも悪くも。
人が体解するとき、このような往来は必須だと私は考えるのです。だから往聖は書いたのだ。「もしあの時、不親切にも教えてくれたなら、今この時、この感動は得られなかったのだ」と。少林寺拳法は教えすぎる。私は教える親切と同時に教えない親切というものがあると信じる。必要な無駄な動きがあると信じる。力を抜くためにはまず力を入れなければならぬと思う。
行って返ってくる。だから私は理想境建設が「境」だったことがうれしいのです。この構造、けっこう金剛禅はまともだと思うひとつです。開祖は少林寺拳法のことをこういいました。
「少林寺拳法は、人を知り己を知る道だ」
やるな、はげ。
ちなみに建設のところはアップルさんの文章参照
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