トップ > コラム&ノート > 仏教と金剛禪の接点 > よろしくも世とともに推移して

 えー、わたくし思いまするにー、やっぱり少林寺拳法そして金剛禅というのは未完成なのであります。
 この足りない、てのは車で言えばカーナビが付いてないから不便だとか、アクセルの感覚が合わないとかそういうことでなくて、エンジンとハンドルはあるけどタイヤがまだ無いとかそういう根本的な話だと考えておりますー。

 別にこれは誰が悪いわけでもなくて、開祖がしょぼいとかお山が隠してるとか、在野が怠ってるとかではなく、いやある意味これ全部が要因ともいえるのかもしれませんが、誰が悪いというものではない思いっています。日本曹洞宗だって道元が日本で広め始めて現在まで700年、この体裁が整ったといわれるのが四祖瑩山の時です。道元ですら完成させれなかったんです。 釈尊だって同様です。エッセンスは確実に構築したけど実用レベルじゃなかった、なんてことはよくあることなんです。


 大切なことは弟子たちの認識だと思う。これについて開祖はどう考えていたんだろうと、古い人に聞いてみたが、
  • 「後はおまえたちが作り上げていくんだぞ」
  • 「あとのことは任せたぞ」
  • 「付加価値はたくさん付けておいた」
みたいなことを弟子に申し付けていたようだ。
 確かに少林寺拳法には車を走るための最低限以上のパーツとアクセサリーが備わっていると思う。開祖が言うように付加価値はたくさんあると思う。しかしまだ金剛丸は走り出さる体制とは言えない。街は走れても山は登れないそんな段階だと思うのだ。

 開祖が「現代に合わせて作った」という時代から60年を経てしまった。はたして現代においてその親和性はどうだ。無検証に鵜呑みしてもいいのか。それは少林寺拳法の発展につながるのだろうか。
そんな時、ブックオフ105円の鈴木大拙、の弟子が大拙について書いた本にこんなこと書いてある。
『そのころは維新の大業もようやく成り、西南の役以来の試練の時期もすぎて、世は国をあげて西洋文化の吸収に日もこれ足らずという時でした。この時代を他に、人天の大導師である禅の師家が、いたずらに古い習慣を守っていてどうするか。「よろしく世とともに推移してもっと教化の実をあげん。」』

 やっぱ世に出てくるような人は、禅みたいな古臭そうなところからもこういう考えで出てくんのね。
 私は極論を、極論を言えば少林寺拳法なんぞどうでもいいし金剛禅なんぞどうでもいいし仏教なんぞどうでもいいと思っている。しかしこのなかなかイケてるツールをうまく使えたらなとは思う。少林寺拳法は好きだし、もっと発展してくれればいいとも思う。

 まぁ正直なところ現状忙しくそんなことやってらんないのかな、山も野も。でも我々も拳士の一人なんです。我々が少林寺拳法を修行している主体であり、我々こそが少林寺拳法を創り上げる本体なんです。虎屋の羊羹の社長がこうおっしゃっている。「伝統とは革新の連続である。」 金剛禅、いや仏門の創世記は今も続いているんです。
 

どういう風に結実するかは分かりませんけど、在来仏教界もけっこういろいろやってますw
好みはありますけどね。

 カメラやパソコンを使うお地蔵さん。

 



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