トップ > コラム&ノート > 少林寺拳法には基礎が足りない

 少林寺拳法は素人による対素人向きの技術かもしれない。そういうこと言うと、血圧が上る人がいるかもしれないが、そういう向きがある、と私は思う。少林寺拳法は基礎鍛錬をしないし、好まれないんだもん。 

 開祖が大陸でどういう人と交流があって、どういう拳技を学んだのかいまいち掴み切れないが、少林寺拳法には少林寺拳法のノリが明らかに存在する。空手の風格とは違うし合気道の風格とも違う。明らかに、何か混じっているのは疑いようがない。 

 かつての大陸には義和団事件のように排外運動が巻起こっていて民兵とか私設軍隊みたいなのがわっさわっさいたんでしょう。たくさんの結社が存在して、白蓮会とか天地会、三合会とか紅卍会とかいろいろあったんですな。そういう結社では大陸の拳法も稽古されていた。
 
稽古すれば神通力を授かって弾丸にあたっても死なないとかいう現代では冗談みたいな連中もいたらしいけど、真面目な話軍隊のカリキュラムとしてやっているんだから、習ったら直ぐ使えなきゃいけない。中国拳法にもいろいろな門派がありますが、練功を練って「成る」までに数年を要するものは軍隊の課程には向かない。習ったらすぐに、そう明日にでも使えるもの、せいぜい数ヶ月でそこそこ使えるようなものがチョイスされた。金的・目打とかね。そしてそういった速習性の高いもの、マスプロ教育に向いているものは、現代における護身術にも向いているし、必要とされる要素だ。

 きっと開祖もそういうのには触れていたんでは? そして戦争が終わった日本にそういうものがまた向いている、そう思ったんとちゃうかな。少林寺拳法は人作りであり国造りであるという。何十年も拳法に没頭するような人間を作りたいわけではない。自分の身くらいは守れるような人間、そして自信を持てる人間を作りたかった、そんでもって周りに良い影響をあたえることが出来る人を一人でも多く育てたい、て事になってるよね。そこには達人技なんて入る余地がないように思う。いろんなシチュエーションに「とりあえず」対応できる感じにカリキュラムは組まれているように思う。深めたいなら各人でどうぞ、カリキュラムとしてはまず広く浅くて感じがとても目立つ。 

 しかし少林寺拳法も60年も経つと、みっちり稽古したお歴々が出てくる。すばらしい拳技を、持っている。みんなそれに憧れる。いいことだ、実にすばらしいことだ。しかしもうそういう人は今後減っていくよね。 まちがいなく。


ベストエフォート
 「嫋やかな乙女でも、大の男を投げられる」これは本当ですか? と学生さんに聞かれる。「本当だよ」と私は答える。「大の男は少林寺拳士だからね」、と付け加える。半分冗談だけど半分本当だ。 

 技術が高まるとそういうこともある。またあるタイミングでそういう瞬間はある。なのでこれは嘘ではない。しかしそれはベストエフォートてやつだ。高速通信最大100Mbps!!みたいなもんだ。 

 実際には、腕力や体力で乗り切れること、押しきれること、そして助けられることも多い。これは乱捕りやってれば誰もが経験することだ。護身を必要とする場でも同様だよ。無いよりあったほうがいい。60km/hを維持するのは100ccでも可能だよ。でも400cc、750ccの60km/hと同じだと、私は思わないな。 
 やっぱり徒手格闘において体格差というのは絶対的な指標で、10cmま身長差を埋めるためにはおんなじ稽古してたら埋まらない。体重も然り。リスク・マネジメントする時にぎりぎりのラインで計画する人はいません。 



超サイヤ人
 あまり好きな言葉でないんだけど「武道的身体」て言葉があるように、なにかしらそういう「状態」というのが、これは確実にある。合氣が使える、と表現してもいい、クン・フーが練られているというても良い。気が充実している、と言ってもいいかもしれない。とにかくそれは小手先のテクニックではなく、身体の「状態」のようなものだ。サイヤ人がスーパーサイヤ人に成るように、「状態」の話なんだ。 

 武芸に限らず日本の芸道は長期間の鍛錬でこれを養うことに費やされていると言ってもいい。木刀を毎朝振るとか四股を踏むとかもこれ。単純な意味での体力筋力の養成ももちろんあるんだけど、それだけではない、と考えて良い。 

 この「状態」で技をかけると、全く技が変わる。打撃の重さも根本的に違う、脳とか背骨にガツン!と響く。柔法にしても、軸とか重心とか何かしらそういうものへの触れられた感が全く違う。防御においても相手に手を捕られた時の力の抜けた充実感というか腕の重さとかも違って感じられる。オカルトチックなことを言っているようだが、本当にこういう状態が存在する。 

 いくら彼我の手首が空間的に同じ軌道を通っていたとしても、まったく結果が変わってくる。いくら外見を真似ても、この「状態」に踏み込めていないと技の効果が薄い。そういうもんがある。もちろんそのカタチを真似ることでその「状態」に近づいていく、というのはある。だから技を練習するというのもいい。
 しかし少林寺拳法は基本的に数のかけ方が甘い。ボクサーみたいにジャブだけ一時間とか、少林寺拳法ではめったに聞かない。練習が試験用とかになるともう目も当てられない。 

 
少林寺拳法にはこのような木刀を振るとか四股を踏むとか、膝行をするとか、馬歩をするとかサンチンをするとか、そういう基礎鍛錬の科目が無い。多少反論したいかたもいるかもしれないが、もう「無い」と私は言う。 
 そもそも、秘密結社にはそんな基礎鍛錬をする暇はなかったし、現代の日本人にも開祖はそれを望んでいなかった面「も」あるように思うんだ。これはいい悪いではなく、そういう流派、それが現代に生まれた少林寺拳法なのではないかと思う。

 開祖がそういう方向を選んだと私は考えている。 




武術的に見て…少林寺拳法に足りないものは基礎
 しかーし、60年も経つとクン・フーをみっちり積んだ人もたくさんいてですね。 先達たちは、柔道とか相撲の経験者が多く、また稽古の量自体半端じゃない。あほな話もたくさんあるけどよーく話聞いてみると筋トレもたくさんやってます。開祖はどうだっのかしらんけど、数かけない人が「人十度、我百度」とかいうかな。そういう経験があるんじゃないのかなと私は妄想する。 
 そんな先達のね、手先を真似ても、60歳になった時に先生に追いつけるかな。それは疑問だね。いや、追いつけないと認識しておくべき。 

 少林寺拳法には基礎鍛錬をしない風潮がある。ヘタするとしないことを美徳だと思っている人もいる。でもな・・・。 各人が少林寺拳法にどのようなものを求めるのかしらんけど、もし武術的な強さや技の深さを求めるならば、基礎鍛錬が欠かせない。100ccは所詮100cc。「基本が足りない」とはよく聞くけど、それ以前の基礎も足りとらんと思われますがいかがでしょう。
 100ccは100ccの良さがあるよ、使い道がある。それもいい。でも高速には乗れないし、バイパスとか乗るとチョット怖いよ、それはわかってるでしょ。自分の拳法のことも知っとかないと、怪我したらやだもんね。 



 武道界を見渡して、ガリな達人なんて一人もいないよ。
植芝先生は怪力に関する逸話たくさんあります。塩田先生も小さいけどちゃんと鍛えてました。開祖は言うまでもなく大男。
 今はヒョロく見えても、若い頃はガンガンやってたてのがせいぜいですよ。力のない技を習得するには力が必要なんです。力こそパワーて名言だね。

 拳法に行き詰まりを感じている人、基礎だよ基礎!! 基礎がついてくると剛法も柔法もいきなり伸びる、ことがある。チョー楽しいよ!! 「状態」には剛法用とか柔法用とかはないから、どっちやっても両方のびる、ほんまに。剛柔一体もついてくる。これ。楽しい、まじワッフルワッフル。 
 技のコツを知ることは大切だよ、理を知ることてやつだね(理入)。でも数をかけていくのも大切だよ(行入)。




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