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天地万物、一筆に帰するの妙〜剣道から
 2ちゃんのニュースまとめ系ブログで「剣道の奇声て意味あんの?」みたいなのがあって、ムムムとする。私は中学校の時に剣道部だった。確かに剣道の声は、ややキチガイじみているところがー、だがそれがいい。声出さないと取ってくれないし、声出さないとなによりやってらんない、疲労してる後半なんて特に。 

 この緊張感、たまらん。 自分も見てるだけで集中しているのがわかる。楽しい。


●天地万物、一筆に帰するの妙
 剣道は奇声といえばそうかもしれない。アチャーーとかグォテェェェェェみいなの普通にあるしね。コテと言いながら面打っていたり。やっちゃうのよ、自然と。 
 徒手格闘でもフルコンの大会とかも特に顕著かな?と思うけど、下品と言われようが「どりゃぁぁぁ」と気合を入れたくなる。後半にバテバテでそれでも前に前に出て重い足を持ち上げて蹴る時はそうでもしないと蹴れないんだ。あれを笑う人は情け無いと思う。遊びで奇声上げてるわけじゃない。 

 やっぱり勝負の世界は明確で、そして真剣だなと思う。なんとかして、うまく少林寺拳法の世界に持ち込めないものかなぁと思う。 昨日も少年部指導していて、最後の最後で詰め切れ無いもどかしさを、また感じた。彼らには強い突蹴りや速い突蹴は必要ないのだなと、またしても実感する。倒す相手いないんだもん。倒したことも倒されて泣いたこともないんだもん。別に倒せる突蹴りでなければならん、そこに到達せねばウンコだとは言わないけれども、そこを詰めていくという作業にはとても大きな意義があると思う。大げさかもしけないが、「天地万物、一筆に帰するの妙」みたいな、「一撃入魂」みたいな稽古を、試合という餌無しにどうすればできるんだろう。 
 また、やっぱり少年は勝負が好きだしもっとこれを上手く使えればと思う。しかしいまの環境では難しい。少林寺拳法は少年には向かないとまた感じてしまった。


●柔道の本質は勝負である。
 少林寺拳法は特に勝敗を競わないことを売りにしているようなところがある。それを自慢する拳士もたくさんいる。勝敗はそれほど忌避されるべきことなのか。ある柔道家の著作に、著者も勝敗ばかりの柔道の世界に悩んだとあった。こんなことで人間を育てられるのかと悩んだと。しかし今では、柔道の本質は勝負であると言い切っている。勝敗という
自分を見失いやすい場でこそ自分をコントロールできてこそなんぼや、と考えるようになったからという。勝敗のない、「和やかな雰囲気」の少林寺拳法には実に耳が痛い。

 少林寺拳法はリーダーを育てるという。ではリーダーとは何ぞや。リーダーの一つの機能として「決断する」ことがある。では何故決断する必要があるのかと考えるならば、それは不測の事態が起こるからだ。もし不測の事態というものが起こらないのであれば、事前のマニュアルどおり進めればよい。「決断」は要らない、リーダーもいらない。
 少林寺拳法がリーダーを育てるというならば、不測の事態に対応できない者、変化に対応できない者を育てていてはいけないのは明白だ。


●発露〜それは作られるのではなく生まれてくる
 技を仲間内でいくら上手く掛け合っても、いざという時に出せないんじゃ全く意味が無い、なんてのは400年前にも言われ続けてるが、未だによく聞く。
 勝負の世界では誰でも自然と身につく、集中力。これを身につけさせる手段が少林寺拳法にはない。あえて言いきる、ない。剣道ならそこらの
(別に強豪でも何でもない)中学生でもこの緊張感を発露するのに、少林寺拳法の演武でこの緊張感を出すことはほとんど不可能に近い。出来る・感じた(と言われている)のは、超がいくつもつくような大先生だけだ。
 これはとどのつまり、緊張感が張り詰めること・集中力を身につくこと、という手段において演武は極めて不適当というしかあるまい。ならば別の方法で、となればいいだけなのだが、現実はそうはいかない。横にハンマーがあるのに、わざわざ手刀で瓦で割ることにこだわっている姿が現在の少林寺拳法である。 
 そもそも演武がこれらの手段に不適当であれば、何のためにするのか、もっと他の効能を謳ったほうが演武自体ももっともっと活かせるのにと思う。私の中にはこれに対してそこそこの答えがあり、それはいわゆる「演武のような〜乱捕のような〜」に直結だから少林寺拳法の体系にも合うと、いや合うとか言う以前に、単にこれは昔の人達がやってたことをそのまんまやるだけだけだから、あたりまえのことなんだけど。
 なぜ少林寺拳法はこれを捨てたのかといつも疑問に思う。 …てのは嘘だな、疑問なんて無い、明確だ。競技演武の弊害だ。競技演武を私は全否定しようとは思わない。しかし弊害もある。これはまさに開祖が勝負の弊害というたものそのものではないか。皮肉なことに少林寺拳法は競技演武という勝敗のために、過去の体系を捨ててしまったのではないかと考えるのだ。 




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