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私は金剛禅が好きなんです。

 たしかに金剛禅に触れる機会というのはとっても少ない。本部でも武専でも、まず触れる機会はもうないといってもいい。碌な講義もない、時間の無駄な内容ばかり。鎮魂やってるけどなんかイイこと言ってる? 程度の認識だろう。金剛禅てなによてとこだろう。金剛禅とかやかましいことを言う必要はないのかもしれないけど。原点回帰的なスローガンンはたくさん聞くけど、思想に関してはまったくないに等しい。なーむ。

 2-30年前の大会パンフをみると、やたら阿羅漢の拳がどーこー、仏弟子の拳がどーこーとけっこう仏教じみた文章があふれているのだが、サリン事件以降、宗教性というものを出しづらい世の中になったこともありーの、道を説く人がやたら少なくなったこともありーので、金剛禅のエッセンスはもはグリコのおまけにすら劣るレベルである。
 開祖には会った事ないけど、あの人は金剛禅のことをどのように捉えていたんだろう。ただ独自性の演出や税金対策だったんだうか。そのように言う人もたくさんいる。しかし私は違うと思うんだな。いや、まぁ、そういう面もあったのは間違いないんだろうけど。賢い人だからさ。
 実に開祖法話を触れてみると無駄に熱い。言ってる本人はけっこう情熱を持っていると私は思う。開祖が祖国復興にかけた思いというのは決して嘘ではないと信じている。そしてその法話の内容はけっこう仏法の本筋を説いている。仏教用語をほとんど使わないが、その内容はちょっと仏教ぽいとか似てるねとかではなく、もろに王道の仏法を説いている。まじよ。
 開祖は既存の仏教を嫌っていからかまず仏教用語を用いていない、たぶん使いたくなかったんだと思う。しかし内容はもろに、ど真ん中に仏教だ。多度津の次に京都に別院を作ったのはなにも本州に作りたかっただけではないと思う。京都には禅宗の大本山がたくさんあったからね。

 臨済宗妙心寺派の副館長をしていた後藤伊山老師に足繁く通って禅の素養を深めたというけど、確かにその後に、昭和40年ごろにようやく力愛不二ということばが教範に載る。もしこの言葉が加えられることがなければ、金剛禅は仏法としての最低限の形を生み出せなかったと言われても仕方ない、それほど重要な要素である。開祖は仏教用語を使わないから、禅宗としての金剛禅のことを喋ってないようにみえるけど、ちゃんと勉強してその上で喋っている、と私は思う。何も知らないまま「教範読めばかるように・・・読んどいてください」とかいってるすっとこどっこいとは違う。
 誰やねん後藤伊山、て思うかもしれないが教範のしょっぱなで寄稿している人ですよ、見てね。そして京都別院があった、達磨寺(法輪寺)の住職でもあった。後藤は自分の寺の領地内に金剛禅の道場を立てることを許し、そこを開祖は京都別院としたんです。ロマンを感じるw

 今も本山は基本的に仏教用語は使わない。が案外話してる内容は仏法に沿っているよ。そこは「わざと」開祖の禅風を継承してるのかもしれない。まじでそう思う。わざわざ仏教用語を避けてる風があるんよ。でもそれを聞いてる側は、内容が仏教そして金剛禅とは関係なと思うだろうと思う。いいこと言ってるよね、程度。
 とはいえ金剛禅を解ける人はほ本当に少ないようにも思うけどね。開祖が使わなかったもんだから、みんなそれに興味がわかず一部を除いて勉強して来なかった。


 私がはじめて金剛禅に触れたのは、z合宿だった。あそこは学科と実技が半々だった。必ず毎年学科では仏法と昭和史が講義があった。なーんとなく興味湧いてた。そうこうしているうちに、縁があって●●のじいさんに出会った。こんなにも真剣に金剛禅に取り組む人がいることに驚いた。そして取り組める内容なのだと更に驚いた。


 思うに哲学と宗教の違いの一つは、実践の有無である。哲学者に人間性を求める人はいない。別に鬼畜でもいいの。科学者にも同様。しかし宗教家には求められる。どんなにいいことを言っても行動しない宗教は意味が無いし、実践こそがむしろ宗教の本体、そして信仰の本体といえる。

 開祖はこのところがわかっていたから、拳士には行動することを求めていた。それは既存の仏教宗派との違いとしてある種、金剛禅のアイデンティティとなっていた面もある。難解な教義よりも現代社会に生きる人間としての実践を尊んでいたように思う。
 多度津にすら、金剛禅で他の仏教宗派とまともに話せる人などいないとも聞くがこれの実際はどうなのだろう。私は必ずしもそうだとは思わないけど、そういう話が聞こえるのも事実だ。なぜ話せないのか。それはその人に実践がなかったからだ。仏法なんて高等な教典解釈する奴より、里に降りて手を差し伸べる僧のほうが尊いのだ。それがわからないのも情けないけども。どっちがてことではなくて、彼には彼らの信じる実践が有り、我々には我々の信じる実践がある、それでいいんだ。

 僧は学者や官僚といった面も歴史的にはあった。大和薬師寺(世界遺産のあそこ)の僧が気の利いた冗談で言う「私も100年前なら高級官僚の身分だったんですよ、うほほ!!」というのも本当だ。空海が単なる僧としてだけではなく支那の優れた政治制度や土木技術を持ち帰ったのも時代の求めた結果でしょう。そういう人がその時代時代で求められた。
 しかし現代の僧、そして仏法にそのような求めはないし力もない。じゃ、仏法が現代に何が出来るの?と考えるとまんざら開祖が言った釈尊正伝の仏法を現代に活かすには、というのは悪くない。あとはそれを各々がどんだけ実践するか出来るのかてのが金剛禅の価値ちゅーことになる。
 とはいえ案外教義も悪くないんだけどな。前述の通り、必要な要素はちゃんと入っいる。そしてこれを学ぶために、拳法というの案外向いている。拳法を通して禅を学ぶというのはなかなかよいチョイスだ。なんで拳法なんだよ、て思うかもしれないけど、歴史的には尺八吹いて禅を修める宗派がけっこう勢力を誇ったこともあるし、拳法くらいかわいいもんだ。武術と禅宗がチョメチョメして武道になったように、現代において徒手格闘という手段で禅宗に触れるというのはなかなかいけてる。しかもちゃんと禅宗用にカスタマイズされてる。

 拳禅一如てのはお題目でもなんでもなくてほんとアタリマエのことなんす。どっちだけ、なんてのはありえない、と私は思うなぁ。護身練胆・精神修養・健康増進の三徳もどれか1つだけなんてなんてのはない、無いというか切り離すほうがむずい。3つをやるんじゃないんだ、3つが一つなんだからわざわざ偏食する理由がない。拳禅も偏食できん。


 なんか少林寺拳法にはコンゴーゼンとかいうのがついてくるけど正直ようわからん。て人が多いと思うけど、ちよっとでも興味が湧けば学んで欲しいと思う。意外とイケてる。自分の不勉強のせいで、金剛禅なんてwとかいうのが多すぎるのよね。せっかく少林寺拳法学んでるのに、悲しいやん。


開祖が死ぬ一年前の法話、金剛禅が開基して30年ほどの法話にこんなのがある。
  開祖「もう私が何もしなくても少林寺拳法は世界に広がっていく、そういうものになった、うふふ」
しかしそれから30年たった現代、急激な拳士減少を迎えている。ワクワクするわ。


 


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