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意思調査(仮名)
製作・企画中
■設問内容■
@乱捕り稽古は
【肯定・許可・否定】
A乱捕り試合は
【肯定・許可・否定】
B演武稽古は
【肯定・許可・否定】
C演武大会(試合)は
【肯定・許可・否定】
D一言(長文歓迎)
  度々出てくる演武・乱捕りの稽古・大会の要不要談.いつもいつも各自の意図がこんがらがって分からなくなるので表を作っとくことにしました.明確になっていいや(・∀・).@〜Cは意図してシンプルにしてあります.言いたいことはDでモリモリ語るべし!!

・右のテンプレートを使用し掲示板少林寺拳法or丸廉への批難・文句受容スレスレで意思表明してください.
・考えが変わったり,表記内容に変更があったりする場合は掲示板にて申告してください.
・ちゅーかレギューは積極的に表明して下さい.丸廉を頻繁に出入りするなら意思表明は大切だと考えます.
・レギュラーに限らず,ぜひ表明して下さると激しく萌え.
・強調したい箇所があれば,明記してください.赤字太字赤太字に応じます.
・順番は頭の615期生を除いては表明順です.言いだしっぺが頭に来ないのは話になりませんゆえ.


HN
@
A
B
C
D
615期生
  昇段試験同様に大会の存在は「練習の目的」として大きな要因となりうることは明確なので各種大会の存在は大いに肯定です.大会の「存在」や「結果」を有効に活用できないのは指導者の落ち度であることはガイシュツの頂き.現在のような演武偏重な大会形式・組織のあり方には違和感を感じる.
  乱捕り試合が希薄なことが,乱捕り稽古が稀有であることの大きな一要因と私は考えている.各拳士により「積極的な練習」と「稽古目的の設定」は行われるものであるとしても,組織が大会という手段を通してこれらを補助することは在って然りだと考える.てか,なんで活用しないのかがわからん.拳士側も何故このような不自然な現状に平然としているのかがわからん.

  大会に特化した練習に陥ることを危惧するなら,特化出来ないようにすれば済む話だと思うのだが.たくさん限定乱捕りを規定しとけばよい.(剛法限定・柔法限定・ボクシング・キックルールとか極真ルールとか衆敵,双方攻撃,攻守分,何でもあり有り等も含めて,あと弁論大会でもいいかも) で,大会当日クジでも引いていくつか選んでそのルールでやる.結果毎回ルールが変わるので,偏った練習してる香具師はTOTALでは結果残せない.とか色々手はあると思う.審判が大変だがね.
わんわん
演武は試合があるから皆練習する。結果、弱い黒卍が大量に・・
乱捕りは試合がないから皆練習しない。演武の試合有り、乱捕り試合無し、この今の状態が一番良くない組み合わせでしょう。両方ありにするか、演武の試合をなしにすればいいのではと。
アップル
わんわんさんに同じく。
けども、演武も乱捕りもそれ自体が修練であるのに、目的を忘れて、大会にむけて乱捕り"の"練習をする。大会に向けて演武"の"練習をする。ってのはどうかと。練習の練習をするみたいで。。まぁやらないよりはましかと。
やらないってのはブー。やるんだったら(基本もしっかり)全部やろうよ!です。私は乱捕り以前に基本練習すらまともにできていない練習カリキュラムの現状に嘆く。
競技乱捕り、競技演武にはあまり基本練習はいらないといった風な雰囲気がある気がしてならんなぁ。
あん
試合があるから、無いから、と云う理由で、疎かになるのは、如何なものかと思います。
で、一寸質問です。
乱捕り試合とは、何を指しますか?現在の演武大会の様に、各道院から拳士が集まって、乱捕りをして、どんな形式にせよ、成績の様なモノが残る様なモノを勝手に想像していますが、そんな感じので、大丈夫ですか?
主題とずれるかもしれませんが、試合をするしないは置いておいて、大会には肯定です。
楽しいでしょうし、楽しいことは、する価値があるろ思いますので。
まつたけ
乱捕試合があろうがなかろうが乱捕稽古は必要(今はそう思ってる)と思ってるんよ・・・というかやりたい(^^;
乱捕・演武試合を【許可】にしたのはあったらあったで目標みたいなのができていいんじゃん♪みたいな感じなのさ。演武の試合があるのに乱捕の試合がないのは,自分の感覚としてなんかバランスが取れてないように思えるから試合を開くなら乱捕試合もも開くべきと思ってる。余計な事だけど・・・本音としては演武も乱捕も試合なんかすることないと思ってたりしてるんだけどね☆

演武に関して言えば,点数をつけて優劣をきめるような試合(大会)はすることないという意味だったのね。補足させていただきますm(_ _)m
演武って,点数をつけて優劣を競うもんなのかな?と思います。みんなが日々の稽古の成果をを発表しする一つの手段として大会という場はあっていいと思う。他の道院の人の演武を見ていい刺激になると思うしね。
乱捕試合に関しても優劣を決めるような形式だったらやることはないという意味です。試合でなく交流会みたいな感じで,みんなで教えあって刺激しあえる場であれば大会はあってもいいと思う。演武にしたって乱捕にしたって日々の稽古がメインであって大会は区切りみたいな感じじゃないかと思います。
桃色片胸落【乱捕りについて】
 僕は、乱捕り稽古をしないと強くなれないとも乱捕り稽古をすれば強くなれるとも思ってません。ただ、出来ないよりは出来た方が良いとは思いますけど。単純に楽しいですしね。乱捕り稽古をすると乱捕りは強くなると思います。(当たり前のことです。)
 乱捕り試合をやるならば、無門会の方式をそのままパクるのが法形との親和性が高くて良いと思います。軍鶏にならないし、「法形における手順の必然性」や「間の捉え方」などが見えてくると思います。
【大会について】
 大会は「我々はこんなことをやっていますよ」と他支部の人や拳士以外の人に見てもらうために開催するものだと思っています。優劣を競う必要はないと思いますが、最低でも演武会は行いたいです。少林寺拳法を知ってもらうには演武を見てもらうのが最良だと思うからです。本当は、基本も演武も乱捕りも杖も全部見たいし見てもらいたいです。
 flower38 乱捕り稽古も演武稽古も必ず必要なものだと思います。
ただし、個人の好き嫌いや能力で重点をどこに置くか決めるといいでしょう。
大会とか、試合とか言う名称をやめ、交流会とか定例会とか言う名称にして四半期に一回以上県単位で行い、各自のスケジュールの都合がいいときに参加すると言うシステムにすればいいのでは?
で、昇段も、武専か交流会を何回か出席した人で無いとできないようにすれば参加人数も増えると思います。試合そのものより、いろいろなタイプの人と拳を交える事が重要だと思います。折角武専にきても、同じ道場の同じ人相手とか、自分が優位に立てる人としか練習しない人がいます。もったいない話です。もっと言えば大学生みたいに中抜けする5段大拳士もいました。だいぶ前の話ですが、某地区武専では、土禁の階段のところで靴はいてたばこをすっていた指導者らしき人も集団でいました。
大会を開くのなら、第三者が来るので、こういう不心得者をきちんと見張らなくてはいけないと思います。はっきり言って、幹部連中でおかしい人が目に付きます。また、乱捕りの大会なら、ドクターとナースは必ず置くべきだし、審判もきちんと最低限の救急医学知識と、乱捕りのキャリアのある人を選出すべきでしょう。
また、乱捕り大会出場に対しては、最低限の体力と動きをクリアーした人のみ許可すべきでしょう。
半変身蹴 「護身の技術をいかすためこういうルールで試合する」
これはまったく危険だと思います。本来からどんどん離れてしまうでしょう。つまり「試合」が修行の手段ではなくて、「目的」になってしまう。日頃の練習の延長が試合ではなくて、少林寺の練習として試合する、こう持っていきたかった。
意義ですか。乱捕りのチャンピオンは演武のチャンピオンの十倍目立ちますよ。そんなの造る必要はありません。強いヒトは僕の言ってる試合に出る必要はないんです。わかってくれますかしらん。
ただ何気にぼんやりしてて昇段した細腕繁盛記みたいなのが・・・支部長は「こいつの自信になるから」って帯の安売りは本人もこそばゆいだけだろう。目に見える偽りではない自信を与える機会ともして。そして乱捕りしたくても出来ないヒトに道を開く、ということは言うまでもないことです。
とっしぃ法形→乱捕り→演武→法形→・・・の流れが大切だと思います。ただし乱捕り試合は演武出場者のみ出場可なら良いと思います。演武だけでも駄目、乱捕りだけでも駄目、どちらも出来てこそ本物では?また乱捕りの気持ちでの演武稽古を行えばよりよいものが出来るだろうし演武で使った技が乱捕りで生かせれば、相乗効果が得られるのではないかと。
カラス乱捕り、演武は大会があるないに関わらず稽古として普通にやるべきだと思ってます。乱捕りは軽めのものでもいいので少なくとも相手の自由な攻撃には慣れておくべきかと思います。演武については大会のために構成をこなせる様に何ヶ月も練習するのではなく法形+連反攻だけでもいいのでいつでも人様に見せられるようには日頃からやっておくべきかと。また大会については、大会でよい成績をとるために練習している人もいると思うので大会を否定する気はないです。ただ大会や試験のために練習するというのはちょっと違うような気がします。
赤影2003ルールは
1回戦:立会い評価。金的あり、ローなし、組み技なし。
2回戦:同上でロー、組技あり
3回戦:防具ポイント。金的あり、ローなし、組み技なし。
4回戦:同上でロー、組技あり
5回戦:キックルール。
6回線:大道塾るーる。
1から3回戦、判定で同点なら、審判相手に規定の演武をして正確さで競う。3回戦以上のときは相手が刃物を持って襲い、それに対して護身する立会い評価で競う。
詳しい意見はhttp://sports.2ch.net/test/read.cgi/budou/1061727974/l50
Syami1.乱捕り稽古?そりゃするべきでしょ。

2.乱捕り試合は「Exhibition」形式、先ずは指導者が試合の趣旨を十分に理解し、それを参加者に納得させた上で攻防無制限、但し防具は最低限(胴は使用せず)にして撃力をコントロール出来、活法と救急法を熟知した審判を一試合に付き3人以上用意し、最低一人の医師を用意できるならば肯定。重厚な防具では攻撃する方も撃力の箍が外れてしまう場合が多い。また、コントロールが上手くない場合、防具で守られていないところを打って、肋骨を折ったり、昏倒させたりと言うケースが多い。アメリカではちょっと厚手のシンガードとグラブ、ヘッドギアだけで女の子でも気軽に打ち合っているよ。また、中国の古の作法では「試武」の前にお互いの腹を思い切り打ち合って、「こいつは打っても大丈夫」である事を確認してから始めたそうです。打たれて蹲る様ならば、「我と武を試すに足らず」でその時点で止めたそうです。このように「打ち合いに耐えられる体」であるか否かを事前に判定する手段があれば良いですね。ま、これは指導者たる師の責任だろうけど。

3.演武稽古?楽しいぞぉ!演武稽古の楽しさは本気でやったものでないと分からない。でも、驚いたことにくまくまは善く理解していたぜ。

4.演武大会?これも楽しいぞぉ。ウソだと思ったら一度一生懸命修行してから参加してみると良い。ん?試合に関して?そうだねぇ・・・

5.中国の大会には「観磨」と「比催」と言う二種類のものがあります。
 「観磨大会」は「切磋琢磨した功夫をお互いに観る」と言った意味で英語にするならば「Exhibition」
 「比催大会」は「功夫を比べあう催し」で「Competition」になります。
  では、私たちの「在り様」としてどちらが適当かと言うと、これはやはり「観磨」であるべきと思うのですよ。

アップニ>本来少林寺の大会趣旨ってなんぞや??

 「本来」と言う事ならば是は明白で、「我々はこんなことをやっていますよ」と言う事を拳士以外の人に見てもらうために開催していたとの事です。これは今も「基本的な部分」では変わらないはずです。私はこれ以外に「祭」的な要素を考えています。歳毎に日本全国、或いは世界中から同門が集まり、「私達はこんな事をしている」とか、「我々はここまでやってるぞ!どや!?」とかそう言うものを発表しあうと。それがお互いの刺激になり、切磋琢磨に向かうモチベーションを高められればそれは大成功ではないかと思うのです。
 実際楽しいものですよ。大会に向け修行するのは。一時期は審判として参加していましたが、こんなのはつまらん、つまらん。こう言うのはもっと老いて体が利かなくなってからで十分だと思って裏方はさっさとリタイアしたのです。演武を真面目にやった人なら分かると思いますが、演武は運動量も比較的大きい。
 色々な動きを自由に楽しめるし。

 私は演武大会なんぞは、開催側は容れモノを用意するだけで十分だと思うのです。その容れモノを満たすのは個々人の拳士に他ならないと思います。
 そもそも修行とは自分自身のモノ。趣旨は大会の主催側が用意するのではなく、参加する我々がそれぞれ勝手に用意すれば良いと思うのです。 
  これに優劣をつけるのは如何なものかとは思いますが、するのならば誰が見ても「こいつらはスンバらしい! こりゃ余程修行を積んできたなぁ。よっしゃ、俺達ももっと修行するぞっ!!」と言うような拳士が良い評価を受ければ、これは皆の励みになるし、悪いことではないと思います。
 問題は、時々「何でコイツらなの??」と思うような評価が出る事。これは審判の問題であって、  審判業務はやるならば本当に真剣にやらなければならないと思います。
40過ぎ拳士 乱捕だろうが演武だろうが、私は試合について無条件肯定派です。
 理由は、
 1)競争があってこそ進歩がある。
   これは100メートル走でも、ビジネスでも、政治でも、何でも同じ。
   競争のない弊害は、競争の弊害よりも大きいでしょう。
 2)やってみれば白黒がつくのが、武道の気持ち良さです。   
   優勝劣敗を学ぶのは、武道の基礎だと思います。
 3)では、どのようなルールで乱捕試合をやるか、ですが、
   極言すれば、どのようなルールでも良い。
   胴とグローブを使った昔の少林寺ルールでも、
   キックボクシングルールでも、極真ルールでも、
   硬式空手ルールでも、大道塾ルールでも、
   散打ルールでも、バーリトゥードでも、
   何でも良いと思います。
   とにかく試合をすること。
   試合の方法論を四の五の議論して
   20年が経ってしまったわけじゃあないですか?
 4)「試合が全てではない」とは全くその通り。
   しかし、それは「試合をする必要は無い」にはならない。
   武道は殺し合いから始まり、常に殺し合いを想定します。
   そういう意味では、
   どんな安全なルールだろうが、どんな過激なルールだろうが、
   試合なんてシミュレーションに過ぎません。
   それが「試合が全てではない」の意味だと、私は考えます。
 5)試合をすれば、確かにルールに限定された範囲ではありますが、
   相手が勝っていて、学ぶべきところ
   自分が劣っていて、補うべきところがはっきり分かります。
   それが分かれば、みんな一生懸命努力しているんだから
   練習を通じた進歩の実感が、絶対にあります。
   「こんな練習でいいのかな?」なんて疑問が出てくる訳が無い。

 あと、Syami さんと意見が違うのは、胴を使った練習の有効性です。脚刀を使った廻蹴がサンドバックで作られるのと同様、前足底の蹴は胴蹴で作られると思います。そして、前足底の蹴は靴を履いているときには絶大な威力を発揮します。いくら腹筋を鍛えてたところで、バットは我慢できてもバールは我慢しようがありません。
 護身術として、あれを練習しないのは非常に勿体無いと思います。練習で、胴をつけている相手が気分が悪くなるほど蹴れるようになれば、靴を履いているときには、かなり軽い蹴でも相手はうずくまってしまいます。(そのためには、足の皮を何度か剥く羽目になりますが…)フルコンでは軽視されていますが、日拳や防具空手の人も上手です。

 皆さま、良いお年をお迎え下さい。
豆拳乱捕り稽古の必要性は言うに及ばず。乱捕り試合は「試合でもないとやる気が出ねえよゴルァ!!」って人の為。自分は痛いのイヤです、乱捕り怖いです、ヘタレです。でもやらなきゃ護身にならんのでやってます。まだまだビビリですが。

演武稽古は「演舞」に堕するならいらないです。高校の頃の組演武ではパシパシ軽くて速いだけの演武が評価されるってことがありましたから。自分らは受け損ねなんかで痣だらけだったのに・・・・

「効かない攻撃なんか出すな!!演武でも同じだ!!」はうちの顧問の口癖。

これは顧問から聞いた話ですが、ある先生は構成なんて決めなかったそうです。最初の攻撃だけ決めて後はアドリブ・・ってこれ乱捕りですよね。この域を目指したいものです。

沢山のヒトの意見を聞きたいのでよろしくお願いしまーす

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