自らの心を擬人化して呼びかけている軽妙な道歌である。通常○は完成された状態を示すものであるが、この道歌では○だけではいけない、と言う。○は純陽を表すが、その中に一点の真陰が無ければ「陰陽」が完成しない。聡明な嘉納治五郎は「柔道というけれど、その中には剛の要素も含まれる」と悩み、合気道の研究を門下に命じたのであるが、実際のところ柔術には「剛柔」が共に備わっていなければ使い物にはならないのである。また、天地自然を見ても須く陰陽剛柔で形成されている。柔だけ、陽だけというのではそれは「不自然」であることになってしまう。道歌にある「転びやすい」とは技を行うときに失敗しやすい、ということである。
柔道は勿論、柔法を主体とするのであるが、柔法を効果的に行うためには、一点の剛法が含まれていなければならない。剛法を使って相手の剛を引き出し、こちらは柔法で対処するのである。闘争の場においては、こちらが仕掛けた攻撃に相手は必ず逆らおうとする。もし、逆らわなければそのまま技が極まってしまうからである。この抵抗する力の勢いを柔らかく導くのが柔法なのである。こうした流れは合気道も同様であり、当身で相手の動きを誘い出す。合気道の投技に剛法が見られないのは、投げる以前に剛法が施されているからに他ならない。柔道は一部の型稽古を除いては、当身を廃してしまったので投技の中に剛法が含まれざるを得なくなったのである。
スポーツの中には武術の一部から派生したものも多く、アソシエーション・フットボール(サッカー)などフットボール系のスポーツは合戦の場において敵将の首の取り合いをしたところに起源があるともされる。柔道競技も、竹刀競技(剣道)も、実質的には武術本来の体系の一部を取り出したものであり、スポーツ成立の流れと何ら矛盾するものではない。スポーツはルールに基づいて競われるものであるから、ルール以外のことを考える必要のない自己完結型の体系である。道歌で言う「○」である。これに対して武術は不確定要素である危機を管理することを主眼とするもので、変化が最も重要となる。投技から突技に、蹴技から投技に等々、臨機応変に相手の攻撃に対処しなければならないのである。道歌の「一廉」には、このような武術が自己完結しない体系であるとの意味が示唆されている。また武術もそれを支える原理の「一廉(ひとつのデフォルメされた表現)」なのである。術から道、兵法から平法へ等と言われる武術、武道の展開はここに述べたような視点の拡大を考えに入れておく必要がある。そして、こうした視野の拡大において最も重要なのが心、意識の変革である。意識の一点が加わることで技法は無限の変化と展開を始める。
今回取り上げた道歌は『小栗流庶語録』に書かれている。小栗流は坂本竜馬が修業した流儀である。竜馬は1853年には『小栗流和兵法事目録』を、翌年、江戸から帰ってから『小栗流和兵法十二箇条』『小栗流和兵法一二十四箇条』を授けられている。
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