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開祖法話006

2002.10月号雑誌より 開祖かく語りき

1979年度 第2次全国指導者講習会にて(1979/07)
弟子一人ひとりの手を握り、一人ひとりと言葉を交わす
●志の根源を見失うな。怠らず努めよ――

楽しいから道場へ行く
 こんな声がある。この拳士、職業は税理士である。
 「私たちは昼勤めて、えらい仕事をして、そして夜、楽しみのために道場へ少林寺拳法を求めて出かけます。ところが道場では、道院長の機嫌を取りながら、ボロクソに言われて、いじめられて、これではどうして行く気がするでしょうか」
 お金を払ってまで、いじめられに行くようなバカはいない。家におるよりも、嫁さんの顔を見てるよりも、道場におるほうが楽しいから道場へ人が集まる。会社へ行けばイヤな上役がおる。得意先へ行けばペコペコしなければいかん。やっと心が休まるのは道場でみんなと稽古してるとき、話してるときだ。道院長は悩みも聞いてくれる。そういうふうであれば、来るなと言っても人は来ます。本部はそれで栄えてきた。道場へ行くのが重荷になるのは、指導者の姿勢、態度に問題がある。
 道院長からは月例報告というのを出させておる。弟子の名前は全部書いて、出欠の状況とか、お金を納めたかとかわかるわけです。それをごまかす道院長もおる。入門費から月々のお金までごまかして、その"幽霊弟子"がやめないで続いてきて、いきなり初段を受けさせたいが3級にも2級にもなってないから、さあ弱ったと。それで「うちは初段には3年かける」などと言ったり、やつその弟子がやめるように仕向ける奴さえおる。
 試験受けに行ったら、君は修行実績がないと言われる。本部にみんな資料があるからです。修行してきたのにその実績がない、それは道院長か支部長がごまかしとるんだぞ。組織が大きくなるにつれて、道院長・支部長にもいろんなのが出てくる。

指導者の立場、弟子の立場
 君たちはもう一度、自分が何を目的に指導者になろうとしてきたのか、反省をしてくれ。要するに、少林寺の原点に帰る、『少林寺拳法教範』に立ち返ることである。私が少林寺を開創した動機と目的を理解し、私が歩んできた人づくりの道を共に歩むということである。
 その点で少林寺における指導者という立場は、道院・支部の一門下生として自己確立に励むのとは決定的に異なっている。つまり弟子のときは自己確立だけでいいが、道院長・支部長、あるいは助教という指導者になれば違う。人を育てる道を歩むことになるからである。すべての指導者が、そのやる気に多少の濃淡の差はあっても、ほとんど同じ原点から出発していると思うんですね。ところが、いつしか惰性に流され、ある者は脱落し、ある者は名利に溺れるなど、原点を風化させてしまう者が、たとえ一部とはいえ現れるのはなぜか.
 釈尊の臨終の言葉、「弟子たちよ、すべてのものは移ろいゆく。怠らず努めよ」というのは、要するにすべては年々歳々変わるんだと。だから死ぬまで怠らず努めよと。これが釈尊、仏教の原点です。私が日本の禅宗はまちがってると思うのは、悟りなどあるはずがないと考えるからだ。たとえあるとしても今年の悟り、20歳の悟り、30歳の悟り、40歳の悟り、50歳の悟り、みんな違うはずである。移ろいゆく中で、そういう悟りがあるとしてもほこりもたまるであろう。とりわけ移ろいやすいのが人の心である。ならば、せめて志の根源を見失わないために、常に怠らず努めるしかない。
 しょっちゅう磨きなさい。「怠らず努めよ」これは含蓄のある言葉ですね。死ぬまでやりなさいということであって、ある日わかったと言ってやめたら、これは行き止まっておるのである。金剛禅は、この正統仏教を歩んでいるので、俺は八段になった、大範士号ももらった、もうこれでよいと考えたらとたんに大範士号も八段も取り上げるぞ。
 少林寺における指導者の本務、その初心を貫くには、努めて門下生、部員一人ひとりの手を握り、一人ひとりと言葉を交わすことを怠らず続けるしかないのである。確かに、人を育てるというのはたいへんではある。しかし、あえて言うが、そのたいへんさなくして人を育てる喜びというものがわかるはずがない。それを承知で踏み出した最初の一歩であったはずではなかったか。

仁王尊の姿と表情が語るもの
 今の世の中、すべてが、どこか狂っておる。そういう世の中に日本の武道も含めて、半分は相手の立場をという思想はない。いいですか。そういう社会の中で、自分の子どものような、弟のような弟子を育てるこみいだとに生きがいを見出し、弟子が独立して一家を立ててくれたら喜んでやれるような指導者をつくること、それが私の最初の目的であった。
 仁王尊の像は、気力、体力が全身の隅々までみなぎっている。あの表情が端的に物語っているのは、現世のもろもろの不正に対する悲しみを内に秘めた、怒りのほとばしりであり、真の慈悲の姿である。悪に向かって文字どおり仁王立ちとなって立ちはだかる勇気と正義感。そういう、心と体を、平素の修行、錬磨によって築き上げるように努める。これが理想境への遭進である。
 「行」という文字の古い字体は、人間の格好の上に、子どもかおじいさん、おばあさんを背負った形、それが向かい合ったものです。人間同士が互いに立て合い、生かし合い、拝み合う姿を象徴したものである。人間が弱者を背負い、同じく弱者を背負う人と相対して、共に励まし合いながら、共に向上を図り、共に幸せになろうとする努力、これが「行」のほんとうの意義なのである。



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