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 少林寺が弱いといわれるのは仕方ないで、以下の用に書きました。
 そもそも武道やってるからといって、強くなきゃいかんのか? なんで強くなきゃいけないんだ? 武道だからか? 結果弱くても楽しければいいじゃん。楽し〜く趣味としてやっちゃいけないのか? 「強さ」しか語れない奴は、日曜日に河原で草野球やってるパパ達には向かって「そんなんでプロになれると思ってんのかー」とか叫ぶのか? まったく意味がわからん。

 ええ、本気で思ってますよ。「楽しけばいいじゃん。」 所詮趣味だし、武道家っても21世紀だぜ!!


知ること

  • 自分は高段だから強い(気がする)
  • 自分は〜年もやってるから強い(気がする)

  上のような妄想を抱いている拳士が多いと私は感じています。いまいち自信は無いんだけど「ある程度はできるだろう」となんの実証もなく、「ある程度」を抱いている拳士のことです。実際に乱捕り稽古などをしてみるとわかることですが、実証以前の想像より
ちょっと出来なかったどころではなく、まったく出来なかったというのもざら、というくらい現実は、自由攻防は難しい。5個試そうとテーマを暖めてきたのに一つも成功しなかった、成功どころか行うことすることも出来なかったというのもありがちです。

  そもそもこんな妄想を抱かせる指導者、実力を分からせない指導者は
不誠実だと私は思うのです。また「こうすれば効く」とか、「こうすれば倒せる」とか、話だけで後輩を過信させてしまうこと少林寺拳法ではよくありますがこれもまったく不誠実です。
  「おまえの強さはこれくれくらいだよ。これは俺は出来るけど、
お前はまだできないんだよ。」ときっちり言うことも必要ではないでしょうか。 自分が弱いと知っていれば、危ないことはしません。泳げないと知っていれば水には入りません。護身術というのは技術だけで収まるものではないでしょう。「君子、危うきに近寄らず」であるはずです。

  以下2ちゃんねるより。

784 名前:◆kQaEe3ePcc [sage] 投稿日:05/02/24 10:11:59 ID:QUjUitYQ
(前略)
正しい練習過程を経て正しく要領を習えれば身に付くモノ   まさに段階を踏むという感じです
本来は練習してそれなりのレベルに達した人に伝えられるべきモノのハズ
「何段になったから〜」とか「何年やってるから〜」という適当な判断で伝えられるモノではないでしょう
ましてや格下の相手に尊敬される為のモノではありません
その技術を知っているからエライというモノではなく、さらに上を目指す為の最終的に「奥」と呼ばれるモノに至る為の過程に過ぎません

788 名前:◆kQaEe3ePcc [sage] 投稿日:05/02/24 11:09:29 ID:QUjUitYQ
>>786
脳内ビジョンで嘲ってるわけではなく、実体験と現状から見て感想を述べたまでです

1.少林寺には技マニアが多いですよね?
(おぉ、615期生のこと)
2.技知ってれば昇段できますよね? (してしまいました)
3.技知って手も実際に使えない人多いですよね? (また615期生のこと(;´Д`) )

段位とは指導者等がそれに相応しい実力を持った人間に与えるモノのはずで、現在の少林寺を見回して段位に相応しい人間がどれだけいますか? 三段?四段? この辺は入門ですか? では五段、六段の人は乱取で技を使えるのですか? 使えれば少林寺が弱いなんて言われないでしょう
それとも少林寺が弱いと言われるのには他に原因があるのですか?
青字は615期生が入れました。

  できないなら、できないでもいい。弱いなら、弱いでもいいんです。弱くても
自分が弱いということが分かっていれば、自分の実力というものが分かっているなら護身術のいくらかは完成していると私は考えます。あぁ、私はこんなにも弱いのか、だったら危ないことは出来ないなと感じれなくて何が護身術でしょう。自分がどれくらいの相手に勝てて、どれくらいの相手に負けるのか、どの程度強くて、どの程度弱いのか。これがわかることがとても大切なことではないでしょうか。

  最近の義務教育でも極端に勝負事を嫌う風潮があります(運動会など)が、更にその先を行って少林寺拳法でもこれがあります。私はこれがどうも苦手です。危険だと思うからです。臭い物に蓋をして思考停止していると感じることもありますます気持ち悪い。社会を見渡せばどうせこの世は弱肉強食だってことくらい誰でも知っています。社会を無視した聖域内の護身術なんて滑稽です。中にはだからこそ少林寺拳法の世界では、というご意見もあるかもしれません。しかし護身術として耐暴力とのリンクを掲げているのですから、これはまったくの虚言だと感じます。
  ですから「少林寺は弱い」と2ちゃんで煽られ続けていますが、別に弱くったっていいと私は思います。むしろまずいのは、
弱いことではなく、自分の弱さ(程度)を知らないことなのではないでしょうか。
63 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:04/05/24 22:42
サッカーや野球にやたら詳しい素人がいるように、 別に格闘技オタクがいろいろと議論してもいいと思う。 健全なスポーツの楽しみ方かと。
問題はだ、それに詳しくなるにつれ、なんだか自分が強くなったと勘違いしてそうな連中がいることなわけだが。
サッカーファンとかいくら詳しくても、
「俺もできる」みたいな発言するやつ見たことないしね。
  【参考・関連】なぜ乱捕りをするのか



弱肉強食
 世間的な「弱肉強食」という言葉のイメージはこんなもんかな他多少は幅があるかと思いますが。
  • 自然とは競争である。
  • 自然とは弱肉強食である。
  • その自然という世界の中に、我々は生かされている。
  • 決して生易しい世界ではない。
  • 弱ければたちまち衰滅する。

●弱肉強食
 弱肉強食、これほど社会に正しく認知されている生物学用語が他にあるのかw 「この世は弱肉強食」なんてよく聞きますが、なんちゃって生物屋615期生は
弱肉強食は半分は嘘だと考えています。弱肉強食の圧力は決して一定ではないということです、たぶん。

●niche
 生物学にはnicheという用語があります。日本語訳すると、「生態学的地位」となります、たぶん。まぁそれぞれに当たられた「地位」ていうだけの意味です。例えば、ライオンにはライオンの地位があります。ウサギにはウサギの地位があります。
 弱肉強食、つまり強い者が勝つのであれば、何故弱者は完全に駆逐されていなくならないのか。究極的には単一の強者のみにならないのは何故か。ライオンがウサギを喰っている強者なら何故ウサギは根絶されないのか。それは弱者には弱者の生態的地位、つまりnicheがあり、強者には強者のnicheがあるからです。ちなみにここでライオン=強者、ウサギ=弱者と言うのはあまり正しくありません。

●競争
 「競争」という生物学用語があります。競争とは、同一の資源(食べ物や生息地etc)を求める者同士で起る現象です。そしてこの競争において弱肉強食が当てはまると考えてよいでしょう。


 競争とは、ライオンとウサギの間で起こることはまず無いでしょう。起こるとすれば、例えば同じ食物を採っているシロウサギとクロウサギの間で起るものです。ライオンとウサギの関係は捕食・被捕食です、競争ではありません。ウサギが絶滅しないのはウサギが減れば食べ物の減ったライオンも減るから結果としてまたウサギの数が増えるこういうサイクルを繰り返すからです。競争とは、ほとんどの場合、同格のniche間で起こるものです。ぇぇぃ、面倒だ!! 図にするとこうだ!!


  つまりウサギは自分がウサギであることを知るべし。強いライオンに憧れてライオンと同格のnicheに行くと絶対負けまっせ。ウサギにはウサギの地位がちゃんとある。




できること・できないこと
  自分の拳法はどれだけ使えるのか、通用するのか。それを知る一つの方法が乱捕り稽古です
(あくまで一つです)。出来ないこと、弱いことというのは知る機会を避けてはいなでしょうか。逃げてはいませんか。乱捕り稽古では自分の想像以上に動けないのが常です。しかし出来ないことを認識したからこそ出来るように成ったときにそれが分かるのではないでしょうか。実際に乱捕り稽古の中で予想外にうまくいくできる時もあります、極めてたまに。その時ほど自分の成長を実感できる時はそうはありません。

  こういった「できる・できない」という実感の無さが、早急な昇格試験に拳士を駆り立てる一因ではないかと私は思います。昇格というのは大変分かりやすい変化ですから。(参考、人は変化を認識する >>微分してゼロ)
  出来なかったことが出来るようになっていく、これは大変素晴らしいことです。まず「何ができないか」も知らないでどうやって成長を実感しているのか私にはまったくの疑問です。自分のnicheくらい知ろうとしなあかん。まぁ大きな御世話だけどなっ。

  乱捕りに消極的な人がいる。自分の弱さを知ってしまうことに恐れているのではないかと感じるときもある。後輩も出来たしね。でも愚かなことだ。親父が背中で語る言われたように後輩にも語ろう。
※「分かる」ことは「分ける」こと。比べる対象があるから分かるんです。分析という字は、「刀で八つ裂き、斧で木を切る」て意味らしいです。


  出来ないことがわかれば、しなければいけないことがわかります。これが乱捕り稽古が基本や法形にフィードバックされると言われる所以です。 乱捕り稽古の目的は技術的な上達の意味もありますが、またこういった自分の実力を知るという護身術には欠かせない稽古法であることは、間違いありません。自分がどれだけできるのか・できないのか、どれくらい強いのか・弱いのか、日々脚下照顧を繰り返し精神と肉体が同時に育まれるからこそ、拳禅一如と言えるのではないでしょうか。

●強いと巧い
  強いと巧い。これはちゃんと区別せねば!! 技が巧くても弱いやつは弱いよっ!! 巧さを追求すること、これは無駄じゃない。てか楽しい、それはわかる。でも確り区別しとかなあかんよ。できてないのはまずい。巧い=強いじゃないってこと、これはとっても大切。
良心的に、あえて二軸を直角には書きませんでした。まぁ人によって角度は違うのでしょう。

474 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:05/02/15 10:43:30 ID:TQibJSFB
虎には虎の強さ、子猫には子猫の強さ。 生き物としてどちらの強さも等しく尊いと思います。
不当に迫る敵や危機を前にして、目を見開き逆毛を立て爪をむき出して、戦うポーズを取る勇気は大事なことではないでしょうか。そして逃げられるなら一瞬で逃げおおして戦わずに済ませられるならその方がいいことだと思います。

空爆で殺される無辜の人々が無数にいて、銃器が巷にあふれる現代に生きていて、素手や棒きれでできることは限られています。体格の大小や年齢や性別などどれほどの違いだろうと思います。
少林寺拳法や合気道、その他の護身系武道に親しむことは意味があることだし、大切なことに思えます。勝てなくても、負けないように。負けても、全てを奪われたり殺されないように。工夫したり、鍛えたり、危機に対峙する心構えを身につけていくことが大切なことだと思います。

42 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/08/03 07:36 ID:x5VJHa3e
  今回のことには関係ないが、正義感のある拳士が、大勢にぼこられたり、殺されたりする事例が、ある。10年に一回ぐらいそういう話を聞く。
  正義感があるのは大変すばらしいが、それに実力がないと悲劇が起こる。俺の知っている奴は、法形中心の練習で、たまっているDQNに説教し、やられたそうだ。話を聞いたとき、「おまえにはその実力がないから、決して喧嘩にはならないよう言い方を考えろ」と思った。法形だけ、攻防を分けた乱捕りしかしていない人は、現実の戦いを知らず夢想している部分があるので、決して実力行使はしてはいけない。実力行使をしていいのは、自由乱捕りをして、自分から先手を取り相手が体勢を立て直す前に終わらせる実力がある人のみ。実戦派の大先生はみんなそうしている。
  一番大事なのは「生き残ること」「自分は怪我をしないこと」なのである。決して「少林寺の技術の原則通りに戦う」ことではない。きれい事だけで勝てると自由乱捕り否定派は考えているがそれは「甘い」。「現実を知らない」と思う。
正義感だけ教えてサバイバルを教えないことは、指導者として非常に無責任だと思う。

ただし、実力があるからと言ってすぐ手を出してもいけない。実力がある人間が「きちんと説得」するから相手も納得するのである。相手の経験が豊富なら、自分を値踏みされる。そしてその値踏みは当たっている場合が多い。本能で生きているからな。
愛媛は、骨のある人が多いと聞くことがあった。今回の件は誰かが言っていたように、知り合いであるがゆえの、油断だったんだろう。    合掌。


43 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/08/03 07:50 ID:0P08QmTs
(中略)
現実を知らず空論をほざく人間、或いは知っていて空論を教える人間(これが一番だめ、生徒が本当に勘違いする。)が主力であることが、この組織の弱点であると言える。「武道」を捨て、単なる「チョットだけ喧嘩に強い」「精神修養団体」を目的にするのであるなら問題はないが。


44 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/08/03 07:59 ID:RQcorD16
  自分は体育会や街での乱捕りで強くなったのに、生徒に殆ど法形しか教えず、錯覚を起こさせる先生がいます。生徒は先生が強いからこれで強くなったと勘違いします。先生が弱ければ生徒も自分の分をわきまえるのですが、なまじ強いから、その練習で強くなれると思っちゃうみたいですね。

  生徒に対して、正しく実力を認識させ、決して実力以上の行動を取らないようにさせるのも指導者のつとめでしょうね。する人は、押さえてもします。そういう人は本能的に強く要領が分かっているので安心ですが。ただし、行き過ぎてお泊まりするということも、ありますが。(w


45 :名無しさん@お腹いっぱい。 :03/08/03 08:05 ID:RQcorD16
  私は、他の人に関しては、状況を見ていけそうなら介入し、だめそうなら介入しません。ずるいかも知れませんが、誰かを助けようとして自分が殺されても、その助けた人が自分の家族を養ってくれるとは思いませんから。そして、介入できる状況を増やすため、日々実力向上の努力をしています。(後略)

293 名前:断 ◆kQaEe3ePcc 投稿日:2005/06/03(金) 12:57:40 ID:0E8U12vV
自分より強い相手には勝て無い事を知る

■本項の要約
  弱いことが問題なのではない、
   自分の弱さが分からないことが問題だ!!
( ´ー`)フゥー...また大口たたいちまったぜぃ

【関連・参考】なぜ乱捕りをするのか niche2


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  私はいつも「弱さを知れ!!」ではなく脳内で「nicheを知れ!!」と憤慨している。だからまずこの「niche」から説明しようと思って書いてみたが、いかせん長い。しかも書いてみると不要だ…(;´Д`)  しかし長々書いたのにボツるのは勿体無いので末にウプ。時間が余っているヒトだけ読んでね〜

生物学が社会に還元できるものの一つにも弱肉強食がありますが、それと共に、以上にnicheが重要だと私は思う、、、のであります。

●niche ニッチ
  さて、弱肉強食について少し触れましたが、実はこれは半分本当で半分嘘です(と私は思う)。ですから「少林寺拳法は弱い」と2ちゃんで煽られ続けていますが、別に弱くったっていいと私は思います。弱肉強食の無い(薄い)ところにいればいいのですから。むしろまずいのは、弱いことではなく、(言葉が悪いですが)自分の弱さ(程度)を知らないことなのではないでしょうか。以後、nicheという生物学用語を元に弱肉強食から護身術まで書き出します。

  生態的地位(niche)という生物学の言葉をご存知でしょうか? ちなみに私はよく知らない。学校で習ったわけではなく、昔々にTVで覚えたので。
  よく見かける食物連鎖ピラミッドを例にして見てみましょう。
      A:イヌワシ
      B:イタチ・蛇・うさぎ
      C:昆虫・野ネズミ
      D:植物
      E:土壌
      F:その他なんか

  左の様に、食物連鎖を単純化しピラミッドで書きます。それぞれの階層をA〜Fとした時、例えば「イヌワシの生態的地位はAだ」と言えるのです。Aを捕食者と規定したなら、「イヌワシの生態的地位は捕食者だ」となります。つまり生態的地位とは、まさに生態系における地位のこと。
 自然界に限らず、人間の社会にも様々な階層・地位があります。あるピラミッドでは上層にいる人でも、他のピラミッドでは下層にいるかもしれません。以下のように私(615期生)とわんわんさんの関係もピラミッドによって様々な要素でとれます。
ex)
なおこの差は近年開きつつある… なおこの差は近年縮まりつつある…

  どうも私の認識では、世間一般に「弱肉強食」といえば、強者がすべての弱者を蹂躙するといったイメージが持たれているのではないかと感じます。しかし実際は食物連鎖ピラミッドでは、上層の地位が一つ下層の地位に対して捕食しているだけです。こういった階層の中で、「弱肉強食」はどのような過程で起こるのかを考えてみると、実際に大切なことは「競争」が起こったときです。そして競争が起こるのはどういうときかというと、同じ資源(生物界なら食べ物・空間など)を要求するもの同士でおこるものなのです。
  上のピラミッドで言えば、AがB〜Fをすべて駆逐するわけではなく、AはBを、BはCに働きかけていくわけです。
  また生態系の規模が縮小する際は下から消えていくわけではありません。全体的な規模が縮小します(右図)。下層が消えると上層も消えるでしょう。生態系というのは全体のバランスが大切なのです。  偏屈な例えですが、会社やら学校やらの人間関係でも思い出してください。役割と責任が明確な場つまりnicheが明確な場では物事はスムーズに運びます。しかしこれらが不明確だとギクシャクとしてしまいます。
  こういった関係を知ると弱肉強食がどこで起こっているかが改めてわかってきます。つまり、上層には上層の地位があり、下層には下層の地位があるということもわかります。

  つまり弱肉強食というのは、何処でも起こっているわけではなく競争の場にのみ起こっていることです。自分のnicheを知っていれば弱肉強食なんてさほど問題ではないのではないかと思います。
  生物界においてはその生態的地位は長い年月をかけて構築されてきたものであり、今日明日そのnicheが入れ代わる事はないでしょう。しかし上の「わんわん-615期生の関係」の様に人間社会の一つをモデルとしてみた場合、そのnicheは比較的流動性があると考えられれます。さっさっと自分のnicheを正確に把握して上を目指せばいいのです。


うんたらかんたら

  運動会などで徒競走で順位を付けない事は危険です。自分の得意不得意を認識できないからです。走る事が不得意だと分かれば、他の分野で自分の得意分野を探せばよいのです。そこで努力して成す事が出来れば走ることが苦手でも、自信は付きます。まずは自分のnicheを知ることから始まります。

うんたらかんたら、チョメチョメ

つまり自分のニッチを正確に把握できれば弱肉強食なんて屁の河童てことですよ。( ゜Θ゜)カッパー

順位を決めない徒競争て危ないな〜と私が思う所以です。


生態的地位
[英(ecological) niche 仏niche(_cologique) 独Nische 露нишa]【同】ニッチ,ニッチェ
  ‘各種ないし亜種は,それぞれ特有の生息場所(非生物的環境のほかに,植生や食物・敵・競争者などを含んだ用法)が成立した場合に,そこを埋めるように進化する’として,その最も小さい分布単位としての生息場所.C.ダーウィン(1859)が‘自然の経済(economy of nature)における位置(place)’とよんだものを,いっそう具体化した概念.
  ニッチの語を最初にこの意味で使ったのはR.H.Johnson(1910)だが,厳密な定義を検討して一般に広めたのはJ.Grinnell(1917,1924)である.いっぽうC.S.エルトン(1927)は,‘生物が群集の中でどのような役割を担っているかということ,生物的環境における位置,その食物および敵に関する諸関係’として定義した.例えばアブラムシの種は森によって異なるが,いずれもよく似た餌を摂食し,かつテントウムシに捕食される点でも同じなので,よく似た生態的地位を占めるとか,アユは海ではケンミジンコを食って魚食魚に食われる地位にあるが,川へ溯上すると付着藻類を食う地位にかわる,といった具合である.
  生息場所という用語の狭義化に伴い,Grinnellのものを主として非生物的環境に限って生息場所的地位とよび,エルトンのものを食物的地位ないしエルトンの地位(Eltonian niche)とよぶこともある.しかし本質的なちがいはむしろ,前者は一つの種が一つの生態的地位を占めることを強調しているのに対して,後者は一つの種が時間空間的にちがった位置を占め,また逆に,同じ地位をいくつかの種が占めると考える点にある.これらに対してG.E.ハッチンソン(1957)は,群集の側からみることをひとまず捨て,あらゆる環境条件に対する個体群の反応をn次元に展開した多次元的地位の概念を提唱し,さらに各種のもつ最大能力全体すなわち基本ニッチ(fundamental niche)と,競争などにより実際に発揮されているものすなわち実現ニッチ(realized niche)とを区別して,それによって群集を再構成しようとした.このハッチンソンの超容積ニッチの概念にもとづき,餌のサイズや住み場所の枝の高さを種ごとに利用する頻度(資源利用パターン)をもって,ニッチを定量的に表現し,ニッチの重複度を推定する研究が多数なされた.さらに,競争関係にある種はどの程度の類似性があれば共存できないかというニッチの類似限界説の考えが出され(R.H.MacArther&R.Levins,1967),これが基礎となってニッチ分化による群集構成種の共存を強調した群集理論が形成された.

競争[英competition]
  同種または異種の複数個体が,食物や空間など生活に必要な資源(resource,requisite)に関して共通の要求をもち,かつその要求量が供給量のレベルに近いかまたは上回るときに生じ,相手の適応度に対して負の影響を与えるような相互作用.
  競争の機構は,一般に干渉(interference)と消費(exploitation)に大別されている.干渉とは,直接的な行動や避忌物質などの間接的作用によって競争者が資源を利用することを妨げることをさし,消費とは資源を減少させることによって他個体の利用できる資源量に影響を与えることをいう.しかしこの区別は概念的なもので,実際には両者が共に働いている場合が多い.
  競争は同種個体間の種内競争と異種個体間の種間競争とに分けられる.

すみわけ[英(interactive) habitat segregation]
  相似た生活様式をもつ2種以上の生物において,それぞれの個体群が,各種単独で生活する場合の要求からいえば同じところにも住みうるのに,他種がいる場合に競争の結果生息場所を分けあっている現象.
  例えばイワナとヤマメは夏季の水温13℃の付近を境にして分れてすむことが多い.しかし他種のいない所では,ヤマメはそれより水温の低い上流に,またイワナは水温の高い下流にも広く分布する.この場合,生息場所が分れているのは,すみわけの結果である.
  またやや広義の用法もあり,現時点では競争の存在しない場合でも,過去の時点での競争の結果分布域がわかれ,環境の相違に適応した性質がそれぞれ固定されて種分化が起ったと考えられるときにも,それらの種はすみわけているという.しかし,単に生息場所の異なっている現象を指し示すだけの意味に誤用されることもある.
  すみわけの概念は,古くC.ダーウィン(1859)の‘種の起原’やGrinnell(1904)の論文に起原し,欧米では1960年代〜70年代の生態的地位の分化と競争種の共存の研究によって大いに発展した.日本では,今西錦司と可児藤吉の水生昆虫に関する研究から出発し,後に今西錦司(1949)は,生活のよく似た種(多くの場合同属)は,相対立しているのですみわける関係にあり,その結果全体としてみれば,いろいろの場に対する適応から相補的な関係が生じるとして,すみわけ原理を独自に創始したが,今ではあまり顧みられていない.


  生物学には、「被食者−捕食者相互作用[英prey-predator interaction]」というのがあります。またの名を、「食う-食われるの関係」。
  一般論ですが、左のようなグラフが示されます。ウサギが減ればそれを捕食しているイヌワシも減ります。しかしイヌワシが減ればまたウサギもまた増えてきます。両者が同時に絶滅するということはありません。常に相関関係を保っているのです。
  実際の生態系では、捕食者・被捕食者がイヌワシ・ウサギだけではありませんが、この関係は大抵成り立っています。ハブを駆逐したいがためにマングースを放した例が過去にありましたが、左のような関係があるのでもちろんハブは駆逐できませんでした。今ではマングースが天然記念物を襲ってます。
  要するに下層がいなくなれば、上層も困るんです。だから下だけ無くなるってことはないんです。
むかし、ハブを駆逐するためにマングースを移植した島がありましたが、、やっぱりハブは根絶できませんでした。当然やね。てかマングースが在来の生態系に悪影響を与えているというニュースをよく聞く始末。