トップ > コラム&ノート  > 少林寺が弱いと言われるのは仕方ない
 

  「少林寺が弱いと言われるのは仕方ない」というスレッドが2ちゃんねる武道板にはある。よく伸びているので今後もよく伸びるだろう。(2007/4現在は第38章まである)
  まず少林寺が煽られる理由の一つは、団体が大きく・有名だからだ。同様な理由で極真空手系・合気系もよく煽られる。有名な団体というものは実態がどうであれ必ず煽られる。これは仕方ない。
  にしてもこのタイトルはキツイ。2ちゃん初級者ならおそらく泣ける。私は泣けた。私にはタイトルに対して反論できる自信も知識も無かったからだ。
  「少林寺が弱いと言われるのは仕方ない」と言われた時、これに自信を持って反論できる拳士は少ないだろうと私は合同練習や武専で感じていた。精神面、つまり教義による反論を試みる者も多いが、「弱い」といわれる事への直接的な回答にはなっていなかった。なにより開祖は「理論武装しろ」とは言ったが、「裏付け」もまた求めていた。



少林寺拳法の雰囲気
  少林寺拳法全体の雰囲気には、強さに対する渇望が足りないということは日々感じる。それを感じる場は、道場であったり武専であったり、本山合宿であったりする。少林寺拳法では、私が拳法を始める以前に想像された根性論体育会的な空気は皆無で未だに「強くなれ強くなれ、強くなきゃいかん」とケツを叩く人を見たことがない。…まぁ少林寺界にはあまりいない気がする。少林寺拳法においては、強さとは「目的」ではなく「手段」という意味合いが強いからなのかもしれない。しかし世にはケツを叩いてくれる人のいる団体が
(いくらでも)あるので、そのような団体を経験してきた者やそのような実情を知る者であれば現在の少林寺拳法の環境は生温く感じるだろう。そういった立場から「少林寺が弱い」といった言葉が発せられるのかもしれない。

  少林寺拳法では、基本的には「拳法の修行よりも社会生活を大切にする」という傾向が強いこともあり、特に稽古を強いることは少ないように思われる。過去の2ちゃんねるには「強くしてもらうじゃない、強くなるんだよ!!」という名言があったが、やはり人間が環境から受ける影響を大きい、「ケツを叩いてくれるヒト」がいて強くなる上で損は無い。実際その影響か、ケツを叩く人が少ない少林寺拳法には、ビミョーな黒帯・赤卍なんぞいくらでもいる。武専に逝って基本見てれば
思わず身が引き締まる思いがするではないか... Σ(´Д`lll)



修行の目的
  各拳士は道院に様々な目的で来ている。頻度も様々で二週に一度しか来れない多忙な人もいるし、さらに少ない人もいる。でもみんなと楽しそうに、それぞれの目的に応じて稽古していることはご存知の通り。私はこういった少林寺拳法の雰囲気が好きなのだ。人それぞれの目的を包括でき、皆で楽しく修練できる少林寺拳法がとてもとても好きなのだ。


  そもそも武道やってるからといって、強くなきゃいかんのか? なんで強くなきゃいけないんだ? 武道だからか? 結果弱くても、楽しければいいじゃん。楽し〜く趣味としてやっちゃいけないのか? 「強さ」しか語れない奴は、日曜日に河原で草野球やってるパパ達には向かって「そんなんでプロになれると思ってんのかー」とか叫ぶのか? まったく意味がわからん。

  武道以外の世界では「強さ」以外の多くの価値基準があるのに、武道界ではあまりにも「強さ」だけが論じられやすい(まぁ当然だが)。しかし武道というものは趣味としても大変魅力的なものであるということは充分に理解できる。単純に1.技術は面白いし、2.身体操作・感覚が研ぎ澄まされていくのも面白い。各派の3.技術・哲学を学ぶのも面白い。4.比較的安価で5.体さえあれば6.畳一枚のスペースでどこでも出来る。「触り」から「深遠」の人まで幅広く人のニーズを満たせる趣味だと言えるのだろう。ましてや人口の多い少林寺拳法では道院に行けば共通の趣味を持った仲間たちが当然いて、マタ〜リ雰囲気まであるのだから(-_-;)、人が集まるには充分な条件が揃ってる。
  武道界で師範クラスになるためには、多く場合は人の何倍もの稽古を積んだ強い人がなるのが筋だろうから「強さ」に対する意識が人一倍突出しており、それを門下生に(時には必要以上に)押し付けてしまうのかもしれない、と思ってみたりもする。開祖の言葉を用いれば、
(本来の意味と違うが)拳法屋なのかもしれない。

  少林寺拳法にも多様な目的で入門・参坐してくる人がある。強さを求めている人もいるし、健康・美容のためも来ている人もそこそこ、子供の入門に合わせてなんてのもありがちだw。強さではなく「うまさ」を求めている人も多々。最初から「強さ」求めていない人が当然のようにいる。だから「少林寺が弱いと言われるのは仕方ない」のかもしれない。しかし私はこういう皆で続けれる少林寺拳法が大好きだ。



少林寺拳法は三徳を兼備する
  少林寺拳法は「健康増進」「精神修養」「護身練胆」の三徳を兼備する金剛禅宗門の行である。
  私は何度か、「私は少林寺拳法を健康増進が目的でやっている」と言われたことがある。これを意訳すると「私は強さに興味がありません」として差し支えないと私は考えている。この言葉は武専などでも聞くし、さらに黄卍から聞くことまである。皆さんは耳にしたこと無いだろうか? もちろん冗談交じりで話していることもあるが、大抵はマジだ。私にとってこの言葉は最悪だ。こう言われるのは皆ある程度年齢を重ねた方ばかりだが、年食って耄碌したのかと陰口も叩きたくなる。道院長ですら実践できない、しようとしない少林寺拳法の三徳とは何だろう。教範には次のようにある。

  (前略)修行の目的や動機は各々人によって多少異なる所もあろう。或者は保健体育を目的とし、或者は精神修養を考え、又或者は護身錬胆を目的として修行しようと参坐したのであろうが、少林寺拳法が本来人間完成のための行であるのであるから、以上の三つを統合したものであることが修行の目的でなければならない。(後略)(『少林寺拳法教範』「修行の心得、修行目的の確立」より)

  「強さなんてどうでもいい」なんて意味のことを拳士が口にしては決していけないと思う。教義を隠れ蓑にして、「強さ」への努力を怠ってはいけない。拳士は常に三徳を兼備すべく修行に励まなくてはならない。励む気が無いならせめて昇格しないでくれ。そもそもいくら教えがどうこう言っても、世間の少林寺拳法に対する認識は武道団体であることは間違いない。弱くて良い訳が無い。弱くてどうする!?
  若者が「喧嘩に強くなりたい!!」と言って入門してきた時は、どう対応するのだろう。 ぶっちゃけこういう若者は一度ボコボコに張り倒しておいて「でも、力だけじゃぁぁぁいけないぜ!!w( ゚Д゚)w」と言うのが少林寺拳法の味噌ではなかったのか?(もちろん張り倒さないといけないわけではない。これは一例) 張り倒さないにしても力を顕示しつつ拳禅一如・力愛不二の教えを説いていくものではないのか? まさかボコボコにされてから「でも、力だけじゃいけないぜ(´-ω-`)bなんて言うことが出来るのか。その時、「私は健康増進のために来てるから」と言い訳したり、カッパブックスの宣教師みたいに口説くしかないのか。口説けたにしても、どうやって「力愛不二」を教えばいいんのかと問いたい、小一時間問い詰めたい。やはり拳士は強くなくてはならないのではないだろうか。



けんか坊主
  けんか坊主。拳士であれば誰でも聞いたことがある開祖の“あだ名”である。もし開祖がけんか坊主では無くただの喧嘩親父だったなら、開祖の下にあれほど多くの若い力は集わなかっただろう。もし開祖がけんか坊主で無くただの説教坊主だったなら、多くの若者が全国で拳法の普及に奮闘することはなかっただろう。
  けんか坊主が強さ哲学で多くの若者を魅了したからこそ、今日の少林寺拳法の発展があるのではないか。

  「強さなんてどうでもいい」 こんなことを拳士が口にしてはいけない。強さを意識しない拳法の稽古は嘘だ。他者から見てその姿勢はすぐわかってしまうのだ。後輩がそれを見てどんなに情けない思いを抱くか考えて欲しい。そして一部の後輩がすぐに追い抜いて行くだろう。それは後輩を侮っている。自分の処で縁と恩を止めてはいけない。少林寺拳法の教義は牙を抜くためにあるのか。いや、牙を鋭く研ぎつつもこれを堅に治める、これが拳禅一如というものではないのか。

  若い人が「強くなりたい」と入門してきた時、これに答えられる指導者と環境を保たねばならない。そうでなければ、少林寺拳法はただの踊りの集団と言われても仕方ないだろう。もしこのような若者の気持ちに答えることができないのであれば、
少林寺が弱いと言われるのは仕方ない。


【補足】
●「強さ」という言葉をのらりくらり使うと大抵2ちゃんでは、「何の強さだ!!」とか「どんなルールでだ」などの真っ当なレスが付いていちいち説明しなきゃならん場合があるが、この原稿での「強さ」は適当に各人で解釈しておくれ。
●「少林寺が弱い」という言葉は日本語としておかしい。少林寺は戦う主体ではないからである。戦うのは各人つまり拳士である。せめて「少林寺の拳士は激弱・貧弱」とかにしてくれるとうれしい。「強さ」とはあくまで個人に対する評価であり、団体に対する評価ではない。野球やサッカーではないのだ。またその強さとは、戦いの状況(主にルール)によって大きく左右される。これ常識。
●他宗派でいえば道院は寺に相当し、道院長は各「寺」ごとの「長」であるから、住職に相当するらしい。住職が所属宗派の教えをないがしろにしてよい訳がない。そんな宗派早々に潰れてしまうのではあるまいか。道院長=住職なので、鎌倉のお寺などで法衣でも着て「とある宗派の住職です」と言えば、いくつかのお寺はタダで入れてもらえる。(実話)
●「うちの道院は大丈夫」という人がいるが、全体では「ぜんぜん大丈夫ではない」のです。


【参考ページ】
     2ちゃんの煽りに乗りまスタ
     「抜粋版」弱いスレ第二章
     「抜粋版」少林寺が弱いといわれるのは仕方ない





丸廉掲示板より。ご感想ありがとうございました。
3252 名前: まっかちゃん 投稿日: 2004/05/01(土) 12:15
どうも、北海道の拳士です、久しぶりに書き込みます。
「少林寺は弱いといわれるのはしかたない」についてのコラムを見て身が引き締まる思いでした。
自分はどこかで「負けなければいい」というのを「弱くてもいい」と勘違いしていたような気がします。
今後の少林寺が尻つぼみに発展していかないようもう一度修行しなおします。

2102 名前: マシマロ 投稿日: 2004/05/21(金) 19:06
えっと・・・どこに書けばいいか迷ったのですが、とりあえずココに。

>615期生さん
先ほど『少林寺が弱いといわれても仕方ない』拝見しました(遅)!
途中感動して泣きそうになりました・・・。
と同時に、ヤバッと思いました。危機感感じました。
ありがとうございました<(_ _*)>


2ちゃんねる 弱いスレ14

97 名前:がっしゅべる ◆SIHG/6047k [] 投稿日:04/08/12 05:50 ID:rFIThT2t
最近までリトルリーグで小4〜中3まで硬式野球をガンガンやってきた子供のお母さんから相談を受けた
「野球をやめたので、今度は何か武道をさせたいんだけど、○○さんのやっている少林寺拳法はどうかしら...」

正直、自分が付きっ切りで指導してあげれればいいのだがそうもいかない
毎週土日、9時から5時までみっちりやってきた、体力的には申し分のない子である

しかし、今の少林寺拳法にそんなスポーツエリートの子供が入ってきて、その子の期待に答えてあげれるだけの指導のできる人がいるだろうか?
高校生になればウエイトなんかもやっていくべきであるし、成長に合わせて栄養学等の知識も必要(これは今月の会報に載っていたのでほっとした)

もったいないが、自分の出した結論は
「他の武道もいろいろ見学してみて、本人とお母さんがいいと思った武道をさせたら。その上で少林寺拳法を選ぶのであれば、自分が責任を持って指導する」
と言う回答であった。

中にはこういう子供もいるのである
そんな子の受け皿を今の少林寺拳法は持っているだろうか?
その子に自信を持って「少林寺拳法をはじめなさい」って言えるような環境を作ってもらいたい

自分は常々武道だけに限らすスポーツを指導する人は本人もアスリートたれ(少なくともその知識は持て)。と思っている
人格の向上を目指すのは勿論だが、指導者はもっとこういった勉強をすべきである
赤卍レベルは当然のようにウエイト、栄養学、強くなるためのノウハウを持ってくれ


98 名前:がっしゅべる ◆SIHG/6047k [] 投稿日:04/08/12 06:05 ID:rFIThT2t
「少林寺拳法は指導する側も楽しみながらやってますから〜...」
よく耳にするが、反吐が出るな

楽しみながら指導するのは大いに結構
ただ、そういうことを言うのに限って理論ばかりで強さが身についていない指導者が多い
「強くならなくていい、うまくなれ!」
その言葉を曲解し、自分の都合のいいように解釈しすぎると前出のような指導者が出来上がる

まず強くなって、手本が示せるようになって初めて指導者として楽しめるようになるんだ
みんなで仲良く楽しくね〜...って、幼稚園の先生かお前は?

本当の意味で楽しい練習ができるように、そういう指導ができるように汗をかいて頭を使おう

さんざん議論されてきたことであると思うが、改めて思ったので書かせてもらった

2ちゃんねる 弱いすれ17
321 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:04/10/29 19:27:42 ID:H5LQTeKq
http://marukado.net/kenkaboooz.html
マルカドイズムですね。読んで感動しました。涙が出ました。
開祖の気持ちを忘れてはいけないと思いました。
漏れは強い青年・真の勇者になります!!

322 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:04/10/29 21:39:20 ID:ei33wEck
ん?俺は強くなることを諦めてないが?

323 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:04/10/29 22:18:08 ID:wUjAv2eD
あきらめる必要はないよ。技術的に素晴らしいもんあるし、
強くなること意識してがんばれば絶対強くなるっしょ。その場が少ないなら、自分達でやればいい。
まるかどのHPや参加の感想読むと、乱捕りを求めてもそれは別に道にそれてないし、
自由参加形式なら今満足してる拳士にも大きな影響与えることはないと思う。
行として、楽しく、強さもあるみたいな幅広い少林寺作ってこうよ。


メールをいただきました。ありがとうございました(^o^)
  インターネットで拝見し、「少林寺が弱いと言われるのは仕方ない」について、感想を書いてみようと思います。自己紹介をします。私は(中略)、少林寺拳法の修行から離れた今でも、OB会を作り「金は出しても口出すな」のみを会則にして、中・高校生のお世話をしております。

 家伝の武術に加えて、柔剣道、空手など学んで参りましたが、その過程で出会った少林寺拳法は武術として、決して弱くはありません。むしろ、現存するメジャー武道が失った武技の集大成であろうと今でも確信しています。それまで学んだ武技が網羅されて、しかも格段洗練されているのですから、驚きました。

 私は基本技の弐段までですから、たいした修行はしておりませんが、現在の少林寺拳法は武技として当時よりも格段に進化(合理化?)していると思います。これは他流にはないことで、他の武道においては、武技の進化・変革は分派・別派することでのみ許されてきたことから、少林寺拳法の特異性は誇れると思っています。

 表題について言いますと武術集団としての精神的な強さに欠けてきたのかなと思います。少林寺拳法を学ぶ者にとって、「武技の強さ」にまず憧れます。 しかし、現在の在り方では、先生や諸先輩の武技としての強さを目の当たりに実見することは、突発的な事件でもない限り、まず無理でしょう。他の武道では実際に当てる、倒されることから、憧憬を得て、「強くなりたい、強くなれる」を実感しながら、修行するわけですから、ここがまず大切なところだと思うのです。私の入門当初は、実に荒かったですから、まだこの部分が残っておりました。修行を始める時点で「強いんだ!強くなれるんだ!」と思うことが無いのではないかと思います。また、当時の拳士は、社会的にも、まさに行動する少林寺でありましたから、事件も数多くありましたが、実感として凄い集団、強い武術と思えたのです。

 また、武技の稽古という点からみますと少林寺拳法は三法を修行するわけですから、投げるだけ・突いたり蹴ったりだけの武道に比すると大学生以外ではひとつひとつの絶対稽古量がどうしても劣りますし、基礎体力も技の伝授に集中するため、自主トレに依存することになりますから、ひとりひとりの基礎体力は我流の自主トレで効果なしの場合が殆どか、自主トレしないで頭の技のみが増幅する結果になっているように思います。これは、綿密なカリキュラムと単位制をとっているためにひとつを完全習得しないままに次の技に入ってしまうという点にあるのではないかと思います。このあたりから、武技についてのひとりひとりの自信の無さから、「弱い」といわれても反論できずに「少林寺が弱いと言われるのは仕方ないです」に至のでは無いでしょうか。

 よく喧嘩と武道は違うといいますが、そんなことはなくて、全く一緒です。武道をやっていれば必ず喧嘩も強いのです。少林寺拳法は万能ですから、全く強いです。道場では教えてくれませんが、教範には全て網羅されております。「サンドバックの作り方」「つばを吐きかける」「顔を赤くしたり、青くしたりして攪乱する」喧嘩で弱いわけがない。用法が違うだけなのですが、その辺を今の先生方は社会事情もあって教えることを躊躇っているのではないでしょうか。

 とりとめもなく書きましたが、他の武道からもし揶揄された場合、「やったろうじゃないか!」といって懐に合口もって行く覚悟があれば、「少林寺が弱いと言われるのは仕方ない」なんてことにはならないです。昔の気骨ある少林寺拳法拳士の復活を期待してやみません。(2004/9/2)


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