また私の日記(備忘録)から転載。正しいかどうかは知らね。 |
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「百尺の竿頭に至ったら、そっから一歩出ろ、ボケ!!」(意訳) 百尺竿頭てのは百尺(30mくらい)の竹竿の上までよじ登った状態だ。高い高い竹の「頂点」に登り着いたら弟子に師匠は諭す、「さらに一歩進めと」。もちろん進むと、、、落ちるという罠。だって既に頂点でっせあんた。30mの高さから落ちたら死にますがな。生きとってもただじゃすまん。それでも進めと道元はいう。「落ちたら死ぬ、命あってこその悟りじゃわん!!」などと屁理屈こくな(小賢しい)と道元は言い放つ。 元々これは別に逸話があり、そこにはこうある。
前半、「竹の天辺で微動だにしない奴がおる。あんなとこで立ってるんだから、きっと大した奴なのだろ。でもまぁ、うん、ええ、まだまだやね。」と。 んで後半の『百尺竿頭、須ク歩ヲ進ムベシ。十方ノ世界、是レ全身』これこれ。「もう一歩出んかい!! 歩を進められたら、世界はすべておまいのもんや!!」と言うとる。竹の先からジャンプしたら、世界はすべておまいのもの!! なんという痛々しい発言。まるで窪塚洋介。 まま、ここで言う「高い高い竹」とは先人が積み上げてきた仕事のことだ(と思う)。つまり、 先人の技術はすげぇぇぇぇ。 ヽ(A`*)ノ でも師匠はいう。「私を超えるべし」と。 先人を超えて、更に一歩歩み出せば、ジャンプできれば、そこはみんなみんなおまえの世界。一歩踏み出した、先人から離れたのだ。いわゆる出藍の誉れ。 如何なる天才もやはり個人。先人の偉業なくして一個人では何もできない。柳宗悦は優れた仕事は超個人の仕事、個人を超えた複数の個人による仕事と書いていた。一歩進めるか三歩進めるかという違いはあるかもしれない。しかし人は独立独歩というわけではない。完全なる我流というものがあるだろうか。人は誰しも生まれながらにして、知らず知らずのうちに竹を登っているのかもしれない。 コップの水を別のコップに移す。また移す。これを繰り返すといつか水は無くなってしまう。すべての水は移しきれないものだ。不立文字ということを知れば、伝わる情報量は代々目減りすることが分かる。だから必ず何か自分の要素を加えて次世代に手渡すことが必要になる。これが「離」を必要とする理由だろう。すべての水は移しきれないものだ。だから次に水を移すとき、ちょっとだけ水を加えてから移そうじゃないか。 「離」はいつか到達できればいいなぁという趣のものではない。受け継いだものを発展させるのは弟子の務めだ。停滞は後退に等しい。 「離」は山から離れた山の上。この離れたというイメージが今日はバチバチーー☆と繋がった。破るも結構いい感じだ。 むふふふふ ぐふふふふふ
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