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三崎敏夫 先生

当時開祖に名文と言わせた有名な文章です。


「風格のある演武」三崎敏夫

新聞『少林寺拳法』 昭和41年1月10日号

(一)
  人の心程移り気なものはない、あれを考え、これを考え、常に散り易いものである。又今日程これが激しい時代はないであろう。
  これを修行することによって纏めるのが精神統一である。然らばどうしてこのうつり気な心を纏めるか。修行の方法には滝にうたれて思念するものや或は苦行するもの、その他楽行するものいろいろあるであろうが、少林寺拳法程最高に適切なものは他にないであろう。それは心と肉体とが同時に修行できるからである。日本に於ける少林寺の名声は、此の広く且つ深い精神内容と高度な技術、これが今日の少林寺拳法を作り上げたのである。
  三祖僧粲大師も「動中の功は静中の功に百千倍する」と説かれている様に、少林寺では此の精神統一を拳法という技によって錬磨する。幾千回幾万回錬りに錬り心の散らない一事集中の修行をするのである。これ程烈しい、これ程確かな人格修行はないと申してよかろう。
  我々は社会人である、又すぐにも巣立って行かなければならない人達である。修行したことが、即社会に、亦日常の生活に役立つものでなければ、やっていることが大きな無駄である。社会が求めている人間になることが最も必要なことである。強くなることも大切なことの一つではあるが、少林寺拳法に於ては、これは氷山の一角に過ぎない。社会人としての要素はこれだけであってはならない。正しい自己を確立することである。
  このことが理解された人の行う拳法は、実に気品のあふれた拳法になる、真に正しい立派な風格のある拳法を演錬したいものである。

(二)
  拳法は「礼に始まって礼に終る」と云われるが礼儀を離れて気品はない、如何に乱捕だけに終始しても気品は生れないものである。然らば気品とはどんなものであるかと云われると容易に謂いあらわし難い、気を花に譬(たと)うれば気品はその薫りのようなものではあるまいか、気品は正しい心澄んだ気から自然に発する得もいわれぬ気高さにある、三味の境地、無念無想の境地に這りこんだ時ほど気品あるものはない。
  徒に勝敗に拘泥する時は品が悪くなる。私心邪念にとらわれて、稽古に無理があるから、自然に気品が添わないのである。そして相手を騙すことばかり覚えるものである。心も形も共に正しく互に相たすけるのでなければ、真に正しい立派な拳、気品のある風格をそなえた演武は出来ないものである。「心正しければ、拳亦正し」というのも此の意味に外ならないのである。
  この気品のある拳法を修得する近道は先ず基本「かた」を充分にこなす様練習することである。即ち少林寺拳法の形は各種の技法を通じて、霊肉一如、自他共栄、心形一致の妙境に達せしめんがための「みち」である。真剣なる組演武を見ていると本当に自分の心がすいこまれて行く様な気持になるものである。又真の形を修行して見ると乱げいこと異った特殊な境地が見つかり又拳法としての直接の目的以外に一種の芸術的感激さえ覚えてくるものである。
  想うに格斗技が出来上る以前にあっては、心体手足の使用法は、すこぶる幼稚であって、いたずらに体力に任せて手を振り足を上げていたというに過ぎなかったであろう。これが必然的な要求の結果として心体手足を如何に使用すれば最も効果があるかということが考えられて遂にはその運用法を生ずるに至ったものである。現在使用されている形が成立される迄には祖師以来幾多の古人先輩が又名人といわれる人々が命を捨て、骨身をけずり血をながして得た血と涙の結晶である。「前者の過ちは後者への試」労少なく功大ならしめる為に、自然の理法に従った無駄の無い立派な形が出来上ったのである。
  勿論日本に於ける少林寺拳法は宗師家の労苦によって今日の様な高度なレベルになったことはいう迄もない。故に基本形を充分演錬せずして初心のうちより乱げいこのみに終始することは過ちの第一歩である。例えば土台や基礎の悪い所に家を建てるのと同様で砂地の上に、どんな立派な材木を使い、名工の手にかけて建ててもすぐ崩れてしまうが、土台がしっかりしていれば少々古材を使って建ても曲らず崩れず立派に家は建つものである。
  形演練の時に注意しなければならないことは、攻撃するものが正確でなければ、その形も不正確な、くずれた無意味なものとなってくる。攻者と防者は自他共に一体とならなければ立派な形は生れない。一方が如何に上手であっても攻者と防者が別々の感じで動作をしては、何にもならない。互に助け合い補足しあって形を演錬しなければ両者共に上達はしないものである。此の両者は一体となり打てば響き、叫べば応ずる木霊の如く両者の心と心との間には、目に見えない綱がたゆまずピーンと張られ、一方の意志は、以心伝心他方に通ずる様にならなければならない。
  攻者は、突蹴を以て攻撃する場合に心の内で防禦側の構えを窺い何処かに隙はないかと心を配り防禦側の構えをよく見て、遂に約束通り全力を以て攻撃をする。防者は何処から攻撃の突蹴が来ても充分に防ぎ又反撃に応じられる様に準備して後攻撃して来た突蹴を防ぎ反撃する。形は約束に従って一定の形式と順序を踏むものであることは云う迄もない。が然しその他に隙あらば猛然と攻撃すべし、そのうち自然と真の演武に近ずくことが出来るものである。
   樗山子の「天狗芸術論」に「芸術は修錬を要す、事和せず、気和せざれば形従わず、心と形と二つになって自在をなすこと能わず」といっている内に働くものが生気とぼしく形式的技術が巧妙と云うだけでは、形を活用することは出来得ないのである。常に内に働くものが自由自在、生気発らつとして活きた形でなくては乱捕にも、いかすことは出来ないものである。(次号に続く)

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新聞『少林寺拳法』 昭和41年4月1日号号
(三)
 (中略)
  最初私が拳法を始めた時にもそうであった。先輩の先生方がやっておられる様な見事な演武が私にも出来るのか思った。然し又出来れば素晴しいものだとも感じたものである。恐らくどの拳士諸君もそうであると思うが、拳士の大多数は皆この演武のもつ、あやなる雰囲気と素晴しい技術に魅了されて入ったものが多いと思う。あの飛燕の様な早さ、流れる様な美しさ剛快なうごき、正に一服の名画を見る感じがするのである。
  がさて新しく入って練習を始めて見ると分るが、自分の手や足、自分の五体、我が五体であるから自由自在に動かすことが出来る筈であると思うのに、なかなか思うようにはならないものである。円滑融通無礙玄如神速思いのままに演武することなどはどうして容易に出来るものではない。
  練習をしていると次第に自分の身体が我がものであって、実は我がものでないのだと気がつく、そして我がものとするまでには、かなりの時間がかかるものである。我が手足、我が四肢五体でありながら修練工夫を積まなければ我が思いのままに動かぬと同様に、我が心も亦容易に我が思いのままにはならないものである。
  人の一生は、その人の心のあり方によって決まるといわれている。少林寺の教えの中には管長先生の示された大道がある。この道の中には、宗教あり、哲学あり、倫理あり、道徳あり宇宙及世界の動きがある。その中に又政治もあれば経済のうごきもある長上に対する道、同輩に対する道、後輩に対する道、そして正しい力を得る拳法がある。こんな立派な修養道は他にその例を見ないものである。古代の仏像や壁画を見るとき、道を悟る一手段としての、体の運用を表わした仏像や壁画を見ることが出来る。中には武器を持ったもの迄ある.昔中国に古きを尋ねて、新しきを知るという言葉があるようだが、この少林寺拳法は、まさにその言葉の通りである。少林寺に於てはこの道を通じて正しい人間形成を又社会で役に立つ人々を送り出しているのである。本人にとってはプライドであり、社会生活をする上に最も必要なことでもある。「力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は暴力なり」
  昨年だったと思うがNHKの「世界の旅」に出た或印度の一家庭の中に主人が三年間お寺に入って修行するというのがあった。その間の留守を、けなげに一人の娘が働いて、家族全体を守るという場面があったが、南方の仏教国に行くとこういうふうにして国民の大部分が修行するという、日本の国もそうありたいものと思う。話か大分それたようであるがこのことはまた原稿を改めて述べて見たいと思う。
改行は管理人が数箇所入れさせていただきました。



中略していない文章と、大きな写真。 fuukakunoaluenbu.zip(zip圧縮 350kbほど)

【関連】 下手くそな、演武

 『されば常に木太刀をもって修練の巧を積み、その上面小手等を用ひ互いに革刀を持て「法形の非打」と唱へ、定式の遣ひ方に鈍く隙あれば打太刀より、その非を打つなり。當流十世酒井信文師の遺書に曰く、今より100年以前(文政八年)までは、此守行(しゅぎょう)のみにて上手になりたり。気強き人は、面小手なしに木刀にて法形の非を入れたりと。故に一心少しも油断ならず。油断すれば木刀にて素面素肌を打たれ、怪我することもあり、恰も眞劍の勝負に近し。故に自然と上手名人も出来たるなり。百年以来太平の世となり、諸士勇薄くなるに従ひ、面小手革刀を始めたり。胴を用ふるは文政八年乙酉年より四十年以来なり。信文師鎗の修行始めたる時時分は面に装束せるのみにて月代と耳より後は素肌なり、故に敵を見るの外少しも脇見することならざるなり。その頃の稽古は専ら心氣の据り、敵の素槍の閃くに驚き恐れざる處の修行のみを第一になせり。今の人は法形を見事に使はんとし、入身仕合になれば見事なる受けはづしの業のみ心懸くる、之を古人は化粧武藝と云ひて捨て足り。心氣の動かざる處を日夜に修行すれば、早く穢い汚き心退散し、上達も亦速やかなり。是を眞の武士の守行とす。心氣不動の位に至れば眞劍の場と雖も、少しも心臆すること有るべからず。然るに今の士は、非打を打つに非ずなどと曲解し自分相手にあらざるも自刃を持って働く處へは心怯れて近寄ることを好まざるが如きは、是れ全く一心り劍錆て磨かざるが故なり。省みざるべけんや。』昭和九年のとある本から。


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