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少林寺拳法グループ連携協議会総裁 宗由貴

私たちが「ジコ虫」になってどうする
(2001 月刊誌少林寺拳法 掲載)

「ママ、あれな〜に?」
  9月初旬のまだ暑い羽田空港の到着ロビーでのこと。遅いお盆休みなのか、大きなスーツケースやお土産袋など、託送した荷物をターンテーブルから受け取って出てくる人たちがとても多い日だった。実家に帰省していたらしい奥さんと子どもを迎えにきていた男性が、「パパー」と大きな声で父親を呼びながら走り出てきた娘を、思いっ切り抱き締めている姿。孫を迎えにきたおばあちゃんが、出てきた孫に駆け寄る姿。そんなほほえましい光景がいっぱいの到着ロビーに、何やら違った雰囲気の大学生らしい集団が大きなバッグを提げて出てきた。ロビーに出てきたところの自動ドアのすぐ横に、一人、二人、三人と並んでいく……あっという間に3列に整列、前に立った一人が列に向かって何やら指示している。次々と自動ドアから出てくる人たちが、「何だ?あいつら」、と言わんばかりの冷ややかな面持ちで通って行った。
  「少林寺拳法部じゃなきゃいいけど……」と思ったとたんだった。あとから出てきた中年の男性二人が列に近づいたとたん、「礼!!」という号令とともに合掌礼。それから延々と続く、監督らしき人の話の合間に、学生の大きな気合いのような返事が頻繁に繰り返され、周囲の人たちがだんだんと遠ざかり、あとから出てくる一般の人たちもそのドアを避け、隣のドアから出てくるようになっていた。   そのとき4歳くらいの女の子が「ママ、あれな〜に?」と立ち止まり、学生たちを指さして聞いた。「危ないからこっちおいで〜」と、その母親は慌てて女の子の手を取りその場から離れて行った。
  青少年育成、社会貢献、少林寺は教育的要素が……、それぞれ聞き慣れ、言い慣れた言葉だけれど、言葉に羽根が生え、どこかに飛んでいく……といった光景だった。何かあると、「まあ、学生のすることだから……」と、そのくらいのことに目くじら立てなくてもと言わんばかりの人もいる。
  が、はたしてそうだろうか。

少林寺は何を教えようとしているのか
  ずいぷんと以前から、高校生が大会の表彰式などで、叫ぶように声を張り上げ「シツレイシマッス!」と表彰台に歩み寄り、「アリガトウゴザイマシタッ!」、と賞状を受け取る姿に、私は疑問を感じていた。
  これでもか!というような張り上げる声を聞いて、ほんとうに喜んでいるようにも思えないし、そんな心に届かない挨拶されてもこちらも嬉しくない。事あるごとに「礼儀正しさって何だろうね」「挨拶は心がこもっていてはじめて挨拶でしょう」と、高校生や大学生拳士に問いかけてきたが、そういうふうに指導している指導者本人が気づかないかぎり変わらない。組織にいると何かにつけてセレモニーをすることで「それらしさ」を味わおうとしたり、帰属意識を高めるために意識的に統一行動をすることはある。先に触れた羽田空港の、一件も同じで、整列することや挨拶することがおかしいわけではない。「こんなところでいやだな」「恥ずかしい」と感じている学生もいただろう。
  しかし、公共の場での自分たちの行動が、周囲にどう影響を与えるか与えないかもまったく考えず、指導的立場の中年のおじさんが独自の世界に入りこんでいるとしたら、それは異常だ。
  自己中心的、自分勝手な人のことを指して「ジコ虫」という新語が生まれ、それを問題視する広告まで街中に出回る現代、ごく一部とはいえ、独善的な集団行動をさせる少林寺とは何なのか。
  そして日常生活の中で人間関係の第一歩としての挨拶や会話ができない子どもたちが多いといわれる中で、「挨拶は元気よく」が「叫び声」として教育されていくのはなぜか。
  些細なことに見えるこれらの現象を見過ごし放置すれば、積み重なってやがて大きな問題となる。少林寺は何を教えようとしているのか……。「ジコ虫」と「自他共楽」は両極にある。今こそ少林寺拳法の出番! と言いたいのに、私たちがジコ虫になってどうする。

すごくもったいない
  考えてみれば、なかなか言うこと聞かず精神的にもろいといわれる今の若い世代に、それだけ影響を与え動かしてしまう力を持っているのだから、指導者自身が少林寺気分を味わうことに終始せず、社会に出てから役に立つ教育を心がければ、効果はすぐにでも出そうに思うが……。
 すごくもったいない!


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