何ができて、何ができないのか。 |
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あるサイトの文章を読んで、それを題材に日記を書いている方がいた。以下日記で引用されていた箇所、のさらに一部。 (前略) ■1.動物には「おばあさん」はいない■ 「おばあさん」がいるのは人間だけ、他の動物はすべて出産可能年齢を過ぎると、まもなく死んでしまう。だから「おばあさん」がいるのは人間だけなのである。 進化的に見ると、「おばあさん」がいるというのは、きわめて不思議な現象である。ところが進化の最も進んだ人類にのみ「おばあさん」がいる。という事は、「あばあさん」の存在が人類という種の存続に何か大きな役割を果たしているのではないか、と一部の進化学者は考えるのである。 国際派日本人養成講座より (後略) 〜この後、しばらくして仏教の話になる〜 615期生のコメント 以前もお伝えしたかも知れませんが、私の中では生物学と仏教は共通点が多いのです。これは仏教が無理をしないからだと思います。 生物学には「niche、生態学的地位」という言葉があります。ものすごく簡単に言えば、捕食者・被捕食者という意味で見てください。つまり生物にはそれぞれふさわしい地位があるのです。実は弱肉強食という有名な生物用語がありますが、あれは凡てを表していません。強度に差があります。一般的なイメージでは強いもの=捕食者、弱者=非捕食者だと思いますが、これは誤りです。もちろんこのような意味もあるのですがきわめて狭い一面です。もっと重要なことは共通の資源(食べ物や生息地)を巡って「競争」が起こることです。そして多くの場合はこれは似た生態をもつもの同士で起こります。例えば、草食動物同士です。草食動物は肉食動物とも他の草食動物とも弱肉強食の世界で競争しているのです。そしてこの競争を回避するために自然界には「棲み分け」「喰い分け」という現象が見られます。これらは「競争」を軽減させるためのしくみです。 世には自分の地位、自分が必要とされている地位というものがあり、それが世間的にみて弱いとか意味が無いといわれる地位で、非捕食者であれ出産性のないお婆さんであれ、実は自然界は総じてそれを生かすものです。自然界では空きがあればかならずそこに収まる生物が出てくるものだと思います。それはそこにnicheがあるからです。 弱肉強食の対象となるのは、自分のnicheを見誤った者や果敢にチャレンジしたが破れた者です。これは自然界でも社会でもあることです。 現代社会では、何か優れた能力がなければ生きてる価値が無いみたいなことをいわれる節がありますが私はそうは思いません。目立つ者もいるし、目立たない者も必要です。片方だけでは結局社会が成り立ちません。これは白蓮という言葉に例えられます。白蓮というのは泥の中に咲く一輪の花です。しかし白蓮が美しいのは周りの泥があるからです。とするならば泥もまた必要となります。こういう観点から仏教は廓然無聖といったり、不二観といってみたりします。仏教では「病むもまたよし」と言うくらい、世間的にネガティブ要因といわれるものすら直視しそして受け入れ、それも「またよし」とします。これは自然の摂理に対して逆らわないということです(無理をしない、我を通さない)。そしてそういうものにも、「生きていることが救い」といいます。 かつての日本人は貧しくとも卑しくなかったと聞きますが、それはよい意味で、自分のnicheを知っていたのでは無いでしょうか。目立たない、日の当たらない様な職業であっても誰かがやらなくてはならない、社会には必要であり、そして自分は社会の、誰かのお役に立っている、そういう人生観であったのではないでしょうか。 生物学的には不要なばーちゃんも、社会には必要だというのは誰でも実感でわかることです。そういう需要とnicheがありそこにばーさんがスルリと入り込んでそのnicheを得たのだと思います。そこに地位があった、それはつまり必要とされたということであり、「生きていることが救い」という仏教観はここから来るものだと思います。 |
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【参考・関連】なぜ乱捕りをするのか niche2(昔から書いてたもの。長くてつらい) |
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