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また何故しないといけないのか。


 何故と言われても様々な側面があるでしょう。まぁ適当に分けてこんな感じかなと。
  • 第一章 技術的な理由
    実際の自由攻防には必須な合いや先などの勘を養うため。基本稽古や法形演練にフィードバックされる。
  • 第二章 精神的な理由
    フィードバックできればモチベーションが俄然あがる。
  • 第三章 現実的な理由
    自分の程度が実感できる。何ができて、何ができないのかを知るため。時には自信も養われる。
  • 第四章 それは若さゆえ
    615期生、まだまだピチピチです。

    追記
  • 第五章 禅宗としての理由

なぜ乱捕りをするのか
第一章技術的な理由

  およそ格闘という面に眼を向けた場合、その瞬間瞬間に次の三つの要素が必要となるります。
  1. 見る
  2. 判断する
  3. 動く
  「見る」とは目付けや目配りのこと。相手の動きや呼吸、また心境を観ることを意味します。単純にいえば、突が来るのか蹴が来るのかを見るということです。
 「判断する」
とは「見る」ことによって得られた情報に対する判断のこと。向かって来るのが突なのか蹴なのか、直線か曲線か、上段か中段か、これら適切にを判断しどのように対処するか。これが判断。
 「動く」
とは「判断」結果の行動のことですね。受けるなりさばくなり、反攻なり等々。これらはそれぞれ一つが突出して優れていても、一つでも欠落していると格闘はできないでしょう。

  さて、ではこれら「見る」「判断する」「動く」はそれぞれどのように練磨されるべきものでしょうか。特に基本と法形の質はかなり分かれると思います。本ページの趣旨からして乱捕りと演武に注目しますが、現在の演武(主に競技演武)を対象とし場合、私は以下のように判断します。(ご自身でも入れてみてください)

基本 法形 乱捕り 演武
見る  
判断する  
動く  
規定した演武では、「見る」「判断する」は養われいだろう。
私の場合は乱捕りでは運動量少ないから体練ると称して
動く稽古は基本や法形でやろうとしている節がある。
Oo。.(´-`)

  演武では演武大会の迅い動きが話題になるように、身体能力自体は十分に鍛えられる要素があります。しかし攻守ともに内容が決まっているので
格闘としての「見る」「判断する」が鍛えられているとはいえません。

 個々の法形はものすごーくうまくても「強いかどうかは別問題」ということをちゃんと理解しておかないと危険です。もう一回書きますが、これら「見る」「判断する」「動く」は一つでも欠落したら格闘できません。わんわん君がよく吠えてるでしょ、「踊りの大会で優勝したからって強いと思ったら大間違いじゃU゚Д゚Uて。これなんかは「見る」もしくは「判断力」が養われてないてことです。これらは瞬間的に行われなければ意味がありません。静的な眼力・判断力の話ではないのです。そして乱捕りではなかなか体が思うように動かないのです。でもこれが現実です。故に体を作るために多くの者が基本に返っていくのです。
(腕を捕まれた) ━(A)>逆小手
(腕を捕まれた) ━(B)>送小手
(腕を捕まれた) ━(C)>切小手
(腕を捕まれた) ━(D)>十字小手
(腕を捕まれた) ━(E)>小手巻返
(腕を捕まれた) ━(F)>巻小手

etc.....

うまく使い分けれるかどうかは別の話
個々は十分にできるようになったが…
 
 しかも、判断を要する場所は、何度も、様々なタイミングで来るもの。

●拳士は如何にて「見る目」と「判断力」養うべきなのか?
 【関連・参考】法形の組み合わせ


なぜ乱捕りをするのか
第二章 精神的な理由
  一つに基本・法形稽古のモチベーションを上げるため。乱捕り稽古をある程度すると基本・法形演練の中身が間違いなく変わります。フィードバックが起こり、基本が単純作業から鍛錬になります。乱捕り稽古は料理に入れるスパイスのようなものでしょうか。ちょっと入れるだけで違います。やればわかる。やらないとわからない。

 次に大切な点として胆力養成とでも言いましょうか。少林寺拳法の三徳では「護身錬」であり、錬鍛とは書かないことに要注意。
 成長過程には連続と不連続があります。単純に分けて言うて肉体は日々徐々に変化していきます、つまり連続。しかし精神はより段階的に上がっていきます、つまり不連続。下のグラフ参照、気を利かせて上がりっぱなしです。この不連続な精神的な成長過程には、それなりの刺激・切欠が必要ではないでしょうか。

   

 刺激の元は些細な気付きでしょう。拳法で言えば初めて先輩に突を入れたとか、蹴った感触が今までにないほどよかったとか「あれ!? 俺結構いけるんじゃね?」と思う瞬間がたまにありますが、これらです。後輩が自信をつけた事で急に上手くなったという経験ないでしょうか。物理的には激変が有った訳でも無いのに、気持ちのちょっとした変化で結果に大きく変化がつくことは、拳法以外でも皆さんがよく体験されていることだと思います。

 自由攻防の中でできるようになったことというのは大変な自信につながります。アリガト!(´▽`)に私の私感をもりもりと書きました。私はこのページで以下のように書きました。どうだ、うらやましいだろう!!

  前述のとおり今回相手をしていただいて、させていただいて、少しですが、自信が養われた気がします。イメージとしては「とても小さいですがとても強固」な自信です。こういうものを日々積み重ねていって自己確立を目指すものなのだなと改めて思い知るに至りました。たくさんのボロが露呈してよかった。 アリガト!(´▽`)
  乱捕りしてない人は可愛そうだ!! わからんだろうな、この充実感。たった今、自分が、この瞬間!! 間違いなく強くなったと分かる瞬間というものがある。ほんの僅かだが、間違いなく自分が強くなったと自信を持って言える瞬間というものがある。なんとなく強くなったかな!? なんてもんじゃない、自分が間違いなく変わった、成長したと思える瞬間。とんでもない快感ですよ。

 禅の世界にも、「漸悟」と「頓悟」という言葉がありますが(教範にも載ってます) 、これらもそれぞれ連続と不連続とほぼ対応します。易筋行たる少林寺拳法では、主に漸悟に注目され頓悟がやや軽視されていますが、頓悟も厳しい修行の結果導かれるものであって、寝っころがってボーとしてたらある日悟れるというものではありません。このような精神的成長過程を考慮して昔の人は、「三日で活目せい」と言うたではないかと思います。三日間の肉体的・物理的成長なんて期待できませんよね?
●胆力を養おう、活目しよう!!
【関連・参考】微分してゼロ

 乱捕りが予想通りに上手くいかない、これも大切な刺激です。



なぜ乱捕りをするのか
第三章現実的な理由

  乱捕りをすると自分の
できること、できないことが明確になるります。特にできないこと、よろしく無い点がまざまざと実感できます。逃げたあかん。できないことがわかる、素晴らしいことじゃないか。できるのかできないのか、わからないよりよっぽどまし。ソクラテスの言葉を思い出せ!!

  私はまったく偽り無く、「(何が何でも)拳法やってるからて強くないとあかん」とは思ってないです。別に弱くてもてもええやんとも思ってます。草野球やってるおっちゃんに「プロ目指さないなら野球なんか止めろ」と叫ぶほどキモく無いです。武道を嗜む者は必ず最強を目指せ、なんて痛い事は考えてませんがな。
 まぁ指導者は例外ね、最強はいいとしてもやっぱ弱かったら絶対あかん。また如是我聞「指導者とて一修行者であることを忘れてはいけない。」
  弱くてもいいと思ってる、弱くても、弱くても、、、でも
弱いの知らんのは絶対あかん!!と思っています。自分の強さがどの程度がちゃんとわかってるなら弱くてもまだオッケという条件が必要だ!!と考えてるわけです。2ちゃんなどの掲示板では、「乱捕りやって強くなろう!!」という意見が多いですが、私は「乱捕りをやって自分を知ろう!!」という方が先だと思います。
 少林寺拳法て護身でしょ? できることできないことがわからなくて何が護身かと。これは後輩にはちゃんと教えないと駄目ではないでしょうか。「おまえはこんなに弱い、喧嘩の仲裁なんて中途半端にすんなよ」くらい言うたらんと、危険ではないかな? 自分が弱いと思う、至らないと思うから危険なとこには近づかないのではないですか。自分が泳げないと知ってたら水には入らないでしょう。指導者はちゃんと教えてあげて下さいな、「おまえ泳げないよ」(畳水練)。これ教えない指導者なんて不誠実極まりない。護身術と謳うならここら辺は厳しく教えてあげないと。「君子危うきに近寄らず」というのが本当に分かったら、たとえ弱くっても護身のいくらかは見に付いたってことにはなりませんか?
  「弱い」「弱い」て連呼して悪いけどさっ!! 女子供はどうすんの!! 女性が男性に勝とうと思ったら並大抵ちゃいまっせ。いやいや、勝たんでもええねん、負けんかったらったらて言うけどさ、それだって現実問題えれー大変なことは道場で練習してたらわかるでしょ!? んで自分に照らし合わせてみたらどうなん?と。私だってそうや。世の中、強い奴て何ぼでもおんねんもん。しかも、何処にでもいるんやもん!! 妄想で身を滅ぼしたないやん!?
 乱捕りやったこと無い人にはっきり言っとく、「ちょっとくらい…」。そんなもん無い、「ちょっとも、どうもならん」ていう相手が世の中五万といるから妄想したらあかん!! 乱捕りをたまにでもやってると、初期はまず
「あいつは俺より強い」「あいつは俺より弱い」てのをまず実感しますわな。んでね、またずっとやっていくとそのうち「こいつは俺より強いけどあいつほどじゃないな」とか、単純に自分を基準とした上下じゃなくて「自分より上(下)」の中でも更にランク付けが出来るようになってきます。そしたら、占めたもんよ!! とりあえず、自分の「強さ(弱さ)」てのがだいぶ客観的にわかって来る、それが正確かどうかは知らんけどね、なんか見えてくんのよ。これなかなかおもしろい。ちなみに丸廉内では十分割したら、私は下から三つ目四つ目くらいの強さだと思います。
 んで、他にも慣れてくれば、「こいつ俺より弱いけど、コレコレは上手いなぁ。もらっとこっ」とかなってくるしー。強弱決するために乱捕りやってるわけじゃなんいよ。むかーし、NHKでタヌキの生態を放送してましたが、タヌキは子供の内に兄弟で喧嘩して、兄弟間で順位が決まってしまうやって。大人になってから喧嘩すると殺し合いになるから子供のうちにするとかなんとか。うまくできてるのーと幼心に感心しました。

  乱捕りやったら自分の実力わかる。「あぁ、俺ってこんなにできないんや…」てね。でもねやってみると予想してないとこでできることがあったりするんです。またできなかったことができるようになってきます
(微分してゼロ)。それがおもろいねん。
 F1じゃなきゃ車にあらず、という人はいないと思いますが、軽自動車では勝てないよ、やっぱし。

615期生の考え
●弱くってもいい。 除、指導者
自分の実力のは知らんのはピーンチ。どんな護身術だ!?
【関連・参考】niche niche2


なぜ乱捕りをするのか
第四章 それは若さゆえ
 大半を削除w 一番長くなりました。後で読み直してこっ恥ずかしくなっので削除。
 「一眼二足〜で目的と手段という視点で『拳法は手段』とかきましたが、若い者にとっては「拳法が目的」とでも言いましょうか、ただ単純に、むしょーに乱捕りをしたくなる時があるんです。

  「乱捕りがしたい、乱捕りがしたい、乱捕りがしたい、
      理由はないけど無性に乱捕りがしたい〜」
ムラムラヽ(`Д´)ノ

て感じです。野菜が体にいいのは知ってます。野菜だって食べてます。でもね、肉が食べたいんです。理屈じゃないの、肉じゃなきゃだめなの。肉が食いたいの。
 わかるかな、おじちゃんたちに。周りにそういう若者がいたら、サクッとしばいてあげて下さい。


第五章 禅宗としての理由
 禅は自己の経験を何よりも重んじます。自分で触れたものを信じます。言葉で伝えられるものは主に法形でやります。しかしどうしても最後は自分でやってみないと掴めないものがあります。それを乱捕りで掴みたいのです。
 自ら得たものはたとえ小さくとも、それが他者からみてどんなに平凡なものであってもあなた自身にとっては大変な力がありその得られたものには生命がある。そして何よりも尊い。誰のものでもない、自らのものを得るために乱捕りしなきゃいけないんです。



●おわりに〜
  昔、2ちゃんねるにこんな風な書き込みがありました。

先生に、「乱捕りはどのようにやるんですか?」と尋ねたら、
「乱捕りてのはな、ああやって、こうやって、フンッてやって、ズガガてやってズドドドド…トリャッてやるんだよ!!」
先生、音ばっかりです。でも乱捕りを言葉で説明することの難しさがよくわかりました。

  言葉で説明できるような事は、既に基本や法形に大体が含まれていると考えていいと思います。形稽古だけでは決して得ることの出来ない部分が拳法にはあり、それを学ぶための稽古方法の一つが乱捕りだからです。乱捕りは「乱れを捕る」と書きます。言葉で説明できない部分は、自分で体験して、自分で掴むしかない、だから乱捕り稽古があるのです。教えられることはヒントでしかありません。
  あえて区別をすると、法形演練は形式知を得るために、乱捕り稽古は暗黙知を得る為にあるともいえるかもしれません。世を見回してみて、形式知だけでうまく行くことはありません。(自転車・水泳・料理etc)

 毒を吐きますが、「俺の演武(支部)は違う!!」というような人もいるとは思いますが、今は平均的な話をしているつもりですからそこんとこよろしく!! 古い先生方に聞くと、過去の演武は連反攻など自由等、不定要素が混在していました。ですから演武が最後まで続か無いこともよくあったということです(片方が落ちるから)。このような演武の形に疑問をもたれる方もいるかもしれませんがこれはこれで一つの演武として行われてきたということでここでは閉じます。
  最後にこのように見るとまるで演武の評価があまりに低いと感じた方もいるかと思います。しかしここでは格闘という面に注目しています。そこを再度確認したうえで演武の意義をもっと広く考えていただければと思います。


 とまあ、こんな具合に乱捕りする理由のはいくらでも見つかります。
  乱捕り稽古と乱捕り試合の区別が付かない拳士がいる。勝負事を極端に嫌う拳士がいる。2ちゃんでは、勝負を嫌う人の方が勝敗に拘っているのではないか、という考えが最近よく言われます。世の中には、様々なコミュニケーションの手段があるのだから、手段が変われば得られるものも変わるだろう。その手段にはその手段でしか出来ないコミュニケーションもあるのではないだろうか。そもそも私はなぜ少林寺拳法では、極端に勝負を嫌うのかがわからない。勝敗を決することは悪いことなのか。稚拙なことなのか。
  つまらない見栄のせいで後輩たちの進歩を阻めてはいないか。また自分の進歩も滞っていないか。組手主体とはなんだろうか。少林寺拳法の人作りとはなんだろうか。 

【関連・参考】一句道え02


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