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02


 日常、私たちは言葉を主体にコミュニケーションをはかるためか、言葉というものに対し「万能」という意識をもっていないだろうか。言葉には表現できぬことはないと漠然と信じてはいないだろうか。小さい頃から「話せば分かる」と教えられたが、これは本当だろうか。

 ここに二つの色を示そう。共に赤色と言われる色だ。このように二つ並んでいれば上記のとおり差分をとりそれぞれの特徴を掴み「明るい方の赤」「暗いほうの赤」と表現できるだろう。しかしこれらが別個に存在したときは、これを人は単に「赤色」と表現しがちだ。
 他者に「赤色」と伝えたとき、その他者は(a),(b)どちらの色を連想するだろう。いや、もしかしたらこれら以外の赤色を想像するかもしれない。それは何故か。
 海外に行けば日本の理解が進むように、また他武道に触れれば少林寺拳法への理解がより進むように、理解には比較対象を必要とする。「分かる」ということは、その漢字が示すように「分ける」ことであり、人は物事を相対化しそれを比べ、差別化・差分をとって物事を理解・認識しとる。それは、理解・分析・判断・分解という言葉にも表れている。ある事象を言葉に起こした瞬間、その本質は分解されたのだ。【関連・参考】微分してゼロ

 彼の人に話しが通じない。誰もが経験をしたことがあるはずだ。その原因は様々あろう。お互いの価値観・経験が異なることも考えられる。しかし本稿で言わんとすることは、互いの価値観・経験のレベルではなく、A氏・B氏間を媒介する「言語」というツールに内在するもっと根本的な問題だ。この言語というツールは情報伝達手段として、まったく不完全なものであるという事を確認したい。

言語を本源から超越する内的な体験を伝達するためには、言葉を使わざるを得ないので、ここに理解しがたい矛盾が生ずるのです(鈴木大拙)
 
言葉の問題はまことに深刻である。どうにかして原子の構造について語りたいと思うのだが…通常の言葉では原子の世界を語ることは不可能だ。(ハイゼンベルク)


 言葉とは実に不完全なものである。言葉に起こしたとき、その事象のエッセンスは分割されたのだ。「赤色」という表現はすべてを表してはおらず情報の一部を表したに過ぎなかった。表現を重ねればいくらかは補完できるだろう。しかしそれらの一句一句もまた情報を分解した一部だ。むしろに多くの表現を用いることは
異なるエッセンスを取り込んでしまう可能性が高い。
 またさらなる疑問もある。分割されたエッセンスを結合した結果、それを
元と同一の形に再構成ができるのかということだ。おそらくできまい。バラバラにしたものをまったく同じように組み上げる事は大変難しい作業だ。ましてやその部品が足りないかもしれない、いや足りないであろう状況において。
 これはつまり、言葉そして文字・知識というものが、情報伝達・保存手段としては決して完全なものではないということだ。

 如何に言語というものが本質を遠ざけてしまうのか、拳そして法を修める者はこれを明確に認識しなければならない。技は言葉では伝わらない。実際にかけてもらうことが技を伝える最低条件だということです。


 『直観はありのままのものが入ってくる唯一の通路である。しかしこの直観は本人だけが体験しうるもので、他人に伝えることは極めて困難である。』
 『知識が真理を捕える力をもたないことによる。真理を捕えるどころか、かえってこれを破壊してしまうからである。』
森三樹三郎 【関連・参考】用美一如

 禅宗には
不立文字という言葉がある。これは文字には起こせない真理があるということだ。だから師弟のタックルで直に教えを伝える。これを教外別伝という。ここで言う「教」とは経典のことで、お経(文字)の外に大切な教えがあるちゅーことだ。
 真理の分割・変形を気がついた古人は言葉に頼ることを恐れた。言葉を用いる時は分割と混入を減らすためにより少ない言葉で、確実にその核心を射抜きたいと願った。それが「一句道え」というものを生んだのだ。日本人が俳句に「言い表せぬ美」を感じるのもこのひとつだ。

 正法眼蔵随聞記には道元禅師の以下のようなやり取りが記されていた。
 昔、天童山の書記の役位にあった道如上座という方は高位高官の家に生まれた方であったが、親戚とも交際を断ち世俗的な利を何も求めなかったから、衣服も見すぼらしくボロボロになっていて目も当てられぬ有様であった。しかし、その悟りの道の修行によって身につけた徳は誰もが認めるところであって、大寺院の書記ともなられたわけである。私はこの道如上座にお尋ねしたことがある。
「あなたは、官職にある方のご子息で富める高貴な家の御生まれである。どうして、身のまわりの物がみな粗末で貧しげな御様子なのですか」
道如和尚、答えていわく、「僧になったからだ」と。
『正法眼蔵随聞記』

 この一言には大変沢山の背景があることは言うまでもない。多くの文章よりも何気ない一言がストンと心に響く時はないか。ただの一つの節が何冊もの文章に値する感動を呼び起こしたことは無いか。詩や俳句の恐ろしさは真っ直ぐに核心を貫く恐ろしさだ。*1
 拳法においても同様だ。言葉だけでは技術は伝わらない。拳と禅、共に言語による伝達にも限界があることを再認識しなければならない。コミュニケーションの手段は沢山あるが、言葉による説明だけでは伝わらないことがある。時には話し、時には殴り合い、さまざまな手段を用いるべきだ。
 最後に、拳法はこの大切な概念「不立文字」を学ぶために適した手段の一つということにも注目したい。

このページの要旨
  1. 不立文字。言葉は万能ではない、ということ。
  2. 組手主体の存在理由にこの概念は欠かせない、ということ。
  3. 組手主体は、不立文字を学ぶ絶好の手段である、ということ。

 【関連・参考】一句道え 知識は集約される

  • 不立文字・教外別伝は禅宗でけっこうな重要単語なので要チェックヽ(`Д´)ノ 教範にも出ているぞ、ちこっとだけ。
  • そこらのおばちゃんがウガーヽ(`Д´)ノと言った言葉がザクッと核心を突いてるこ・・・本人は気がついてなさそうだが。。。てことない?
  • 「易経に「書は言を盡さず、言は意を盡さず」とある。如何なる古今の名著と雖も、文筆や絵画のみによって著書の全意を盡すことは、不可能である。(中略)解説に当っては、独特の述語を多く用い、行分も又簡潔を旨とした。これは体傳体得を本旨とする、術技の傳書として当然のことである。(後略)」第二版教範、序より
  • もちろんこれは言語・知識を否定することが目的ではない。
    *1 伝わってないからこそ自由に拡大解釈ができるとも言えるけど

695 名前:名無しさん 投稿日:2006/12/10(日) 22:34:49 ID:HLTv9G620
理論的に考えるとな〜るほど!!ってことが多いけど
実際やってみるとうまくいかねーんだこれが
改組語録と一緒
感銘受けれど、実践者は多くない


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