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万法揆一 明徳・健徳
 科学と宗教は対立するものと考えていました。(a)みたいな感じ。しかし今となっては、一部の宗教の教義と科学がぶつかる事はあっても、宗教というカテゴリーそのものがぶつかっているわけでは無いと考えるようになりました。
 少なくとも、金剛禅と科学はぶつかっていません。そもそもぶつかったかること自体とそれが悪いこととは一概には言えません。

 さて少林寺拳法を始めたことや宗教大国インドなどに行ったこともあり宗教に対する認識に変化が…(b)。おぉ別に「対立」するようなもんじゃないぞ!!と感じはじめました。またサイエンスの方でも、科学もやっぱり人の仕事なんだな〜と実感w
 アメリカのような科学に強い国でもほとんどの人が何らかの宗教団体に属しています。ゼロという概念を生んだような論理的志向の強いインドは今も昔もバリバリの宗教大国です。宗教が科学と反するというのはまったく誤りと考えました。

 さらーに少林寺拳法を通して仏法に触れてゆくと、科学と宗教がどちらかというと…同じような方向を向いとるんだなと感じ始める。(c)

 あげくの果てには、まったくおなじ方向を向いていると感じだす。(d)どんどん近付いてきました、私の場合は。

 さらーに。方向というより、むしろ科学と宗教は手段は違えどやりたいことは同じなんじゃないか感じ始める。二つが重なる。(e)
 
 ここでいう宗教というくくりは大きすぎるとは思います。私の場合は主に仏教、禅宗あたりになります。またサイエンスと言ってもまぁ、人によって想像する範囲がまちまちかと思います。こここでいう、サイエンスには工学・臨床の分野は含みません。基礎科学や理学、理(ことわり)の学問のことを指します。ここら辺はご了承を。

 サイエンスを学びたいと思った私は、この世に溢れる不思議なこと、万物に貫徹する理・法を見たかったのだと思います。


数学と芸術 『美』
 まぁこれらは私の場合ですが、もともと数学の世界と芸術の世界は似ている、とっても近いと感じていました。でもこれが以前は何かわからなかった。
 数学はあまりも美しすぎると私は思います。ほんと美しすぎるよ!! 他の追随を一切寄せ付けない美しさがあります、よね? 対して芸術の世界はどうか。やはり美しいものを求める世界です。私は芸術とは「」を求める人たちの仕事だと思います。工芸家の河井寛次郎が「美しいものが見たいのだ。誰が作ったなんてのはどうでもいい」なんて言ったのを聞いて驚愕しました。この美しいものを求める姿勢は科学者が真理を探求する姿に重なります。文学青年の姿勢にも重なります。「」もまた一つの理なのだと思います。

キリスト教 『神の愛』
 後学のために私は何度か知り合いの教会にお邪魔したが、そこで牧師さんの話のなかで印象的なフレーズがありました。「人々は、神の愛を知らない」と言うのです。これは、禅宗で言う「智慧がない・無明である(真理を知らない)」というのに似た使い方でした。親しいクリスチャンに聞くと、やはり「神の愛」とは「法」とか「真理」といった意味合いに近いと言っていました。神(GOD、絶対者)の存在を実感した時に「神の愛を感じる」としそしてこのように表現するらしいので、これは科学者が真理の断片を見た、気がするときの感動に似ていると思うのです(以下)。「神の存在を実感した時」とは、彼らの言葉でいえば、「奇跡を感じた時」とも言えると思うのですが、ここに神という存在があると「奇跡は偶然ではなく必然である」となるという。つまりそこには何かの「力」が働いたと考えるわけだ。「奇跡は必然」これなかなかおもしろい。

科学 『Something Great』
 世界に貫徹する真理、なんてのがあるのかどうか知らんけど、でも物理法則などはおそらく宇宙のどこでも共通、、、するんだよね? 化学の進行も。 生物学だってね、禅宗の渇とかぶるのは何故なのだろうか。何かしらそのような真理のようなものがあるとして、仏教はそれを智慧または般若と呼ぶ
(他にもいろいろ言い方はある)、キリスト教は「神の愛」と呼んだ。道教なら「道タオ」、芸術では「美」、そしてね、なんと科学にもこれらと同じような言葉があることを知った、あの日w
 科学者の余談にたまーに出る…場合がある、とある言葉がある。量子力学などをする人なんかには…より顕著な印象ですが、この世はうますぎると感じる場合があるとか。あまりにも上手くでは過ぎている、というのだから面白い。誰の言葉かは知りませんが「私は神という存在を信じてはいない。しかし研究を進めるとそのようなものの存在を考えてしまうことがある。」「自然はあまりにも上手くできすぎている。」「誰かが設計して作ったとしか思えない時がある」というんだな。
 そしてこのようなものをSomething Great と呼ばれるようになりました。なんて上手い名前でしょう。SomethingなGreatだなんてw グーグル検索

 般若・神の愛・タオ・美そしてsomething great。なんかいろいろ呼び名はある。これらは別にイコールではないでしょうが、被る部分は多いように考えます。さらにもう一つ馴染み深い言葉が東洋にあります。「天」です。


東洋における『天』
 東洋でいう「天」という概念は大変幅広い。たいていの場合は人格(神格)を持たないけどなにやら偉大な存在として置かれています。人格を持たせる場合もあるらしいのですが、普通は持たせません。自然そのもの(存在)の別名でもあるし、世界を統べる法則といった意味も強い。まことに言い難いけどなんとなくそこら辺どこにでもある存在なんです。「お天道様が見ている」なんて言うけど、まぁ
(これは太陽だろうけど)こんな感じものだろう。万物を隔たりなく照らす存在、これは遠くないぞ。故事だと、
天は長く地は久し。【小学】
天には永遠の生命があり、地には悠久の生命がある。天皇誕生日を天長節というのはここから。地久節もここから。

天何を言うや。四時行われ、百物生ず。【論語】
天は何を言うだろうか。無言ではないか。
しかも、春夏秋冬休みも無く運行せられ、その間すべての生物は化育の恩を受けているでは無いか。

天道言わずして品物享り、歳功成る。【古文真法】
天道は何も言わないが、それでも天の運行によって万物は生育を遂げ、一年の仕事はできあがる。


生生之を易という。【易経】
天地自然の姿を見ると、陽は陰を生じ陰は陽を生じ交替変化してやまない。その陰陽の変化を易というのである。

 なお天は崇めるものではなく敬うものとされるのですがこれからもその性質が垣間見える。天は、時間と空間を超越して存在し、凡ての生物を生成化育する。因果応報の道理を司り、見ることは出来ないが存在は認識できる。←これはダーマの定義をそのままあてはめただけよん。としても私は特に不都合は感じないんだけどいかがだろうか。
 そして天の扱いはさらに広く、天は万物の始祖とも考えられてきました。人も木も動物も天そして地から発したと考えられてきました。たとえばこういう感じ。
 天は何十億年という歳月をかけて天地、植物、動物をつくり、最後に人間を作った。その人間は五十万年もかけて、精神や理想、文化、文明を発達させてきた。つまり、天地が発して人間の心になったのだ。その天地の心を自らの心として、万世のために太平を実現しよう。 【関連・参考】 天方と地位と力愛不二
 「天地の心を自らの心とし」とあるように人の生き方においても天を取り込むといういう考えがあります。この人達もそうね〜。
 

 禅宗でも坐禅する姿を「天地と一枚になる」と表現することがあります。武芸にも天地という言葉はよく聞きます。また東洋の世界観・人生観に三合という言葉があるように、天地人の合一を目指す指向があります。ダーマには万物創造といった話はありませんが
(と思ったらあったw 読本参照)、合一というのはダーマの分霊をというニュアンスに似ています。決して天そしてダーマが外部にのみある存在ではなく、自分の体の中にも存在するということです。

 と、私の中ではずっと天とダーマはかなり被っていたのですが、よく教範を読むと、道訓の説明に「天=ダーマ」て書いてましたw 道訓の「道は天より生じ」の天はダーマのことと明記されてますね。まま、天という概念は大変幅のある概念なので、一概に上記の天とイコールとすることはよくないかもしれん。各人が天という概念を勉強することでそれぞれの「天」観を持たれればよいでしょう。


山岡鐵舟 『万法揆一』
 剣・禅・書の達人として知られる幕末・明治の偉人、山岡鐵舟は、剣と禅と書の道を極め「万法揆一」すなわち「総ての道は一つである」と悟ったとか。剣は無刀、禅は無礙、書は無法だという。彼は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖なのだけど、幼少の頃父親から「形は武藝、心は禅理」を究めよと説かれこれを実践した。「無刀流剣術大意」には「無刀流剣術は、勝負を争わず、心を澄し、胆を練り、自然の勝を得るを要す」とあるんだと。

 あー、宮本武蔵の「万理一空」という言葉もありますね。まぁなんかいろいろと世界には理・法の名前があるらしい。我々は其の法の名前として「ダーマ」を用いたのだと思います。んが、私のダーマの認識はこんな感じ。

3.切欠


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