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615期生の切欠
 いつだったか忘れましたが、武専で座学の時間に奈良だったか大阪の先生がこう仰っていた。
私はいつも子供たちにこう話ています。「君たちもダーマの分霊を持っている。だからちゃんと努力すればどんなこともできるようになるんだよ。」
 私はあぁなるほど」な、こういう使い方、意味かと思いました。


 少林寺拳法本部公認の書籍に、作山吉永先生の名著『可能性の種子たち』があります。この「可能性の種子」という言葉は仏教でもぼちぼち聞く言葉です。「種子」と書いてしゅうじとかじゅうしとか読ませます。これは、やればできる!! その「素」みたいなものでしょうかね。「可能性の種子」というのは実にダイレクトな言葉なのです。ダーマの分霊とはこの種子に相当するものです。

 そういえば、以前初段受験を控えた拳士から、「一切衆生悉有仏性てなに?」と聞かれたのでとりあえず、携帯ということもあり手抜きで「誰もがダーマの分霊を持っているということやね」と短く返信したら、なんかこれで分かったたらしい。
 この「一切衆生悉有仏性
いっさいしゅうじょうしつうぶっしょう」て言葉、禅とかの本読めばけっこう頻出の言葉なんだけど、それ以外の本ではまず見ない言葉のはず。どこでそんな言葉を見たのか? と尋ねたら金剛禅読本に言葉が出てるとか。てか、横にダーマの分霊の話が書いてあるじゃん(´Д`;) ちなみに「一切衆生悉有仏性」というのは、すべての人々は、仏になれる可能性を持っとるよ〜んちゅうことです。
 まぁダーマの分霊を持つというのはこういう感じに、自分の中に「可能性がある!!」「やればできる!!」ということを言うているのです。そしてダーマ信仰とはこのような「可能性の種子」の存在が我に内在することを信じることです。
 少林寺拳法は易筋行という言葉を好んで使います。
人は変われるのだと説きます。例え今できなくても、いつかはできるかも知れない、変われるかもしれない。今は駄目な自分も、もしかしたら可能性があるのかもしれない。このように自分の可能性を信じることができる、つまりだ、分をじることが自信だよというわけだ。【関連・参考】法形は何故こんなに多いのか?02


信じる
 ちなみに「信じる」という言葉に抵抗がある人、それはな…
知らん。今後のいい師匠・同志との出会いに期待して下さい。これは宗教とかじゃなくて一般的なこともそうだけど、いくら信じろといわれても、信じれないものは信じれねーーー。信じる信じないというのは思いっきり個人の話しですらね。周りがなんと言うても無理なものは無理w
 しかし不立文字という知識があればわかることだけども、仏教に限らずまた宗教に限らず他者には伝わりにくい要素というものがある。これは自分で体験するしかない。しかし体験できるまでは先達の言葉を信じるしかない。他者を信じるというのは先達から何かを受け継ぐ時には必要なことなんだと思まいす。こんなんだから各宗派の構成員を「信者」というのでしょう。
 詳しく忘れたけど、昔の坊さんの話にこういうのがあった。「「信」という字はまかすと読むなり。人
(イ:人偏)の言をそのまま受け入れるこれを「信じる」という。」 信じるとは他人に「まかせる」という部分があるんだな納得する。

 でもな、金剛禅は外側の何かを信じろというのではない。
自分を信じろて言うてんのよ。あぁ、余計にムズイという人もいるか。金剛禅は人を信じることによって自分を信じようというのだからおもしろい。人を見ることによって自分を見るんだな。
4.ダダダダダーマ

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