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 以下は私のネット上の日記から
2006年08月18日 15:49   芸術家
にしても、不思議だ。 2ちゃんでは名指しで叩かれたけど、やっぱり仏教用語を用いないで仏教を語れる人間はすごいという考えが抜けない。そういうのは、芸術家と言われる人種、当然(仏教の)文化的背景のある日本人の芸術家が多いけど、あまりにも切れ味がよすぎて恐ろしい。やっぱり、こういう観れる人に教えを請うしかないのぉ。

 さて数ヶ月忘れていたこの日記↑、数ヶ月(だけ)経った今もこの考えが抜けない。
 なんでもそうだと思うんですけど、うだうだと説明をするわけでもなく、スパッとした切り口で核心を、、、、突ければそれはすばらしい。もちろん詳しく話せることも大切だと思っていますよ、でも短くスパッと言える人はこういうものを持ち合わせたうえで鋭く切り込んでくるという印象があるんよね〜。
たまに本能で言うこれまたすごい人もいるけどもw

 実際にお寺にいくと「仏教用語を用いないで〜」というのにでくわします。まぁ適当に私の写真フォルダから探してみると〜こんなんが出てきました。お寺の前の掲示板などによく掲示されてます。観光地のお寺にはあまりありませんw

   
   
 


お気に入りもあるし、これはちょっとな〜とまぁなんかいろいろ。好みでがす。

 誰でもわかる平易な言葉で書かれてるんですよね。いつも撮っているので、どんどん今後も追加しますわ。
懲りずに

 
 易しい言葉で語ることは大変難しい。それは核心を一発で貫かねばならないから。しかし貫ければ、核心を貫ければ、彼の心を貫ければそれは大変に強力よね。頭で理解していくこと、体で理解していくこと。社会も少林寺拳法も昨今、体で知る、体で覚える、体で分かるということを忘れがちです。知識は大切です。しかし知識だけでもダメなようです。
 人から教えられること、自分から教えられること。乱捕り稽古とはまさに組手主体の中から彼に問いかけ我に問いかける、一つの手段なのだなと感じます。自得内証、例え下手糞でも、我が身の経験から得られたものは尊い。

 柳宗悦が『宗教の本体は高級な神学にあるのではなく、無垢な信仰にこそある』と書いていたのを何故か思い出す私。


 【関連・参考】 一句道え02 教えは毛穴から入る


  • 全習法:全体をまず見せる学習法。たとえば、法形をブンッとかけて細かいことはウダウダ説明しない、もしくは後回し。総論から攻める。昔の少林寺拳法はたぶんコチラ寄り。
  • 分習法:ポイントポイントを分け学ぶ方法。たとえば、鈎手・当身・掛け手〜体裁・運歩など重点を絞っていく。各論から攻める。今の少林寺拳法はたぶんコチラ寄り。
  • もちろん両方必要。


 
   

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