|
|||||||||||||||||||||||||||
最近、私の周囲でよく使われるようになった言葉「少林寺脳」。これはなかなか便利な言葉だ。少林寺拳法をしていくうえでできあがってくる思考回路のことだ。基本的には悪い意味で用いられる。 少林寺拳法はこうでなくてならない。あぁでなくてはならない。それは少林寺ではない。 なるほど、確かに少林寺拳法には他の流派と区別可能な風格をちゃんと持っている。では何故このような風格を持つにいたったのだろう。それには何らかの経緯や理由があるのでは無いだろうか。このような理由も考えず、カタチだけを見て安易に「それは少林寺では無い」のような発想は、自らを狭めてしまうのではないかと危惧する。 少林寺拳法を修行し、身に付いたものはなんだろう。入門当初に思い描いていた渇望は満たされただろうか。身に付いたものは自信となるべき確固たる自身だっただろうか。それともただ自分の世界を狭くしてしまった固定観念だっただろうか。 少林寺脳を持たぬ人などおそらくいまい。自分の少林寺脳に目を向けてみてはどうか。 さて、丸廉だから乱捕りに向けて話を進めようと思う。 以下のような固定概念が乱捕りに向かう少林寺拳士の苦悩となっていると思う。 呪いですな。 【形式的な法形演練の弊害】 長くなったので別ページに移しました。少林寺脳2 技術的な失敗なら続けていればいずれは身につくだろうけどw、「うまくいかない」という思考が乱捕りを遠ざけとる一因なのではないかと思う。特に最近は、形に拘りすぎる風潮があるからなおさらです。自由攻防なんてほとんど上手くいかないもんです、見た目は特にね。ほとんどの攻撃が当たりません。それに全部が真打じゃありません。ボクシングの試合でも思い出しましょう。ほとんどは当たらない。ボクシングと拳法は違うとかいう人もいるかもしれないがっ、自由攻防の一要素について見て取れるものはあるでしょう。 やはり安易な法形演練のみだと、どうも攻防の流れに対して固定概念がつきがちです。守主攻従の項目には以下のように解説があります。
不敗の体勢を崩して反撃しなくてもええやん。 乱捕りに対してゲーム的な楽しさよりも苦手意識の方が強い人は、「うまくいかない」意識が強いのではないかと思う。まずは守る、これで一先ずは上等。できれば反撃もしよう、くらい。自由攻防はまずこんな程度の意識で行ってもいいのでは無いかと思います。同時に指導する側も気長に見守る忍耐が必要だと思います。直ぐに法形に差し戻すと乱捕りに対して苦手意識しか付きませんからね。 100%の成功率なんてのどだい無理である。相手だってバカじゃない。自由攻防では相手もいろいろ考えます。そもそも一つの技でも「完璧」にこなせるならサイキョだろうに。ちょっとくらい上手くいかなかったからって気にするな!!ヽ(´ー`)ノ 【その他の典型的な少林寺脳例】 後は小さいこと、というか別の目的で集めてた小ネタ。 もちろん部分の話です。全体のことじゃありません。またそれぞれに濃度が差もありますので、脊髄反射しないでちょ。あぁ、怒られそうw
ここまで、ボロクソに好き勝手に「少林寺脳」という悪態を吐いてきましたが、私とビスさんはプラス?の意味でも少林寺脳という言葉を用いることがあります。たとえば演武について話す時、「演武は少林寺脳を作るためにはちょうどよい」といった使い方。2ちゃんに書くとバカにされそうだwww これは演武の構築を通し少林寺拳法の戦術を頭に付けていく、演武は静的な思考訓練の要素があるといった意味です。 演武においては、ネガティブ少林寺脳もあります。最近、後輩の演武の構成作出を見ていたら(指導じゃないです野次馬)、「この構成はおかしい」と言い合ってたんですわ。よくみる光景ですな。しかーし、私からすればまったく変な構成じゃなかった。具体的な構成はすっかり忘れましたが、ついつい割ってはいってw一方をやってみるとやっぱり違和感がなくできるwww 結局は二人の基礎力の問題だと感じました。うまく行かないのは、構成がまずいのか、それとも単に自分の実力の問題なのか、これはよくよく考えないとまずい、そして「構成が悪い」で肩付けてしまう危険性を感じました。つまり実際の内容ではなく、頭だけで肩付けてしまうという怖さです。
「我々は〜である」「だから、こうあらねばならない」このような思考が彼我を縛っていませんか? なんか拳法やってて、知らず知らずのうちに固定概念に囚われてしまっているなと感じたことはありませんか? それを少林寺脳と呼んでいるわけです。 以下はコピペ
|
|||||||||||||||||||||||||||
なんか他にもあったら教えてね。
|