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(以前書いた、ミクシの下書き日記からコピペ)

 ここ近日、マイミクの皆様の中でも少林寺拳法に関する日記が多い。いくらか例のトピ主が出てこないあのトピが関係しているのだろう。これはおそらく私のマイミク諸賢のみならず、少林寺コミュに参加している多くの拳士のストレスとアイディティを刺激したに違いない。実にいいことだ〜。

 さて話はやや飛び、残念ながら少林寺拳法に物足りなさを感じて辞めてしまう拳士も少なくない。別にこんなことはどこの流派、どの習い事、多くの趣味の世界でもあることだからさほど悲壮感に浸る必要もないとは思うが、やはり寂しい気持ちにはなるものだ。
 自分の所属する道院に、人が来なくなるとかなり項垂れる。もっと自分に(いろんな意味で)実力があればと泣ける、凹む、二時間だけな。このような話につき物なのが、
「少林寺拳法の何たるかも知らずに〜」という話だ。以前読んだものの中には、「たった一日で何が分かる」という怒りの声もあった。私はこれらの意見もわからんでもないが賛同することはできない。
 「少林寺拳法の何たるか」なんて見学者はそんなこといちいち熟考するだろうか? 見たものを見たまま受け取るだけではないのか。彼が理解できなかったのだろうか。いや、我が伝えることができなかったのではないか。只々こちら側にその実力や徳がなかっただけではないだろうか、魅せることができなかったのではないかと私は考える。つまり、我がしょぼかったのだ。彼に言わせれば少林寺拳法がしょぼかったのと、ちゃうの?
 求めているものが違ったのなら去ることも仕方ない。しかし方向性は同じにも関わらず「物足りない」という理由、これは痛い。痛烈だ。開祖とまた先達に申し訳なく思う。我が身の至らなさに猛省する。私がもっと強ければ。もっと上手ければ。もっと多彩なチャンネルを持っていれば。
うがががが(゚∀。)


 全員を引き付けるなんて事はもちろん不可能だ。釈尊だってイエスだって全員を留めさせることはできなかった。人気絶頂の芸人だって視聴率はせいぜい30%だべ。しかし悔しい。特に「ここでは強くなれない」と思われることが無上に堪える。

ぐぉぉぉもっとクンフーせねばっ



 そういえば、先日の武専でI主幹が、 「昔の少林寺の演武は〜、そーんなうまくもそーんな強くもなかった!!」 と言っていた。「ただ、キチガイ地味ていてそれを見た人はとても喧嘩売ろうとは思わなかった。なんかすごいものを見たような気はしたはず!!」 みたいことを言ってたw


 香木をたくに、其のまことの芳(かんば)しき気は、烟(けぶり)の未だ僅か微少(いささか)も立ちのぼらぬ先に迸(ほとばし)り出なり。人の心の匂いもまた然り。其の人の一念我にむかひてまひとに優しく美しき時は、其の人いまだ口を開きて言葉を出さず、身をもて行いを示さずとも雖(いえど)も、はや其の優しき美しさの溢れ迸りて、我が胸に浸み透る心地す。此の心の匂いのいつもめでたき人をば徳ある人と云うなり。『洗心録』幸田露伴
【関連・参考】 風格のある演武 自他共楽とは敵を倒すこと

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