浦沢直樹の『プルート』から。あの鉄腕アトムの新作?です。このシーンがおもしろいなと思う。ロボットはプログラムの範囲内で動きます。だから「無駄な動き」をしないんだという。無駄がないから不完全?
完全なロボットとは無駄なこともするロボットのことなのか? これはいける。
十一面観音
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仏像に十一面観音なるジャンルがある。左の写真は滋賀県にある国宝の像。上野の国立博物館で仏像企画があると、メインとして呼ばれる逸品です。十一面観音にはその名が示すように、十一の顔がある。本体の顔以外に顔を持つ菩薩である。
この観音様は正面から見ると10の顔が見えるが、最後の一面が見当たらない。最後の11番目の顔、それは後頭部にある。仏像は通常はお堂の中に安置されてるでしょ。だからなかなかそれは見えない、そんな場所にその一面がある。
その面の名は暴悪大笑面。この顔は人をあざ笑う顔だと教えられた。仏像にこんな顔がついているんだから驚かされる。どんなに立派そうに見えても人の心にはこのような闇が宿っているのだと。人をバカにしたり見下したりする気持ちが誰にでもあるものだ、と教えられた。 |
崇拝の対象にあえて邪を併せた仏教。もし十一面観音に大笑面がなければこれほど心魅かれただろうか。
なぜこんな話を拳法のサイトでするのかといいますと、綺麗なものと美しいもの、という話なのです。綺麗なものと美しいもの、これはまったく異なるものです。綺麗なものは作られるものです。対して美しいものは生まれてくるものです。
綺麗過ぎる
先日ある大学生拳士と棒の練習をしていた。大学拳法部の拳士は実に体が動く。だから大事なエッセンスを打ち込めば覚えるのも早い。スバラシイ!! 隣にいた女性拳士が言う。
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隣「綺麗な蹴りね〜」
615「んー、綺麗ね〜」
隣「私もあんな蹴りを蹴れるようになりたいな」
615「んーーー、綺麗すぎるね〜」
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なんでかいな、「綺麗すぎる」と私は思ったのでした。一時間後、またある先輩拳士(ov01から参座しとる)が蹴りの指導をしていた。あぁ、そうかと思った。うん、まぁ細かく書かないけど、小奇麗なんだな。そういえば、Gさんが「学生大会の演武は皆一緒でつまらん!!」と言うとったなぁ。まま彼は体が動く。すぐうまくなるだろう。
学生拳士の動きは、よく収斂されていると思う。これは悪いこととばかりではないが、全体からすると恐ろしいことなのかもしれないと私は思う。法形も演武も綺麗になったが美しくないと違和感のようなものを感じたことはないか。それは動きに濁が無いからだ。そしてこの濁は風格でもある。
「お前の絵は、うますぎる」
猪熊弦一郎(1902-1993)という画家の話を思い出す。彼は若くして絵の才能をみせ活躍、30代にはフランスに留学もしている。そしてパリで当時最新の画風を学び次々とその技術を我が物にしていく。しかしある日、猪熊氏は尊敬していた師匠アンリ・マティスに突っ込まれた。
多くの画風を学び我が物としたが、マティスはそこを危惧し「自分の絵を描いていない」「真似事だ」と諭したのだ。猪熊氏は以下のようなことをよく語ったという。『「絵には勇気がいる」というと皆が笑う。でもこれはほんとうのことだ。未知なる自分の世界を開くためには、常識を超えなくてはならない。それには、勇気がいる。』
猪熊弦一郎は子供のような絵を描きたいと願った。しかしなかなか描けなかったという。「自由になるまで90年」といい91歳でその生涯を閉じた。
あえて言おう、我々が目指すべきは自由ではなく自在だ。
※猪熊弦一郎の博物館は香川県丸亀市の、丸亀駅のまん前にある。帰山の際に時間があればいってみて〜。
「山岡鉄舟」
もう少し、わかりやすい文章が剣と禅、そして書を極めたといわれる山岡鉄舟の関連本にあった。下は上の芸術の流れを汲んで書道について。
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この頃の書道展などを見ると、極端に言えば、署名を取り去ってしまえばどれもこれも皆一つで、自己の特色というものが全くない。審査員の筆意を真似て書いたようなものばかりである。あれでは書奴というほかはあるまい。それを海舟に言わせれば、「一口に言うなら、書はその人の心を写したものだ。ただこれは書のみではないよ、何でもこんなものだ。然るが故に剣・禅・書共に其の揆は一つなりというたものよ。(略)」『山岡鉄舟』大森曹玄著より |
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この文書は書道について書かれているけども、剣も禅も同様です。ある禅氏は言う。
- 禅は仲介物を嫌う。
- 禅は手袋を着けぬ素手で掴まねばならぬのである。
- 論理を最終と思う限り、我々は束縛されている。
- 模倣は奴隷である。
なぜ乱捕り稽古をしなければならないのだろう。それは自らが経験するためだ。そして自ら掴むためだ。成功も失敗も経験するためだ。自ら経験し得られたものは、それがどんなに小さなものであれ強くそして尊いものだと私は信じる。
風格のある演武
少林寺拳法には「風格のある演武」という言葉がある。 風格といえば格の高い者の個性を指すことか多いと思うが、もっと広い意味があると思う。辞書を引けば、
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ふうかく 【風格】
(1)その人の言動や態度に現れ出た品格。「王者の―がある」「―がにじみ出る」
(2)独特のあじわい。おもむき。「―のある字」 |
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とある。風格という言葉は別に格はあまりよろしくなくとも、その人なりが顕れていれば使える言葉だと私は考えている。風格のある演武とは、その人らしい演武ということだと思う。自分らしい演武だ。個性のある演武だ。うぅむ、昨今の時勢で個性という言葉が安っぽく見える。しかし自らの徳が発露した演武、そのようなものを風格のある演武というのだと思う。
N先生M先生の演武などが風格のある演武として挙げられることが多い。動画もたくさん残っているが、それらの動画の多くは画質が悪い。しかしこのような悪質な画像からも我々は誰が演武をしているのか、それを認識することができるだいたいは。それは上手いとか質実剛健というもの以上に、「らしさ」があるのではないか。初期の高名な諸拳士はそれぞれが個性的な動きをしていたと聞く。それぞれの御先生に特徴があった。それは何故か。【関連・参考】風格のある演武
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