トップページ > 初めての方へ > 少林寺拳法とは? > 武の意義と武道の本質


「少林寺拳法教範 第三篇第二章 宗道臣著」 より

  一、武の意義
  武と云う字は、戈と止の二字よりなる会意文字である。(会意とは、漢字六書の一つであり、文字を構成する六つの区別、象形、指事、会意、仮借、諸声、転注の中の三番目にあるもので、字と字を組合せて一つの意義を表す文字のことである。例えば、人と言とを合して信となし、言と成を合して誠と云い、日と月とを合せて明と読むごときものである)
  「説文解字」と云う、文字の起源と意義を解説した書物(後漢の許慎撰)の中に、武は撫なり、止戈なり、禍乱を鎮撫するなり、禍乱を平定して人道の本に復せしめ、敵を愛撫統一することが、武の本義なりと説いている。
  故に、武の本義は、人と人との争いを止め、平和と文化に貢献する、和協の道を表した道徳的内容をもつものであり、いたずらに敵を殺し、争闘を求め、敵に勝つことのみが目的ではないのである。
  二、武道の本質
  武道と云うのは、前述した武の本義に従い、その目的を達するための道を云っているのであり、その目的を達成するために必要な、武の体と、武の用益を極める道を云っているのである。武の体と云うのは、攻防の技であり、術であり、略である。武の用とは、攻防の術技たる武の体を、道徳的、倫理的意義を有する、修身、除悪、治乱、益世の目的に合致せしめる方法を云うのである。故に、真の武道と云うものは、争いを求め、相手を倒し、自己の名誉や、自身の幸福のみを追求する道ではなく、人を生かして我も生き、人を立て我も立てられると云う、自他共栄を理想とする道を云っているのであり。武の体を武の用たる修身、除悪、治乱、益世の目的に合一させる、処世の根元となるべき、人づくりの大道でなければならないのである。
  三、武道とそのあり方について
  最近世間一般に、武道と呼ばれているものの中には、武の意義も、武道の本質も解しない、単なる勝負術に過ぎないものや、人に見せることを目的とした見世物のようなものがいくつかある。
  人間を殺傷する以外には、何の役にも立たぬ武器を舞台の上で振り廻して、観衆の拍手喝采を得ようとしている前時代的な見世物の如きものや、亦一拳必殺をモットーに、三年も五年も苦行をつんで修練し、凶器と化した拳骨を振るって木石や、瓦を破砕してみせたり、或いはまた牛や人間と血まみれの格闘を公衆の前でして見せて、拳や手刀の威力を誇示する、殺人傷害術の如きものまでが、真の武道である等と云っている。
  このような好奇心や興味の対象にしかならない、時代錯誤の見世物の如きものや、賭の対象にしかならぬ、プロスポーツやギャンブルに近いようなものまでを、真の武道と云ってよいものであろうか。そしてまた、この種のものが、科学の発達した現代に於て、人類の平和と幸福に貢献する「道」として、実際に必要なものであると云えるのであろうか。疑問をいだかずにはいられない。
  人間が、まるで獣のようになって、人さえ見れば戦いを挑み、自己の強さを誇るために勝負を争い、勝つことが生甲斐であるかのような、つまらぬ人間をつくるこの種のものの在り方に、限りない虚しさを感じるのは我々だけではない筈である。この種のものにたずさわる人達は、口をひらけば勝敗や強弱を論じ、戦うことと、勝つことに意義があり、勝つために修行をしているのだと強調する。そして強い者、試合に勝った者だけが、立派な人間であるように云っている。
  では、ほんとうに「勝つ」ということはいったいどんなことを云うのであろうか。
  我国の武術史や武道の達人と称される人達の伝記をみれば解るように、昔から武芸者が仕合をして、それに勝つということは、必ず相手を打殺したときにのみ成立していることがわかる。剣聖と云われた宮本武蔵の如き人物でも、他流との仕合では必ずと云ってよいほど相手を打ち殺すか、生涯再び立つことの出来ぬ不具者にして、やっと自分の剣名を守り抜いているのである。京都御所の指南番をしていた吉岡憲法との仕合では、武蔵に打殺された父の仇を打たんとした、十才前後の吉岡家の長男さえも武蔵は容赦なく切り捨てている。(武蔵は晩年になって九州の細川家の客分となり、わずかに十七人扶持と云う捨扶持を貰って淋しい生涯を終っている)
  徳川末期になって剣術が袋竹刀や防具を用いる練習が行なわれるようになった後でも、流派や武名を賭けての争いは、必ず相手を殺すか、自分が殺される迄は結着していない。道場に於ける一度や二度の打合いに勝ったと云っても、相手がそれを負けたと思わなかったり、恨みを残して後で復讐を企てる限り、その場の勝負は、真の勝負にならぬからである。
  理屈はどうであろうと、武道の真剣勝負は、相手を殺した時が真の勝ちであり、殺された時がほんとうに負けた時である。だからこそ人類は文化の進歩に従って、無手の武術から刀槍の武術に進み、それがやがて遠距離から殺せる小銃や大砲に発展し、遂に原爆やミサイル等と云う大量殺人の技術を開発するに至ったのである。
  このように、高度な殺人武器や技術が開発されている現代に於て、結果として殺人をしない限り確定しないような、武道の勝負に勝つために、現代を生きる青少年が何のために何を苦しんで三年も五年も、貴重な時間を費して最も原始的な格闘の技術を修行しなければならないのであろうか。そしてまた、人を倒し人に勝つことが目的のような此種のものが、現代の社会生活にそれほど意義があり、重要なことなのであろうか。我々はこのことをよく考えてみる必要がある。
  必殺の空手チョップを誇り、プロレスの世界チャンピオンとして、無手格闘の王者を以て自他共に許していた、相撲取り上りの力道山が、武道等は修行したこともない、街のチンピラやくざに呆気なく、短刀で刺殺されてしまった事実こそ、これ等一部の武道家の考え方の誤りを、端的に実証していると云っても決して過言ではない。昔から我国のように武を尊ぶ国に於てさえも、武道の達人と云うだけで、天下を取った者もなければ、大名にさえなったものもなかったことから考えて、武道や武道家と云うものの在り方に、何か本質的な誤りがあったように思えるのである。
  もし武道と云うものが、この種の人達の云うように、単に試合に勝つことを目的として修練され、強者をつくる目的でのみ修行されるならば、これほど有害で、無益なものは他にないであろう。理屈は何とでもつけられるであろうが、この種のものを修行したと称する人達の、多くの実例が示すように、暴慢で、殺伐な、我の強い、鼻もちならぬ人間を育てているだけである。
  人間が、単に人間の形をし、立派な体格や容貌をしているからと云って、完全な人格を備えた、立派な人であると云えないように、武道も、単に強いとか、技がすぐれているからと云うだけで、真の武道に達している者とは云えない。真の武道と云うものは、前述したごとく武の本義に徹し、武道の本質を知り、敵に勝つことよりも、ひと先ず己れに克つことを修め、己れを知り、人を知って、人の霊止たる、我の我たる真諦をきわめ、人間は何のために此の世に生をうけているかを悟らなければならない。
  我と云う文字は、手と戈の二字よりなる会意文字であり、武と云う字は、二人の戈を止めると云う。三つの文字を組合せた会意文字である。
  このダーマの分霊をもつ、人の霊止(ひと)たる我は、心の持ち方いかんによって、善にも悪にもかわることが出来ることを思えば、真の武道の在り方と云うものは、人を倒し、人を殺す技術を修める道としてではなく、「己を修め、己に克ち、人を生かして己れも生きる。」と云う済世利民の道でなくてはならぬことが理解される筈である。

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