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『少林寺拳法 ◎日本少林寺拳法創立30周年記念 THE SHORINJI KENPO』より

元は印度の武術、天竺那羅之 (てんじくならのかく)


仁王さんの姿は拳法の形
  阿と吽、陰と陽の二体で一対の仏像として有名な仁王さん。わが国最古といわれる法隆寺の仁王像も、国宝の興福寺の仁王像も、徒手空拳で拳法そっくりの形をとっている。片手は拳を握っているが、よく見ると、相撲や柔道のように親指を中に握りこまず、親指が外側から他の指を拠りしめる特殊な拳をつくっている。それでは空手に似ているかというと、もう一方の開いた手は五本の指を完全に離して伸ばし、空手や柔道のように親指を折り曲げた手刀とも違っている。独得の印度拳法の構えなのである。
  この印度拳法は、天竺那羅之、あるいは阿羅漢の拳とも呼ばれ、古代印度の廃嘘の壁画などから見ても、約五千年前からかなり発達していたことがわかり、釈尊による仏教の開創時代にはすでに武術の形を整えていたことが明らかで、そのころの医聖として名高い耆婆(きぼ)により、東洋医学の基礎となった経脈の理法をもととして活殺自在であったといわれる。
  ところで、仏教が慈悲と忍辱を説く宗教であるはずなのに、仁王像をはじめ、その他の明正、十二神将どの像が、武の構えをし、なかでも千手観音にいたっては、あらゆる武器を所持していることを不思議とする人が多いと思う。これは仏教が慈悲や忍辱を説くとともに、これらを基調とした理想社会をつくるためには、積極的な行動をとることを認めていたためであり、正義正法を守るためには無手の拳法のみでなく、刀剣、弓箭(きゅうぜん)、鉾(ほこ)を持つ必要があることが涅槃経の中にも示されている。
  当時の新興宗教であった釈尊の仏教が、人間平等を説くの対して、カースト制度を守ろうとする在来のバラモンや王侯貴族による妨害や、その他の迫害があったであろうことは想像に難くない。そのようなときのために、積極的に護身と正法護持を目的として、破邪の力としての各種の武技の修行に励んだであろうし、それがまた、初期の僧侶の気力、体力の充実に役立ったであろうと思われるのである。
 仏教の修行僧たちの安全と健康を守り、正法護持の役割を果たしてきた印度拳法は、今から千五百年ほど前に、達磨大師によって中国に伝えられた。
興福寺の密迹金剛

達磨伝来の阿羅漢の拳
  達磨大師はいうまでもなく中国禅宗の開祖だが、はじめの名前は菩提多羅(ぼだいたら)といい、西天竺香至国の第三王子として生まれた。釈尊と同じクシャトリア、すなわち王侯貴族の出身である。後に仏門に入って般若多羅尊者(はんにゃたらそうじゃ)の弟子となり、名を菩提達磨と改められた。般若多羅の死後、達磨は、中国で仏教が誤り伝えられ、真実の教法が失われかかっていることを知り、釈尊の正法を伝えるために、印度からはるばる中国へおもむいたわけである。中国では、はじめ、熱烈な仏教の支持者であった南朝、梁の武帝に接見した。武帝は、寺院を数多く建て、数千の僧に修行させて講経(こうきょう)を行ない、自らも涅槃経をはじめ多くの経典の注釈を書いた学者でもあったが、死後の成仏を信じていたので、達磨を謁したさい、
「朕は多くの仏寺を造り、経を写し、僧を度すること数知れぬほどであるが、どのような功徳があるか」

 と問いかけた。ところが、達磨は案に相違して、

「そのようなことをしても功徳はない」
 と、あっさり否定した。むっとした武帝は、
「それでは、教えの極意とはどんなものか」
 と重ねてたずねると、達磨は、

「そんなものが、あるわけがない」
 と答えた。怒りにかられた武帝は、たたみカけるように、

「では、いま朕の前にいるのは、いったい何者なのか」
 と問うた。すると達磨は、当然のように、

「そのようなことは知らない」
と答えた。武帝はついに達磨を理解するに至らなかった。
阿と吽、陰と陽をあらわす仁王像は拳法の姿

  当時の中国仏教は、来世の幸福を願い、立派な塔寺を建立(こんりゅう)して美しい仏像をかざり、名香を薫じて経典を読誦(どくじゅ)することに専念していて、達磨が説くような自己確立の教えは、とうてい理解できなかったのである。
 梁の国を去った達磨は、やがて北魏(ほくぎ)の首都洛陽(らくよう)に近い河南省の嵩山少林寺に移り住み、"座禅行"とともに"易筋行"(拳法)を伝えた。嵩山少林寺においては、その後、行よりも易筋行のほうが効果もあり、面白くもあるというので盛んに修行された。そのため、いつしか少林寺は、禅宗の総本山としてよりも、僧侶の剛健勇猛なことによって有名になったのは、史実の伝えるところであるが、その様子は、少林寺白衣殿に今も残る天竺僧と中国僧の拳法修行の壁画によってうかがうことができるのである。
嵩山少林寺白衣殿に残る壁画(1)


中国の挙の盛衰


民衆組織と結び発展
  達磨によって印度から中国に伝えられ、宗門の行として発達した拳法は、その後、北周武帝の廃仏政策(西暦五七四年)による少林寺の廃絶や、たびたびの兵火による寺僧の四散とともに、山門外に流出し、官匪(かんひ)や土匪(どひ)の迫害に苦しめられた民衆が、その生命や財産を守る最良の護身術として盛んに伝習するようになった。
  こうして、中国各地に広がった少林寺の拳を中心とする民衆組織は、宋朝末期から清朝にかけての数百年間に、ときには権力者の圧政に反抗する民衆組織の中核となったり、あるいは異民族の侵攻に備えて民族保全のために戦う愛国結社の中堅となって、勇敢な志士を育てることに重要な役割を果たしながら、非常な発展をとげた。ところが、異民族である女真(しょしん)人(満洲民族)の建てた清王朝に対しても、しばしば内乱を起こしたため、清朝からも徹底的に弾圧され、雍正帝の代には、一般漢への拳術修行を禁止する皇帝の上諭(じょうゆ)が出され、それからの清朝三百年の間は、武技としての拳技は姿を消し、わずかに、体操式の型だけが細々と伝承されることになってしまった。
  清朝の末期を迎え、清朝の威令が行なわれなくなると、またもや漢人の間に、ひそかに武技を修得する者がふえ、「滅満興漢」を目的とする秘密結社のなかにも採り入れられて、しだいに発展していったのである。ところが、拳匪の乱と俗称される義和団事件の突発によって、ついにはなばなしい活躍に一応の終止符がうたれたのである。
  当時の清国は、東洋の眠れる獅子と呼ばれて、国威は地におち大国の面影は急速に薄れつつあった。西暦一八一二年にイギリスが無法にも仕掛けた阿片戦争に惨敗して巨額の賠償金をとられたうえに、香港を割譲させられて以来、西欧列強の中国に対する侵略行為は日増しに激しさをくわえ、手段を選ばぬようになっていた。
  西欧列国のなかで進出の遅れた国々は、キリスト教の宣教師を送りこんで、神の御名をふりかざした法城を各地に築き、治外法権を獲得して半ば公然と宗教的植民地化工作を行なうようになり、心ある中国民衆を憤激させていたのである。

義和団事件は愛国運動である
  西暦一八九七年、山東省において、ドイツ系のキリスト教宣教師が、婦女暴行殺人の凶悪犯を教会内にかばい、治外法権を盾にして犯人の引き渡しを拒むという事件が起こった。この清国の主権を無視したキリスト教会の横暴を心から憤慨した秘密結社大刀会の会員が、その教会を焼きはらい、犯人とともにドイツ人宣教師を殺害してしまった。中国進出の機をうかがっていた、ドイツ政府は、待っていましたとばかりに軍艦と陸戦隊を送りこみ、膠洲湾を攻め、山東半島を軍事占領してしまったのである。
  この事件を契機として、それまで「滅満興漢」を目標にして結束していた漢人の秘密結社が、方向を転換して清朝政府を支援するようになり、政府の軟弱外交をむち打つ立場になって立ち上り、「扶清滅洋」(清朝を助けて、洋夷すなわち西洋人を滅ぼそう)と旗印を変えて、公然と活動を開始するようになったのである。そして、ドイツ軍が大刀会の頭目を捕まえて処刑したことが動機となって、紅槍会、天明会、黄槍会、八卦会、黄沙会その他の各地方の秘密結社が外国人を襲うようになり、ついには、これらの横の組織であった義和団の総決起にまで発展し、大規模な全国的排外運動が展開されるに至ったのである。これが歴史に名高い義和団事件であり、この事件について、清朝の正史や日本や西欧諸国の記録には、暴徒の集団が理由なくあばれまわったように書いてあるが、真相にはこのような背景があったのである。
嵩山少林寺白衣殿に残る壁画(2)

中国の秘密結社について
  なお、中国の秘密結社というのは、中国の特殊な国情が生んだ一種の民衆の自衛組織であり、大きく三つに.分類することができる。
  一つは宗教的秘密結社で、大刀会、紅槍会、長髪会、紅旗会、在家裡、白旗会、黄道会、黄沙会、如意門教、八卦教などがあげられる。第二は社会的秘密結社。主として利害関係を同じくする同業組合的な形から出発したもので、青幇、紅幇、三合会、黒幇、哥老会、竜華会などがある。第三は近代になって発生した政治的秘密結社で、民国革命の母体となった光復公会、中国革命同盟会や、今は秘密結社でなくなった中国共産党などがそれである。なかでも宗教的秘密結社は強固な団結を誇り、医療を行なったり、拳棒を教えたりすることによって民衆の中に強く溶けこみ、とくに、山東の大刀会や河南の紅槍会などは、いずれも数十万の会員を擁していて、官憲でさえうっかり手を出せなかったほどであると伝えられている。
  義和団の結起によって「扶清滅洋」の旗印は中国全土にひるがえり、祖国の山河を洋夷に踏みにじらせてたまるものかとばかり、愛国の志士たちは拳と棒をふるって、各国の大公使館や居留地を攻撃し、ドイツ、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本その他の連合軍と約一ヵ年にわたって戦闘を交えたのである。
 しかし、この中国歴史はじまって以来の大規模な愛国的排外運動も、各国連合軍の重火器を主力とする近代兵器にはかなわず、あえなく屈してしまった。このときの状況を伝えたスコットランド出身のクリスティという記者の手記によると、拳と棒のみで砲火の前に突っこんでくる男敢な中国人の、死をおそれない姿に、恐怖にも似たふしぎな感勅をおぼえたそうである。

挙匪の乱として弾圧され拳棒は禁止
  はじめは陰から義和団を支援していた清朝政府は、義和団の敗色が明らかになりはじめると、手のひらをかえし、敗戦の責任から逃れるために義和団を乱賊として追討した。勝てば官軍であり、負ければ賊軍というのは、世界中に共通した歴史上の原則である。昨日までの愛国の志士は一転して国賊として追捕され、さしもの一大決起も、ついに拳匪の乱の汚名をきせられたまま終臆してしまった。時に西暦一九〇〇年のことである。
 この事件を契機として、武術としての拳棒の修行は厳禁され、民族運動の母体となるおそれのある各種結社や、武術修行の団体及解散させ、その指導者と目される人たちは逮捕され処刑されてしまったので、これ以後、中国において武術としての拳法は、社会の表面からほとんど姿を消してしまったのである。
  それからいくばくもなくして辛亥革命が起こり、清国の滅亡とともに新時代がはじまり、ピストルや銃がたやすく手に入る時代の到来によって拳や棒の必要性もうすれ、いつとはなく民衆から忘れ去られるようになってしまった。武術は見世物としての価値しかなくなり、わずかに生き残った人たちの手で、かろうじていくつかの武術が伝承されるにとどまったのである。
少林寺拳法の秘技(1)

  現在、中国においては、「練拳治病」をモットーとする太極拳が、盛んに行なわれているが、これは、武技というより保健体育を目的とする体操に近いものであることは周知の事実であろう。
  このように、中国では,ほとんど絶えてしまった拳法が、なぜ、現在わが国に伝えられているのであろうか。
  それは、私が昭和の初期に中国へ渡ったときに地下に潜行していた拳法の生存者に縁があって師事することができたからである。しかし、日本の敗戦という事態が起こらなければ、私は中国に永住するつもりであったから、日本に帰ることはなかったであろう。幸か不幸か、日本の敗戦が、拳法を日本へ移植する天の時となったのである。
  ただし、私が日本に移植し指導している少林寺拳法の技術は、私が学んだ中国の拳法そのものではない。それに、中国では過去のどの時代にも少林寺拳法の名で呼ばれたことはない。一般には、武術とか国術、拳とか長拳、六合拳、羅漢拳、把式、綿拳、檎掌、檸咬、猴拳、花拳、少林拳、太極拳、白蓮拳、義和拳、如意門拳、洪門拳等と呼ばれていたものであり、これらの拳技のなかに共通する原理を見つけ出し、技系ごとに再編し、なお私自身の実戦的体験も加えて、これに理論の裏づけを行ない、仏伝正統の「行」として再興したものが日本の少林寺拳法なのである。
少林寺拳法の秘技(2)


少林寺拳法は勝負が目的ではない


目的達成には正しい手段が必要
  どんなことをするにしても、きちんと正しい目的を持ってするのと、そうでないのとでは、同じことをしても、その効果や結果の現われ方は、まるで違ってくるものである。だからといって、目的さえ正しければ、なにをしてもよいかというと、決してそうではない。同じ目的を持ってなにかを達成しようとしても、手段を誤れば、おのずから行き先が違ったものになってしまったり、目的への距離が伸びたりもする。あるいは途中でへばって目的地に行きつかないことさえあり得る。
 目的を達成するためには、正しい手段が必要なのである。いくら目的が正しくとも、ただ心に念ずるだけでは実現するものではないことはいうまでもない。正しい手段を持たなければ、永遠に目的は果たせないばかりか、たとえば薬の選択や用い方を誤れば、かえって病をこじらせたり、死に至ることさえあるように、手段いかんによっては、目的をも誤ることさえ往々にして起こるのである。
 ところで、どのような手段であれ、手段自体のなかに、それと真剣に取り組むことによって自然に形づくられる、人間形成機能とでもいうような働きがあるので、なにを手段として選ぶかによって、その結果はまったく違ったものになってしまうことが多い。


  私が少林寺拳法を日本に移植して間もないころは、少林寺拳法どころか、拳法という名称さえ知っている人は皆無に近く,法律の憲法と間違えられたり、ひどいのは芸者のやる藤八拳などと間違われたりしたこともあった。そのころは、「少林寺拳法というのは、どんなことをするのですか」と聞かれることがほとんどであった。それが近ごろは、「少林寺拳法は、空手道や合気道とどう違いますか」という質問を受けることが多くなった.少林寺拳法の名が世間にひろく知られるようになり、武道の一種としての認識が定着してさたからに違いない。
  しかし、少林寺拳法は、あくまでたんなる武道ではなく、たんなるスポーツでもない,宗教法人金剛禅総本山少林寺に伝承する、心身一体の修養法であり、仏弟子の健康増進と、精神修養と、護身練咀の三徳を兼備する金剛禅宗門の行なのである。
少林寺拳法の秘技(3)
  もちろん、私は一般のスポーツや武道と、少林寺拳法の是非、優劣を論じるつもりはない。人生、なにを目的とし、その目的を実現するために、なにを手段として選ぶかという、人それぞれの価値感によって、要するに自分がやりたいか、やりたくないかという、主体的な選択の問題に帰するからである。まして、個々の技術の優劣を比較してみたところで、なにももたらさない。それぞれ本質が違い、在り方が違うのである。
  それでは、スポーツや武道と、宗門の行である少林寺拳法とは、本質や在り方においてどこが違うのであろうか。
  宗門の行といっても、少村寺拳法は座禅だけを行じたり、読経三昧にふけったりするものではない。身体手足を動かして運動を行なうのであるから、そのことによって、筋力や瞬発力や持久カなどの連動機能を養い、体位、体力を伸ばし、健康を保持、強化するという点では、またその訓練を通じて自分を鍛えるという点においては、スポーツや武道となんら変わるところのない共通性を持ってはいる。
  にもかかわらず、少林寺拳法は、はっきり違っているのである。

スポーツは勝つことが目的になりやすい
  まず、スポーツとの相違を考えてみよう。スポーツがスポーツであるゆえんは、なによりもルールをともなう勝負が中心になっているというところにあるのであろう。ラジオ体操などのように、ルールによって勝負を決することのないものは、厳密な意味ではスポーツとは呼ばないようである。
  だから、ルールを重んじるフェアプレーの精神-公正さや、勝利を目ざしてひたすらハード・トレーニングに耐え抜く粘り強さと克己心、チームプレーにあっては、勝利を得るという共通の目標に至るための協調性など、が、スポーツの目指す徳目としてあげられもするのである。
  それはそれですばらしいこと、だと思う。そうした徳目を否定する気は私にはまったくない。だが、勝負がある以上、どうしても勝ちたいという、人聞の本性に根ざした強い欲求は否定し去ることはできないし、それがある限り、どうしても勝負にこだわらざるを得ないのがおおかたの実情ではなかろうか。
  勝負性の強い環境のなかからでも、勝って、おごらず、負けてもくじけない真の強者が育つこともあるし、友好第一、勝負第二に徹して、スポーツを楽しむことのできる人たちもいないわけではない。しかし、参加することに意義があるはずのオリンピックで、ドーピングをはじめ、勝たんがための数々の反則が跡を断たないことや、ひろく国民にスポーツを普及することによって国民の体位体力を向上させることを目的として各県持ち回りとした国体で、開催県が優勝してメンツを保つための、いわゆるジプシー選手の問題が毎年取りざたされたりするのをどう考えればよいのだろうか。また、いかに審判の目をかすめて、反則をとられない反則を上手におかすかが極意だと公言したり、レギュラーになるために、チームメートに睡眠薬をのませたり、仲間のけがや失敗を喜ぶような一部選手の言動はなにをものがたっているのだろうか。
女子拳士もまざっての修行

  結局、「勝てば官軍」という事実の前には、どうしても勝ちたいのが人情というものである。そして、勝つということが目的であれば、ただ勝ちさえずればよい、勝っためには手段を選らばないということになりがちであり、やがては、自分以外はみんな敵という「己れしかない心」をつちかい、相手の不幸を喜ぶ心情を育てるところまで行きついてしまうことも、しばしばなのである。スポーツが、人間完成の手段となり得るためには、勝負にこだわる人間の弱さを克服できるかどうかにかかっているといえないだろうか。
  最近、スポーツ振興が強く叫ばれ、国や地方自治体がスポーツ奨励に真剣に取り組んでいることは、つめこみ主義万能、知識偏重の教育からの脱皮を目指し、行動力のある青少年を育成しようとする意味のあらわれとして評価してよい。
  しかし、スポーツの宿命ともいえる、勝負性の強い環境のなかで、青少年を、どんな人間を目指してどんなふうに育てるかを第一義に考えないで、ただ体育館や競技場づくりだけに熱中していると、真の意味での協調性を欠いた少数の選手だけを育てることに終わり、これまでもそうであったように、スポーツとは見て楽しむもので自分が汗を流してやるものだとは思わない人々がふえるばかりであろう。

武道とはなにか
  それでは、武道の現状はどうなのであろうか。ルールをともなう勝負があるのがスポーツなら、現今の武道のおおかたは、武道というよりスポーツと呼んだほうが正しいように思われる。現に、武道もスポーツの一種であると考える人のほうがはるかに多く、各武道団体自身も、多くは普及のため、争ってス。ボーツ化を図る状態にある。
  そのことの是非はおくとしても、やはり、武道はスポーツではない。もともと「武」という文字は、「二」「、戈(ほこ)」「止」二つの戈を止める)という三つの文字から成る会意文字(字と字を組み合せて一つの意味をあらわしたもの)である。戈は昔の闘争のための代表的な道具であるから、「両者間の争いを止める」ことが「武」の本義とされていたのである。
  西暦一二〇年ごろ、後漢の許慎(きょしん)があらわした『説文解字』という書物の中にも、「武(ぶ)は撫(ぶ)なり、止戈(しか)なり。禍乱を鎮撫(ちんぶ)するなり。禍乱を平定して人道の本(もと)に復せしめ、愛撫統一することが武の本義なり」
  と書かれている。
  無法者の悪事を止めさせたり、争いの仲裁をするようなとき、力のないものが口先だけで注意してみても、せせら笑われたり、自分が逆に暴力の洗礼を受けるのが落ちである。
  悪を制するには、悪を制し人道の本に復させるだけの力の裏づけが必要であり、争いを止めるには、争いの当事者を上まわるだけの力の裏づけがなくては、けんかの仲裁ひとつできないということであろう。このような正義の裏づけとしての技術が、「武術」というものなのである。
鎮魂行
  ところで、武器や、それを使いこなす武術そのものには、善悪もなく、責任も罪もない、それを使う人の在り方、用い方次第で、武器にもなれば凶器にもなる。巨大な武力の集団である軍隊でも、指揮者の考えが狂うとた変な凶器になる。個人の武技でも、ゆすりやおどしの手段に使えば、これは立派な凶器である。武術を修めるものが心を養わなければな上らない理由はここにある。武の本義に従い、武術を正しく用いられる人間になるために自分自身をみがく道、それが真の武道というものなのである。

スポーツと武道の違いは
  スポーツがルールを守ることによって試合をすすめ、ルールに従って勝負を決することを最大の特徴とするのに対して、武道には、ルールをともなう試合は、まず考えられない。なぜならば、武の本義に従う場合、相手は無法、非道のものに限られるからである。正しいものに対してはもとより、話し合って解決できる道理のわかるものに対し、力を振るう筋合いはない。かりにそのようなふる舞いに出れば、力を行便したほうが、それこそ無法、非道である。相手が無法、非道であればそれを制し、あるいは受けて立つのにルールが存在するだろうか。強盗に刃物をつきつけられて、刃物を持つのは反則だと抗議できるだろうか。「おまえの彼女を貸せ」とおどされたとき、警察に助けを求めるまでの時間かせぎにタイムを要求できるだろうか。
  試合をして勝つことが目的ではない。いざというときに負けないことである。スポーツと武道の決定的な違いはそこにある。
  悪を制するための力の裏づけはぜひとも必要である。現代日本のような平和な社会でも、チンピラにいいがかりをつけられたり、暴漢に襲われたりしないという保障はなにもない。警察の救援が間に合わないこともしばしば起こり得るし、第一、警察力というものは、なにか起こってからでないと発動されない場合のほうが多いものである。
薬師如来像
  世界に類を見ないほど治安の行き届いた法治国家といわれる日本でさえ、「急迫、不正の侵害」に対する正当防衛や、あるいは「自己または他人の生命、身体、自由もしくは財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ず」とった緊急避難という行為などが、「程度を超えない範囲」という条件つきではあるが、認められているほどである。やむを得ない行為とは、具体的にはどこまでかとか、程度を超えないというのはどの程度かなど、法解釈に立入る袋小路に踏み迷うようで際限がないが、要するに、振りかかる火の粉をはらいのける権利は、人間である限り、認められて当然ということであろう。そこまでいかなくとも、押し売り一つ撃退できないで、どうして胸を張って生きられようか。
  その意味で、悪に対決し、倒さなければ倒されるぎりぎりの死生の間に身を置いて、死を見つめることを通して生を見つめるとされる真の武道の在り方に徹することができるならば、自己確立の手段としては、きわめて高度なものといえるであろう。

自分さえ強くなればよいのか
  しかし、たとえ正義を守るため、悪を制するためであるとはいっても、終局的には力の獲得と、それにともなう自信を身につけるだけの道が武道であっててみれば、所詮,それはわが身一人の修練で終わらざるを得ない。もちろん、自分が強くなるために、負けないために、どこまでも自分を鍛え抜くことは、とかく「己れのない」人々の多いなかにあって、得難いことには違いない。だが、「自分だけが強くなる」ことを目指しての修練は、一歩誤ると「自分さえ強くなれば、それでよい」というところに落ちこみやすい。
  「己れのない」生き方を脱するための手段であったはずの武道が、「己れしかない」生き方を結果として生み出すことにならなければ幸いである。
 私は少年時代、剣道範士であった祖父から剣道を学んだが「親のかたきと思ってかかってこい!」というのが祖父の口ぐせであった。そして、まだ子供の私を容赦なくひっぱたいた。手ひどくなぐられるたびに、くやしくて、「畜生、いまにみていろ!」と心の中でくり返したものであった。そういう修練のなかから、ある種の根性のようなものも養われたが、いつか憎しみもともに育っていたことも事実なのである。
太鼓のひびきとともに
  たんなる殺人傷害術になり下がったものや、見世物まがいの芸を見せて、身すぎ世すぎの足しとするものや、ギャンブルの対象にしかならないものなどは論外としても、わが国のような尚武の国においてさえ、武道の達人というだけで天下を取った者もいなければ、大名にさえなった者もいないことを考えれば、社会とのかかわりを無視し、個々の強さのみを追求した武道というものの在り方に、本質的な限界があるように思われるのである。
  また、何々流、何々流と、何十派、何百派にわかれた武道の各流派の本質的な違いがどこにあるのか私にはよくわからないが、武道にしばしばみられる分派、別派のくり返しが、新しい創造へ向かっての前進であるよりは、むしろ他を認めない独善の道である場合のほうが多いように思えてならないのである。

少林寺拳法は宗門の行である
  少林寺拳法には、勝ち負けを争う、いわゆる試合というものがない。その点で、スポーツであるよりは、むしろ武道に近い。いや、少なくとも、護身の技の練磨を通して自信と勇気の獲得を目指すことでは、武道そのものであるようにみえる。
  しかし、少林寺拳法は、あくまで宗門の行であることを特色としている。どのような宗門の、どのような行であるかの詳細は以下に述べるとして、スポーツや武道との比較の上でいえば、目的である人間完成の中身と、手段となる技術の習得練磨の過程で生まれてくる人格形成機能の違いであると思う。
鏡開きに本山に訪れた外語の人びと
  「行」という字は、「+」という道路の象欣であるという説もあるようだが、「  」を「ぎょうにん、べん」と読ませることでもわかるように、人がもう一人の、子供か老人か、とにかく弱者を背負って、しかも同じ姿のものと向かいあった姿、「★」が、行であると考えている。
  いずれにせよ、仏教における「行」というものは、「上求菩提(じょうぐぼだい)」(向上を求めながら、自らが解脱する)と、「下化衆生(げけしゅじょう)」(生きとし生けるものを教え導く)の調和のもとに、自利、利他円満の理想世界の実現を目指す手段のことであり、他人の幸福を願わず、自己の向上だけを図るものは、真の意味での行とはいえないものなのである。
  少林寺拳法は、武道の流派の一種ではないし、私は武道の一派の流祖として、これをはじめたのでもない.私は中国で絶滅に瀕していた武技でもある拳法を日本に移植したが、それは争いを求め、相手を倒し、あるいは自己の名誉や自身の幸福のみを追求する遭としてではなく、相手を立ててわれも立てられ、人を生かしてわれも生かされる道、すなわち、行としてのものであった。
本山の修練道場で修行にはげむ男女の拳士たち


修行の価値と目的


十二年の修行の価値が十五円
  私はかつて、ある宗教雑誌で、面白い記事を見たことがある。それは、戦後、わが国を訪れた印度の聖者スワミ・ラムダス師を、故大宅壮一氏がホテルにたずねて対談したときの話である。大宅氏は、印度の聖者に向かって、次のような質問をした。
 「印度には、いろいろの行者がいて、人の心を読んだり、川の水面を歩いて渡ったり、細い竹ざおを立てて、その上で座禅をしたりする、不思議な法力を備えているというが、ほんとうですか」
  ラムダス聖者は、「そういう行者が、ヨーガの一派にいるように聞いています」と答えた。
 「それでは、あなたはそれをどう思いますか」と再び問い返すと、聖者は、ではあなたにひとつの物語をしましようと、次の話をした。
「昔、あるところに二人の行者があり、一人は不思議な力を身につけようと、一人は心の安らぎを願い、真理を悟りたいと念願しました。そして、二人は十二年間の修行を約してそれぞれ山に入り、修行にはげみ、十二年後の約束の日に、二人は目的を達して下山し、落ち合って人の住む討のほうへ出てきたのです。そうすると、橋のない、大きな川に出あいました、一人の行者は、得意そうに、さっさと自分一人水の上を歩いて渡り、行ってしまいました。さすがに十二年間の修行のたまものなのでしょう。置いていかれたもう一人の行者は、だまって小舟をやとい、船頭にこがせて川を渡りました。そして支払ったのは、今の日本のお金になおして十五円ほどだったのです」
  と語り、この話をどう思いますかといって、声を大きへして笑ったということであった。
  仮に、ある男が千キロ先の人の心を知り、空中を飛び、水の上を一人で歩いたとしても、印度人全体の生活は少しもよくはならない。そのようなことが一体、なんになるのだろうかと、現代に生きる印度の聖者は言い切り、十二年間の修行の結果得た不思議な神秘力なるものの価値が、わずか十五円の値打ちしかないと、大声で笑っているのである。
  念力なるものでスプーンを曲げたとか、止まった時計を動かしたとか、いわゆる超能力ブームが起こり、テレビ、週刊誌をはじめマスコミでも大々的に取り上げられたことがある。その真偽のほどはさておき、そのたびに、私はラムダス師のこの一記事を大変印象深く読んだことを思い出す。
  というのは、超能力とまでいかなくとも、わが国の宗教家や武道家のなかに、こうしたたぐいの不思議な力を得ようとして、無意味な修行に精魂をかたむけている人がかなりいることを知っているからである。
  中国で売武芸とさげすまれた技の切り売り屋や、ガマの油を売るにぎやかな口上の合い間の客寄せに、石を割って見せたり、居合術で青竹を輪切りにしてみせたりする大道香具師などは論外であるとしても、他人に技を見てもらい拍手をしてもらうことだけ、あるいは試合をして敵を倒すことだけを目的に特殊な肉体を鍛練するものは、印度の聖者に笑われたかの行者と、五十歩百歩ではなかろうか。
少林寺拳法の妙技
昭和の桃太郎になれ
  現代は戦国時代でもなく、切り捨て御免のまかりとおった江戸時代でもない。どれだけ居合い抜きが上手であっても、抜き打ちに人を切り殺すこともできなければ、どれだけ拳頭を鍛えようと、気にくわないからといってたたき殺すことも許されない時代である。
  このような時代に、山にこもって何十年修行しようと、人に見せるためや、敵を倒すためだけに瓦や石を割って見せたり、巻きわらを輪切りにしたり、関節をはずしたりなどの修行に終始することは、芸人ならばいざ知らず、普通人には無価値であると私は考えている。
  私は、よく門下生たちに、「君たちは昭和の桃太郎になれ」といって笑う。
  犬、猿、キジに信頼され、彼らを徳でもって統率する指導力、鬼ヶ島に乗りこむ正義感と勇気、降参すれば鬼どもをさとしてこれを許す慈悲心をあわせ持つ、賢くて、やさしくて、強い若者、そういう若者を多勢この日本に育てたいと念じながら、私はこの道に半生をかけてきたのである。
  少林寺拳法は、英知と勇気と健康を備え、現代をたくましく生き抜く自信を身につけ、同時に他人の幸せをも考えて行動できる慈悲心を養うことを目的として行じてこそ、価値があるといえるのである。


 

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