トップページ > 初めての方へ > 少林寺拳法とは? > 少林寺拳法の哲理
 


  少林寺拳法は"行"である。一般的かつ簡略な定義からすれば、武道と宗教との融合である。しかし、他方で一定の方向性と志向性を有するユニークな集団であることも事実である。
  では"行"とは何であろう。武道と宗教との融合として把えられる根拠は何か。また一定の方向性と志向性の内容と本質はいかなるものなのか。
 これらを、この短い原稿で説明し尽すのは、とうてい不可能である。しかし、少林寺拳法の本質を把握・理解させうるこれらの問題に部分的ながらでも一定の解答を与えておくことは、決して無意味なことではない。ここでは、その理想と理念と志向性の導入部分にふれてみる。
 
(一)武道的側面における思想的特殊性
 
社会一般に理解され認識されているのは、少林寺拳法は武道であるということである。これは、少林寺拳法が外形的に武道という形態をとっているためであり、武技としての少林寺拳法が、その本質や目的に到達するための主要な手段として広範に活用されていることによるものである。
  しかし、少林寺拳法における武としての技術は、その重要性にもかかわらず、自己変革と社会改造という目的のための手段であるにとどまる。少林寺拳法が格闘レベルにおける勝敗を目的としないというのは、まさにそういった少林寺拳法の武技一技術一に対する根本的思想なり、理念から演繹されている。即ち、少林寺拳法においては、もはやスポーツ的感覚における勝負・優劣の原理は貫徹しないのであり、たとえそれが闘争術として極めて合理的かつ有効であったとしても、それは「いざという時、身を守る技術」という偶発的危急時に対応する精神的・肉体的錬磨である、護身錬胆という範囲でのみ問題とされているのである。
  日常の修練形式においても、その理念は忠実に実践されている。即ち、少林寺拳法では、技術は自己の肉体的・精神的向上を図るための"行"として把えられているのである。
 少林寺拳法の技術は、勝負を目的にしていない。技術の修練方式も組手主体であって、すべてお互いを高めあうという目的の下に構成されている。手をとりあって技術を演連することにより、お互いに人柄を尊重しあい、向上を喜びあうという形式と考え方がとられている。
 即ち、少林寺拳法における武技は闘争の具・勝敗の具ではなく、まず護身錬胆、健康増進、精神修養を併せた「自己改革」の手段として存在するのである。

(二)宗政的側面における思想的特殊性
  少林寺拳法は、宗教法人金剛禅総本山少林寺に伝承される宗門の行である。即ち少林寺拳法は金剛禅という独自の思想と理念をかかげた宗門における主たる修行法に発するのである。
  宗教としての少林寺は極めてユニークな思想をかかげている。その教義の中心は、仏教の開創者釈尊の思想、哲理に依拠し、その具体的方法論は、禅宗の原流に系譜を引いている。とりわけ、大乗仏教の衆生救済、社会変革の理念が極めて強い。
  このように、少林寺は過去の思想・哲理の影響を受けているのは確かであるが、しかし決して、訓古考証学に陥ってはいない。あくまで現実に即応したものであり、実践と結合したものである。死んだ学問ではなく、生きた問法修学である。理論・思想は総て日常生活の実践生に結合してはじめて意味のあるものであるが、少林寺では、その理論と実践・思想と行動を完全に一致させている。もしくは、それが大前提とされている。
  少林寺では、神とか仏とかいう問題、来世とか天国とかいう問題は重視されない。教義の中心を、原始仏教における基本概念でも承るダーマ(dharma)においている。ダーマは釈尊の思想体系におけるのと同様、功徳を得るため礼拝する対象ではなく、生への自覚を得るため想念する対象である。また擬人的・個別的な空想の産物ではなく、超絶的普遍的な真理自体である。
  ダーマは学問的には"大宇宙の真理"とか"大宇宙の法則"とか訳されている。少林寺拳法においてもほぼ同義である。ダーマは、神の如く特定のものに作用しうる意思を持った存在ではなく、宇宙の存在そのものの根底に流れ、その動静を完壁に冷徹に支配している真理・法則である。
  少林寺では人生における、さまざまな事実と期待の二律背反から生ずる苦悩は、祈りや念仏・読経によっても救われない。寺院に多大な寄付をしても、お百度参りをしても解決しない。現実を虚心坦懐に直視し、その障壁を乗り越える努力を自ら行なわなければ、苦悩から脱却できないと考える。少林寺においては、神秘とか奇跡とかいう他力的観点は総て排除されているのである。
  少林寺では、神の代りに人間が中心である。従って、その哲理も、神学的性格ではなく、人間論的・人生論的性格をもつ。少林手拳法は人間のあり方・生き方(総称して「道」という)を説く宗教であり、現実における人間の幸福を追求する人生哲学である。人生における苦悩や矛盾と対決し、これを克服するのが中心的課題である。
 少林寺は、その解決の手段を神とか仏とかいう抽象的かつ外的な存在に求めるという他力的なものではなく、具体的存在である自己の変革と向上に求めるという自力的な宗教である。その意味で少林寺は、観念的・空想的宗教ではなく、極めて実践的・科学的宗教なのである。

(三)国思想の中心 調和主義
 少林寺拳法の思想の中心、そこに貫徹する根本理念は、調和(ハーモニズム)である。調和とは、二つの全く相反する性格をもったものの創造的融和であり和合である。この融和・和合は二つの事象の肯定的側面、積極的側面においてなされる。少林寺拳法における拳禅一如・力愛不二・剛柔一体・組手主体などの少林寺拳法の特徴を現す代表的語句は、みな調和思想の具体的表現である。
 拳禅一如というのは、表面的理解からすれば、拳の修行と禅の修行はともに重要であり一致させなければならない、ということであるが、本質的には、肉体と精神との調和でありさらに掘り下げれば、物質主義と精神主義の和合である、即ち、自己の変革においても、社会の改造においても、肉体と精神の両面の改革が、物質と観念の双方の改造が必要であるということである。この意味で物質構造(下部構造一の変革に重心をおくマルキシズムとも、精神の変革にのみ問題の解決を試みようとする観念論とも異なる。
 力愛不二も同様である。少林寺拳法では「力なき正義は無力なり、正義なき力は暴力なり」という明快な命題があるが、力愛不二は、まさにこのことを言っている。
  力とは、あらゆる局面における現実的・物理的な諸力を指し、愛とはそれに対応する理性的・人間的な精神性を示す。このような二つの相反する性格をもつものの一致・和合こそが、ものごとの本来の理想的状態をもたらすと考える。
  自己と他者(あるいは社会)という関係においても調和主義が貫徹する。確かに、自己と他者は否定的側面からすれば、相容れぬ背反する存在である。しかし全く逆の面からすれば、補助しあいもちつもたれつの存在である。少林寺拳法では、このうち後者の関係が採択され、自己と他者の葛藤、淘汰ではなく、共存共楽が志向される。
 対立原理は否定され、調和と共栄の原理が前面に押し出される。「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」という少林寺拳法の代表的テーゼは、この集約的表現である。
  勝負を争い敵を倒すことを目的としないというのも根本にはすべて調和思想が流れている。少林寺拳法は、調和思想をあり方や手段そのものの中にも徹底せしめようとしている。ここにおいても理念と実践の一致が図られている。

(四)自己変革、社会改造への志向性
  少林寺拳法の創始者である金剛禅総本山少林寺管長宗道臣師家は、少林寺開創の動機と目的を次のように述べている。
  「私が少林寺拳法を日本に移植し、絶えて久しかった仏伝正統の行として復元、再興した動機は、外地に於ける敗戦という極限状況のもとで、さまざまな人間の赤裸々な行動をつぶさに見聞して、政治、経済、法律などのどれをとってみても、人の心に発し、人の心によって左右されること、つまり『すべては人の質にある』ことを感得したことにある、また、天孫民族と自称し、八紘一宇を唱えた戦前の日本人の誇りや自信といったものが、実は人間性に深く根ざしたものではなく、封建的な遺制のもとにつちかわれてきたタテの社会構造に依存する虚構にしかすぎなかったことも痛感したからである。
  こういうことから、敗戦直後の、道義心も愛国心も失い、生きる理想まで失っていた日本の青少年に、剛健な肉体と不屈の精神力を基盤とした、自信と勇気と慈悲心を植えつけて、ほんとうによりどころとするに足る自己を確立させるとともに、砂粒のようにバラバラで、団結することを知らない日本人に、人間関係の在り方の基本と、ヨコのつながりの大切さを教えて、自他共楽の理想境を、まずこの日本につくりあげたいと念じたのがはじまりであった。
  そのために、面白くて、そのうえむずかしくて、習熟するのに何年もかかる少林寺拳法の技を手段として、強さを求めて集まってくる青少年に、人間として必要なこれらの考え方、生き方を徹底して、たたきこんできたのである。
  私は少林寺拳法を通じての、この人づくりの運動を金剛禅運動と名づけ、三十年の間ひたすらうちこんできた。自分の幸福をほんとうに大切にするが、半分は他人の幸福を考えて行動できる若者を多数育てること、新しい民族意識を身につけ、社会正義を実現する勇気と行動力にあふれた、身心ともにたくましい青年を育てることこそが、遠まわりのようではあっても、平和で豊かな日本の未来をひらく、ただ一筋の道であると信ずるからである。
  社会のあらゆる分野、あらゆる階層において、相手の立場にも立って考え、かつ行動できる人が一人でも多く育てば、世の中は必ず変わる。金剛禅運動は、そういう人づくりの運動なのである」。
  これが、社会運動体としての少林寺の原点である。以上で明らかなように、少林寺拳法の目ざす究極の目的理念は、現世における人間の幸福である。個人の福利と精神の安穏、その集積としての社会の福祉と平和の達成が追及されている。少林寺拳法では、この目的・理想への到達手段を自己変革と社会改造への両面に求める。
  自己改革は、人間個人個人における肉体及び精神の改造である。個人は神とか外的な物質によるものではなく、自己の正統な努力による肉体と精神の改革・向上により精神的平安と幸福が達成されうるとする。
  こうして、個人個人が精神的にも肉体的にも健全化し、自己改革への一定の志向性を得ると、それと同時的に社会改造が主体的に進行される.
 少林寺拳法における社会改造は人間改造を根本的手段とする。即ち「人間が良くなれば社会は良くなり、人間が悪くなれば社会は悪くなる」というのが、その哲学である。社会の構造形態を創出するのは人間である。社会は人間の集団であろから、その動静は人間の意志により左右できるという前提に立つ。とりわけ、社会の各層、各部のリーダーの精神構造、行動様式が、その社会の状態の決定に大きな影響を持つと考える。従って、社会を理想的状態にするには、まず社会のユニットである人間の改造が必要であり、彼らが理想的社会建設への志向性を堅持することが必要条件となる。
  少林寺拳法では、社会の幸福は精神的豊かさと物質的豊かさの双方が兼具されていることが条件であると主張するが、これらも結局は人間側の問題に帰する、精神文化を創造するのも人間であり、物質を活用するのも人間である。つまり、人間の存在形式自体が社会の存在形態自体を規定する。このように、少林寺拳法の思想は、極めて人間主義的である。
 なお少林寺拳法における変革は、個人の場合であれ、社会の場合であれ、段階的・漸進的な永続変革であり、一時的・急激的な単発変革ではない。これは少林寺拳法が、頓悟ではなく、漸悟を旨としている北禅の系統を受持しているからである。
  以上が少林寺拳法の哲理の概要であるが、これは最初述べたように、あくまで哲理へのイントロダクションである。これにより、少林寺拳法が明確な理念と志向性をもった社会教育団体・社会運動団体であることを若干でも認識いただければ幸甚である。


『少林寺拳法 ◎日本少林寺拳法創立30周年記念 THE SHORINJI KENPO』
監修/宗道臣 徳間書店 昭和52年12月10日発行 P.141-145 より

【関連】少林寺拳法とは何か 仏教と金剛禪の接点

トップへ
戻る