トップ > コラム&ノート > 法形とはなんだろう? > 法形は何故こんなに多いのか?


A:34 名前: ウ〜ム、1よ! 投稿日: 2001/01/10(水) 18:51
だまって見ていたかったんだけど一言いわせてもらうが。
少林寺をやっていて思うのは、とにかく技を覚えるのが精一杯、(数が多すぎる!)すぐに強くなりたければフルコンやりなさい。同じ時間練習するのならば、単純なことを反復してウェイトでもやるのが一番。きみは少林寺の武術体系が見えなかったんだね。もしみえていれば1のような発言は出てこなかったろう。 じっと鍛練を続けて行ったすえに見えてくるものは、君の言う町場のけんかの道具とは比べ用も無く素晴しいものなのに。簡単なことなんだ。
難しいものには時間がかかる。目先に捕われることなく、鍛練を積み重ねることなんだ。
ここは615期生の超私的法形感丸出しのページです。なんか文句あんのかぁぁゴルァ!!アァ?( ´Д`)σ)Д`)ァゥァゥ

■皆で強くなりたい
■形式知化が進んでいる


■皆で強くなりたい
  先に、「剛法法形なんて10種類もあればいい」と書いてますがそれはあくまで個人レベル
の話
であることをまずお断りしておきます。少林寺拳法にはたくさんの法形があるということは、少林寺拳法の体質上とても大切なことだと私は考えています。そしてまた、「なんて少林寺拳法はよく出来ているのだろう」と考えてしまう点でもあります。
  まず、たくさんの法形がある利点は、少林寺拳法に入門することで様々な技術に自然に触れることができるという点です。そしてその様々な技術群が己れに合った戦術組成を可能にします。法形の多さは材料の多さ、戦術組成の幅の広さに繋がるのです。

  少林寺拳法は「人間完成の道」です。だからこそ段位にしたがって法形は得意不得意はあれどどれも、一通りちゃんとできなくてはならないと私は考えます。自分の戦術組成に無い法形ももちろんです。必ず後輩にそれらを自信を持って説明できなくてはなりません。
  なぜなら特定の法形のみ、自分の得意な法形のみしか後輩に教えることができなければそれは、後輩の可能性を狭める以外の何物でもないからです。提供できる材料の種類がが少ないというこです。ゆえに、我々拳士は数多くの法形ができなくてはならないのです。そしてその法形とは「守の法形」であるべきです。このような材料の提供という視点に立てば、科目表は偏りを失くす為にあるのだとわかります。
  少林寺拳法は組手主体が特徴です。「私は強くなるから、君も強くなれ」。「皆で強くなりたい」というのは他の武道にはまず見られない、極めて誇るべき特徴です(似た内容を挙げているところもあるがどこからその考えに至るのかはまず書かれていない)。拳法という単なる格闘術を、少林寺拳法では「人間完成の道」であり「宗門の行」であるとする由縁はこれです。くどいですが、これは誇っていい特徴です。

  個人の強さを追及すれば、多くの法形は最終的には不要になると思います。これは他武道では時折顕著に見られます。「我が★☆★流の(技術的)真髄は〜にある」という表現が見聞きされますが、私は「何年もやってそれが自分に合わんかったら嫌やな……」とかセコイかなりセコイこと(^_^;考えてしまいます。上の戦術組成で言えば、「待気構からの戦術組成しか教えてもらえないという環境」と例えることもできるかもしれません(もちろん自分に合えばとってもなによりもお得!!)。それは個人の強さのみを求めた格闘術のあり方と私には見えます。それが悪いものでももちろん劣っているものでもありません。多少の技術的な向き不向きは、指導者がちゃんと指導すればそれが致命的に悪い結果にはならないと考えられるからです。しかしそれは私たち少林寺拳法が目指すものではありません。
  私は「技術が合わなかったらいやだ」という理由から少林寺拳法をするのでなく、少林寺拳法のこのような姿勢が好きなのです。だから2ちゃんで「他流へ行けば?」と言われてもまったくなんとも思いません。私は少林寺じゃなきゃ嫌なんのです。

  色々な他流を経験した方々に話を聞くと「結局全部少林寺でできる気がする〜」と何人も仰っていました。私自身も少ない他流との稽古の経験で同様なことを感じたことがあるため、現在この意見を鵜呑みにしています。(^_^; (しかし私は他流をまだまだ経験するつもりです) なんか幸せなことに少林寺拳法にはいろいろ入ってるという実感がありますし教範を見てわかるようにかなり技術的には慣用です。これは運用法のというものが大会ルールというもので規定されていないといことで、一極特化していないことが一因かもしれません。しかし組織として特化していなくても、個人としては特化していないと拳法なんて嘘です。多芸は無芸に通ず。「何でもできる」が「強い」という意味ではないことは常に意識すべきです。



■形式知化が進んでいる
  法形がたくさんある、つまり「たくさんの技術に名称が振られている」ということは、次世代に伝える時に大変有利です。少林寺拳法には多くの突方・蹴方・受方等ありますが、これは別に名前が付いているかいないかの違いで、おそらく動作自体は多くの他流でも見られるはずです。幾つかの突方・受方が一つの名前で呼ばれてることもしばしばあるでしょうし、少林寺拳法以上に細かく名前が付いている場合もあるでしょう。とは言いつつもやはり少林寺拳法は法形が多いし、各種動作にちゃっかり名前が付いてる。横拳で突いてもいいし、甲で蹴ってもいいのです。

  ここでまた、いつも通り話が逸れます。記号学の本を読んでいると、次のようなカキコがありました。

「ものを考える」とは、
1。命名する働き(対象の固定化)
2。判断を下す働き
3。推理するという働き
4。推理の結果を合体的に、体系的に捉える

らしい。ここで重要なのは、「命名する働き(対象の固定化)」です。これは至極当たり前のことですが、見落としがちな点です。人間は名前のないもの(暗黙知)については、考えること、思考するができないのです。何でもいいから名前が必要です。「三丁目のタバコ屋でいつも店番してる目付きの悪いおばさん」という風にいわゆる「名前」では無くても何かしら必要です。何かしら名前を付けて概念を固定しないことには思考の対象になれないのです。思考が巡らないのです。また、さらに重要なこととして、名前の無いものは他者には伝わりません。また名前があったとしても、「三丁目のタバコ屋でいつも店番してる目付きの悪いおばさん」という名前では伝達の度合いはかなり悪くなります。当然でしょ!? つまり適切な名前を付してやるということは、とても大切な仕事なのです。

  さてさて、拳法も例にしてみましょう。ここでは逆小手系列を例にします。
少林寺拳法
命名してないA流派(読まなくてもいいよ↓)
@ 逆小手 逆小手
A 小手抜 逆小手的に抜く方法
B 逆手投 相手がねばい時の逆小手の応用1
C 龍投 相手がねばい時の逆小手の応用2
D 外巻天秤 逆小手掛けようとしたら相手の腕が伸びた時の技
E 巻込小手 両手で後ろに捻られそうになった時の逆小手の応用
F 両手逆小手 諸手で握られて捻られたり引かれた時の逆小手の応用
G 合掌逆小手 相手の手首を活かしたまま投げれる逆小手の応用
H 逆片手投 うんたらかんたらな逆小手の応用
ぷにっぷにっぺもっぺもっな逆小手の応用

  もし、私が「命名してない流派」の先生から逆小手以外の技を教授していただいたら、、、 日々の稽古が表のような感じで「こういう時はな〜こうじゃーー」「これも逆小手の応用じゃ!!」「逆小手でこんなこともできるーー」「逆小手万能!!」とか言われるわけでしょ!? これはかなりつらい。つらすぎる。初めからこのように導入されると、頭で整理できなくなります。
  Aのような名称で稽古することは少林寺拳法でも当然あります。守破離の考えをちゃんと持っているからです。しかしこのような稽古スタイルを級拳士のうちはほとんどしなかったと思います。級拳士は重点的に基礎を、「守」を身に着ける段階だからでしょう。それに「〜の応用」という表現は少林寺拳法の稽古でも頻繁に聞けますが、あれは「腕が伸びた」とか「ねばい」という大分類のそれより細かい分類の話です。少林寺拳法ではありがちな、大きな分類については一通り名称が付いています。
  命名することで、カリキュラムを細かく作ることが可能です。皆で強くなりたい、フランチャイズ武道少林寺拳法には科目表制作が必要でした。現在の法形数は科目表制作の過程で落ち着いた数なのかもしれません。
  また、もう一つ考えてしまうのが、またセコイですが、私が30年後に弟子をとっててこれらを伝えることがあった場合、たぶん三つくらいは伝えるの忘れる気がする。つまり失伝。だって名前の無いものは認識できないんだもん。

  名称が無いと合同練習会に行っても不便です。名称がある、科目表があることによって、拳士は法形という共通言語を得ました。隣地区の先生は「相手がねばい時の逆小手の応用」のことを「相手がかけにくい時の逆小手の応用」と呼んでいるかもしれません。なーんだ、「相手がかけにくい時の逆小手の応用」てのは「相手がねばい時の逆小手の応用」のことか〜と整理していくわけですが、逆小手ですらいろいろと掛け方あるのに、ほんとに頭で整理していけるだろうか!? というか教授法として頭悪くないか? むしゃむしゃ( ´)Д(`) 教わる側はちょっと表現が変わっただけでも結構パニックです。少林寺拳法内でも逆小手ですら結構バリエーションがあることを思えば、また拳法の技術なんていくらでも派生するので、適度に名前を付けていくことが如何に大切かがわかると思います。
  名前が無いと不便だ不便すぎる!! 記号学の教えに従って適度に命名するほうが絶対利口だ!! もしかしたら秘伝などの理由であえて名前を付けてないのかもしれませんが、少林寺拳法の「皆で強くなりたい」というし思想の前では不要な考えだ…と思う。秘伝・・・

  少林寺拳法は、段位が進むと自然にそれまでの技の応用が学べるように科目表ができてます。つまりそれまでの技の「破」と、また新しい「守」を学べるようになっていると言ってもいいでしょう。法形の多さは例題の多さと考えるのはこのためです。
  ですから、名前がたくさんある、法形が沢山あると言うことは私は歓迎です。失伝するよりはずっとマシです。ましてや自分の師匠の代で失伝なんてされた日にはいい迷惑です。泣けます。訴えたくなります。たとえいくら法形が多くても、その根本となる理法はそれほど多くなく、その理法が普遍である以上、法形が増えてもそれは理法を学ぶための例題が増えただけと考える方がましです。ましてや技術をより良く後輩に伝える、人間完成の道である少林寺拳法では、失伝なんてしてたまるか。とな

  一つ名前が付いているだけで、1。説明もしやすい。名前が付いている(形式知)からこそ全員が2。認識・共有できる、結果、法形に対する知識が3。蓄積されやすいという実経験は出稽古行けば誰でも感じたことがあるはずです。他武道から来た方が、「少林寺拳法は細かく教えてくれる」というのは、まさに認識を共有することによって知識が蓄積されまくった結果だと考えます。

法形が多いのは、
・皆で強くなりたい少林寺拳法の思想に合うんです。
・皆で共有しやすくするため。つまりよ形式知への変換が進んでいるということです。
・個人レベルでみても、これは教育的配慮として有効に機能します。

だから『多いよ〜』とか嘆かないように。楽しく稽古すべし。

御山の写真
雪を被った高い山
雪と雲を被った大きな山
雲を被った山
マチャプチャレ(ネパール)
ユングフラウヨッホ(スイス)
ツークシュピッツェ(ドイツ)
名前があると便利です。

法形とは何だろう

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  少林寺拳法では「あの先生の〜は(特に)すごい」という話はあっても、「少林寺拳法の奥義はこれだ!!」という話は無い(「少林寺拳法奥義」という書籍はあるがw)。これは少林寺拳法のこのような体質のせいかもしれません。つまり一流派の中に様々なタイプの先生が共存しているのです。他流であれば既に独立しているんでは?と思うような厳つい先生が多数存在します。もし独立していれば、その先生の得意なスタイル(戦術組成)を、「我が★☆★流の(技術的)真髄は〜にある」として門下生に伝えるでしょう。一般的に独立して別派とができた場合、門下生同士の交流は難しいものです。交流できない環境は、単純に考えると技術の幅を狭めてしまうことになりますから極力避けるべきです。
  しかし武道の世界では別派旗揚げはよくあります。別派旗揚げの利点を一つだけ言うと、組織の新陳代謝の役割を果たすことがあります。大きくなりすぎた組織は重たいですからね。指導者への制限が多くなりますゆえ、別派が出来るのかなと考えてみたり。まぁ少林寺拳法の場合はたいてい、支部設立によってそういうのは適度に解消されています。支部によってかなり雰囲気が違うのはそのためでしょう。でもこんなに雰囲気が違う支部もまた共存しているというのが少林寺すごいところです。

  よく「武道が目指すところは、流派を問わず同じだ」ということが言われます。その向かうべき手段が違うだけだという意味です。禿同。あまり少林寺を持ち上げると2ちゃんで煽られそうですが、それでも言いたい。少林寺はその一流派内にたくさんの手段を備えている流派だと私は信じている。だから少林寺の先生には、キックみたいな動きの先生や合気道のような柔法を使う先生があちこちで混在しているのだろうと私は解釈しています。
  ビスキュイさんが、「少林寺は弱い強いというよりは、便利な技術という感じだ」というのはまさにその通り。「あいつの柔法はまるで合気道だ。あんなの少林寺じゃねぇ」なんて陰口叩く暇があったら練習しろ。要は投げれればいいんだよ。

  護身術という観点から見ても、同門に様々な攻撃を行える者がいるてのは有利です。
  また最近、「一つ一つ法形が出来るようになっていくのが楽しい、そして一つまた一つ出来るようになることが自信になる」、という話を聞きました。法形の多さは、問題集・例題の多さであり、たくさんの法形があるということは、目指すべき高みへの階段が沢山あるけど一段一段は低い。そういった教育的配慮にも感じてしまいます。
  少林寺拳法はその目的に向かって、よく作られているなぁと感心する日々です。