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「法形」の位置
  
 私のカタ稽古における認識はこのようになります。少林寺拳法の法形演練は赤のあたり。青は少林寺拳法以外のカタ稽古を有する流派です。どちらかと言うと青タイプのほうが一般的であると思います。これは優劣の話ではなく法形演練の特徴の話です。基礎やって基本やって打ち込みやって地稽古やって試合出場とかって流れでa〜cを順を追って履修していくわけです。
 先人はcからaに向かっておりてくる、カタとかそういうものを制定しくれます。修行者はaからcを目指して学んでいきます。少林寺拳法は意図的にaまで降ろしてないと考えています。良くも悪くもこれを選んでいると思うのです。

 カタ稽古は先人の戦いのエッセンスを凝縮したものではあります。これは法形演練も同様ですが、その濃縮具合には差があると思います。カタを行う理由は流派によって様々ですがおおかた以下のようなものが考えられます。

  1. 格闘技術の練習
  2. 流派の戦術術理の学習
  3. 基礎の鍛錬
  4. 流派の哲学の学習
 少林寺拳法にはVの要素がありません。無いといえば嘘になりますがその要素は極めて薄いと言わざるを得ないように思います。少林寺拳法で乱捕り稽古が不足していることについては多くの方から指摘される点ですが、実にもっと音が深い点として基礎が足りないという点があげられると思います。基本ではありません、基礎です。
 基礎向(a)よりも運用(b)寄りをやっているので、スタートダッシュは早い。開祖が書いていたとおり、「少林寺拳法は習ったらすぐ使える」が売りの一つでありましたが、やっぱり基礎がないと頭打ちは早い。別に試合でガチガチやりまくらなければ、社会人にはそれで十分なんですけどー。
 基礎とは「少林寺拳法の基本」を身体に宿すための身体を持っているかというとことです。かっこ良く言えば「武道的身体」は養われているかということです。多くの流派はこれをカタで養います。単純な筋肥大のトレーニングとは異なります。


 私はリアルに数度聞いたことありますが、みなさんはどうかな。「少林寺拳法の法形は実践的だ。●●の型は姿勢が不自然だ。実際戦う時にあんな姿勢はしない云々」。これは極めて恥ずかしい誤認といわねばなりません。

 多くの基礎鍛錬とは一見不自然な姿勢を強いるものがたくさんあります。しかしそれは見た目だけでは判断のできない、身体の中の細かい筋肉であったり、刺激であったり、感覚的なものを養っています。武芸の稽古にはそのようなものはたくさんあります。
我々にもあります。例えば直突です。人間の体には直線動作を行うギミックはまったくありません。曲線動作の関節を複数組み合わせて拳を直線的に演出しているだけです。でもこの不自然な動きは現代格闘技ではもう外せない要素です。他には最近だとナンバ歩きなんてのもありました。
このようなもののはいくらでもあります。一箇所身体を固定して動いてみたり、一箇所に全身を集中させてみたり。楽な方に逃げたい身体をあえて立てておいたり、握りたくなった手を握らないようにしたみたり。芸を身につける時には必ずこのようなものを伴います。武芸に限らず。適度な制限がより自由なものを生み出すからですね。


●「習ったらすぐ使える」
 話を戻しまして、少林寺拳法は何故基礎の要素が薄いのか。おそらく少林寺拳法は意図的に絞っていたように考えます。良く言えば基礎がなくてもある程度は使える技、そのようなものを選んできたのでしょう。その理由は、少林寺拳法開創の動機と経緯を考えれば明確です。
  • 少林寺拳法は強い武道家の要請を目的としていない。
     開祖は格闘的に強う人間の要請を最終目標としておいていませんでした。現代に活きる青年の育成を目指していました。その手段として拳法を用いたにすぎません。基礎鍛錬は地道な努力と時間が必要です。少林寺拳法の通常思考は「拳法ばっかやってんじゃねー。社会人としてもっとやることあんだろ」ですから。
     
  • 開祖の拳歴
     こーれはちょっと危険な話題ですが、開祖は若いころは国内でいろんな人からいろんな武芸を学んでいます。大陸の方で今となってはどの程度学んでいるのかその多少は明確ではありませんが、あれだけの期間大陸にいて触れていないということはありえないように思います。それは少林寺拳法の風格を見れば、国内に似たものがないことからも、「何かしら混じってる」のは確実です。
     開祖は大陸にいた頃、義和団・天地会・三合会・洪門のような結社と親交があったといいます。このような結社では様々な拳術・拳棒の類が修練されていたわけですが、こういう結社はいわゆる軍隊の一面もありますので、何年間も基礎鍛錬をしてられない。軍隊格闘は「習ったらすぐ使える」ものが求められます。軍隊格闘では徒手は最終手段ですけど例えば金的目打です。
     開祖はこのようなものをたくさん見ているはずですので、「習ったらすぐ使える」をわざわざ選出していたはずです。いや、実際は知らんけどね。でも(大陸の)義和拳にそういう特徴があったの史実です。
 

法形演練て、たしかに相対演練だから、いわゆる地道に基礎をつくるよりは手っ取り早い面があると思います。これは良くも悪くも少林寺拳法の特徴であることは間違いありません。しかし繰り返しになりますが、基礎がないと頭打ちも早い。


●基礎とは
  ざっくり言ってしまえば筋トレでも構いませんw 少林寺拳法はなんか筋トレを嫌う空気を感じる時がありますけどこれはまずい。身体を作るというのは動きたいように動ける身体を作ることです。そして動こうと思わなくても動く身体を作ることでもあります。最低限の筋力と身体感覚は絶対に必要です。スポーツ科学の世界では、トレーニングと技術は両輪であり共に伸びていくものと考えられています。

 それが何故少林寺拳法だけは例外なのか。そんなことはありえない。古い先生方だって若いころの話を聞けばちゃんとやってますよ。そもそも戦後の人間は基礎体力が違うという面もありますけどー。
女子プロゴルファーが報道で言ってましたが、下半身の強化に取り組んだ、だからスイングが安定して飛距離が伸びた。ゴルフの話で聞くと大抵の人は「なるほどそうだろうね」て思えるのに、何故少林寺拳法だけが例外なのか。理解に苦しむ。柔軟な動きや強い下半身等々は武芸でも必要なものです。
もっと「武道的な身体」というならば例えばこんなんもあるでしょう。

  • 背骨から動こうYO!
  • 重力つかってみようYO!
  • 肚をキメちゃおうYO!!
  • 人体てねばいよね!!
  • 足の裏がムズムズするだろう!?
  • 皮膚一枚!!
  • 相手を感じちゃおうぜ!!
  • 面で触れちゃう、身体で触れちゃう!!
  • むしろ呑み込んじゃうすり抜けちゃう!!
とかとかとか、なんかいろいろあるでしょう。
 基礎というのはまさに基礎なんであります。身についてくると本当に適用範囲が広い。まさに一般解であります。ちょっと具体性が見えるからって特殊解だけで満足していると、事例のたびに特殊解を増やしていかなくてはなりません。

 少林寺拳法には基礎が足りない。身体が動かない状態で、手首コネコネ、頭で拳法は完結するものでしょうか。基礎しなきゃいけないと言いたいんでないんです。基礎したらもっと拳法楽しいよて言いたいんです。だってだんだん身体が思うように動いてくるんですぜ。楽しいに決まってんじゃん!!
 法形でも基礎鍛錬がないわけではないと思うのです。でもその濃度は極めて薄いと思うのです。それこそ法形で基礎を要請しようとするなら300年くらいかかりそうな印象です。もっと積極的に基礎を養ってもいい!! と思うんだけどなぁ。

 きっと、「いや、やってますよ」て拳士の方もいると思うんです。結構いるとは思うんです。でもそれは個別にされているのであってカリキュラムとして全体が成されてるとは言いがたいのが現状に思います。



●法形演練が少林寺拳法修練の要
 法形演練は少林寺拳法修練の根幹であると思います。基礎を乱捕りをすればするほどそう感じます。しかし以上私の考えでは、法形演練は意識しなければ基礎と運用を伴いません。これは重要な認識です。
 もっと法形を広くやりましょう。狭いものにしないでいただきたい。やりようによっては基礎にも運用にも使える可能性があります。ただの試験科目で終わらないよう、願っております。



【関連・参考】『風格のある演武』
>練習をしていると次第に自分の身体が我がものであって、実は我がものでないのだと気がつく、
そして我がものとするまでには、かなりの時間がかかるものである。


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