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ここは615期生の超私的法形感丸出しのページです。なんか文句あんのかぁぁゴルァ!!アァ?( ´Д`)σ)Д`)ァゥァゥ

■法形の目的
■法形と格闘〜戦術組成とは

■法形の目的
  法形とは、実践で用いられる格闘動作の一部を切り出したものだと私は考えます。そして法形の目的は、

@格闘技術学習
A理を学ぶ
B体を作る・体を練る

があると考えています。
  格闘動作の一部は法形として名を受けた時点で、単なる切り出しではなく様々な教育的配慮が加わっていきます(たぶん)。教育的配慮とは主に「各動作の強調」という形で現れています。強調された部分がある以上、それは実践の場では時に無駄となることもあるでしょう。「法形は乱捕りでは使えない」という考えの原因には、先に書いたように、1.伝わってた情報が「形式知」であることと、この「2.強調」されているということがから生まれるていると考えます。
  教育的配慮は、科目表の中でも随所にも見受けられます。よく似た法形が並んでいるということはその典型例です。そのため組合せることで私が複合法形Uと呼ぶような組合せも容易に作れます。また三級技に、送四指捕ではなく送小手、また下受蹴・下受順蹴・上受突などが入ってきている点もおそらくそう教育的配慮でしょう。

もういっちょ:下受蹴・下受順蹴について
  私は級拳士に教える時は、あえて運用から外れてもいいから、下受でしっかり腰を切り、蹴でさらにしっかり腰を返すように指導しています。はっきり言ってこれは白帯には難しすぎる。でもこのような腰の切返は少林寺には大切な動作であるためあえて行ってます。だから私には、三級科目にこの二つが入れてあることが教育的配慮に見えて仕方ない。
もういっちょ:上受突について
  上受→中段突→熊手の動作をすると見事に腰がガシッガシッガシッと返る。だから私には、三級科目にこの法形が入れてあることが教育的配慮に見えて仕方ない。

という私の主観です。
  しかし各動作を強調して、大きく動くことは大切だと考えます。特に基本では動作を大きくするべきです。三崎先生の動作はとても大ききく、それはけして大柄ではない三崎先生を大男に見間違えさせるほどだったと聞きます。ある拳士が三崎先生に「私は先生を真似して大きくしてるのですがこれでよいでしょうか?」と尋ねた時、先生は「ちゃんと理に適っていれば、大きくしていくことは大変に良いことだ」と仰ったそうです。これは三崎先生が言うから説得力があるんだな。ウンウン
  普段から小さい受や運歩をしていると、実際の運用の場ではさらに小さい動作しかできないものです。



  型稽古は無意味なのか?で書いたように、教えられる段階では必ずモデル化が行われています。だから法形を自由攻防で使うためには、乱捕り稽古を日常的に行い自分に合う形に調節(Tune up)する必要性があるのです。教わった時点で自分に合っているという場合ももちろんありえますが、あまり期待できることではありません。

  「@格闘技術学習」については後述します。まずはA、Bについて。

  「A基本・理を学ぶ」については、突蹴受はもちろん他にも運歩であったり、構え・体裁き・各種理法など様々なことを法形を通して学ぶということです。これはよく認識されていることであると思いますのでこの程度で。

  「B体を作る、体を練る」については、認識にかなり個人差があるのでは? と思います。これは、健康増進はもちろんですが、武芸・武術を行ううえでは、より優れた「筋力」や「身体感覚」、「身体操作の能力」が必要となるたるためです。教範内にも、「体を作る」という表現がいくつもありますし、三崎先生の「風格のある演武」の中にある「自分の身体が我がものであって、実は我がものでないのだと気がつく」という表現は、まさにこの「体を練る」という武術の用を指していると思われます。
  本来ルールの無い武道の世界には完成というものが無く、その為ありとあらゆる可能性に対して常に配慮しなければなりませんでした。そのような状態では、全身を満遍なく鍛えることが必須事項であり、それは筋力はもちろん、感覚器官または五感の強化にまで及ぶものだったと考えられます。
  蛇足ですが、こう考えていくと武道と(東洋)医学、または武道と禅(精神世界)の関わりが見えてきます。優れた武道家にとっては、突や蹴というものはその研ぎ澄まされた身体操作技術の壱所作に過ぎず、型を学ぶことはその優れた身体操作技術を日々構築していくためのものであると言えます。太極拳などに見られるゆっくりとした動作はこの身体感覚・身体操作能力養成を強調したものでしょう。恐ろしや恐ろしや。


■法形と格闘〜戦術組成とは
  実際に法形を通して、格闘術を学ぶ場合、必ず軸となる技術(これもあるいみ正中線)を体得しそこに肉付けしていくという形が必要です。法形はその道具・材料です。そしてその法形を組み合わせ、戦術組成を通して我がものとしていきます。戦術組成とは何でしょう? てゆーても、私は本山の運用法講習受けたこと無いので知りませんがw  人伝いに聞いた話を反芻して考えると一様考えがまとまりました。なんとなく辻褄も合うので、私なりの戦術組成の解釈をここで書かせていただきます。

  剛法法形には、一つの攻撃に対して、幾つかの法形が対応しています。言い出すと細い使い分けがあるのでしょうが、それはあえて置いといて。「私が」強くなるためには、こんなにたくさんの法形は必要ないと考えています。例えば上段突に対してはせいぜい一つ二つで充分だろうとも考えています。
  実際にありえる攻撃のパターンを分類してみると、

・上段直突
・中段直突
・直蹴
・上段廻蹴または振突(左右)
・中段廻蹴または振突(左右)
・下段廻蹴(左右)
・金的蹴

  左右も数えて10種に分類しました。明らかに数ある剛法法形よりも少ないワナw まだ、手刀内などの「振下ろし系」や柔道的な「掴み」など他の攻撃も考えられますし、上の分類内でも人によっては統合できるものもあるでしょう。ですが、ひとまずこれだけに分類しておきます。ちなみに分類は各人の考えと経験に基づいてこそ意味があるものなので自分で考えることが肝要です。

  自分で分類が済んだら、この10種に 一つずつ対応策を当てはめていけばいいのです。対応策は法形に限定して考える必要もありませんが、大抵は法形で見た動きになってしまいますし、やはり法形を材料とし参考にすることが我々には便利です。
  さて10種類定めるということは、それはつまり剛法法形は10種類あればいいということでしょうか? うん、実はそうです。何十何百種類もの法形は必要ないのです。無駄とは言いませんが必要ないと言わせていただきます。あとは選択した法形を重点的に練習することが大切になります。上段直突が来たと思ったら迷わず「内受突」する。「内受突」ならすべての上段直突を返せると思う、自信が付くまで、また実際に返せるようになるまで練りに練る鍛錬が必要です。
  ここで第一に重要なのが「迷わなくなるまで」ということです。戦術組成が不明確なままであれば、上段直突に対して「内受突」で対処すべきか?「外受突」で対処すべきか?などと迷うのです。また迷う以前に重点的な練る稽古をしていない場合、突に対して対応すらできないかもしれません。攻撃は刹那的な短い時間で完了するものなので、「迷う」という表現は不適切ですが、相手の動作を見てから「これはなんの法形だったけ!?」なんて考えてしまうことは初期の頃はよくあることです、これを言っています。しかし、そんな流暢なことでは加撃されてしまいます。いかに自然に即応できるか。戦術組成を行うとは、「迷わない」「より早く、より自然に即応する」という態勢を前もって作っておくこと(=つまり戦術・組成)なのです。
  もし自信が付いてきたなら、その時初めて新しい法形を加えてみましょう。内受突に自信が持てて余裕が出来れば、試しに10回に1回は外受突でもしてみましょう。また先を取って一手「目打」加え、千鳥返にしてもいいでしょう。もちろんこれらは、いわゆる格下の相手との時に試したり練習するのです。格上の者と練習している時に無理出す必要もないでしょう。「軸となる技術に肉付けをする」とはこのようなことです。これを繰り返してより幅のある動き、多様な法形ができるように心掛ければ、拳法が一生楽しめそうな気がするのは私だけでしょうか?イッヒッヒッ
 くどいですが、ヤヴァイ時は「迷わず」「軸となる技術」で対応したほうが利口ですよ。

  剛法・柔法を分けて考えていくとあまりよくないのでのですが、柔法は攻撃がそれほど被らないし、原則となる捕り方はせいぜい数種類ですから、クソ真面目に法形通りでもいいかもしれません。しかしこれも当たり前のことですが、柔法法形を数種類に整理すること!! 数百種のままだと、「そこを掴まれたらこの技はできない」という言い訳を(素人の)友達に言わなければならないようになります。カコワルイ(´д`;三;´д`)

もういっちょ:
  本山の運用法講習で一つ気になるのが、どの程度「自分で戦術組成を作れ」と言っているのか? です。
  現在は「待気構」からの例が広く解説されているようですが、これはこの戦術組成を作った方の戦術でありこれを他者がそのまま真似しても仕方ないのです。これは一例であることを幾度幾度も言う必要があると考えます。
  残念ながら、現在の拳士の多くは法形を定型の技術(死んだ法形のこと)であると考えている気がします。守破離なんて知らんのです。このような現状では、法形のワンステップ上の型と見ることができる「待気構からの戦術組成」を説明しても、これまでの法形演練同様、そのまま真似することで終わってしまうのではないでしょうか? これでは今までの構造と何も変わりません。大切なことは「法形」にしろ「戦術組成」にしろ自分に合ったスタイルを模索していくことだと思います。この辺かなり心配です。
だって聞かないんだもーーんo(゚Д゚)っ 「自分で戦術組成を作れ」て。

型稽古は無意味なのか?  法形は何故こんなに多いのか?

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 そもそも、守破離や当身の五要素、先などの考え方は、かつての武芸ではどれも「奥義」とされた部類のものでした。どれも武道の最重要概念です。そして戦術組成もそうです。これらを当たり前のように最初から教えているのは少林寺がまさに「皆で強くなりたい」という証。技の切り売り流派ではないという証。でも当初に教えているため、多くの拳士のはその意味を軽んじてしまうのかもしれません。普段から意識していれば、基本・法形・乱捕り・演武すべてに幾度となく現れてくる概念ですよ。