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313 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:04/10/17 03:31:30 ID:dnhf7Xv7

法形修練および演武。法形を十分につかいこなそうがどんな演武をしようが実戦では体は動きません。
副読本にはいろいろかいてあるがはなから乱捕りしたらええんちゃうんとおもわれ。
強くなりたいのならネ


『兵法の道をならひても、実まことの時の役にはたつまじきと思う心あるべし。』(五輪書,  宮本武蔵 執筆1645年)
 兵法の道を習っても、実戦には役に立たないという考えもあるであろう。


■自分で試すこと、経験すること
■型稽古は無意味なのか?
■法形は応用・変化してよい、
というより応用・変化しろ
■型稽古だけで強くなれるのか?

■自分で試すこと、経験すること
  また早速話が逸れますが、大学受験の時にお馴染みの公式に「解の公式」がありますね。これですな。
(a≠0)・・・@
・・・A

 @の式で(a,b,c)が示されている時、Aの公式を用いてxの値を容易に求めることができます。具体的に用いてみるとこのようになりますわな。
  a=1 ,b=2 ,c=1 のとき x=-1
  a=1 ,b=5 ,c=3 のとき x=4,-9
  a=1 ,b=2 ,c=4 のとき x=-7,5
  a=2 ,b=4 ,c=6 のとき x=-9,7
  a=2 ,b=8 ,c=3 のとき x=8,-12
 …
これらxの値は、実際にa,b,cの値をAの式に代入してみれば求められるものですね。


  解の公式は二次関数の一般解を示したものです。つまりモデル化されているものです。高校数学では基本である「解の公式」の使い方は(a,b,c,)の、(A)値を代入してxの値を求める」ことが基本の用い方ですが、(B)分解」・(C)変形」等することでより多くの使い方がありますね。また他の公式と組み合わせることにより様々な問題を解くこともできるでしょう。
  (A)以降や「他の公式との組合せ」という実際の解法は、大抵が暗黙知寄りだと言えます。ある程度は経験的に習得していくものです。授業や予備校の先生もヒントはくれても、本当に核となる解法は詳細まで逐一教えられるものではありません。このような暗黙知は問題を多く解くこと(=運用してみる)により自分で身に付けてくしかないということは、誰でも経験のある事実だと思います。評判の良い参考書をいくら読んでも実際に手を動かして問題を解いてみなければ問題を解けるようにはならないし、何処が解らないのかすら分かりません
 (A)「値を代入してxの値を求める」の使い方さえマスターできなかったと言って、「解の公式」は使えない公式だと言えるでしょうか? 

  また多く示される例として英語学習を示したものもあります。英語を学ぶ時、国内でしっかりと文法など学んでから海外に行くか、それともいきなり海外に出て本場の英語に触れるか。前者はしっかりと学ぶ割にはなかなか喋れるようにはなりません。自信もまたあまり付きません。後者はとにかく喋れるようになりそうですが、大変な苦労を伴います。どちらがよい学習法でしょうか。
 このページのテーマに照らしあわすとすれば、前者の学習は無駄だったのか? といった考察になりますが、多くの場合は決して無駄だという判断には至らないでしょう。英会話にしても、日常生活程度、大学講義聴講レベル、ビジネスレベルなど様々なグレードがあるはずです。これらを得るためには、座学も実践も必要でしょう。どちらかだけでダメでしょう。しかし実践を伴えばより座学の重要性が痛感するはずです。


■型稽古は無意味なのか?
  法形も数学で用いる公式と同じようなものでしょう。法形は実践でよく使われる動作の一部を切り取ってモデル化されたものです。実際にはモデル化を経て要所が@強調されていることも多々あります。なにより他者から伝えられている時点でそのA知識(形式知)はモデル化されている(一句道え02)ので、その情報は (元の情報り一部が切り落とされている)不完全な情報です。もしそのまま不完全なものを「覚えるだけ」であれば、法形なんて使えなくて当たり前です。それはまさに型にはまった法形でしょう。(百尺竿頭と守破離)

  さらに師弟では体格・経験・意識など様々な諸条件が違うのです。優れた指導者のこういった諸条件への配慮によって決まるものだと思います。指導者は技はできて当たり前、如何にその技を弟子に合わせて伝えることが出来るか、どれほどの幅があるか、これがとても重要です。
  伝えられた情報は必ず己れのモノとする作業が必要になります(暗黙知への変換)。Tune up、Brush upですな。その作業は武道界においては自由攻防を伴った練習で培っていくのが一般的ではないでしょうか。運用練習=乱捕りの目的が「粗探し」と言われるのはこのためでしょう。ただし、「自由攻防を伴った」というのは、「完全に制限を外した」という意味ではありませんのでお間違え無きよう。法形とは大変よく練られた例題です。しかしほんとに「例題だけ」では、解法を体得できないのです。「死んだ正解より、生きた解法」の体得を目指していただきたいのです。
  知識は集約されるのようにモデル化は必然なのです。型稽古を行わない流派でも、最初は「〜のときはこのように対応します」という練習をするはずです。必ずです。 「型稽古なんて無駄だ!!」と言うような奴は、指導員がローキックの受方教えている時に、「その時ハイキックだったらどうするんですかーーーーー?」とか聞くイタイ香具師だ。
指導員「( ゚Д゚)ハァ???今はローの説明なんですが何か?」

■繰り返す
 何か一つ、しっかりとしたものを身につけようとするならば、繰り返し練習しなければなりません。この練習内容が自分で構築したものかまた誰かから教えられたものかという違いはあれど、この「繰り返す練習」というものが形そのものであることは言うまでもない。「形は無意味」とかいう人は浅はかだ。


■法形は応用・変化してよい、というより応用・変化しろ
  法形演練にも段階があって、技量が増せば内受突が「上段突にしか使えない訳ではない」ということは言うに及ばず、また上段突以外には「使ってはいけない」なんてことも思わないでしょう。これらを理解できる者は「型稽古なんて無駄だ。」「相手が型稽古の通り突いてきてくれるとは限らない。」なんてことは言わない!! 

  内受突は上段突に対する技として当初習いますが、別に攻者の意地悪もしくは愛で中段突が来たって致命的に困らないでしょう?(この場合は下受突と呼ぶほうが適切かもしれませんが) 内受が内押受に変化させれば、振突にだって対処できます*1。内受突は対上段直突限定の技でなくてはならないということは無いからです。また守者の反撃も中段直突でなくてはなら無いということもないでしょう。むかしの拳士はの話を聞けばまた科目表を見れば、かなり幅広くやっています。
*1「内押受→振突OK」、ではなく直突ではなく振突が来たから内押受になった「振突来た→内押受」というのが思考ルートが真っ当)
  左の写真はを基礎の内受突としましょう。いわゆる守破離の「守の法形」ですね。守者は中段への逆突で返しています。
  対して右は様々な方法で返しいます。肘・膝・体当たりです。
膝を使っても内受!!として良し!! そんなことにこだわるのは素人!! 相手が白帯(=素人)だったらこだわってくれ。
  肘を使うのは間合いが「やたら近かった時」でしょう。膝を使うのは…(この写真からじゃよくわからんが)たぶん「体が大きく開いてしまった時」などでしょう。体当たりになるのは「超近間だった時」かな? これらに1.別の名称を与えて別の法形としても良いし、単に2.内受突の変化・応用として捉えてもいいでしょう。ここで言いたいことを確認しますと、
内受突は→肘・膝・体当たりに変化してもいい。
と言う事では無く、
法形は→場合によって応用・変化していい。
と言うことです。もちろん初めて法形を教える場合は、「守」の内受突をきっちりと教わらなくてはなりません。そもそも応用・変化は「守」の法形が当然できることが前提だからです。しかしいつまで経っても「守」のみ、「法形は応用・変化してよい」ということを教えることができない、教えない指導者は無能だ!! とはっきり言いたい。
  少林寺拳法が伝統芸能になる根源です。それは衰退です。

  もし型稽古を、本当に一定の「型」としてのみ捕らえていれば、法形は法型になります。それはもう伝統藝能です。その場合は「型稽古なんて無駄だ。」「相手が型稽古の通り突いてきてくれるとは限らない。」と馬鹿にされても仕方ない。法形を単なる定型の攻防と認識してはいけません。



■型稽古だけで強くなれるのか?
  強くなれると言えばいえばなれるし、強くなれないと言えばなれません。どちらも真です。世の中には、「型稽古だけ強くなれると言う人」と「型稽古だけでは強くなれないと言う人」という異なった意見が存在します。なぜこのように意見が分かれるのか? それは「型稽古」に対する認識が違うからです。

  前者の人の型稽古とは、おそらく「広がりの有る型稽古=生きた型稽古」だと思われます。上の内受突で示したように多少の攻撃の変化は一つの型で対応できるような稽古を普段から行っているはずです。「法形を応用・変化する」ということを知った者の意見です。
  対して後者の型稽古は、おそらく「広がり無い型稽古=死んだ型稽古」だと思われます。内受突を習っても上段逆突にしか対応できない、対応しようとしない。このような稽古を積んできた者、またそのように教えられてきた者でしょう。

  当然我々が行うべきは前者、「生きた型」の稽古です。副読本には「法形を十分に使いこなすために」という項目があり、次のように書かれています。
■法形を十分に使いこなすために
  「乱捕り」とは、法形の運用法を学ぶための、限定あるいは自由な攻防を伴なった修練方法です。少林寺拳法の中心となる修行法は「法形組演武」ですが、これはややもすれば、一定の形を覚えるだけに終わりやすい面があります。形を覚えることは大切なことですが、それにこだわり、そこにのみとどまっていては、型にはまってしまうことになり、護身術としての自由な働きを失ってしまいます。
  そのために、法形修練に際しては、一定の形を演練しながらも、身体の即応能力を養うように心がけなければなりません。法形を固定した型としてとらえず、機に臨み、変に応じて変化させ、法形を十分に使いこなすようにしなければなりません。
『少林寺拳法副読本』より


 少林寺拳法教範が参考にしたとされるある本に以下のようにあります。
「されば常に木太刀をもって修練の巧を積み、その上面小手等を用ひ互いに革刀を持て「法形の非打」と唱へ、定式の遣ひ方に鈍く隙あれば打太刀より、その非を打つなり。當流十世酒井信文師の遺書に曰く、今より100年以前(文政八年)までは、此守行(しゅぎょう)のみにて上手になりたり。気強き人は、面小手なしに木刀にて法形の非を入れたりと。故に一心少しも油断ならず。油断すれば木刀にて素面素肌を打たれ、怪我することもあり、恰も眞劍の勝負に近し。故に自然と上手名人も出来たるなり。百年以来太平の世となり、諸士勇薄くなるに従ひ、面小手革刀を始めたり。胴を用ふるは文政八年乙酉年より四十年以来なり。信文師鎗の修行始めたる時時分は面に装束せるのみにて月代と耳より後は素肌なり、故に敵を見るの外少しも脇見することならざるなり。その頃の稽古は専ら心氣の据り、敵の素槍の閃くに驚き恐れざる處の修行のみを第一になせり。今の人は法形を見事に使はんとし、入身仕合になれば見事なる受けはづしの業のみ心懸くる、之を古人は化粧武藝と云ひて捨て足り。心氣の動かざる處を日夜に修行すれば、早く穢い汚き心退散し、上達も亦速やかなり。是を眞の武士の守行とす。心氣不動の位に至れば眞劍の場と雖も、少しも心臆すること有るべからず。然るに今の士は、非打を打つに非ずなどと曲解し自分相手にあらざるも自刃を持って働く處へは心怯れて近寄ることを好まざるが如きは、是れ全く一心り劍錆て磨かざるが故なり。省みざるべけんや。」

「兵の形は水に法(かたど)る」という言葉が用いられています。通常この孫子の文句は"法る"ではなく"象る"という字を用いますが、この本は"法る"と書かれていて、法形とは"流"に要素があることを強く説いている。この孫子の格言が教範にも引用されていることは周知の事実。そして最後にこのように締めくくる。「「流」の秘義が即ち此れ法形の意味である。」


  乱捕り稽古をしていると、とっさに出た受けが何気に内受に似ていたとか、上受に似ていたという経験は誰でもあります。これは体にこれらの動作が刷り込まれ始めているということでしょう。これらは法形を通して培われたものだと私は考えます。私の場合少林寺拳法を学ぶ以前は、単に萎縮してしまうだけだったように思います。
  しかし、さらに乱捕り稽古を行っていくと、法形の通り、そのままではまったく対応できないという経験にまた誰もが直ぐに突き当たると思います。繰り返しになりますが、ここで法形(技術)には「守破離」があるということに気がついて欲しい。少林寺拳法ではかなり初期に「守破離」を学ぶのです。私にはまだ破や離というものを体現できない未熟者です。しかし私は、法形は応用・変化させていいものだと知っているし、乱捕り稽古の自由攻防の中で法形そのままではない動きの中に、法形を感じることが多々あります。だから私は「型稽古が無駄」だとは思いません。
  二次方程式解くなら、まず「解の公式」を覚えるところから始めても損はありません。


  「守→破」とは、形式知を暗黙知に変換する作業です。そして「破→離」とはこの変換作業を幾度と無く反芻することにより、新たな形式知を生み出すということと言えます。暗黙知・形式知の変換作業は、人類進歩の本体です。「守破離」無くして「個人の技術」も「拳法自体」も進歩することは出来ません。

「型稽古は無駄だ!!」と言う奴は放置もしくは説教!!
・教わる段階で多かれ少なかれモデル化(型化)は行われている。
・教わるモデルをそのままの運用しようということにはもともと無理がある。
・法形は点ではない。法形には広がりを持たせなければならない。
法形は応用・変化してよい、むしろ応用・変させろ!!( ゚Д゚)ゴルァ!!
『兵法の道をならひても、実まことの時の役にはたつまじきと思う心あるべし。其儀においては、何時にても、役に立つやうに、万時に至り、役に立つやうにしゆる事、兵法の真の道也』(五輪書,  宮本武蔵 執筆1645年)

法形は、伝統芸能ではない


不二観02 知識は集約される 法形とは何だろう

アインシュタインがね、言うとったよ。
「数学の法則が現実にあてはまる限り、それは正確ではない。正確であれば、現実にはあてはまらない。」

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