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不二観における特に大切なひとつを取り上げてみたいと思います。それは観と行であります。
この二つはとても分かりやすいので、まず載せました。まさにそのまんまです。 まずみる。目がある 数学で行きましょう。原点から見た地点Aは座標法かベクトル法で表せますね。座標法ならA(4,3)ですね、x軸に4、y軸に3ということです。ベクトル法はx軸から36.9度の方向に、5進んだところにAがありますね。これは表記が違うけど、Aを表している二つの方法です。 |
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そんでベクトル法です。ベクトルは「向き」と「長さ」で表す方法です。今回の話で言うなれば、「向き」は「観」で、「長さ」は「行」です。まま長さというよりは、それを伸ばしていくという行いのことなんですけどね。 |
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実社会でも何か目標があって努力が始まるわけです。向かうところを定めずしてそこに向かって歩くことはできません。また歩いているといってもどこに向かっているのか分からないというのも片手落ちです。もちんそのような模索はあります。しかし模索とは多く場合、どうやってたどり着くかということであってやはり向かいたいところは漠然とでもあるものです。本当にない人は歩かないものです。歩けないのです。 我々は有限な存在です。いつかたどり付くよ、ではダメなのです。ダメと言ってはいけないかもしれません、しかし昔の僧はそのように考えました。著作には「人としてようやく生まれたこの一生をなんとか活かしたい。」みたいな言葉が沢山出ててきます。仏という高い目標に向けて古人は目標を定め、それは師を信じてまっすぐ行じたものです。 現代を生きる我々においても、この構造は変わりません。目標を定めて行う。この二つは切り離せないものです。 観は目であり、行は足であります。 そして実践がある。我の足で歩く これは有名な逸話ですね。三歳の子供でも分かる、でも80歳の老人でも行うことは難しい。私たちの稽古でもよく言われることですね。「分かっていると、できるは違う」と。そう、行うこと・実践することは難しい。それが平凡なことであればあるほど、日常的なことであればあるほど難しい。これは私たち誰もが日々実感している通りであります。 観と行、実にこれは絶対に不可分の道なのです。 プログラムをインプットしたら、必ずアウトプットしてみるものです。そうでないとちゃんと動くか分かりません。もう一度書きます。
仏教ではこの当たり前のことを大切にするのです。少林寺拳法は知ることばかりで、自分で試す、自分で経験をするという稽古が極端に不足しています。知ることを否定しているわけではありません。しかしこれらはひとつなのです。 般若心経が、「観自在」で始まり「掲諦」で終わるという完璧な構造に萌える。 そう、少林寺拳士は掲諦掲諦。実践してこその少林寺拳法、て聞いたこと無いですか? 【参考】 一眼二足〜 天方と地位と力愛不二 ※七仏通戒偈しちぶつつーかいげ 「すべて悪しきことをなさず、善きことを実践し、自己の心を清むること。これ諸々の仏の教えなり。」 えーと、ご存知ですかね、これ。昔は少林寺拳法でも鎮魂行のときにこれを唱えていました。聖句の一番目に入ってました。一番目ですw これは大変に有名な喝です。覚えといて損は無いです。少林寺拳法やる上でも実社会でも。 内容は、すべて悪いことはしません、から始まります。これの難しいところは「すべて」が付いているところです。何一つ悪いことはしない、これは厳しい。生活の中でも何気ないことで、「ほんとはこうしたほうがいいんだけど〜面倒だからこれでいいや( ・∀・) 」てことも、アウトです。そして「善きことを実践する」。実践、実践、何気ないことですが、これは本当に難しいことですね。そして自己の心を清めるて言うんですけど、何が悪で何が善いことなのか、それは自分の心が最後は決めるからその心を清浄に保ちなさいよ、善悪の決め付けは自己に委ねてくる、寛容というべきか厳しいと言うべきか。人は他人には嘘を付けます。「一生懸命やりました」と。でも人は自分には嘘を付けないのです。一生懸命やったかどうか、それは自分が知っています。 そして諸々の仏がそう言ってましたわ、と締めくくる。この諸々の仏というのも実に仏教臭い!!! この喝は「七仏通戒偈」とも言われます。何が七仏なのかというと、仏教では祖師釈尊すらある意味一般化してかかるのです。釈尊すら特殊解にしない。そうすると、悟りを開いたのは釈尊だけじゃねーだろと、きっと過去にも悟った方々がいるはずだとなったので、どういう経過は知りませんが、先に六人の悟ってる仏がいました、てことになりました。だから七仏なんです。釈尊だけじゃないよっ!!てのが実に仏教臭い。 その上、通戒喝ですよ。通戒。つまりこれは皆が共通して言ってたことです!!てんだ。裏返せば、その他は互いに違うことも言ってるてことです。それぞれの諸仏も別個の存在ですから、その境涯やら時代などで、それぞれに言いたいこと言ってるわけです。これすごく重要な認識です。違いがある、という認識です。全員が同じこと言ってる、じゃ無いんです。絶対じゃ無いんです。当たり前です、それぞれに主体が異なるわけですから。我々の法形の解釈や認識に若干差があることと同じです。 でもね、でもでもね、それでもひとつ共通してたところがあったよと、それが通戒喝。違うところがある。でも同じところもある。あぁ仏教臭い。その通戒喝の内容がこれですよ。智慧がありますな。 ※力愛不二 力愛不二は昭和40年手前に最後に加えられた少林寺拳法の特徴ですけど、これが入れられたことは大変良かった。もしこの言葉がなければ、金剛禅は仏門として最低限の要諦を持たないままになるところだった。例えその教えがあっても、このように明確な勧行一如、行念一致の概念が加わっていなければ、金剛禅はあまりにも不完全なものとして認知されそして笑われただろう。ちゃんと入れてくれてありがとう開祖!! さすがだぜ!! あとは我々が実践するだけだな。 |
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ギンギラギン〜さりげなく〜♪ これが不二観
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