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ぜんぜん拳法の話ではありません。ごめんなさい。

次のような方はとばして下さい。型稽古は無意味なのか?
  • 「知識は集約される」の意味が聞いて、「当然だ」とすぐに思える方。
  • 暗黙知・形式知という言葉を知っている方。不立文字の意味が分かる方。
  • 読むのが面倒だという方。せめてこちら一句道え02(不立文字)

■知識は集約される〜「愚者は経験からしか学ぶ、賢者は歴史から学ぶ」
  まず今後の話のために、確認として書かせていただきます。要旨は「知識は集約、モデル化(体系化)される」です。
  どういうことかといいますと、よく言われる例として遺伝学で有名なメンデル(1822-1841オーストリア)をあげます。彼は8年間を要してあの「植物雑種に関する研究」を研究しました。しかし、この結果を私達が学ぶためにまた8年間を要することはありません。高校で1時間もあれば充分にその要旨は理解することが出来ます。つまり重要なポイントだけを学ぶことが出来ます。これが集約の例です。
  数学や物理学で登場する公式・定理、そして拳法の法形もその例でしょう。モデル化の作業は情報の「理解」と「伝播」を助けます。すべての体験・経験を反復していたのでは人は進歩できません。「愚者は経験からしか学べないが、賢者は歴史から学ぶ」という言葉もこの作業の存在を示唆しています。
  もちろん「経験」と「記録(歴史)」とでは、得られる情報量に大きな差がありますが、モデル化されているという考え方をしっかりと認識・理解していることはとても大切なことです。しかし、今後の文章では、経験も重視しているという点は忘れないようお願いします。


●言葉や文章は、すべての現象を表現しきれない
  人間の脳により「言葉」は日々生み出されます。言葉は脳と脳の外界を含めたすべての情報を言葉により表現・記述しようとします。しかし言語では、現実(外界)の膨大な情報を「完全に」描写・蓄積することができません。言葉により記述される内容は必ず不完全な情報になります。なぜなら脳は外界よりも(空間的に)遥かに小さく、そもそも脳の能力自体にも限界があるからです。よってそこには必ず不要な(=重要ではない)情報を切り捨てる、つまりモデル化するという作業が必要になります。もっとも着目した情報に焦点を合わせて、モデル化はなされていきます。
  具体的に考えられるように例を出しましょう。下に私がインドで撮ってきた二枚の写真を載せました。これらをあなたが隣人に伝える時、どのように表現するでしょうか? その表現は、他人と比べて同一でしょうか? まず同じにはなりません。着眼点が異なることもあるでしょう。同じ点に注目していても表現が違うこともあるでしょう。実際問題、あなたがどれほどこの写真の情報を他者に伝えきることが出来るでしょうか。人物の服装・性別・年齢、または背景などすべての情報を言葉で表現しきることはかなり困難で、なおかつ着目すらしなかった点が必ずあったはずです。そのような情報も含めてすべてを伝えるといことがいかに難しいことであるかはお分かりいただけると思います。
  

 

これが言語が「すべてを表現しきれない」「すべてを表現しきれていない」ということであり、また情報がモデル化されている実例です。これを禅宗では「不立文字」といいます。なお情報がモデル化されているというのは、「言葉になる」に限ったことではありませが、一代表例としてここでは使っています。この写真もまた情報の一片であることに変りありません。つまりこの写真について最も情報を持っているのは、撮影者である私です。写真を撮る現場に居合わせた「経験」を持つ者だからです。ですからこの「経験」と比べると、写真は情報の一片ということになります。 【関連・参考】 真実と事実

  モデル化の作業には個人差があり、またこのモデル化された情報の解釈にも個人差があります。そのため、同じ言葉・表現を用いても、まず等質の内容を伝えることが出来ないものです。(フツーは出来ない)
  このジレンマに対して、ヒトは表現を変えて様々に形容してみたり、身振り手振りを加えたり(例:「師事して会得のこと」はこれ) して情報量を増すことで補おうとします。しかし多く場合これでもすべてを伝えきることは困難なことであることはご理解いただけると思います。このような「つたえきれない」というジレンマは、モデル化の作業、主要でない情報を「切り捨てる作業」により必然的に生まれるものなのです。「筆舌に尽くしがたい」という表現はこういう事情で生まれます。開祖も教範を書いたとき、「書いても書いても言い尽くせぬ、しかし書き過ぎても余計に分らなくなってしまう。ムズイっす(~_~;)」みたいな事を言ってましたね。
  しかし情報のモデル化は最初で書いたように、理解と伝播には必須です。


■我々は、語ることができるより、多くのことを知ることができる
〜暗黙知と形式知
  「暗黙知」と「形式知」という言葉があります。科学哲学者マイケル・ポランニーの作った概念です。
誰それ?さぁ?(?_?)
暗黙知とは、「特定状況に関する個人的な知識であり、形式化したり他人に伝えたりするのが難しい」「個人の体験に基づく知識」のことです。(人間一人ひとりの体験に根ざす個人的に知識であり、信念、ものの見方、価値システムといった無形の要素を含んでいるとも)
形式知とは、「この種の知識は、形式化が可能で容易に伝達できる。形式的・論理的言語によって伝達できる知識です」のことです。(文法にのっとった文章、数学的表現、技術仕様、マニュアル等に見られる形式言語によって表すことができる知識とも)

  上のインドを例とすると、各個人が持つ写真のイメージは暗黙知であり、「右の男は赤いモノを被っている」という表現(言葉)は形式知です。各人が固有に持つイメージが暗黙知であり、他者に完全に伝わる・伝えれる情報が形式知です。養老さんでも思い出しておくれ。
  自転車に乗ることや、味覚や嗅覚に関すること、歩くことなど明確に表現できない「知識」は「暗黙知」です。M・ポランニーは「我々は、語ることができるより、多くのことを知ることができる」と言っています。例えば、自転車に乗ることについて考えてみると、この「自転車に乗る」という動作を厳密に測定・検証・記述し、
・〜度の姿勢で
・〜の力で
・〜の速度で
・アウーアウーで〜
漕げばうまく乗れる。。。というようなことが客観的事実が解ったとしてもそれは無意味です。人はそのような客観的なデータのみを得て自転車に乗れるかといえば、もちろんまず無理だからです。しかし私たちは回数を重ねることでたいていの人は自転車に乗れるようになるでしょう。体で覚えるというやつですね。経験を通して暗黙知を獲得・蓄積したからです。
  本を読んだだけで泳げるようになりますか? 聞いただけで魚が下ろせますか? 見ただけで拳法が出来ますか?
  このように、形式知のみではうまくいかない動作が多く実在します。それらは暗黙知によって制御・補完されていることが多いのです。これは拳法の技術の多くにも当てはまることです。



  ヒトの活動の中で「暗黙知」を「形式知」に変換するという作業は、人類・文明が発展するうえで重要なお仕事です。またその逆も然りです。いわゆる「考えを整理する」「体得する」というやつです。
  「考えを整理する」というのは暗黙知を形式知に変換する作業です。人は思考の過程では自己の暗黙知から生み出された形式知を反芻します。「話すこと」「教えること」で技術についての「理解が深まる」という経験は、このように形式知への変換が進むという理由があります。
  「体得する」とは、他者からの伝わった形式知を暗黙知へ変換する作業です。新しい法形を学んだ時などはこの代表的な場面でしょう。他者から形式知を伝えられると暗黙知が産出されます。物事を「経験すること」は、暗黙知の蓄積作業にあたります。

  このように、ヒトの知識には「認識『できる/できない』二つの知識」により構成されています。ヒトの知的活動とは常にこれらの変換作業のことを指します。


このページの要旨
  • モデル化という作業は必然的になされている。
  • 暗黙知とは? 形式知とは? 知にもいろいろある。
暗黙知」「形式知」検索

【関連】偶像崇拝 一句道え02(理解とは) 真実と事実
くどくど書きました。すいません。( ゚ρ゚ )アゥー

型稽古は無意味なのか?

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・禅では「言語はどうしても総体から部分を分けようというふうにはたらく」「どけほど精密な言い方をしても表現してしまえば総体ではなくなる」ということを、『不立文字』『教外別伝』などと言ったりする。また「表現したら最後、そのものの全体が破れるからそのものではなくなる」という感じの意味で『説示一物即不中』という。

・小脳記憶という言葉がありますね〜。小脳は主に身体操作を司る脳の領域ですが、優れた運動選手は小脳がリッチです。一般の記憶や思考は大脳が司っています。世間一般で言えば「頭がいい」とは大抵は大脳がリッチな人のことを指しますが、脳研究で有名な養老猛司さんは、長島監督についてよく、
「彼はおそらく大脳はそこそこだが、小脳がとてもリッチなのです。あれも頭がいいと言えるのです。」
みたいなこと言ってます。大脳がリッチなのか、小脳がリッチなのかという違いだけということです。よく知りませんが、長島監督の持つ暗黙知というのはまさに超人的なのかもしれませ〜ん。(別に暗黙知が小脳記憶によるものだとか言っているわけではありません。私は脳のことなんて全然素人ですから〜。イメージとして色々な『知』があるのね〜ということです。)「小脳記憶」検索

・歩くこと。
 難しいらしい。再現するのが。ロボット技術などではもちろんだけども、話としておもしろいのはアニメとゲームです。ヒトの歩き方をキャプチャしてゲームなどでよく人の動きとして再現していますね。しかし実際の動きからとったはずなのに、どこかぎこちないのです。不思議と。逆にアニメなどで絵として歩く・走るを書いたほうが、人にはよっぽど自然に見える。実際の動きとイメージのなでの歩行てのは一致してないんですね。