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●京都・醍醐寺
 醍醐寺という京都のお寺がありまして〜後から知ったが世界遺産らしい
ヽ(゚∀゚)ノ このお寺は山の麓にありまして〜♪その御山の上には上醍醐なるものが存在するのれす。まぁ一時間くらいで着きますから大した労力ではありません。その登りの道中にある手すり用の杭に様々な御札がかかっておりました。
 

 上り坂を歩きながらこのような札を読んでいると、何故か、
フゥーフゥーハァハァ(((;-д- )=3と息切れしながらついつい復唱してしまいます。( ゚д゚)ハッ!と気が付くと、「これって刷り込まれてるんじゃね?」と思うたが如何だろうw このような登山中は頭がぽ〜としがちです。こういう時こそなんかより沁み込むのよねん。
 そういえば、合気道の稽古で聞いた「頭がボーッとするまで技をかけ続ける話」に似ている。その時、
「技術も頭で考えすぎてると体に入らん」と教わった。理詰めの法形稽古ばかりで結局身に付かない、数が足りにないと少林寺拳法界ではよく聞くが、「身に付く」「体に沁み込む」「体で覚える」「体解する」「教えは毛穴から入る」てのは何だろうかと考えちゃいます。著名な陶芸家が「誰が動いているのだ、これ、この手。手で考え足で思う(手考足思)」といったりするとキュンと来ちゃいます。


●口うるさい
 小さい頃は誰もが口うるさいと思っていたおかん、何度も何度も同じことを10数年も言われ続けてたことがいくつもあると思います。また同じこと言っとる、「もぅわかっとるっちゅーねん」と思った経験はないかしらん。でもああいうのが大切なんやろうねと近年つくづく感じる日々。

 拳法界ではよく、「知っていることとわかっていることは違う」なんて言葉を聴きますが同様かと思います。
少年部を含む学科で、
 「寝ててもええよ」「メモる必要もないし覚える必要もない」
と私は言いますが
(もともと自分が言われてる言葉)、数年間しゃべり続けて少年部が10年後にある日突然何かの切欠で「あぁ、そういえば、昔誰かがこんなこと言ってたなぁ」と思い出してくれることが一つでもあればそれでいいと思っている。
 たとえ、知識として獲られなくても、少しでも習慣の中に刷り込められるといいなと思う。そんな致命的に間違ったことは言ってないはずだし、同じことを何度も何度も言うことで少年部の身に刷り込まれていけたら僕は満足、あとはしらん。


●咄嗟に動く
 如是我聞。電車の中で老人が乗って来た。席を譲る。道端にゴミが落ちていた。ゴミを拾う。これを自然に行えるだろうか。ここはシルバーシートだからとか、あの人はきっと70歳くらいの人だからと頭で考え席を譲る、これと咄嗟に譲る行為には大きな差がある。ゴミを咄嗟に拾うという行為も同様だろう。これらは美意識に他ならない。
 拳法ではどうだろう。突が来た。上段だ。直突だ。だから内受をするのか。実際に突かれた時にそんな受けの分析を頭でしながら受けるのか。そんな受けが役に立つだろうか。受け動作、回避動作は咄嗟に出なければならないのではないか。
 席を譲る、ゴミを拾う、拳法、、、、靴を揃える。これらを咄嗟にできるできないの違いはどこにあるのか。


●自分が信じられるか
 演武を構成するシーンに出くわすとこれまた疑問が沸く。こう来たからこう返す。これは本当か。念のために書いておくけど、私は演武が好きだ。ただのその構築課程に疑問を感じる時があるということなんです。演武には静的な思考訓練の要素があるだろうことはわかるが、その思考の根拠は何か。自身の経験かそれとも他者の言葉か。結局のところ、乱捕り稽古が少ないというのは、無駄を許容する土壌や自分を信じることができなくなった結果だと思う。
 法形演練の時、知識が自分の感覚を邪魔してはいないだろうか。占位の危うさを感じているか。セオリーだけでここに移動すれば大丈夫と思考停止していないか。捕るとき投げるとき、自分の手に伝わる触覚に耳を傾けているか。
 教えられたこと手順に従い上達をすることは言うまでもないが、最後に技を自分のものにしようとするならば、自分用の調整・加減が必要だ。この時に不可欠なのが「感じる」こと、ブルース・リーの言う通りだ。
 自分の感覚を信じることは大切で、その大切なものは直ぐ近くにあるのだ。脚下照顧だ。自分が学ぶ時、多すぎる知識が、大きすぎる頭が感覚を濁らせていないだろうか。また指導の時、知識を伝えることのみに止まってはいないだろうか。知識の伝達のみで満足してはいないか。


●大円鏡智
  「習慣は第二の天性」という言葉があるように、繰り返し刷り込まれた習慣や技術は「無意識」のうちに表れる。言い換えれば「無心」に顕れるわけだな。何ーんも考えてない!!ということが「無心」ではなく、するべき事が自然にできることを「無心」と言うのかもしん。

 ここで言いたいのは、知識ではなく身体に刷り込まれるものがあるがという認識。これは大切な認識だと思います。拳法でも拳法外でもね。

  • 「よい習慣を身につければ、人格も立派にみがき上げられる。
    古くからいわれるように、人間は習慣の寄せ木細工であり、習慣は第二の天性なのである。」
    サミュエル・スマイルズ (イギリスの作家・医者)
  • 「心が変われば態度が変わる。
    態度が変われば習慣が変わる。
    習慣が変われば人格が変わる。
    人格が変われば人生(運命)が変わる。」
    アンリ・フレデリック・アシエルという19世紀のスイスの哲学者が五段論法で言うとりますw

 【関連・参考】一黙の雷声 天方と地位と力愛不二

※知識を否定しとるわけちゃうよ

丸廉掲示板から

1152 名前:ビスキュイ[] 投稿日:2007/06/19(火) 02:09:58
 久々に書き込むな〜。どこに書こうかと思ったけど、まあ殺伐スレに書いておきますか。
 「教えは毛穴から入る」読んだ。自分の感覚を信じる。これ、私にとっては中々に解
決の付かない悩みの種なのよね。「自分がいいと思う動き。実際にやってみて楽に出来
る動き」これを大事にするというのは分かる。実際に私も「四の五の言わずに千本くら
い突いてみいや!自然と動きがこなれてくるわい!」と言ったりもしてます。
 しかし逆に「日常生活では自然で楽である動きを“不自然”に矯正して武として効率
のいい動きに変える」という方法論もあるそうな。確かに今は「自然」に感じる少林寺
拳法の構えや動き方も、最初の頃は随分と不自然で窮屈に感じたものだ。あそこで「こ
の構えや動きはやりにくいから自然ではない!」とかほざいてその時点での自分にとっ
て「楽で自然な動き」ばっかりやってたら、一生少林寺拳法の動きは身に付かなかった
でしょう。まあ今も身についているとは言い難いかもしれんが…
中の声を素直に聞きながら外からシビアに見るような訓練が必要なんだろうな〜。

1153 名前:615期生 ◆1WOpAbkgRc[] 投稿日:2007/06/19(火) 15:31:44
最近は何故か私も道院では古株側になりつつあり(うちの道院若いからさ)、
どうしても指導側になるんだよね、オリ。

どこまで口を出すべきか悩む。
指導者の指導という言葉が示すとおり、またミクシで某氏がおっしやっていたように、
東京から大阪に至る道は沢山あるが…大阪と言う到達点をまず見せて…
と言うのがよいかとも思う。

どうしても、指導側になると道順まで言いたくなる時がある。
これは自分の我との戦いなり。最近はできるだけ口を出さないようにしてる。

昔、りょうさんが言うとったが自然な動きと言うものにいろいろな基準があるのだろと思う。
りょうさん曰く、剣術家はややずれてるのがバランスいい、みたいなことを聞いた。
通常は右前でつねに構えるからね。

このバランスと言うのも微妙だ。
身体からみて、絶対的なバランスと相対的なバランスと言うものがあると思うが、、、
上の剣術家は相対的と言うことになるね。
身体的に絶対的なバランスと言うのはまずないと思う。そもそも内臓の位置がすでに左右ずれとるしさ。
結局我々が取れるのは、その人の武術また生活に沿った相対的なバランスと言うことになるけど、
指導者はそのカテゴリーにあったバランスを示すことしかできんと思う。
これはまず段階的な意味もあるし、最終的には不立文字だから自得自証する要素があるわな。

「楽な姿勢」と言うのはつまるところ、何に対して楽なのかという「目標」によるということになる。
やっぱり先人に道を聞かないと、路頭に迷うことは間違いない。
一部の天才はいけるかもしれないが、凡人なオリには無理。
両方必要なのだとホント思います。

私の感触では、少林寺拳法は親切すぎるところがあると思う。
しかしこの親切が、内観・内感を妨げてしまっていると感じる時もあるんだな。
だから自分が指導するときは、常に妨げてはいまいか、を注意したい。

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