トップ > 活動の記録 > 乱捕りしよう > 月刊誌の乱捕り特集


サイトで好き勝手ばかり書いてるので、本部の認識も確認しておきませう。

   『会報少林寺拳法 20023 』より

拳技練成
乱捕り修練の
取り組み方について「乱捕り」

◆乱捕りについて
 連盟本部の発行する『科目表』技術欄には、法形のほか、3級科目といえども「乱捕り(限定)」が記されています。
 しかし残念ながら、科目表の順どおり法形は学んでも、乱捕りは飛ばしてしまう……という道場が、実際には少なくないということは、たびたび耳にします。
むしろやっているところを耳にしませんが。自主的にやってるのは聞きますが、カリキュラムとしてやっているところあまり聞きませんなぁ。科目表は法形の項目しか見ていなくて、基本の項目も飛ばされている気がします。級拳士科目表熟読!!
 開祖は乱捕りについて、『少林寺拳法教範』上ではこう述べられています。
 「拳を健康増進の法としてだけでなく、練胆護身の法として用いる場合には、(中略)どうしても不法無法の相手と闘うことも考えなければならない。万一やむを得ずこのような者と闘わなければならない状態になった時に於て、(中略)拳を武の用に役立たせるためには、どうしても基本となる技術や、法形の修練だけでなく、相手との間合や技の連絡変化などを知るために応用格技としての自由乱捕りも修行する必要がある」
 開祖は、われわれに「法形」という、あらゆる攻撃に対応できるすばらしい技術の数々を残してくださいました。しかしそれはあくまで、「こうされればこう応ずる」という、定められた攻撃に対する技術であり、さまざまな状況でもそれが使いこなせるように対応できなければ意味がありません。
 そのためにもふだんから、法形練習と併せて乱捕りの練習もやっておく必要があるのです。

◆いきなりの真剣勝負は厳禁
 とはいえ、初心者のうちからいきなりボカスカ殴り合うような練習はお勧めできません。
 もともと殴り合いが好きな人ならばともかく、「生まれつき殴られるのが大好き!」……という人はそんなにいないはずです。ほとんどの初心者は、恐怖心が先に立ってしまって、反撃どころか満足な攻撃すらできないのではないでしょうか。
 そんな人たちに無理やり乱捕り練習をさせても、苦手意識を植え付けてしまうだけです。
 法形が自在に運用できる、乱捕り上達への道は遠くなるばかりでしょう。
 3級科目の「乱捕り」には(限定)と表記してあるように、初心者のうちからいきなりお互いが、フルスピード、フルパワーでやるのではなく、乱捕りといえども順序疏てた練習方法で、徐々に慣らしていく必要があります。

◆攻者は遅攻数、スピードを加減して---限定乱捕り
 見習い拳士が臨む、3級昇級考試にも当然乱捕り(運用法)はあります。
 しかしそれは攻守を決めたうえ、攻者の攻撃は、上段または中段の単撃と決められています。また、2級試験では、攻者は突きまたは蹴り攻撃で二連まで、と限定されています。練習の際も同様で、資格やキャリア、年齢、性別
と指導者のレベルを考慮したうえで、使用できる攻撃を制限すれば、守者は気持的にも非常に楽になって乱捕りを練習することができます
 ただし、ここで最も電要なポイントはスピードです。
 いくら攻撃を単撃と限定しても、どこを狙ってくるかわからないうえ、ス上ードの乗った攻撃には威力も伴いますし、初心者にとってはたいへん恐ろしいものです。
 ですから、目や、タイミングが慣れるまでは、緩めたスピードで、守者が反応しやすい攻撃を攻者も心がけましょう。スピードやパワー、連攻数を増やすのは、相手に応じて徐々に、徐々に、です。
◆守者側も攻者に合わせて
 そして守者は、相手の攻撃に合わせながら、最初は「受け」だけでかわす練習をします。体裁き、足捌きだけでもいいですし、相手の攻撃が読めるようになれば受手({防技)も使います。さらにステッブアップして、余裕ができれば反撃、そして連反攻と返していきます。このとき気をつけなければならないのは、攻者には加減した攻撃をしてもらっているのに、反撃は力いっぱい!というのはしないことです。人間関係を壊してしまいかねません。
 反撃をゆっくり返せば、攻者はさらにそれを受けて反撃することもできます。守者はそれに対してまた受けて反撃……と、攻守関係なくラリーを楽しむこともできます。この練習方法は、動体視力や変化即応能力を養う意味でも非常に有効です。

◆乱捕りを身近な存在に
 ここで紹介した練習方法はあくまで一例です。
 もちろん時には、防具を着けて互いに緊張感を持った、真剣勝負に近い練習も必要です。
 そしていずれは、自分なりの戦術を持って、一瞬にして相手を制せられる技術を身に付けることが護身の上でも理想でしょう。
 ところが現実問題として乱捕りを特別な存在としている拳士があまりにも多く、防具を着けると目の色が変わってしまったり、「乱捕り」という言葉を聞いただけで嫌悪感を催す拳上がいることも事実です。
 けれども、乱捕りを日常の修練としてふだんからやり慣れていれば、無知から生じる事故の確率も格段に減るはずです。
 本来、乱捕りの練習は非常に楽しいものです。特別な雰囲気を持って、かしこまってやるものではありません(※もちろん油断は大けがのと。ふざけてやるものでも決してありません)。「やる、やられる」の考ええに固執せず、お互いの上達を図り合う練習をふだんから心がけておけば、ムリなく法形運用のコツもつかめるはずです(担当/永安正樹)〕
※乱捕り練習は、必ず所属長およびそれに準ずる者の監督のもと、安全対策には細心の注意を払って楽しむようにしてください。
この記事はこざっぱり纏まっていていいですね。こういうのを元に毎月各論も展開していただきたいところです。





ごめんなさい、読んでたら腹が立ってきて。非常にまどろっこしい。まぁここまで書かないといけないのが現状のレベルという認識なんでしょう本部は。それはわかる。しかし、後半の妙に優等生のような文章はちょっと。
会報少林寺拳法 20032
      
特集
実に帰る〜少林寺拳法の修練を再考察する〜
二度と同じ過ちは繰り返さない
安全で楽しい運用法(乱捕り)を目指して


 少林寺拳法らしい運用法とはさまざまな議論が重ねられてきたこのテーマだが、フェイスガードが完成し、地方技術研究会で「立合評価法」の指導も始まっている今、新しい展望が開けつつある。ここでは、乱捕り修練のあり方、その意義について、あらためて考えてみたい。

 昨年(2002<平成14>年)の2月、少林寺拳法フェイスガードが完成しました。これにボディープロテクター、ファールカップを加えた3点が、少林寺拳法連盟公認の防具として認定、新しい防具として普及しつつあります。
 これにより、懸案とされてきた「上段への当身」が可能になり、当身の指導をより安全に行えるようになりました。特に新開発のフェイスガードは、握拳の突き以外にも目打、手刀・腕刀切、熊手突など、少林寺拳法独特の当身を直接当てることができます
振突はだめみたいですけどね、まぁこれはどこの防具もお奨めして無いのは一緒かな。また柔法における当身も、寸止めではなく一気に当てられます。実際に使った拳士はわかると思いますが、寸止めのときに比べて用間合いも近くなりますし、スピードも怖さも寸止めのそれとは違うものです。何よりも、実際に当てるから緊張感が高まるこれは重要ですね---このように、当身を実際に当てるのとそうでないのとでは、技術修練に大きな違いが出てきます。
 ただ、いくら安全といっても、フェイスガードは衝撃を100パーセントなくすことはできません。ですから、使い方をまちがえたら、事故につながったり、修練がまちがった方向こ進んでしまいかねません。実祭に使う側のわれわれ人ひとりが十分にそのことを理解したうえで、修練を捉え直す必要があります。

度を超した競争の弊害を指摘していた開祖
 フェイスガードによって、運用法が変わると期待している拳士も多いと思います。ただ気をつけたいのは、顔面への当身があることで過剰にエキサイトし、殺伐とした運用法になってしまっては危険ですし、修行としても意味がなくなってしまう、ということです。
 『少林寺拳法教範』によると、運用法について、次のような記述があります。
 「武の用に役立たせるためには、どうしても基本となる技術や法形の修練だけでなく、相手との間合いや技の連絡変化などを知るために応用格技としての自由乱捕りも修行する必要がある」(「防具着用の乱どりについて」参照)
 このように、運用法は護身の技術を身につけるうえで欠かせないものです。
 さて、ご存じのように、初期の少林寺拳法ではグローブ、胴を着用して運用法を稽古していました。道院での稽占はもちろん、大会でも防具着用の運用法を競技として実施、これにより学生大会なども盛り上がりました。激しい運用法の中で、自然と自分なりの戦術が磨かれる、あるいは運用法をした拳士同士が仲よくなり、現在に至るまで交流が続くというよい面があったというエピソーもよく聞きます。
 しかし、いつしか競技そのものが過熱し、たとえば「倒せ」「やってしまえ」などの過激なヤジが飛び交い、開祖の思いとはかけ離れたものになってしまったこともまた事実です。さらに、ルールを逆手に取り、胴を両腕で隠しポイントを取られないようにして戦うなど、勝利のためになりふりかまわない戦法をとる拳士が出るなど、技術的な弊害も生まれてきました
こういうのは普通ルールの見直しで是正するんだよね。そんな中で、何件かの死亡事故が起き、また深刻な怪我を負う拳士が出てしまったことも事実です。このように、競争が度を超すと、意識が勝ち負けばかりに集中してしまい、「勝つためには何をやってもよい」式の考え方に陥りかねません。この点について開祖は、『教範』で次のように指摘しています
 「……相手を倒すことや相手に勝つことばかりにこだわるようになって、(乱捕りが)いつの間にか己に克つための修行でなくなってしまう……」(同参照)
 開祖の指摘したとおり、前述したようなさまざまな弊害が生まれました。これは、人間としての成長を求めた開祖の思いとはかけ離れたものではないでしょうか。競うことは決して悪いことではありませんが、度を超してしまったら、やはりまちがった方向こ進んでしまうものです。
 そんな中、死亡事故をきっかけに、1982(昭和57)年から大会における運用法は中止になっています。正確には運用法自体が禁じられたわけではないのですが、トーナメント形式のそれが禁じられたのです。
 そんな開祖の思いは、『教範』にある、次のような記述によく表れています。
 「人を立て、人を生かし乍ら我も生きると云う、このすぐれた先人の教えが、防具首用の乱捕りを主にすることによって完全に失なわれることは、多くの事実がこれを証明している。防具を着けて技を制限し、試合をさせることを目標に弟子を育てると、点数をかせぐことに専念しはじめ、勝つためには手段を選ばぬような人柄が育ち、相手を打ち負かしたときだけに喜びを感じると云う、自我意識の強い傲慢な人間を作ってしまうことである。(中略)人間がただ自分の強さを誇るために人に戦いを挑み、試合に勝って世人の拍手喝采を得ようとする芸人のような根性をもっていては、協同生活を基調として共存共栄を理想とする人間社会に必要な人として受け人れらる筈はない」(同参照)
 度を超した競争の弊害を知っていた開祖は、われわれがそこに陥ることを、予見し、警鐘を鳴らしていたのではないでしょうか。

修練法の一考察〜「立合評価法」
 さて、これらのことを踏まえて連盟本部では、少林寺拳法らしい運用法のあり方について長年にわたり模索を続けてきました。テーマはまず「安全であること、グローブ着用の運用法で起きた死亡事故を二度と起こさないために、安全性を最も重視しました。また、グローブを着けると、柔法などの龍系諸技がほとんどできません。剛柔一休という少林寺拳法の特徴を生かすためには、「素手で当身ができる」ということが必要になります。これがもうひとつのテーマでした。さらに、開祖が言うように、「己に克つための修行」となりうるにはどうしたらいいかさまざまな問題をクリアするために、研究が重ねられてきました。その結果生まれたのが、新しい防具であり、また現在、地方技術研究会などで提案している「立合評価法」なのです。
 01年から「安全で楽しい運用法を行うために」をテーマに、各地で地方技術研究会が開催されています。そこで稽占の中心になっているのが「立合評価法」です消えちゃったね…残念。これは、運用法のひとつのあり方として考えられた方法です。「試し」としての運用法を行う前段階として、戦術の完成度を高めるために行います。すでにご存じの方も多いと思いますが、これは攻守を分けてお互いの攻撃率や防御・反撃率などを出し、戦術の完成度を計る稽占です。攻守を分けるのは、双方攻撃の運用法では、防御・反撃で成り立っている少林寺拳法の技術が生かしにくいからです。というのも、双方攻撃の場合、どうしても「攻撃をいかに極めるか」「早く攻撃を極めたほうが勝ち」という発想に陥りやすく、少林寺拳法本来の守主攻従の考え方から離れてしまうためです。そのため「立合計価法」では、攻守を分けた形でどれだけ防御・反撃の技術が身についているかを評価するものとしました。
柔法における当身も、一気に当てることができる
立会い評価法が消えてしまったのは残念です。方向性は当たりだったのに。準備が必要だし、人数が掛かりすぎるのでなかなか日常的に実施するのはちょっとしんどいんでよね。乱捕りするときはお祭り的になるということを聞くけども、拳法部などに聞くとまったく乱捕りをやっていないわけではない。むしろやろうとはしています。しかし乱捕りを指導できる人がいないので、乱捕りしたらしただけで、なにかどうこれを基本や法形演練につなげればいいのか、どこが良くてどこが悪かったのか等、判断できず終わってしまうことが多いようです。だから乱捕りはお祭りにしかならない。やったら評価してフィードバックする。これは他の分野でも常套です。ひだからまず評価をつけようとした立会評価法は方向性としては正しいんです。
 さて、立合評価法をするうえで必要なのが、「自分に合った戦術を組み立てること」です。「戦術組成」---今まで学んできた法形から自分に合った技をピックアッフして、すべての攻撃に対処できるような戦術プランを組み立てます。
法形は対処することを目的に稽古しますから、当たり前ですが。乱捕りの中には対処しない対処てのもあっていいんです。いちよ注釈。
 たとえば、蹴りが得意な人は、後屈系の蹴りで極める技を組み合わせてみたり、金的蹴が得意なら、鶴立拳の技を中心に対応を組み立ててみたり、といった感じです。
 ここで大事なのが、他人の真似で終わらないこと人それぞれに体格や身体能力、得意技も違うわけですから、それぞれの特徴に合った戦術を自分で考え、作っていくのです。自分に合ったこれも大事なポイントです。
 さて、戦術を組み立てたら、最初は攻者に「ゆっくりと」攻撃してもらって身体を慣らしていきます。これは、正しい動きを身体に覚えさせるためいきなり全力の攻撃を受けたら、形も崩れてしまいますから、最初はゆっくりと攻撃してもらって、徐々に動きを慣らしていくほうがべターです。そうして、戦術を身体が覚えてきたら、徐々にスピートを上げてもらう。そうしてある程度動きが身についてきたら、「立合評価法」をやってみるわけです。

攻者は上達のパートナー〜「立合評価法」で「自他共楽」を学ぶ
 さて、「立合評価法」で自分の戦術を試して、すべての攻撃が完全に受けられればよいのですが、必ずしもそうはいかないものです。頭で考えている段階では、「これで大丈夫だ」と思っていても、実際に攻撃してもらうと思わぬ攻撃をされたり、うまく受けられなかったりで、これまでは見えなかった戦術の欠陥が見えてきます。受けられなかった攻撃、失敗したこと、これが戦術の欠陥であり、戦術を作っている段階では見えなかった未知の部分です。

 さて、攻撃を極められたり、受けを失敗すると、やはりいやなもの。しかし、見方を変えれば、これは上達するために必要なことでもあります。というのも、失敗は戦術の欠点が明らかになったということ。普通はうまくいった体験やイメージを大切にするものですが、失敗を一つ一つ改善していくことで、戦術の完成度を高くしていくことも可能です失敗はそのための大切なヒント……そう捉えるわけです。
 「立合評価法」では、攻撃を極めた場合、攻者が「なぜ攻撃が極まったのか」を守者に教えてあげます。これによって守者は、戦術の欠陥がより具体的にわかるわけです。これが大きなポイントです。
 法形で攻者を務めている場合、反撃されるとわかったうえで攻撃をしていくのは、かなり怖いものです。それがどんな反撃をされるかわからない運用法なら、なおのこと。それでも、戦術の欠点を明らかにするために、容赦ない攻撃を仕掛けてくれる攻者は、身体を張って守者の上達に協力してくれる大切なパートナーです。
それぞれの体格に合った得意な戦術を考える
 これが試合なら、絶対に手の内は明かさないものです。でも少林寺拳法は、開祖が言うように、「僕もうまくなるから、君もうまくなれ」という自他共楽のあり方をとっています。相手に手の内を明かして、上達を手助けする。競技試合が中心だったら、絶対にありえないことです。そんなこと無いと思うけどなぁ。ちょっと少林寺拳法を美化しすぎでは。それに明かしてくれないからこそ、めっちゃ見るてのもありますしね。次の試合あいつかよ、てなったら相手の前の試合をものすごい集中力で見て、分析してその場で作戦立てて、やってみる、みたいなのもありますゆえ、明かさない・教えないという教え方もあることを拳士は学ぶべきです。ちょっと極端な文章に思えたから書きました。
 さて、守者は自分が攻者になったときには、同じように全力の攻撃で相手に応えてあげます。それで攻撃が極まったら、同じように手の内を明かす。こうしてお互いが上達していくわけですが、戦術の欠点を指摘するためには、攻撃のレベルも高いことが必要です。ですから、攻撃の練習もしっかりすることも必要。守者のレベルが上がったら、攻者もより高いレベルの攻撃で応えるそうすることで、防御・反撃のレベルも向上し、同時に攻撃力も向上していきます。
 また、相手にアドバイスをすることも(自己の技術回上にとって)大きな意味があります。「なんで自分の攻撃が極まったのか」「なんで相手は受けられなかったのか」などと考えることは、少林寺拳法の普遍的な理を知ることにもつながってくるからです。ですから、相手の上達に気を配ることは、実は自分の上達にもつながってくるわけです。
 攻者が守者の面倒を見てあげる、これが「立合評価法」のあり方です。ともすれば自分の技術ばかりに目がいって、他人のことなどどうでもいい」となりがちですが、そうではなく、相手の上達にも気を配る。「立合評価法」を通じて、そんな優しさをも培うのです。
うげっ。あんまり付加価値つけすぎるとやんなのがやになるよ。注意注意
 そして、人の役に立つ喜びを知り、人間関係もよくなっていく。これが開祖の言った「半ばは白己の幸せを、半ばは他人の幸せを」、あるいは「自他共楽」につながっていくかもしれません。
 「立合評価法」のは、なにも勝負をすることではありません。できないこと、戦術の欠陥を知り、今後の練習のきっかけにするそれが日的です。そして、互いが助け合い、上達を目指す。その意味で、「立合評価法」は、「自他共楽」の精神を理解し体感していく修行として、大きな意義があるといえます。

結果よりも内容にこだわる
 さて、「立合評価法」においては重要なポイントがあります。それは、結果にこだわるのではなく、内容にこだわる、ということです。技術的には、戦術を練り上げ、完成度を高めていく。精神的には、強い心を育む---これが修行の目的であって、勝負が目的ではありません。
 勝負を最優先すると、勝つためには何をしてもいい」という発想につながりかねません。汚いことをやっても勝てばいい、勝つためならば、ルールを破ってもいい……競技ならばそれも一理あるかもしれませんが、少林寺拳法はあくまで自己確立のための修行です。「ルールの範囲なら、何をしてもよい」のではなく、自分で課題を決め、みずからを厳しい状況に追い込んでいく。
そんなに僕たち大衆はお利巧じゃ無いよ。。
 心の強さとはそういった積み重ねで身につくものです。そうやって強い心を培ってこそ、身につけた技術もいざというときに役立てられるというものです。 「立合評価法」において、結果よりも内容にこだわるというのは、そういう意味なのです。
ふだんの稽古で培った心の強さが、日常にも現れる
 
 いちばんよいのは、「内容があって、防御・反撃も極まる」ことです。二番目によいのは、「内容があったけれど、攻撃を極められた」。普通は、「内容がなくて、反撃が極まる」ことがよいと考えがちですが、練習の段階から結果オーライをよしとしていても意味がありません。ですから、「内容があって、攻撃を極められた」が上に来るのです。もちろん、よくないのは「内容がなくて、攻撃も極められた」ことです。とにかく、「内容がない『立合評価法』をしてしまうことがないよう、心がけていきたいものです。

上達のためには、心の強さが必要〜「拳禅一如」
 たとえは、「立合評価法」をやっているとき、カーッとなったり、アツくなって平常心が失われてしまう場合がよくあります。それが道場でのことならいいでしょうが、実際の場面でもカーッとなってしまったらとうでしょう。ほんとうのピンチのときにこそ冷静になれないと、ふだんできる技も使いこなせないでしょうし、何よりもイザというときにあわててしまっては、何のために少林寺拳法を修行しているのかわかりません
ん!?主客が逆転しているような。拳士の道は険しいんだな。だからこそ、ふだんの稽占から冷静さ、平常心を保つことを心がけるこれも内容にこだわる。一つの例です。特に「立合評価法」は、心が揺れやすい状況ですが、だからこそ自分の気持に飲まれないように心を鍛える絶好の機会ともいえます。
 また、攻撃を極められた拳士がカーッとなってしまい、せっかく組み上げた戦術を無視して、攻撃一本やりの動きになってしまうそんなケースもあります。
 「勝てばいい」式の考えならこれでもよいでしょうが、しかしこれではせっかく練り上げつつある戦術がめちゃくちゃになってしまいます。自分の戦術を見失い、少林寺拳法の動きからかけ離れたものになってしまう
これもよくわからない。格闘技術として有効なアクション?をした場合、少林寺拳法の動きから離れる場合があるのか?そんなことまったく思わないけど。本来入門者は少林寺拳法がしたいんじゃなくて有効なものを学びたいもんでないの?それを少林寺拳法とかいう狭い枠に押し込めてそれを捨てることがあってほしくないなぁ。そもそも狭いとも思わんし。。これも内容のない稽古の一つの例です。
 逆に、失敗してもいいから、作り上げた戦術に従い、対処していく。これが、内容のある稽古です。失敗しても悪あがきしないで、自分の組み立てたとおりにやってみる。攻撃を極められたら悔しいものですが、その感情に流されず、しっかりと「失敗する」、失敗したのなら、その失敗を素直に受け人れる。そして、その失敗を上達のヒントにしていくわけです。
 自分の欠点を認め、受け入れないと技術向上はありえません。そのためには、「自分はまだまだ未完成だ」といつも思える謙虚さ、そして、いやなことから逃げない心の強さが必要です。拳---すなわち技術の向上のためには、禅---心を養うことが必要なのです。この二つは切っても切り離せないもの。これが、開祖のいう「拳禅一如」の(一つの)意味であり、だからこそ、少林寺拳法は「自己確立」の修行法だといえるのです。

フェイスガードの注意点
 少林寺拳法フェイスガードは、東京工業大学の小野英哲教授(現・東北工業大学教授)の協力を得て、再三安全性の試験を行ってきました。その結果、ほかの顔面用防具に比べてきわめて高い緩衝性能を有していることが明らかになりました。また、頭部外傷に詳しい国立療養所・西別府病院の森照明先生からも高い評価を得ています(本誌02年12・03年1月号「学び磨き究める普遍の世界」参照)
 このように、フェイスガードの安金性、つまり衝撃の緩衝性能は、きわめて高いものです。しかし、高い性能があるからこそ、フェイスガードの性能を過信してはいけない、という点も忘れないでください。「フェイスガードは安全。だから思い切り突いても大丈夫」……こういった気持の緩みが、実はいちばん危険なのです。
 脳というのは、ご存じのとおり、豆腐のようにとても柔らかいものです。それが頭蓋骨という入れ物の中で、脳脊髄液の中に浮かんでいます。たとえば、鍋の中に豆腐を入れて激しく揺すると、豆腐はぐしゃぐしゃに壊れてしまいます脳とは、それくらいデリケートで、壊れやすいものです。
 さて、フェイスガードを使っても衝撃が完全に消えるわけではありません。ほんの少しずつでも衝撃は残り、頭部に伝わっていきますですから、何回も何回も「当て止め」をしたらやはり危険が残るといわざるをえません。あくまで頭部という非常にデリケートな部位を扱うということを忘れずに、修練に取り組んでいただきたいのです。
フェイスカードは正しく使ってこそ意味がある

頭部へのダメージは想像以上に危険なもの
 運用法などで心理的にエキサイトしている状態のとき、やっている側の人間は、身体からの危険信号を無視してしまいがちです。たとえば、1回よい突きを食らって、ちょっとふらつくのだけど、我慢して続けてしまう……思い当たる拳士も多いのではないでしょうか。
これは本当です。注意が要ります。アドレナリン出てる時はけっこう鈍感になってます。
 失敗したところで稽占をやめるのは、誰だっていやなもの。やられっぱなしで終わるのは、すごく悔しいものですから。しかし、頭部へのダメージを考えた場合、ダメージを無視して稽古を続けてしまうのはきわめて危険な行為です。
 頭部へのダメージは、そのときは症状が軽くて大丈夫だったとしても、時間とともに症状が悪化する場合があります。
 たとえば脳震盪は比較的軽い脳のダメージといわれていますが、その脳震盪が、それに続いて起こる重大な障害の、前触れにすぎない、というきわめて危険なケースもあるのです。さらに、一度目の「打撃症候群」といって、一度衝撃を受けたあとに、再び衝撃を受けると、二回目はかなり重症になる心配があります。ですから、脳震盪といっても軽く見てはいけないわけです。ちょっとでもふらついたり、衝撃があったりしたら、「続けたい気持を抑えて」稽古をやめる必要があります。
 いくらフェイスガードがあるといっても、むちゃな使い方をしたら、やはり事故は防げません。かつての悲惨な事故を二度と繰り返さないためにも、一人ひとりの拳士が頭部外傷の危険性について強く意識し、「常に危険と背中合わせ」ということを十分に認識したうえで、稽占に取り組んでください。

開祖の思いをもう一度見直してみる
 『教範』にある「修行の心得」の章で、開祖は少林寺拳法を修行する目的を以下のように述べています。「……或者は保健体育を目的とし、又或者は精神修養を考え、又或者は護身練胆を目的として修行しようと参坐したのであろうが、少林寺拳法は本来が人間完成のための行であるから、以上の三つを綜合したものであることが修行の目的でなければならない。即ち、その目的は、心を修め、技を錬り、身を養って、円満なる人格と、不屈の勇気と、金剛の肉体を得ることでなければならぬ」「技術を通して心と体の両面を鍛える」これが開祖が最終的に目指したことでした。
 フェイスガードの開発や運用法の模索を通じて、少林寺拳法の技術、修練をもう一度見直すことができましたが、技術の上達と精神的な面での向上が一体のものであり、切り離せないということをあらためて実感します。そして、開祖が遺した少林寺拳法が、すばらしい修行法であることを強く感じます。しかし、それをよい方向に持っていくためには、われわれ拳士一人ひとりの心がけが大事です。せっかくすばらしいものがあっても、使い方をまちがえたら意味がありません。そのためにも、われわれ一人ひとりが、開祖の遺した言葉、そして少林寺拳法の技術に込められた意味を再度見直し、修練に取り組んでいく必要があるでしょう。修行に、これでよいというものはありません、成功に驕らず、失敗に落ち込まず、いつも平静で、謙虚で、向上を目指している。開祖の思いに近づくためにも、自己を見失うことなく、修行に取り組んでいきたいものです。〔担当/振興普及部〕
恐ろしい頭部外傷
●脳振盪だけで終わらずに、時間とともに症状が悪化する場合がある。脳振盪を起こして、会場では回復したように見えたけれど、目を離しているうちに症状が進んで重症になってしまう場合がある。
●1回目のダメージが回復しないうちに2回目の打撃を食らうと、今度はかなり重症になる心配がある(二度目の「打撃症候群」と」)。
 過去にもさまざまな事故が……。
◎大会の乱捕りで顔面への二連突がクリーンヒットし、さらに右の順突が顔面に当たる、乱捕り終了後に意識を失い、翌日には死亡(右側耳上の静脈が2か所切れ、急性硬膜下血腫、静脈洞断絶、後頭葉挫傷)。
◎校内合宿で顔面に突きが当たり、後頭部より転倒。---救急車で病院に運ばれる途中に死亡。
◎大会の乱捕りで、蹴りを出そうとして足を上げたところに相手の突きが当たる。
 そのため、真後ろに倒れて床に後頭部を打ちつけ、意識不明に。---救急車で病院に運ばれる途中に死亡(脳挫傷)。
◎大学主催の地方合宿で、二人一組で乱捕りを行っている最中、相手と組んだまま、(首を巻き込まれた状態で)転倒。意識不明に。病院に運ばれたが、5日後に死亡(脳挫傷)。



【関連参考】新人戦は超人への大きな第2ステップだ 実戦で使える合気道、合気道S.A.の関節技



いちよ、青文字が混じってないのをもうひとつ置いときます。コピペして使うかもしれないもんね。
   『会報少林寺拳法 20023 』より

拳技練成
乱捕り修練の
取り組み方について「乱捕り」

◆乱捕りについて
 連盟本部の発行する『科目表』技術欄には、法形のほか、3級科目といえども「乱捕り(限定)」が記されています。
 しかし残念ながら、科目表の順どおり法形は学んでも、乱捕りは飛ばしてしまう……という道場が、実際には少なくないということは、たびたび耳にします。
 開祖は乱捕りについて、『少林寺拳法教範』上ではこう述べられています。
 「拳を健康増進の法としてだけでなく、練胆護身の法として用いる場合には、(中略)どうしても不法無法の相手と闘うことも考えなければならない。万一やむを得ずこのような者と闘わなければならない状態になった時に於て、(中略)拳を武の用に役立たせるためには、どうしても基本となる技術や、法形の修練だけでなく、相手との間合や技の連絡変化などを知るために応用格技としての自由乱捕りも修行する必要がある」
 開祖は、われわれに「法形」という、あらゆる攻撃に対応できるすばらしい技術の数々を残してくださいました。しかしそれはあくまで、「こうされればこう応ずる」という、定められた攻撃に対する技術であり、さまざまな状況でもそれが使いこなせるように対応できなければ意味がありません。
 そのためにもふだんから、法形練習と併せて乱捕りの練習もやっておく必要があるのです。

◆いきなりの真剣勝負は厳禁
 とはいえ、初心者のうちからいきなりボカスカ殴り合うような練習はお勧めできません。
 もともと殴り合いが好きな人ならばともかく、「生まれつき殴られるのが大好き!」……という人はそんなにいないはずです。ほとんどの初心者は、恐怖心が先に立ってしまって、反撃どころか満足な攻撃すらできないのではないでしょうか。
 そんな人たちに無理やり乱捕り練習をさせても、苦手意識を植え付けてしまうだけです。
 法形が自在に運用できる、乱捕り上達への道は遠くなるばかりでしょう。
 3級科目の「乱捕り」には(限定)と表記してあるように、初心者のうちからいきなりお互いが、フルスピード、フルパワーでやるのではなく、乱捕りといえども順序疏てた練習方法で、徐々に慣らしていく必要があります。

◆攻者は遅攻数、スピードを加減して---限定乱捕り
 見習い拳士が臨む、3級昇級考試にも当然乱捕り(運用法)はあります。
 しかしそれは攻守を決めたうえ、攻者の攻撃は、上段または中段の単撃と決められています。また、2級試験では、攻者は突きまたは蹴り攻撃で二連ま'で、と限定されています。練習の際も同様で、資格やキャリア、年齢、性別を考慮したうえで、使用できる攻撃を制限すれば、守者は気持的にも非常に楽になって乱捕りを練習することができます
 ただし、ここで最も電要なポイントはスピードです。
 いくら攻撃を単撃と限定しても、どこを狙ってくるかわからないうえ、ス上ードの乗った攻撃には威力も伴いますし、初心者にとってはたいへん恐ろしいものです。
 ですから、目や、タイミングが慣れるまでは、緩めたスピードで、守者が反応しやすい攻撃を攻者も心がけましょう。スピードやパワー、連攻数を増やすのは、相手に応じて徐々に、徐々に、です。
◆守者側も攻者に合わせて
 そして守者は、相手の攻撃に合わせながら、最初は「受け」だけでかわす練習をします。体裁き、足捌きだけでもいいですし、相千の攻撃が読めるようになれば受手({防技)も使います。さらにステッブアップして、余裕ができれば反撃、そして庄反攻と返していきます。このとき気をつけなければならないのは、攻者には加減した攻撃をしてもらっているのに、反撃は力いっぱい!というのはしないことです。人間関係を壊してしまいかねません。
 反撃をゆっくり返せば、攻者はさらにそれを受けて反撃することもできます。守者はそれに対してまた受けて反撃……と、攻守関係なくラリーを楽しむこともできます。この練習方法は、動体視力や変化即応能力を養う意味でも非常に有効です。

◆乱捕りを身近な存在に
 ここで紹介した練習方法はあくまで一例です。
 もちろん時には、防具を着けて互いに緊張感を持った、真剣勝負に近い練習も必要です。
 そしていずれは、自分なりの戦術を持って、一瞬にして相手を制せられる技術を身に付けることが護身の上でも理想でしょう。
 ところが現実問題として乱捕りを特別な存在としている拳士があまりにも多く、防具を着けると目の色が変わってしまったり、「乱捕り」という言葉を聞いただけで嫌悪感を催す拳上がいることも事実です。
 けれども、乱捕りを日常の修練としてふだんからやり慣れていれば、無知から生じる事故の確率も格段に減るはずです。
 本来、乱捕りの練習は非常に楽しいものです。特別な雰囲気を持って、かしこまってやるものではありません(※もちろん油断は大けがのと。ふざけてやるものでも決してありません)。「やる、やられる」の考ええに固執せず、お互いの上達を図り合う練習をふだんから心がけておけば、ムリなく法形運用のコツもつかめるはずです(担当/永安正樹)〕
※乱捕り練習は、必ず所属長およびそれに準ずる者の監督のもと、安全対策には細心の注意を払って楽しむようにしてください。






会報少林寺拳法 20032
      
特集
実に帰る〜少林寺拳法の修練を再考察する〜
二度と同じ過ちは繰り返さない
安全で楽しい運用法(乱捕り)を目指して


 少林寺拳法らしい運用法とはさまざまな議論が重ねられてきたこのテーマだが、フェイスガードが完成し、地方技術研究会で「立合評価法」の指導も始まっている今、新しい展望が開けつつある。ここでは、乱捕り修練のあり方、その意義について、あらためて考えてみたい。

 昨年(2002<平成14>年)の2月、少林寺拳法フェイスガードが完成しました。これにボディープロテクター、ファールカップを加えた3点が、少林寺拳法連盟公認の防具として認定、新しい防具として普及しつつあります。
 これにより、懸案とされてきた「上段への当身」が可能になり、当身の指導をより安全に行えるようになりました。特に新開発のフェイスガードは、握拳の突き以外にも目打、手刀・腕刀切、熊手突など、少林寺拳法独特の当身を直接当てることができます。また柔法における当身も、寸止めではなく一気に当てられます。実際に使った拳士はわかると思いますが、寸止めのときに比べて用間合いも近くなりますし、スピードも怖さも寸止めのそれとは違うものです。何よりも、実際に当てるから緊張感が高まる---このように、当身を実際に当てるのとそうでないのとでは、技術修練に大きな違いが出てきます。
 ただ、いくら安全といっても、フェイスガードは衝撃を100パーセントなくすことはできません。ですから、使い方をまちがえたら、事故につながったり、修練がまちがった方向こ進んでしまいかねません。実祭に使う側のわれわれ人ひとりが十分にそのことを理解したうえで、修練を捉え直す必要があります。

度を超した競争の弊害を指摘していた開祖
 フェイスガードによって、運用法が変わると期待している拳士も多いと思います。ただ気をつけたいのは、顔面への当身があることで過剰にエキサイトし、殺伐とした運用法になってしまっては危険ですし、修行としても意味がなくなってしまう、ということです。
 『少林寺拳法教範』によると、運用法について、次のような記述があります。
 「武の用に役立たせるためには、どうしても基本となる技術や法形の修練だけでなく、相手との間合いや技の連絡変化などを知るために応用格技としての自由乱捕りも修行する必要がある」(「防具着用の乱どりについて」参照)
 このように、運用法は護身の技術を身につけるうえで欠かせないものです。
 さて、ご存じのように、初期の少林寺拳法ではグローブ、胴を着用して運用法を稽古していました。道院での稽占はもちろん、大会でも防具着用の運用法を競技として実施、これにより学生大会なども盛り上がりました。激しい運用法の中で、自然と自分なりの戦術が磨かれる、あるいは運用法をした拳士同士が仲よくなり、現在に至るまで交流が続くというよい面があったというエピソーもよく聞きます。
 しかし、いつしか競技そのものが過熱し、たとえば「倒せ」「やってしまえ」などの過激なヤジが飛び交い、開祖の思いとはかけ離れたものになってしまったこともまた事実です。さらに、ルールを逆手に取り、胴を両腕で隠しポイントを取られないようにして戦うなど、勝利のためになりふりかまわない戦法をとる拳士が出るなど、技術的な弊害も生まれてきました。そんな中で、何件かの死亡事故が起き、また深刻な怪我を負う拳士が出てしまったことも事実です。このように、競争が度を超すと、意識が勝ち負けばかりに集中してしまい、「勝つためには何をやってもよい」式の考え方に陥りかねません。この点について開祖は、『教範』で次のように指摘しています
 「……相手を倒すことや相手に勝つことばかりにこだわるようになって、(乱捕りが)いつの間にか己に克つための修行でなくなってしまう……」(同参照)
 開祖の指摘したとおり、前述したようなさまざまな弊害が生まれました。これは、人間としての成長を求めた開祖の思いとはかけ離れたものではないでしょうか。競うことは決して悪いことではありませんが、度を超してしまったら、やはりまちがった方向こ進んでしまうものです。
 そんな中、死亡事故をきっかけに、1982(昭和57)年から大会における運用法は中止になっています。正確には運用法自体が禁じられたわけではないのですが、トーナメント形式のそれが禁じられたのです。
 そんな開祖の思いは、『教範』にある、次のような記述によく表れています。
 「人を立て、人を生かし乍ら我も生きると云う、このすぐれた先人の教えが、防具首用の乱捕りを主にすることによって完全に失なわれることは、多くの事実がこれを証明している。防具を着けて技を制限し、試合をさせることを目標に弟子を育てると、点数をかせぐことに専念しはじめ、勝つためには手段を選ばぬような人柄が育ち、相手を打ち負かしたときだけに喜びを感じると云う、自我意識の強い傲慢な人間を作ってしまうことである。(中略)人間がただ自分の強さを誇るために人に戦いを挑み、試合に勝って世人の拍手喝采を得ようとする芸人のような根性をもっていては、協同生活を基調として共存共栄を理想とする人間社会に必要な人として受け人れらる筈はない」(同参照)
 度を超した競争の弊害を知っていた開祖は、われわれがそこに陥ることを、予見し、警鐘を鳴らしていたのではないでしょうか。

修練法の一考察〜「立合評価法」
 さて、これらのことを踏まえて連盟本部では、少林寺拳法らしい運用法のあり方について長年にわたり模索を続けてきました。テーマはまず「安全であること、グローブ着用の運用法で起きた死亡事故を二度と起こさないために、安全性を最も重視しました。また、グローブを着けると、柔法などの龍系諸技がほとんどできません。剛柔一休という少林寺拳法の特徴を生かすためには、「素手で当身ができる」ということが必要になります。これがもうひとつのテーマでした。さらに、開祖が言うように、「己に克つための修行」となりうるにはどうしたらいいかさまざまな問題をクリアするために、研究が重ねられてきました。その結果生まれたのが、新しい防具であり、また現在、地方技術研究会などで提案している「立合評価法」なのです。
 01年から「安全で楽しい運用法を行うために」をテーマに、各地で地方技術研究会が開催されています。そこで稽占の中心になっているのが「立合評価法」です。これは、運用法のひとつつのあり方として考えられた方法です。「試し」としての運用法を行う前段階として、戦術の完成度を高めるために行います。すでにご存じの方も多いと思いますが、これは攻守を分けてお互いの攻撃率や防御・反撃率などを出し、戦術の完成度を計る稽占です。攻守を分けるのは、双方攻撃の運用法では、防御・反撃で成り立っている少林寺拳法の技術が生かしにくいからです。というのも、双方攻撃の場合、どうしても「攻撃をいかに極めるか」「早く攻撃を極めたほうが勝ち」という発想に陥りやすく、少林寺拳法本来の守主攻従の考え方から離れてしまうためです。そのため「立合計価法」では、攻守を分けた形でどれだけ防御・反撃の技術が身についているかを評価するものとしました。
柔法における当身も、一気に当てることができる

 さて、立合評価法をするうえで必要なのが、「自分に合った戦術を組み立てること」です。「戦術組成」---今まで学んできた法形から自分に合った技をピックアッフして、すべての攻撃に対処できるような戦術プランを組み立てます。
 たとえば、蹴りが得意な人は、後屈系の蹴りで極める技を組み合わせてみたり、金的蹴が得意なら、鶴立拳の技を中心に対応を組み立ててみたり、といった感じです。
 ここで大事なのが、他人の真似で終わらないこと人それぞれに体格や身体能力、得意技も違うわけですから、それぞれの特徴に合った戦術を自分で考え、作っていくのです。自分に合ったこれも大事なポイントです。
 さて、戦術を組み立てたら、最初は攻者に「ゆっくりと」攻撃してもらって身体を慣らしていきます。これは、正しい動きを身体に覚えさせるためいきなり全力の攻撃を受けたら、形も崩れてしまいますから、最初はゆっくりと攻撃してもらって、徐々に動きを慣らしていくほうがべターです。そうして、戦術を身体が覚えてきたら、徐々にスピートを上げてもらう。そうしてある程度動きが身についてきたら、「立合評価法」をやってみるわけです。

攻者は上達のパートナー〜「立合評価法」で「自他共楽」を学ぶ
 さて、「立合評価法」で自分の戦術を試して、すべての攻撃が完全に受けられればよいのですが、必ずしもそうはいかないものです。頭で考えている段階では、「これで大丈夫だ」と思っていても、実際に攻撃してもらうと思わぬ攻撃をされたり、うまく受けられなかったりで、これまでは見えなかった戦術の欠陥が見えてきます。受けられなかった攻撃、失敗したこと、これが戦術の欠陥であり、戦術を作っている段階では見えなかった未知の部分です。
 さて、攻撃を極められたり、受けを失敗すると、やはりいやなもの。しかし、見方を変えれば、これは上達するために必要なことでもあります。というのも、失敗は戦術の欠点が明らかになったということ。普通はうまくいった体験やイメージを大切にするものですが、失敗を一つ一つ改善していくことで、戦術の完成度を高くしていくことも可能です失敗はそのための大切なヒント……そう捉えるわけです。
 「立合評価法」では、攻撃を極めた場合、攻者が「なぜ攻撃が極まったのか」を守者に教えてあげます。これによって守者は、戦術の欠陥がより具体的にわかるわけです。これが大きなポイントです。
 法形で攻者を務めている場合、反撃されるとわかったうえで攻撃をしていくのは、かなり怖いものです。それがどんな反撃をされる・かわからない運用法なら、なおのこと。それでも、戦術の欠点を明らかにするために、容赦ない攻撃を仕掛けてくれる攻者は、身体を張って守者の上達に協力してくれる大切なパートナーです。
それぞれの体格に合った得意な戦術を考える
 これが試合なら、絶対に手の内は明かさないものです。でも少林寺拳法は、開祖が言うように、「僕もうまくなるから、君もうまくなれ」という自他共楽のあり方をとっています。相手に手の内を明かして、上達を手助けする。競技試合が中心だったら、絶対にありえないことです。
 さて、守者は自分が攻者になったときには、同じように全力の攻撃で相手に応えてあげます。それで攻撃が極まったら、同じように手の内を明かす。こうしてお互いが上達していくわけですが、戦術の欠点を指摘するためには、攻撃のレベルも高いことが必要です。ですから、攻撃の練習もしっかりすることも必要。守者のレベルが上がったら、攻者もより高いレベルの攻撃で応えるそうすることで、防御・反撃のレベルも向上し、同時に攻撃力も向上していきます。
 また、相手にアドバイスをすることも(自己の技術回上にとって)大きな意味があります。「なんで自分の攻撃が極まったのか」「なんで相手は受けられなかったのか」などと考えることは、少林寺拳法の普遍的な理を知ることにもつながってくるからです。ですから、相手の上達に気を配ることは、実は自分の上達にもつながってくるわけです。
 攻者が守者の面倒を見てあげる、これが「立合評価法」のあり方です。ともすれば自分の技術ばかりに目がいって、他人のことなどどうでもいい」となりがちですが、そうではなく、相手の上達にも気を配る。「立合評価法」を通じて、そんな優しさをも培うのです。
 そして、人の役に立つ喜びを知り、人間関係もよくなっていく。これが開祖の言った「半ばは白己の幸せを、半ばは他人の幸せを」、あるいは「自他共楽」につながっていくかもしれません。
 「立合評価法」のは、なにも勝負をすることではありません。できないこと、戦術の欠陥を知り、今後の練習のきっかけにするそれが日的です。そして、互いが助け合い、上達を目指す。その意味で、「立合評価法」は、「自他共楽」の精神を理解し体感していく修行として、大きな意義があるといえます。

結果よりも内容にこだわる
 さて、「立合評価法」においては重要なポイントがあります。それは、結果にこだわるのではなく、内容にこだわる、ということです。技術的には、戦術を練り上げ、完成度を高めていく。精神的には、強い心を育む---これが修行の目的であって、勝負が目的ではありません。
 勝負を最優先すると、勝つためには何をしてもいい」という発想につながりかねません。汚いことをやっても勝てばいい、勝つためならば、ルールを破ってもいい……競技ならばそれも一理あるかもしれませんが、少林寺拳法はあくまで自己確立のための修行です。「ルールの範囲なら、何をしてもよい」のではなく、自分で課題を決め、みずからを厳しい状況に追い込んでいく。
 心の強さとはそういった積み重ねで身につくものです。そうやって強い心を培ってこそ、身につけた技術もいざというときに役立てられるというものです。  「立合評価法」において、結果よりも内容にこだわるというのは、そういう意味なのです。
ふだんの稽古で培った心の強さが、日常にも現れる
 
 いちばんよいのは、「内容があって、防御・反撃も極まる」ことです。二番目によいのは、「内容があったけれど、攻撃を極められた」。普通は、「内容がなくて、反撃が極まる」ことがよいと考えがちですが、練習の段階から結果オーライをよしとしていても意味がありません。ですから、「内容があって、攻撃を極められた」が上に来るのです。もちろん、よくないのは「内容がなくて、攻撃も極められた」ことです。とにかく、「内容がない『立合評価法』をしてしまうことがないよう、心がけていきたいものです。

上達のためには、心の強さが必要〜「拳禅一如」
 たとえは、「立合評価法」をやっているとき、カーッとなったり、アツくなって平常心が失われてしまう場合がよくありますそれが道場でのことならいいでしょうが、実際の場面でもカーッとなってしまったらとうでしょう。ほんとうのピンチのときにこそ冷静になれないと、ふだんできる技も使いこなせないでしょうし、何よりもイザというときにあわててしまっては、何のために少林寺拳法を修行しているのかわかりません。だからこそ、ふだんの稽占から冷静さ、平常心を保つことを心がけるこれも内容にこだわる。一つの例です。特に「立合評価法」は、心が揺れやすい状況ですが、だからこそ自分の気持に飲まれないように心を鍛える絶好の機会ともいえます。
 また、攻撃を極められた拳士がカーッとなってしまい、せっかく組み上げた戦術を無視して、攻撃一本やりの動きになってしまうそんなケースもあります。
 「勝てばいい」式の考えならこれでもよいでしょうが、しかしこれではせっかく練り上げつつある戦術がめちゃくちゃになってしまいます。自分の戦術を見失い、少林寺拳法の動きからかけ離れたものになってしまう。これも内容のない稽古の一つの例です。
 逆に、失敗してもいいから、作り上げた戦術に従い、対処していく。これが、内容のある稽古です。失敗しても悪あがきしないで、自分の組み立てたとおりにやってみる。攻撃を極められたら悔しいものですが、その感情に流されず、しっかりと「失敗する」、失敗したのなら、その失敗を素直に受け人れる。そして、その失敗を上達のヒントにしていくわけです。
 自分の欠点を認め、受け入れないと技術向上はありえません。そのためには、「自分はまだまだ未完成だ」といつも思える謙虚さ、そして、いやなことから逃げない心の強さが必要です。拳---すなわち技術の向上のためには、禅---心を養うことが必要なのです。この二つは切っても切り離せないもの。これが、開祖のいう「拳禅一如」の(一つの)意味であり、だからこそ、少林寺拳法は「自己確立」の修行法だといえるのです。

フェイスガードの注意点
 少林寺拳法フェイスガードは、東京工業大学の小野英哲教授(現・東北工業大学教授)の協力を得て、再三安全性の試験を行ってきました。その結果、ほかの顔面用防具に比べてきわめて高い緩衝性能を有していることが明らかになりました。また、頭部外傷に詳しい国立療養所・西別府病院の森照明先生からも高い評価を得ています(本誌02年12・03年1月号「学び磨き究める普遍の世界」参照)
 このように、フェイスガードの安金性、つまり衝撃の緩衝性能は、きわめて高いものです。しかし、高い性能があるからこそ、フェイスガードの性能を過信してはいけない、という点も忘れないでください。「フェイスガードは安全。だから思い切り突いても大丈夫」……こういった気持の緩みが、実はいちばん危険なのです。
 脳というのは、ご存じのとおり、豆腐のようにとても柔らかいものです。それが頭蓋骨という入れ物の中で、脳脊髄液の中に浮かんでいます。たとえば、鍋の中に豆腐を入れて激しく揺すると、豆腐はぐしゃぐしゃに壊れてしまいます脳とは、それくらいデリケートで、壊れやすいものです。
 さて、フェイスガードを使っても衝撃が完全に消えるわけではありません。ほんの少しずつでも衝撃は残り、頭部に伝わっていきますですから、何回も何回も「当て止め」をしたらやはり危険が残るといわざるをえません。あくまで頭部という非常にデリケートな部位を扱うということを忘れずに、修練に取り組んでいただきたいのです。
フェイスカードは正しく使ってこそ意味がある

頭部へのダメージは想像以上に危険なもの
 運用法などで心理的にエキサイトしている状態のとき、やっている側の人間は、身体からの危険信号を無視してしまいがちです。たとえば、1回よい突きを食らって、ちょっとふらつくのだけど、我慢して続けてしまう……思い当たる拳士も多いのではないでしょうか。
 失敗したところで稽占をやめるのは、誰だっていやなもの。やられっぱなしで終わるのは、すごく悔しいものですから。しかし、頭部へのダメージを考えた場合、ダメージを無視して稽古を続けてしまうのはきわめて危険な行為です。
 頭部へのダメージは、そのときは症状が軽くて大丈夫だったとしても、時間とともに症状が悪化する場合があります。
 たとえば脳震盪は比較的軽い脳のダメージといわれていますが、その脳震盪が、それに続いて起こる重大な障害の、前触れにすぎない、というきわめて危険なケースもあるのです。さらに、一度目の「打撃症候群」といって、一度衝撃を受けたあとに、再び衝撃を受けると、二回目はかなり重症になる心配があります。ですから、脳震盪といっても軽く見てはいけないわけです。ちょっとでもふらついたり、衝撃があったりしたら、「続けたい気持を抑えて」稽古をやめる必要があります。
 いくらフェイスガードがあるといっても、むちゃな使い方をしたら、やはり事故は防げません。かつての悲惨な事故を二度と繰り返さないためにも、一人ひとりの拳士が頭部外傷の危険性について強く意識し、「常に危険と背中合わせ」ということを十分に認識したうえで、稽占に取り組んでください。

開祖の思いをもう一度見直してみる
 『教範』にある「修行の心得」の章で、開祖は少林寺拳法を修行する目的を以下のように述べています。「……或者は保健体育を目的とし、又或者は精神修養を考え、又或者は護身練胆を目的として修行しようと参坐したのであろうが、少林寺拳法は本来が人間完成のための行であるから、以上の三つを綜合したものであることが修行の目的でなければならない。即ち、その目的は、心を修め、技を錬り、身を養って、円満なる人格と、不屈の勇気と、金剛の肉体を得ることでなければならぬ」「技術を通して心と体の両面を鍛える」これが開祖が最終的に目指したことでした。
 フェイスガードの開発や運用法の模索を通じて、少林寺拳法の技術、修練をもう一度見直すことができましたが、技術の上達と精神的な面での向上が一体のものであり、切り離せないということをあらためて実感します。そして、開祖が遺した少林寺拳法が、すばらしい修行法であることを強く感じます。しかし、それをよい方向に持っていくためには、われわれ拳士一人ひとりの心がけが大事です。せっかくすばらしいものがあっても、使い方をまちがえたら意味がありません。そのためにも、われわれ一人ひとりが、開祖の遺した言葉、そして少林寺拳法の技術に込められた意味を再度見直し、修練に取り組んでいく必要があるでしょう。修行に、これでよいというものはありません、成功に驕らず、失敗に落ち込まず、いつも平静で、謙虚で、向上を目指している。開祖の思いに近づくためにも、自己を見失うことなく、修行に取り組んでいきたいものです。〔担当/振興普及部〕
恐ろしい頭部外傷
●脳振盪だけで終わらずに、時間とともに症状が悪化する場合がある。脳振盪を起こして、会場では回復したように見えたけれど、目を離しているうちに症状が進んで重症になってしまう場合がある。
●1回目のダメージが回復しないうちに2回目の打撃を食らうと、今度はかなり重症になる心配がある(二度目の「打撃症候群」と」)。
 過去にもさまざまな事故が……。
◎大会の乱捕りで顔面への二連突がクリーンヒットし、さらに右の順突が顔面に当たる、乱捕り終了後に意識を失い、翌日には死亡(右側耳上の静脈が2か所切れ、急性硬膜下血腫、静脈洞断絶、後頭葉挫傷)。
◎校内合宿で顔面に突きが当たり、後頭部より転倒。---救急車で病院に運ばれる途中に死亡。
◎大会の乱捕りで、蹴りを出そうとして足を上げたところに相手の突きが当たる。
 そのため、真後ろに倒れて床に後頭部を打ちつけ、意識不明に。---救急車で病院に運ばれる途中に死亡(脳挫傷)。
◎大学主催の地方合宿で、二人一組で乱捕りを行っている最中、相手と組んだまま、(首を巻き込まれた状態で)転倒。意識不明に。病院に運ばれたが、5日後に死亡(脳挫傷)。


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