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●夫れ兵形は水に法る
 だとさ。て、読めねーよ、普通。「それへいぎょうはみにかたどる」と読みます。
 うん、知ってねる人も多いよね。孫子の「兵の形は水に象る」だね、どうみても。普通は←こういう漢字を書くわな。ネットでチラッと調べたけど、「法る」なんて見つからんぞ!! でも一応漢和辞典を見たら確かにあったけどw

法:(2) のっとる。ならう。手本とする。従う。かたどる。(大修館書店)

というのがちゃんと載っとるw 浅学が身に沁みるわぃ…。たしかに人名では「のり」て使うけどさ。この文句自体は教範にも引用されてますから、拳士なら当然知っているよね!! おおかたの意味としては、

  • 戦いに決まった形は無い。そして水も無形である。水はその地の形に自らの形を準える。戦いもこのように状況に合わせよ。
  • 水は高きを避けて低きに流れる。敵の実を避けて虚を打つべし。
 まあこんなところだろう。さて本日、何故この文句を持ってきたかというと、この本が切欠だ。

 『武道極意』 鈴木禮太郎 著。発行は昭和九年でごわす。古いっす。
 写真は復刻版、平成十五年の再販。いやー、はじめは中古本を探したら一万円以上するからバビッてたら再販されてました。再販本\3800(八幡書店)もだいぶ品薄みたいですけど。

 さてさて、この本を数ページめくると、
ぺらぺら〜ヽ(゚∀゚)ノ

 卍が出てくるw この本では随所に卍が重要なキーワードとして扱われている。むしろ教義の中心となっているのです。

 そもそもなんでこの本かというと、この本が「少林寺拳法教範」執筆の参考資料の一つになったと教えてもらったからだ。それで早速に神保町を徘徊してきたと。───んで再販本を読むと、、、むむむ、これは確かに。文体に強い関連性を感じずにはおられない。ちなみに著者は剣道・剣術の方であります。前述のとおりこの本には何度も卍が出てきます。卍について詳しく解説もしています。そしてなにより「法形」という言葉を用いています。
 このページをもって何を書きたいのかといいますと、開祖も読んだであろうこの本からも法形に対する認識を見つめてみたいのです。


●「第三節 不徹底なる武道教育の弊害と劍道法形の眞義」
 この項目に「夫れ兵形は水に法る」はある。長いけど引用。

 特に目下の劍道に於て遺憾に堪へない事は、古來劍道に於て文字上の基本教義たる『法形はふけい』の名称を、漫然と、『型かた』と云ふ文字を改めて、一向にその誤りを氣付かずに居る事である。
(中略)
 然らば何故に劍道の『かた』と云ふ語を、特別に、『法形』と云ふ文字を用いて表はさなければならぬのかと云ふに、
(中略)心形一致の力徳=即卍と●(裏卍)の神秘を意味するのであって、
(中略)
 であるから武道の傅書に於ては、流派の如何を問はず、必ず「夫れ兵形は水に法る」と云ふ意味の教義が立てられて居るものであって、心形一致の水の妙形を以て合流『流りゅう』の極意とする處に、何々流『法形』と云ふ、佛教にも、儒教にも會通する我が國民拐~の深遠なる意味があるのである。彼の有名なる五輪之書の水之巻にも
『水を本として、心を水になすなり、水は方圓はうゑんの器に従いひ、一滴となり蒼海さうかいとなる。水に碧潭へきたんの色あり、Cきよき所を用ひて、一流の事を此巻に書き顯はすなり、劍道一通ひととほりの理を、定かに見分け、一人の敵に、自由に勝つときは、世界の人に、皆な勝つ所なり、一人に勝つと云ふ心は、千萬の敵にも同じ意なり、將たる者の兵法、小さきを大になすこと、尺の金を以て、大佛を建てるに同じ』
とあって、一滴より蒼海となり、一尺の曲尺を以て、大佛を造り、己れ一人に克って宇宙り一切に打ち克ち、至小無内のヽ極しゅきょくより、至大無外の○極ゑんきょくに、無始無終に循環流通して極りなき、小より大に及ぼす武道の『流』の秘義が即ち此の法形の意味である。
 されば孔子も、
『夫れ心は水の如し、水なる哉、水なる哉』
と讃歎せられたる如く、法=即去水きょすゐ=即流=即一氣の妙形=即卍と●(裏卍)の~秘を意味する、體用一源たんよういちげん、顯微无間かんびむかんの妙相の義で先哲血涙の妙称である。

 「兵の形は水に象る」という言葉が教範に載っている
のは周知の事実だが、この本では「法」という文字を用いて「法る」としている。著者はこの名句に併せて「法形」を解説し、「『流』の秘義が即ち此の法形の意味である。」と断言している。
 教範では「兵の形は〜」は法形の項目では無く、虚実の項目に載っているから、少林寺拳法の法形とは100%結びつけるのはよくないのかもしれない。しかーし、私個人的にはもともと「え!? 法形は変化するもんでしょ」的な思考だから、これは実に(・∀・)ニヤニヤしたくなる記述だ。
 
この本はあくまで剣道家による著作であるから、ここの内容がイコール少林寺拳法の解釈・開祖の思想であると考えてはいけない。これは絶対にダメ。しかし、変遷を鑑みることで一つのヒントになるだろうと思う。

 どうも一般には、法形には「こうでなくてはならない」というカタチが存在しているように思える。たいていは試験用のカタチだろうが、これにより、脳ミソまで固くしてしまう場合があるのではないかと思う。これは要注意だ
私も(;´Д`)オマイラは技を覚えたいのか?身を護りたいのか?の通りだ。この著作にも「心」そのものが即ち「法」そのものであるとある。

 されば「法」とは、仏教に於いても法外無心、心外無法と教を存ずるが如く「心」そのものが即ち「法」そのものであるから、宇宙の一切の法度となるべき「道心」即ち「士の心」の意味を國語「コヽロザシ」の漢譯としたのである。
 故に劍道の「カタ」を「法形」と称するのも、この人道の法度となるべき心形一致の士たる者の守行を意味する名称であるから、目下一般に使用せらるヽ「劍道型」の文字を用いることは、國民思想混亂の原因となるのである。


●何故、流すのか。

 アインシュタインが以下のようなことを言ったらしいね。
「数学の法則が現実にあてはまる限り、それは正確ではない。正確であれば、現実にはあてはまらない。」アインシュタイン
 これはどういうことだろうか。こういうことだ。科学は研究する対象、考察する対象をまず絞る、これを系という。これは絶対に必要な作業となる。んでこうしたならば系の外のことは考えない(閉鎖系)。開放系で考えていると限りがないから。外で何が起ころうがしらん。
 アインシュタインの言う「現実」とは系の外も当然含むわけだから、系の中のみから生まれた法則に他の要因が加わるわけだから厳密な意味では正確ではないとなる。護身術と格闘技に類似の関係だね。
【関連・参考】 天道生々只自然

 となると、当然「伝聞である法形のウンチク」にも同様な事が言えるだろう。ほらほら法形の解釈を聞いたとき、どうも胡散臭く感じたことはないかい? いやー言っていることは間違いじゃないんだけど、どうも受け売りくさい、誰かに聞いたままをそのまま話してない?て感じ。やっぱし少林寺拳法には多ように思うが。これって受け売りかどうかすぐわかる。内容の厚みがないんよね、自分で検証してないことは。厚みですよ厚み、奥行きでもいいけど、立体感ね。


 何故もっと自分を信じることができないのだろう。受け売りだけとは。もう少し我の体験を加味しないといかんのとちゃうの? これは先達の伝達を軽視しているわけでもましてや不必要だと言っているのではない。
 形を現実に合わせようとする事は愚かではないか。これは拳法に限っことでは無い。法とは形が変わっていても流れているものだ。法は局在しない。そこにあるからそこには無い、そういうものではないか。ほらほら般若心経の解説本にあちこち書いてあるだろう。現象は変化するから捉えられるのだと。【関連・参考】微分してゼロ

 正しい前提条件の中で行われる法形演練はその必然の結果として行われものだ。その結果に疑問があるなら前提が誤っているのかもしれない
(うん、しかし本当に間違っているのかもしれない。そのように考えることも大切だw)。私は少林寺拳法を信じている。だから法形をどんどん疑うのだ。それは面白いものです、乱捕り稽古から得られた経験が、幾度となく疑った法形の結果と合致するという経験は。しかもそれは一度や二度では無いのです。特にこれら合致としたものが拳士の中からも「こんなもの使えねー」だったり、2ちゃんで「ぶーぶー」と言われるものだったりすると、もうウハウハしてしまう。ウハッヽ(`Д´)ノ
 これは私個人の体験であるから、詳しくここに書く必要はあるまい。また書いても無駄だろう。書くことは答えを示すような形となってしまう。しかもそれは私の解釈だ。真に自分に合致する答えは自分に聴くしかないだろう。自分を信じるしかない。またほんのわずかでも聴こえた時は、それがまた大きな自信になるでしょう。高名な先生を訪ね歩いても最後は自分でやらないと、答えは出て来ないでしょう。それは拳法が体解するという性質のものだからです。流すというのはある意味、法と我を合致させるための作業だな。鈴木大拙氏の文章を引用。

  • それは吾々が論理によって脅かされているからだ。
  • 学問で禅を究めようとすると、必ず知的な、分析的な理解に終わってしまって、あまり役に立たないと思います。
  • 言葉が事実と附合しなくなった時、それは言葉を捨てて事実に帰る時である。

 さらにNHKがいい具合にこんなんを放送してました。『わくわく授業』の書道の回です。

自分の知恵で 字は変わる〜藤井浩治先生の書写〜放送:平成19年5月20日
 「自分の字に自信がない」、「もっときれいに書きたい」。今回は、そんな小学生の子どもたちが、字を書く楽しさや自信をつかんでいく「書写」の授業です。ただ、お手本を写すのではなく、考えながら字を改善していくことを大切にしています。 子どもたちは、それぞれ自分なりに「昔話」の文字を書いた後、たっぷり時間をかけて、整った字を書く秘密を考えていきます。藤井先生は、正解を教えるだけでなく、他の漢字と比較して考えさせながら、先人たちの知恵から生まれたある共通する決まりに気づかせていきます。見つけたことは、メモもしていき、最後は、書きためたメモを道しるべに筆を動かし、仕上げます。一文字一文字を深く理解し、“自分の字”を作り上げていく授業です。

 法形でも乱捕りでも演武でも基本でも、どれでもいい。流してみることですね。最後にこれ。

「うたを うたうとき」
うたを うたう とき
わたしは からだを ぬぎます

からだを ぬいで
こころ ひとつに なります

こころ ひとつに なって
かるがる とんでいくのです

うたが いきたい ところへ
うたよりも はやく

そして
あとから たどりつく うたを
やさしく むかえてあげるのです
(まどみちお)

 兵の形は水に法る

【関連・参考】 温故知新・万古不易 偶像崇拝






ヽ(;´Д`)ノ ランタ タンタン♪

 さてさてその他「武道極意」から興味深い項目をコピペ。特に教範の参考資料としてでは無く、一武道書として単純に参考とします。

法形の非打・化粧武藝
 されば常に木太刀をもって修練の巧を積み、その上面小手等を用ひ互いに革刀を持て「法形の非打」と唱へ、定式の遣ひ方に鈍く隙あれば打太刀より、その非を打つなり。當流十世酒井信文師の遺書に曰く、今より100年以前(文政八年)までは、此守行しゅぎょうのみにて上手になりたり。気強き人は、面小手なしに木刀にて法形の非を入れたりと。故に一心少しも油断ならず。油断すれば木刀にて素面素肌を打たれ、怪我することもあり、恰も眞劍の勝負に近し。故に自然と上手名人も出来たるなり。百年以来太平の世となり、諸士勇薄くなるに従ひ、面小手革刀を始めたり。胴を用ふるは文政八年乙酉年より四十年以来なり。信文師鎗の修行始めたる時時分は面に装束せるのみにて月代と耳より後は素肌なり、故に敵を見るの外少しも脇見することならざるなり。その頃の稽古は専ら心氣の据り、敵の素槍の閃くに驚き恐れざる處の修行のみを第一になせり。今の人は法形を見事に使はんとし、入身仕合になれば見事なる受けはづしの業のみ心懸くる、之を古人は化粧武藝と云ひて捨て足り。心氣の動かざる處を日夜に修行すれば、早く穢い汚き心退散し、上達も亦速やかなり。是を眞の武士の守行とす。心氣不動の位に至れば眞劍の場と雖も、少しも心臆すること有るべからず。然るに今の士は、非打を打つに非ずなどと曲解し自分相手にあらざるも自刃を持って働く處へは心怯れて近寄ることを好まざるが如きは、是れ全く一心り劍錆て磨かざるが故なり。省みざるべけんや。


相対

『相』とは心が形に顯はれるを云ふ。
相対という言葉の意味を考えちゃいます。

將さに討たんとする中に敵の太刀色を見て応変し、むざと事の先立たぬ様にするするを「待」と云う。
待気構の参考になりそう。


須臾・天地の間・靈止
ひと

第三章 世界人道の根本義 =天地人三段の法形と~意の表象= ─│、十、卍、○の開扉
 第一節 天地人三段の法形と人の靈交たる─│
みちの祕義
 第二節 ~意の表象=『─│、十、卍、○』より見たる無相の太極と有相の無極


まぁその他いろいろ。興味が沸いたら買ってください!! ガッハガハガハ(・∀・)



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